第8話 それは翻訳ではありません

文字数 4,641文字

 相談センターでは、翻訳サービスを行っています。
 具体的には、フィリピンの出生証明書といった外国の文書の日本語訳や、戸籍謄本のような日本語の文書の英訳です。
 翻訳には正確さが求められるため、人名や地名の綴りや読み方は、翻訳のご依頼を受けた時点で、お客様に確認します。特に人名をアルファベット表記するときは、翻訳をお渡しする前に、お客様に綴りの確認をお願いしています。
 頼めばなんでもやってくれると勘違いしているお客様がいます。
「母親とは絶縁している。戸籍謄本の英訳に母親の名前を入れないでほしい」
 こんな感じで、原文の内容を変更して翻訳してほしいと頼まれることがあります。
「それは、翻訳ではありません」
 そう言って、ご依頼を断ったことがあったのは、一度や二度ではありません。

 七色の髪の毛に長すぎるまつげが印象的な女性。その母親のフィリピン人女性。そして、セーラー服の女の子。3人が窓口で私を待っていました。
「おねえさん、よろしくお願いします」
 母親はニコニコしながら、私に青い紙を渡しました。
 戸籍謄本でした。
「あのね、この子がね」
 母親は、セーラー服の女の子を指差しました。
「この子のママと一緒に、フィリピン行くのね」
 続いて母親は、七色の髪の毛の女性を指差しました。
 母親の話から、セーラー服の女の子と七色の髪の女性が親子で、一緒にフィリピンへ行くということがわかりました。七色の髪の女性は私を睨み付けるように見ているのに対し、セーラー服の女の子は、自分の母親の視界に入らないような位置に立ち、私と顔を合わせたくないのか、長い髪で顔を隠していました。
 母親は、2人は血のつながった親子なのだが、訳あって苗字が違うと私に説明しました。旅行代理店から、親子の証明として戸籍謄本とその英訳を用意した方がいいとアドバイスを受けたそうです。
「この……コシキトホ? アタシ、日本人じゃないから、うまく言えないんけど、これをイングリッシュにしないと、フィリピン行けないって言われたんで、おねえさん、なるべく早く、トランスレーションお願いします」
 母親が私に頭を下げる一方で、七色の髪の女性は、ずっとスマートフォンをいじってました。セーラー服の女の子は、長い髪越しに私を見ているような、気がしました。
「フィリピンへは、いつ、ご出発ですか?」
 私は母親に尋ねました。
「イチオ、来月。この子のママは、ヴァカンスなんだけど」
 母親の肩が上下に動きました。
「この子をね、フィリピンのハイスクールに入れたいの。イングリッシュ、勉強させたいだから」
 母親は、セーラー服の女の子と目を合わせようとしました。女の子は気配を感じたのか、母親に背を向けました。
「お客様、戸籍謄本を英語に翻訳するために、戸籍に記載されている方のお名前をローマ字で書いていただきたいんですが……」
 私は、七色の髪の女性に話しかけました。
「おねえさん、それ、アタシ、書きます!」
 母親は自分の胸を片手で軽く叩きました。七色の髪の女性は、スマートフォンをいじったままでした。
 私は母親に申し込み用紙を渡しました。
「戸籍に載っている方のお名前は、そちらにいる、おふたりだけではなく、全員、ローマ字で書いてくださいね。ご家族の方のお名前を、全員です。お願いします」
 私の言葉に何度も頷きながら、母親は用紙を受け取ると、足早に窓口から離れました。
 その後をセーラー服の女の子が追いかけました。七色の髪の女性は、スマートフォンをいじる手を止めることができないのか、しばらくの間、その場にいました。

 30分後。
 窓口に、七色の髪の女性、その母親、そして、セーラー服の女の子の3人が揃いました。
「あの。戸籍には、お嬢さんのお父さんのお名前が記載されているんですが、申し込み用紙にはお父さんのお名前が書いてないんです」
 私は、母親に向かって話しました。
「ああ、それね」
 七色の髪の女性はスマートフォンから目を離し、顔を上げて私を見ました。そして、軽く、七色の髪をかき上げました。
「コイツ、父親、いないんで。この子の父親の名前は、空欄で、よろ~」
 女性は、軽く手を挙げました。
「それはできません」
「はあ?」
 私の言葉に、女性と母親がほぼ同時に声を発しました。
 セーラー服の女の子は、冷たい視線を私に投げかけてました。
「あのさ、こっちは、客だよ? 客が父親の名前が空欄にしろって言ってんだからさ、黙って空欄にしとけって!」
 女性はカウンターを軽く叩きました。私は、女性の目をしっかりと見ました。
「お客様のお名前は、ヒデミさん、ですよね?」
「それは、日本の名前で、フィリピンではエイミー。ママが、フィリピンだからさ、ウチもフィリピン。ハーフだから、名前、2つ持ってんの」
 女性は、スマートフォンを持った手を私に向けながら、大きな声で話しました。
 私は話を続けました。
「英語の英に美しいで、英美さん。ヒデミさんのお名前をエイミーと訳すことはできます。戸籍謄本には、読み仮名がついていませんから、お名前を申し込み用紙に書いてあるエイミーと、アルファベットで表記することはできます」
「あっそ。じゃあ、やれよ」
 女性は、スマートフォンで私を刺すように手を動かしました。
「ですが、記載されている内容を空欄にすることはできません」
 私の言葉に、女性はスマートフォンを持ったまま、カウンターを強く叩きました。
 一瞬、部屋が静かになりました。私は、多くのお客様の視線が集まっているのを意識しながら、女性に向かって言葉を続けました。
「お嬢さんのお父さんの名前を、ローマ字で書いていいただけませんか?」
 私の話を聞くと、女性は後ろにいる母親に、小さな声で「おい」と声をかけました。
 母親がカウンターに出ると同時に、女性は後ろに下がり、母親の背中越しから私を睨み付けました。
「おねえさん、この子のお父さんの名前、なしじゃ、ダメ?」
 母親は優しい口調で私にお願いをしました。
「戸籍謄本に書いてある内容を空欄にするのは、翻訳ではありません。申し訳ございませんが、お父さんのお名前を書いていただけないのでしたら、こちらでは翻訳を承ることはできません。書類をお返しいたしますので、他をあたってください」
 私は、出来るだけ優しい声で答えました。
 女性と母親は互いに顔を見合わせました。
 セーラー服の女の子は、そんな2人を冷ややかな目で見ていました。
「ヒデミちゃん。おねえさんに、ちゃんと話して」
 母親が後ろを振り返りました。
「エイミーって呼べって、つってんだろーがっ! バカか、お前は」
 女性が低い声で母親に言いました。母親は、話を続けました。
「ヒデミちゃんがちゃんと話したら、おねえさん、わかってくれる」
 母親は前を向くと私にニコリと微笑みました。女性は「はーあ」と大きな声で言いながら、カウンターに戻ってきました。
「だからぁ、違うから」
 女性が、私を睨むように見ながら、小さな声でつぶやきました。
「……何が、違うんですか?」
 私は女性に確認しました。
「こいつの父親、違うからっ!」
「この子のパパ、違う人!」
 2人はほぼ同時に言いました。
「え? 戸籍謄本には、お父さんのお名前がありますよ」
 私は2人の言葉の意味がわからず、2人の後ろにいるセーラー服の女の子と2人を交互に見ながら答えました。
「だから、それは」
 女性が七色の髪をかきあげました。
「ホントの、お父さんじゃないんですっ!」
 母親が女性の後に続けて言いました。
「戸籍にあんのは、別れた旦那の名前。んで、こいつのホントの父親は、元カレで~」
 女性が、スマートフォンを持った手でセーラー服の女の子を指し示しました。
「そうそう。ヒデミちゃんがトモくんと結婚した時は、この子がおなかにいたの」
 母親が、セーラー服の女の子を指差しました。
「でも、去年、トモくんが、DNA、調べちゃって。ね~」
 母親は女性の隣に並び、楽しそうに笑いながら女性を見ました。
 セーラー服の女の子は、そんな2人から背を向けていました。
 私が2人の話を止めようとしたとき、女性の表情が険しいものに変わりました。
「だったらさ、この子の、ホントの父親の名前、書いてよ」
 私は、女性が何を言っているのかわかりませんでした。
「そうだね!」
 母親が大きな声を出しました。私を手招きするように手を上下に動かしました。
「おねえさん! ホントのお父さんの名前を教えるから、それをトランスレーションに書けばいいんだよ!」
 女性が女の子の実の父親の名前を口にしようとした瞬間、私は2人の発言を無理やり止めました。
「戸籍に記載されていない方のお名前を、翻訳として載せることはできませんっ!」
「なんで?」 
 2人は口をそろえて答えました。
「申し訳ございませんが、お客様のご要望には添えません」
 私は女性に丁寧に書類を渡すと、深く頭を下げました。
 女性は私を口汚くののしると、戸籍謄本をわしづかみし、足音を響かせながら相談センターを出ていきました。母親は女性を追うように、足早に外に出ました。
 セーラー服の女の子と目が合いました。女の子は無表情のまま、私に軽く頭を下げました。
「あ! ちょっと、すみません!」
 私は慌てて、女の子を呼び止めました。
「お名前を確認させてください! 愛という字に美しいで、なんとお読みするんですか?」
 女の子は、ゆっくりとした足取りで、カウンターに近づきました。思わず、私も女の子に近づいてしまいました。女の子は、私とは目を合わせず、小さな声で答えました。
「ラブミー」
 母親が申請用紙に書いた女の子の名前と、同じでした。
「恥ずかしいから、学校ではマナミにしてもらってるんですけど、ママたちは、ラブミーって呼んでます」
 私の表情を見ると、女の子は大きくため息をつきました。
「フィリピンなんて、行きたくないんです」
 女の子は、うつむいたまま小さい声で話しました。そして、チラリと私の方を見ました。
 なんとなく、女の子が話を続けたいのかなと思った私は、意識的に女の子と目を合わせ、ゆっくりと頷きました。女の子は、少しの間、うつむいていましたが、パッと顔を上げると、話を続けました。
「ママと、ばあちゃんが、勝手に決めるんです。いつも、そう。ホントは、去年の夏から、あっちの学校に行こうってことになってたんだけど、私、どうしても修学旅行、行きたいから嫌だって言ったら、じゃあ、修学旅行が終わったら行こうねって、ことになりました。ママたちから離れて暮らしたいけど、友達と離れたいわけじゃないし……。ばあちゃんのフィリピンの家って、なんて言っていいのかわかんないけど、あんまり、好きじゃないんです。夏休みとかに行くのはいいんですけど、一緒に住むのとか、長くいるのとかは、正直、無理って感じで……。フィリピンに行きたくない、日本に残りたいって、担任の先生に相談しました。それで、先生からママに、せめて、卒業するまでは日本にいてほしいって言ってもらったんですけど。学校で、ママが暴れちゃって。もう、……なんか、無理っぽそうなんです」
 女の子は右手で軽く目をこすりました。
「フィリピンへ行くのは、お母さんたちの希望であって、マナミさんの希望ではないんですね」
 私の言葉に、女の子の表情が明るくなりました。
「ママたちが……、ホント、すみませんでした」
 女の子が深々と頭を下げました。

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