一 母ではない

文字数 843文字

 仕事場からの帰り、由美が私の腕を抱きしめたまま、
「あそこに女の人がうずくまってる」
 と言った。六月上旬で蛍が出る時期だった。

 ここは由美の家がある長野だ。仕事場まで歩いて五分。途中には田や蓮の池がある。この蓮池は蛍の生息地だ。蛍が発生する時期になると、蛍を見る、観光客や地元の人があとを絶たない。しかし、蛍が活動するのは日没から二時間ないしは三時間ほどで、私たちが帰宅する午後十時頃には、蛍の光は見えないのが常だ。
 この時間に女が蓮池の縁に居るのは不自然だった。しかもその女は蓮池の縁にうずくまっている。蛍を見ているのではなさそうだった。

 その夜は蓮池にうずくまっていた人の事を忘れ、いつものように午後十二時に布団に入った。
「ねえ、あ・い・し・て・ね・・・」
「おいで・・」
 私は由美を抱き寄せた。すると、由美が、
「母がいる・・・」
 と言って私に抱きついた。

 由美から、母の由美子は心不全で亡くなったと聞いている。その事が何を意味するか、由美子本人は知っていたが、私は由美を恐がらせてはいけないと思い、由美子の死因を話題にしなかった。だが、こうして由美子が現われたのは、由美と私に何か知らせたいためとわかった。だが、妙だ。由美子と由美の精神と意識は一体のはずだ。あえて由美子がこの世に出てくる必要はない。

「由美子じゃない。由美子は由美の中にいる・・・」
 私は由美を抱きしめたまま、身を起こした。
「誰なの?母を真似るなんて・・・」
 由美は直ちに私の言葉を理解した。私に抱きついたまま母の姿の女を見つめている。すでに心はおちついていた。

「あなたたちが依頼を聞いてくださると伺いましたので、あの蓮池で夕方から待っていました。お母様の姿なら警戒されずに依頼を聞いてくださると思って、ここに現われたのです」
 女は言葉穏やかだ。教養に溢れた印象だ。
「何が望みですか?」
 私は生きた依頼人に尋ねるように質問した。由美は私に抱きついたままだ。

「私を送って欲しいの」
 由美子の姿の女はそう言って微笑んだ。
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