▲試し読み終了▲ 遭難
文字数 3,421文字
彼女の前には、裸の人間が転がっていた。死んでいるのか生気がない。
黒塚は花香を見つけ、いきおいよく抱きつく。両目が充血していて涙目だ。しゃっくりを上げながら泣いている。
周防は口をアングリとさせていた。
俺はうつぶせの死体に寄った。ふれなかった。昔自殺死体を見つけたときに、いろいろ荷物をイジってしまい、呼び出した警察に現場保存してくれと怒られたからだ。連絡先を探していただけだが。
裸の死体は体格が良く、うつぶせになっていて、性器は見えないが男性だとわかる。ただ、頭部の髪の毛が少ししかはえていなかった。アゴには黒ひげが整っている。口からは茶色い歯がのぞき、両目の瞳孔は白く濁っていた。黒いハエがケツの穴から出てきて、鼻の穴からは毛虫のようなカツオブシムシが頭をのぞかせていた。
死体は虫や動物を呼び寄せやすい。だが、妙だった。虫の数が少なすぎる。それに柔らかい目玉を鳥がついばんでいないし、肉を動物が食べていない。関節を好む、ネズミもいないようだ。
――死んで間もないのか?
背中にしていたリュックサックを置き、スマートフォンが入った袋を取り出す。スマホは二万円と高いので、落とす可能性のあるポケットに入れず、防水された袋に入れている。カメラ機能を利用して、撮影しておこう。
「どっどうして、裸なの……」
周防がとなりに立つ。
「『矛盾脱衣』か?」
「えっ? 何、それ?」
「人は寒い環境に長時間いると、皮膚から熱の拡散を抑制して、体内をあたためようとする。体内温度と外部温度で温度差が出てくると、暑い場所にいるかのように錯覚する。だから雪山で、裸で死んでいることがある。低体温症による錯乱とも言われてるけどな」
「でっでもさ……」
「ああ、今日の気温は三十度を超えてる。いくら山の中で、風があるといっても、こんなことはありえない」
空を見上げると、長い尾の引いた雲がお出迎えだ。快晴。雪なんて降るわけがない。
「とにかく、これ、警察の仕事よね」
花香が抱きついたまま震える黒塚の頭をなでながら、筋肉がこわばった表情を見せる。
「そうだな……えっ?」
死体の背中の胸部分に、紫色の瘤があった。肌は白くて真珠みたいにテカっているので、そこだけがいやに目につく。一瞬、脈動した。
――なんだ? このしこり?
既視感がした。どこかなつかしい。スマホのカメラのレンズを瘤に向けていた。
『――来るわ。遊びましょうか』
誰かがしゃべったあと、突然頭痛が襲ってくる。
誰だ? 今誰がしゃべった?
声のあるじを探そうとするけど、痛みに邪魔される。立っていられなくなる。歯をくいしばり、膝を曲げて座り、両手で頭の側部を押さえる。
ここまでひどいのは初めてだ。
「義甲、ねえ、義甲……」
周防が俺を呼んだ。だけど、俺を見ていない。空を見上げて、開いた口がふさがらないでいる。その視線を追ってみる。
――巨人?
巨大な黒い影が立っていた。俺たちの背丈を軽く超えている。両腕と両足が異様に細くて長い。
花香と黒塚も影の巨人に気づき、なんども目をしばたたかせる。
――ブロッケンの妖怪、か?
ブロッケン現象と呼ばれているものだ。
山の頂上で太陽が後ろから差すとき、自分の影が霧や雲に映って大きく見える。霧の分厚い大気層に映るから、影が巨大になる。ドイツのブロッケン山でよく観測されるもので、俺のように山ばかり登っているやつならほとんど知ってる。周りに虹みたいな丸い円ができてるし、間違いない。
だけど、あれは誰の影だ? それに霧?
周りに発生した白い霧が、黄金色の雑草を隠してしまっていた。数分前までは、霧なんてなく、晴れた空が広がっていたのに。俺たちの世界をおおってしまった。
ブロッケンの妖怪が、すっと、その姿を消失させる。
白いものが頬に当たった。冷たい。手でふれると、それは簡単に溶けてしまった。
――雪?
体に当たる量が増えてくる。風がうなりを上げて襲撃してくる。空は霧で埋め尽くされ、太陽が入る隙を与えない。
あわてて撮影できなかったスマホを、ポケットにしまう。
「どうしてふぶいてくるのよ!」
黒塚が泣き声を上げた。彼女が白い霧になったかのように、少しの間、姿が見えなかった。心臓が大きく跳ね上がる。
「お前ら、こっちにきて固まれ!」
俺の判断は速かった。
花香、黒塚、周防は素直に集まってくる。
「座るぞ! 絶対に動くなよ!」
俺たちは囲むように座った。
雪が体温を奪い始めた。夏服だから当然布は薄く、寒い。急速な温度変化に、体が悲鳴を上げつつある。
花香は鼻水を腕でふき、
「いったい何が起こってるの!」
「『ホワイトアウト』だ!」
「えっ?」
「吹雪のときに、大気中の雪と雲の間で光の乱反射が起こり続け、影ができなくなる現象だ! すべての視覚的感覚が失われるから、前後左右、上下ですら区別できなくなる! 動いたら危ないぞ!」
やかましい強風に負けじと叫ぶ。
周防と黒塚は何が起こっているのかわからず、身を寄せ合って震えている。
この状況は知ってる。あのときと同じ。ツインテールのあの子が、頭部をつぶされたあのときと。
――異常気象。
その単語が頭の中で反響する。
まずい。夏服だし、防寒具なんて持っていない。こんな猛吹雪のなか、いつまでもいたら、確実に凍え死ぬ。
「ねっ、ねえ!」
花香が口を開けて、しきりに何か言っている。風で聞こえなかった。あせりもあるか。
「どうした?」
「人の、悲鳴が聞こえない?」
不安そうに見回す花香。
悲鳴?
ふぶく音しか聞こえない。精神を研ぎ澄まし、拳をにぎりしめると、神経を耳に集中させる。虫の羽音ですら今なら聞ける。
『ぎゃうっ!』
冷えた体温が急上昇した。
聞こえた。女の人の悲鳴。鋭く、鼓膜が破られそうだった。
周防の耳にも届いたのか、必死で声のあるじを探している。
「やだぁっ! なんですのっ!」
黒塚は花香にしがみつき、パニックを起こしている。
『ぐええっ!』
『いだいっ!』
『やめでぇぇぇっ!』
妙だ。
あっちこっちから悲鳴が響いてくる。右から聞こえたと思ったら、左で。上からと思ったら、正面で。どこで声を上げているのか、判別できない。
何人いる? 誰が助けを求めている?
ホワイトアウトで方向感覚を失い、冷静な思考能力ですらできなくなったのか?
何かが大きく折れた。悲鳴が唐突にやむ。風がふき荒れるなか、空間がズレていく錯覚がする。
俺と花香の目が合った。風の音が変わった。黒いものが、ちょうど俺たちの真ん中に落ちてきた。
「いやあああああああっ!」
黒塚が甲高い悲鳴を上げた。
周防は魚のように、口をパクつかせていた。
黒いものの正体は、奇妙に曲がりくねった死体だった。両腕や両手は後ろに曲がり、両足は背中を曲げられ、肩から出ている。アゴは空に向いていて、曲げられた首の皮膚から赤い肉と骨が見えていた。ダンゴ虫が背中から丸まった形になっている。両目から血の涙が流れ、苦痛から解放されていないのか、口から折れた歯がむき出されていた。
皮膚の傷があちこちにあって、肉がのぞき、大量に出血して、服は真っ赤に染まっていた。雪が液体を吸収し、白い結晶を浮かび上がらせた。まるで大勢の人間に殴り殺されたあと、無理やり体をねじられたような、異常な死に方だった。
俺たちの間に死体を投げ入れたのは、警告という意味なのだろうか。だけど、この山には村どころか、限界集落すらなかったはずだ。人間のしわざとは思えない。
「佐々木さんの奥さんだわ……」
「えっ? なんだって?」
「野鳥の会の、会社役員の、佐々木さん……」
花香はぶつぶつ言っている。
死体の服には見覚えがある。顔は両目が血走っていて、赤い液体が絡みつく歯をむき出しているが、女性っぽい。中年の女の人で、佐々木さんという人はいた。
――青古さんと、反対側に行ったはずなのに。
ひどい扱いを受けた女性を見下ろす。
どうしてこんな所にいる。ワープした? まさか、そんな非現実的なこと……。だけど、この状況はなんて説明すればいいんだ?
光景が大きく揺れた。足がふらついた。振り向いた視線の先で、白い波が流れてくる。
――雪崩……。
あれが本当に雪崩なら、最高時速は二百キロメートル。逃げるのは不可能。その破壊力と速度に、人間はなすすべもなく、飲み込まれていくしかない。
仲間の混じり合った悲鳴が、最後に聞こえた。