第7話

文字数 6,597文字

 九月になっても暑い。いや、九月になってからの方が一層日差しがきつくなったような気がする。そんな焼けつくような太陽の中、僕は広小路通りを自転車で東へと急いでいた。本山の交差点に着いたところで汗がどっと出た。右折してさらに八事への坂道を上っていく。
 ロースクールは新学期に入っていた。もちろん、僕が一カ月ぶりにこの道を走っているのは、学校に行くためではない。子守を頼まれていたのだ。
 室井美咲は基本的には岐阜市内の実家から通っていたのだが、試験期間だけは子どもを親に預けきりにして、学校の近くにウイークリーマンションを借りていたのだ。今日は試験の最終日なので、実家から子どもを連れて来ていた。僕は室井美咲が午前中にある刑事訴訟法の試験を受けている間、彼女の部屋でひなたちゃんの面倒を見るのだ。
 中京大の近くに来ると、ポケットから添付メールでもらっていた地図を取り出した。八事霊園の脇の狭い道をいくつも入っていく。よくこんなところにマンションなんかあるものだと思うほどだ。僕は何度も道を間違えて、ようやく彼女の部屋にたどり着いた。汗を吸った革のベルトの時計を見ると、約束の時間ぎりぎりになっていた。
 丘の上にあるその家は、二階建ての細長い作りで、マンションと言うよりアパートと言った方が適切だった。汗でインクがにじみかかった地図に書いたメモで部屋番号を確かめると、一〇七号室のチャイムに手を掛けた。
「いつまでも泣いていたって仕方ないでしょ!!。」
 チャイムを鳴らした瞬間、部屋から大きな声が飛んできた。びくっとした僕は、思わず身体を半歩後ろに退けた。
「ごめんね、急に無理なお願いしちゃって。」
 しばらくして出てきた室井美咲はいつもと変わらない、美しい大人の女性だった。
「・・・・・・。」
「どうしたの?中に入って。」
 玄関先で戸惑っていた僕を室井美咲が促した。部屋に入ると、よく効いた冷房がすーっと僕の汗を冷やしていった。
 ひなたちゃんは部屋の隅でタオルケットにくるまったまま、顔を出そうとしなかった。まだ泣いているのか、時々鼻をすする音が聞こえた。
「ごめんね、ひなたはさっきからずっとこうなの・・・。」
「はあ・・・。」
「ほら、ひなた、お兄ちゃんが来てくれたよ。ごあいさつしないと、お兄ちゃんに怒られちゃうわよ~。」
 室井美咲はタオルケットの上から優しく話しかけた。その様子は、さっき玄関でドア越しに聞いた声とはまるで別人のようだった。
「ごめんね。たぶん、しばらくすれば、また機嫌を取り戻すわ。子どもってそういうものだから。」
 いつまでもタオルケットを開けないひなたちゃんに困ったように笑って彼女が言った。
「そうですか・・・。でも、何かあったんですか、こんなにふさぎこんじゃうなんて・・・。」
「そうなの。実は、ラッキーベアを失くしちゃって・・・。それでずっとこんなんなの。すぐに買ってあげようにも、ラッキーベアショップって名古屋には数件しかないのよね・・・。子どももそういう事情をわかってくれたら助かるんだけどね。」
「そうですか・・・。」
 その時僕の携帯のバイブレーションが震えた。川原恵子からのメールだった。

 差出人:川原恵子
 件名:最後の試験
 本文:これから刑事訴訟法の試験が始まります。最後の試験科目になるので、気を抜かず頑張ります。

「大丈夫、急用?。」
「・・・いえ、迷惑メールです。そんなことより、室井さんはまだ行かなくていいんですか?また、遅刻しちゃいますよ。」
「そうだ、いけない!じゃあ、急ぐね。本当に、ひなたはほっといてもそのうち元気になるから。それから、お腹すいたら、適当に台所あさって。」
 そう言うと室井美咲はあわただしく学校に向かっていった。部屋には僕とまだタオルケットにくるまったままのひなたちゃんだけが残された。
 僕はとりあえずテーブルの席に腰掛けた。エアコンのから冷気が出る音がゴーっと響いている。ひなたちゃんはそのままだ。寝てはいない。時々肩を震わしたり、鼻をすすったりしている。本当に室井美咲の言う通り、ほっておいてもいいものだろうか。ほっておいて、本当にいつもの元気を取り戻すのだろうか。
 掛け時計を見た。九時十五分。今から十五分後に第二講義室で試験が始まって、終了するのが十一時。そこからまっすぐ帰ってきても、十一時半近くになるだろう。それまで、僕はひなたちゃんがタオルケットから出てくるのをじっと待つ。長い二時間になりそうだ。
 僕は携帯を取り出した。川原恵子に返信した方がいいだろうか?「頑張ってください。心の中で応援しています。」・・・やっぱり、やめておこう。僕は携帯をしまった。
 そんなことより、ひなたちゃんだ。室井美咲はほっておけば大丈夫と言っていたが、何もしないのも心が咎める。僕はそっとひなたちゃんに近づくと、タオルケットの上からそっと頭をなでた。また震えの止まらないその身体は、いかにも壊れやすそうな小さな小さな愛玩動物のようだった。
「ひなたちゃん、大丈夫だよ、顔を見せてごらん。」
 頭をなでながらそう言ったが、まるで効き目がない。僕は少し頭をひねって、台所からクッキーを持ってきた。
「ほら、ひなたちゃん、クッキーだよ。おいしいよ。食べないの?。」
 僕はわざと音が聞こえるように、バリバリとクッキーを食べた。これも効果がない。まるで、堅い甲羅に身を隠したカメのようだ・・・。
 ・・・。ん?カメ・・・!?
 僕はシャツの首元をつかむと、すっぽりそのまま頭を覆った。
「ほら、ひなたちゃん、カメさんがいるよ。出ておいで。」
 僕はシャツに首を突っこんだまましばらく待った。すると、タオルケットを開ける音が聞こえた。
「バー!!。」
 タイミングを見計らって、シャツから首を出した。タオルケットの隙間からひなたちゃんが僕を見ている。表情に変化がない。
「ほら、カメさんだよ。頭を触ってみて。ほら。」
 ひなたちゃんはおそるおそる右手をのばし、僕の額をちょんと触った。僕は勢い良く首をひっこめた。
「ほら、カメさんが首をひっこめた。また、出てくるから、見ていてね。・・・バー!!。」
 再び顔を出した。まだ、ひなたちゃんは不安そうな顔をしている。
「もう一回触ってみて。・・・ほら、引っ込んだ。そして、もう一回、・・・バー!!。」
 ようやく笑ってくれた。僕は少しほっとした。
 それから、僕はカメをやり続けた。何度やってもひなたちゃんは飽きない。僕はひなたちゃんの笑顔が見たくて、シャツが伸びるのもお構いなしにやり続けた。
「カメさんが餌を食べるよ。パクッ!。」
 ひなたちゃんにクッキーを持ってもらい、首を伸ばした瞬間それを食べるとなお喜んだ。いろいろアイディアが浮かんでくる。意外と子守の適性もなくはないようだ。
「ひなたもカメさんやる。」
 今度はひなたちゃんがシャツで頭を隠した。そして、「バー!!。」と言って勢いよく顔を出した。僕は大笑いして、おでこをタッチした。すると、小さな頭がまたシャツの中におさまった。
「ほら、カメさん。カメさんの大好きなクッキーがあるよ。」
 クッキーをかざすと、出てきた顔が勢いよくぱくっと食べた。そして、おでこを触るとそのまま頭をひっこめた。
「カメさん、お腹すいてたんだね~。じゃあ、もう一枚食べる?。」
 僕がクッキーの箱に手を伸ばしたその時だった。シャツを頭にかぶったせいで露わになったお腹に、赤い二本線が走っているのが見えた。僕はクッキーを箱の中に戻し、お腹をのぞきこんだ。
 子どもが掻いた跡なんかではない。針金のような細いもので叩かれた後だ。真っ赤なみみずばれはまだ生々しくはれていた。
「バー!!。」
 ひなたちゃんが勢いよく飛び出してきた。
「あれ、餌がないよ。お兄ちゃん、どうしたの?。」
「ん?ごめんね。じゃあ、もう一回だね。」
 ちょんとおでこを押すと、またあらわになった胴体を見た。お腹にはっきりとした二本線が二筋。だが、背中はもっとひどかった。新しい傷から古い傷まで何本もの線が小さな背中いっぱいに走っている。僕はあまりにも痛々しい姿に思わず目をそらしてしまった。
「バー!!・・・あれ、またないよ。どうしたの、お兄ちゃん?。」
 再び顔を出したひなたちゃんが聞いてきた。
「いや、何でもないよ。そうだ。カメさんごっこはもうやめにしようか?。」
「え~、ひなた、もっとやりたい~。」
「そうだ、お絵描きしよう。お兄ちゃんは、ひなたちゃんの絵が見たいな。」
 僕はたまたま目に入ったクレヨンと画用紙をテーブルに置いた。ひなたちゃんは「わかった。」と言って、おとなしく席に座った。
「何描くの?。」
「何でもいいよ。ひなたちゃんの好きな物とかひなたちゃんの夢とか、何でもいいよ。」
 そう言うと、ひなたちゃんは肌色のクレヨンを手にした。輪郭を描き、その上に黒いクレヨンで目と鼻を描いた。その下に赤いクレヨンで小さな口が描き足された。
「ねえ、ひなたちゃん。」
「なあに?。」
 隣にもう一つ人物画を描き始めたひなたちゃんに話しかけた。
「ひなたちゃんは、パパとママ、どっちが好き?。」
「う~ん、わかんない。でも、ママの方が好き。」
「そうか。じゃあ、もし、ママがいなくなったとしたら、さびしい?。」
「わかんない。でも、さびしいと思う。」
「そっか・・・。」
 それ以上は、涙に声が詰まって何も言えなかった。だから、ずっと絵を描くひなたちゃんを見ていた。無心にクレヨンを走らせる姿は、無邪気な天使そのものだった。
「できたよ!。」
 その時ひなたちゃんが大きな声を上げた。のぞいてみると、純白のドレスを着た女の子の隣に、黒のタキシードを着た男の子が立っていた。
「これひなたちゃん?。」
「うん、そう。ひなたは将来かわいいお嫁さんになるの。」
「そうなんだ。それは素晴らしい夢だと思うよ。きっとかわいいお嫁さんになることが、君の幸せにつながることなんだよ。」
 僕はあらためてその絵を眺めた。大きなお日様の下、にっこりと笑うその男女は、いかにも幸福そうに見えた。
「じゃあ、この男の人はどんな人かな?ひなたちゃんは将来どんな人と結婚するのかな?。」
「これはお兄ちゃんだよ。」
「え!?お兄ちゃんって、僕・・・?。」
「そう。ひなた、将来、お兄ちゃんと結婚したい。」
「いや、でも・・・。」
 小さな二つの目がまっすぐ僕を見つめた。その愛らしい目に見つめられると、僕は「無理だ。」とは言えなかった。
「わかった。大丈夫だよ。お兄ちゃんはずっとひなたちゃんのそばにいるからね。何があっても守ってやる。絶対だからね。」
 僕は目を離さないままそう言った。ひなたちゃんもじっと見つめたまま目を離さない。彼女がこんなにも可愛いのは、子どもだからなのだろうか。それとも、女の子だからなのだろうか。

 室井美咲はほどなくして戻ってきた。よほど慌てていたのか額には大粒の汗が浮かんでいたが、僕の膝の上で眠るひなたちゃんを見て安心した。
「よかった。ちゃんとタオルケットから出て来てたのね。」
「ええ、室井さんの言う通り、時間がたったら元気になって出てきました。しばらくは遊んでいましたが、今ははしゃぎ疲れたのでしょう。ごらんのとおり眠っています。」
 室井美咲はひなたちゃんの寝顔をのぞきこむと小さく笑った。
「うふふ・・・。よっぽどなついてくれたのね。まるで本物の親子みたいよ。」
 その後僕たちは家で昼食を食べた。「母親のしつけが厳しかった。虐待の一歩手前だったかもしれない。」「時々この子がいなくなったらどんなに楽だろうと思うことがある。」室井美咲からこれまで出てきたいくつかの言葉が、ひなたちゃんの身体の傷につながった。だが、母親の膝の上で一心にはしを動かすひなたちゃんを見ると、もしかすると思いすごしかもしれないと思えてきた。
「試験の方はどうでした?うまく行きましたか?。」
 昼食の後、お昼寝時間のひなたちゃんを寝かせつけてから、室井美咲に聞いた。彼女は笑いながら首を横に振った。
「全然だめ。また追試を受ける羽目になりそうだわ。」
「そうだったんですか・・・。それはもしかして、ひなたちゃんのことが気になってしまって・・・?。」
「ううん、それは全然心配してなかった。だって、水族館であれだけなついていたんだもの。それに短い時間だったし。一応急いで帰ってきたけど、絶対大丈夫だって思っていた。」
「そうですか・・・。」
「全然問題なかったでしょ?何かひなたにおかしなところあった?。」
「え、おかしなところ・・・。」
 僕はちらりとひなたちゃんを見た。朝は頭までくるまっていたタオルケットをちょこんとお腹に乗せて、気持ちよさそうにすやすや寝ている。
「いや・・・、全然。とても楽しそうにお絵描きしていましたよ・・・。」
「そう、よかった。」
 室井美咲は小さく笑った。安らかに笑う母親も、本当は天使なんじゃないかと思った。
「と、ところで・・・。」
「何?。」
 僕は用意されたアイスコーヒーを少しだけすすってから続けた。
「離婚調停の方は順調に進んでいますか?秋口にはと言っていたものですから。・・・、すみません、失礼なこと聞いてしまって・・・。」
「ううん、全然いいのよ。順調・・・、と言えば順調かな?まあ、こういうものは、どうしてもいろいろあるからね。」
「そうですか・・・。あの・・・、ひなたちゃんは当然室井さんが引き取るんですよね。」
「たぶん、そうね・・・。あの人じゃ無理だもん。」
「そうですか・・・。」
「どうして?。」
「いえ、その・・・。以前、子育てが辛く感じることがあると言っていたものですから、シングルマザーになったら大変だろうな・・・。」
「まあね。でも、今も彼は全然子育てに関与しないから同じようなものね。それに、お母さんも手伝ってくれるし。それから、もう一人お父さん代わりになってくれそうな人もいるしね。」
「お父さん代わりになってくれそうな人・・・?。」
「そう。」
「・・・。もしかして、室井さん、今お付き合いされている男性がいて、もうそういう話にまで進んでいるんですか・・・?。」
 そう言うと、彼女は吹きだして笑った。
「違うわよ。そういうことじゃないの。山本君のことよ、ひなたのことちゃんと面倒見てくれているでしょ。」
「あ、あ~・・・。そういうことですね・・・。た、確かに、僕はひなたちゃんのお父さん代わりかもしれませんね。」
 僕も照れを隠すように過剰にまで大きな声で笑った。小さな部屋の中に二人の笑い声が響いた。
「あれ、山本君の携帯なってるんじゃない?。」
 室井美咲は、テーブルの上に置いた僕の携帯を指さした。僕は彼女から隠すように携帯を開いた。

 差出人:川原恵子
 件名:これから帰ります
 本文:休み明けの試験も無事全日程終了しました。これも見守ってくれた 山本君のおかげです。ただ、いくつかは追試になってしまいそうです。グスン(涙、涙)。今日は自習もこれくらいにして、帰ろうと思います。もしよかったら、遊びに来ませんか?残念ながら、エアコンは壊れたままですが。

「大丈夫。そろそろ帰ったら?。」
「いえ・・・。全然そんな・・・。それにこれは単なる迷惑メールですから・・・。」
「でも、山本君だっていろいろ大変でしょ?就職活動中なんだし。」
「た、確かに、そうですが・・・。」
「だったら、ほら、早く帰って。ひなたが起きたら、帰っちゃいやって泣き出しちゃうかもしれないから。」
 僕は引っ張られるように席を立った。ひなたちゃんは相変わらず天使のように眠っている。
「本当に今日はありがとう。とても助かったわ。」
 玄関まで見送った室井美咲は、お礼を言うと右手を差し出した。
「いえ、とんでもない。僕でよかったら、いつでも呼んでください。」
 彼女の手は冷たく細く、強く握ったら壊れてしまいそうなほど弱々しかった。
「じゃあ、またね・・・。」
「・・・そうだ、美咲さん。」
 僕は手を握ったまま、話しかけた。
「何?。」
「今度、ひなたちゃんのラッキーベアを買ってきますよ。たぶん、栄ならショップがあると思います。僕の家のそばですから。」
「ありがとう。きっと、ひなたも喜ぶわ。」
「じゃあ、さようなら。」
 僕はそっと手を離した。彼女の冷たい感触だけが、右手に残った。
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