第8話

文字数 5,693文字

 川原恵子との関係は相変わらずだった。
 この日も学校終わりの彼女のマンションを訪ねると、夕食を作って待っていた。カレーライス。僕はただでさえ熱い彼女の部屋で、大粒の汗を流しながらカレーライスを食べた。何度ご飯を作っても彼女は不安なようだ。心配そうに僕を見つめながら、「どう?。」と聞いてくる。「おいしかったよ。」と答えると、やはり嬉しそうに笑った。
 その後、シャワーを浴びるのもいつも通りだ。いつの間にか置いてあるパジャマも黙って着るようになった。下着は最初に着たものが、僕専用になっていた。
 その後はもちろん、彼女がシャワーを浴びる。僕はベッドで横になって待っている。さすがに寝てしまうことはもうない。その代り、彼女がベッドに入ってきたら、すぐ始める。手順もいつも通り一変だ。
 まずは唇を奪う。そしたら、彼女の長い舌が入ってくる。次に耳をなめる。彼女は耳が弱いのが、必ずここで力が抜ける。ここからは、徐々に下がっていけばいい。首元を伝い、鎖骨、胸、へそ、そして一番下まで来たら服を脱がせる。僕も服を脱ぎお互い全裸になる。それからゴムをはめ、彼女が上になって挿入する。何回か上下逆転したら、最後は力まかせに腰を振って射精する。ただ、それだけ。最初にした時の感想と毎回変わらない。ただ、それだけのことなんだ。
 だが、僕はただそれだけのことがやめられなかった。むしろ、ただそれだけのために彼女に会いに行っているような感じだ。会えばセックス、会えばセックス。どこかに遊びに行くでもない。何か楽しい話で盛り上がるわけでもない。ただ、彼女の家に行為をなしに行くだけ。彼女はこのことをどう思っているのかわからない。ただ、自分自身はわからなくなっている。恋人という関係はどういうものなのか。何だか自慰行為の代わりにセックスをしているかのようだ。
「ねえ、もうすぐだよ。」
 シャワーから出てきた彼女がいきなり言ってきた。ベランダに出ていてもあまり涼みにはならない。普通夜になったら涼しくなるものだが、名古屋の夏は丑三つ時まで待たなければ気温が下がらない。
「もうすぐって何が?。」
 僕はいじっていた携帯を閉じると、そう聞きなおした。すぐにじれったそうな彼女の声が返ってきた。
「何ってあれだよ。大事な日だよ。」
「大事な日・・・?ああ、付き合って一ヶ月目記念日とか?。」
「違うよ。今日は付き合ってまだ十九日目だよ。」
「そうか・・・。そしたら、今日は付き合って十九日目記念日だね。」
「そんなの記念日にならないよ。ほら、覚えてないの?もうすぐ九月九日だよ。」
「九月九日・・・。ああ、もちろん覚えているよ。君の誕生日だね。二十五歳になる・・・。」
「そう・・・。二十五じゃなくて二十四だけど・・・。」
「そうだっけ・・・。まだ、二日もあるから、もうすぐと言われてもピンとこなかったよ。」
「まだ二日もって・・・。でも、よかった。その様子だとまだ何も買ってないみたいだね。」
「そ、そうだね・・・。明日一日かけてじっくり考えようと思っていたんだ。」
「実はほしいものがあるの・・・。」
「何?。」
「ラッキーベア。」
 首をくるりと回転させて彼女の方を見た。どうして僕が室井美咲の娘にそれを買ってあげると約束したのを知っているのだろうと一瞬思ってしまったが、すぐに偶然だと気がついた。別にあれは幼児だけのものじゃないんだ。
「ラッキーベア・・・。山本君知らない?。」
「・・・し、知ってるよ。あれでしょ、クマのぬいぐるみ。それぞれ生まれ月によってカラーが決まってるんでしょ。それで、恋人どうしで、リボンを付け替え合うとラッキーパースンになれるとか・・・。」
「すごーい、山本君、よく知っているね。」
「まあ・・・、流行っているからね。」
「じゃあ、私のラッキーベアお願いね。私は九月生まれだから、ブルーだよ。」
「わかった。ブルーのクマさんを買ってくればいいんだね。」
「本当は山本君のラッキーベアとリボンを交換したいんだけどな。でも、山本君は七月生まれだから・・・。」
「誕生日プレゼントにすると、十ヶ月待たないといけないね。」
「でも、私、そんなに待てないかもな・・・。早く山本君とラッキーパースンになりたいから。」
 彼女は何かを訴えるように僕を見つめた。僕はその目に気がつかなかったふりをして、シャワーを浴びに行った。

 ラッキーベアは僕が思った以上にブームになっているようだ。次の日インターネットで検索してみたら、関連サイトが山のようにヒットした。ショップも栄だけでなく、金山にも本山にもあった。僕はさっそくラッキーベア栄店に行ってみた。
 週末のラッキーベアショップは多くの客で身動きもとれないほどだった。僕はその中をかき分けて目当てのクマを探そうとしたがなかなかうまく行かない。とにかく、とてつもない数のクマで埋め尽くされている。同じ大きさと形態のものでさえ十二種類ある。それが大きさは一メートル近いジャンボサイズのもの(商品の説明には小熊の実寸大と書いてあった)から携帯ストラップ用の小さなクマまであり、形態もノーマルなものもあれば水夫のようなコスチュームを着たものもあり、全てを見て回るだけでも目が回りそうだ。
 その中で、ひなたちゃんが持っていたものはどれかと店内をきょろきょろと見渡した。色は黄色、形態はコスチュームなどを身につけていないノーマルなもの、そして大きさは子どもの手におさまる程度のものだから・・・。あった!僕は店の奥の棚に手を伸ばすと、十二センチの七月のラッキーベアを手にした。
 それから、川原恵子にも同じ種類のものでいいだろう。僕は七月八月と棚を二つ移動して、九月の青のラッキーベアも取った。ともに価格は千二百円。
 そして、それから・・・。七月の黄色いラッキーベアはもう一体買った方がいいだろうか?昨日の彼女話し方からすると、早くお互いのリボンを交換したがっていたみたいだから、要するに僕のラッキーベアも買ってこいということなんだろう。僕は右手をすっと伸ばした・・・。
 その時だった。僕のポケットの携帯がぶるぶる震えだした。この人込みだと携帯を取り出すのにも一苦労だ。僕はどうせ川原恵子からの「これから勉強します。」メールだと思ってほっておいた。ところが、どれだけ携帯を放置しておいてもバイブレーションが止まらない。これはメールではなく、電話だ。
「もしもし・・・。」
 電話は室井美咲からのものだった。人ごみから離れて電話に出てみたが、なかなか返事がない。
「もしもし、室井さん?・・・聞えていますか?もしもし・・・。」
 室井美咲は電話をおいて何かやっているのか、どれだけ呼んでも返事がない。その代り受話器の向こうの物音が聞こえる。誰かが大きな声を出した。大人の男性の声だ。内容まではわからないが、穏やかな感じではない。それから、ひなたちゃんの泣き声。「ママ―、ママ―。」と泣き叫んでいるようだ。
「もしもし、室井さん?ひなたちゃん?。」
 僕の声も徐々に大きくなった。だが、誰も僕の呼びかけにこたえない。やはり、聞こえるのは受話器の向こうの、怒声に近い男性の声、それからひなたちゃんの泣き声。肝心の室井さんはどこにいる?
「ひなたは連れてかないで!!それだけは、やめて!!!!。」
 悲鳴に近い声だった。普段温和な彼女からは想像もつかないような、悲壮感と切迫感に満ちた叫び声だった。
「あんたたちに何がわかるっていうの?ちょっと、やめなさいよ!!。」
「室井さん?室井さん?。」
「あっ、山本君、ごめんね。今、じそうの人が来て、ひなたが大変なことになっているの。」
「えっ!?じそうって何ですか?今、どこ?。」
「マンスリーマンション。いいから、早く来て。・・・ちょっと、ほら、子どもも泣いているでしょ!!。」
 そこで電話が切れてしまった。ただならぬ気配を感じた僕は、とりあえず手に持っていたぬいぐるみの会計だけ済ますと、自転車にまたがった。電車という選択肢も考えたが、乗り換えの時間や八事駅から歩く時間を考えるとそちらの方が早いと思ったからだ。ただし、思い切り飛ばさなければならいが。
 炎天下の広小路通りを一路東へ。自転車のかごの中には二体のラッキーベア。僕はあらんかぎりの力で、ペダルをこぎ続けた。
 時々信号で止まると、決まって携帯をチェックした。室井美咲からの新たな連絡が入っているかもしれないからだ。とにかく、室井さんが心配だ。いや、ひなたちゃんの方がもっと心配だ。じそうって何だ。あの様子だと、そのじそうがひなたちゃんを無理やりどこかに連れて行ったに違いない。じゃあ、なぜ、そしてどこに?
 僕の頭にはひなたちゃんの父親のことがよぎった。虐待のことがよぎった。想像は全てが悪い方向に進んでしまう。それにしても、遠い。本山はどこだ?蜃気楼の中だ。
 ようやく本山を右に折れ、ゆるやかで長い坂を立ちこぎで乗り越え八事に着いたが、ここからが大変だ。細かくて入り組んだ道をいくつも曲がらなければならない。しかも、今日は地図を用意してきていない。僕は記憶だけを頼りに八事霊園の脇の道を入った。
 一度道に迷ってしまうと不思議なものだ。昨日なかったはずのものがそこにあり、昨日あったはずのものがそこにない。全てが同じ道のように見え、全てが違う道のように見える。僕は行っては戻り、行っては戻りを繰り返した。しかも、八事には坂が多い。それも、急な坂が。何度足がつりそうになったかわからない。こうしている間にも時間は過ぎて行く。そして、ようやく丘の上に立つマンションへと続くとりわけきつい上り坂を発見すると、最後の力を振り絞った。
 電話の中の騒ぎとは打って変わって、あたりは静寂に包まれていた。夏の強烈な日差しと時々遠くから聞こえる蝉の声。ひと夏鳴ききった疲れか、その勢いはかつてのものと比べはるかに弱々しい。丘の上からは名古屋の街が一望できた。僕や川原恵子の住む栄の繁華街が米粒のように小さく見えた。
 僕は一○七号室の前に立つと、ゆっくりチャイムを押した。細長い二階建ての建物からは人の気配さえ感じない。間の抜けた夏の終わりの午後のひと時だけがぼんやりと流れている。
「室井さん!いますか?。」
 僕はもう一度チャイムを鳴らした。ドアは開かない。室外機は回っているので、中にはいるようだ。僕はゆっくりとノブを回した。
 ガチャ。
 鍵はかかっていなかった。
「入りますよ。」
 玄関にはリビングのエアコンからの冷たい空気が充満していた。僕は靴を脱ぐとさらに奥へと進んだ。キッチンを越え、半開きになったドアを開けリビングへ。
 飛び込んできた姿に僕は一瞬息をのんだ。
「・・・。室井さん・・・?。」
 室井美咲は部屋の隅でタオルケットにくるまって小さく震えていた。それはまるで、昨日ひなたちゃんがしていたように。
「室井さん?室井さん?僕です。山本です。」
 ようやくタオルケットから顔を出した。泣き顔までひなたちゃんそっくりだった。
「山本君・・・。」
 室井美咲は少しだけ安堵の表情を見せたが、すぐにまたタオルケットの中に引っ込んでしまった。
「室井さん・・・?ひ、ひなたちゃんは・・・?。」
 タオルケットの上から話しかけると、「帰って。」という返事が返ってきた。エアコンの音にもかき消されそうなくらい、小さな小さな声だった。僕はその意味を計りかね、もう一度タオルケットの上から呼び掛けた。
「室井さん?。」
「だから、帰ってって言ってるでしょ!。」
 今度ははっきりわかる声だった。僕はたじろぎながらも、さらに続けた。
「で、でも、ひなたちゃんは・・・。それに、室井さんだって今正常な精神状態じゃない・・・。」
「ひなたなら大丈夫よ。だって、じそうが連れてったんだもの。」
「・・・じそうって、何です?。」
「児童相談所よ。隣の人が通報したの。『この人が虐待してます』って。」
「・・・。」
「軽蔑したでしょ?。」
 再びタオルケットから顔を出した。僕を睨みつけるようなその目は鬼のようでもあり、それでいて直視するのも痛々しくなるような哀れさに満ちていた。
「いえ、そんなことは・・・。」
「いいのよ、本当のこと言って。だって、実際最低なんだから。表ではだめな夫に耐えながらけなげに頑張っているお母さんを演じながら、裏では子どもを虐待している悪魔なんだから。こんな人間最低よ。母親失格よ。不幸になって当り前よ。だから、あなたも早く帰って。あなたまで不幸になるわ。」
 さっきと同じ目が僕を見ている。
「あなたは悪くない・・・。」
「・・・やめて、そんな慰めごと。」
「あなたは悪くないよ。」
「・・・だから、やめてって言ってるでしょ。」
 彼女の目は変わらない。僕はその目をそらさないようにして続けた。
「あなたは誰より頑張っている。主婦として家族を支え、母として子どもを育て、その上自分のために学校にまで通っている。たぶん、頑張りすぎたんだと思う。だから、一人で抱え込まないで。誰もあなたを責めたりはしない。ひなたちゃんだってそうだ。ひなたちゃんにとってあなたは大好きなママだ。今はその大変さがわからなくても、将来きっとわかる日が来る。ちょうどあなたが母親の苦労をわかったように。だから、自分を責めないで。あなたは何も悪くないんだから。」
 室井美咲の僕を見つめたままの目から、静かに涙が流れた。最初は左目から、次に右目から。その雫は徐々に大きくなり、ついには大声を出して泣き始めた。
「私、本当に辛かったの。結婚も子育てもうまく行かなくて・・・。でも、誰もわかってくれなくて、本当に辛かったの・・・。」
「大丈夫。あなたはきっと幸せになれる。幸せになるために生まれてきたのだから。」
 僕の肩に顔をうずめた室井美咲の背中を、そう言って何度もさすった。彼女の涙が枯れるまで、ずっとずっとさすり続けていた。
 エアコンから流れる冷気と、疲れ果てた蝉の泣き声。夏の終わりの午後の時間は、過ぎて行くのがいつも以上にゆっくりだった。
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