第5話 国連関連、マニラで試練

文字数 4,047文字

 相談センターを訪れる方の中には、国際機関の関係者を装う方がいます。例えると、「消防署の方から来た」と話す消火器のセールスマンです。
 相談センターに国際機関の関係者だと名乗ったところで、何のメリットもありません。そもそも、国際機関の職員の方が、わざわざ所属先を名乗ってまで相談センターに来る理由がないのです。

 ノートパソコンを小脇に抱えた男性が窓口に現れました。
 長袖の黒いポロシャツが小さすぎるのか、それとも、男性の体が大きすぎるのか、男性の体のラインが強調されているように感じました。
「ワタクシ、国連関係の仕事をしております」
 男性が差し出した名刺には、国連のマークによく似た青色のマークが印刷されていました。
 私がそれを受け取ろうとしたとき、男性は、手早く名刺を引っ込め、スラックスのポケットにしまいました。
「早速ですが、先月、フィリピンで引ったくりに遭いました」
 男性は、ノートパソコンをカウンターに置くと、背負っていたカバンからいくつか書類を取り出し、私に見せながら、ひったくり被害について話し始めました。
 フィリピンの警察署から発行されたと思われる被害届のようなものに目が留まりました。
「こちらの書類、拝見してもよろしいですか?」
 私は男性に尋ねると、男性は両手を添えて書類を渡してくれました。
「現金は……」
 他のお客様に聞こえないように、私は小さな声で被害届に書いてある内容を読もうとしました。
「20万ペソ? それとは別に、日本円で30万円?」
 驚きで、つい、声が大きくなってしまいました。が、男性は、そんなことには気にも留めず、頷いていました。
 現金のほかに、デジタルカメラ、タブレット端末、携帯電話までも盗られていました。
「これだけのものを一つのカバンに入れていた、ということですか?」
 私が男性に尋ねると、男性はまっすぐな瞳で私を見ました。
「はい。ガラガラ引きずるタイプのトランクに全て入れました。それを引きずりながら繁華街を歩いていたんですよ。そしたら、子どもたちなのかな、若い男の子の群れが、向こうからドーッとやってきましてね。私を囲むように、アレ買ってくれ、コレ買ってくれって、品物を……こうやって、私にガーって押し付けてきたんですよ。それをヒョイヒョイと華麗に交わして子どもたちから離れようとしたんですが、トランクからパッ! と手が離れたんです。アッ! という間に、子どもたちにトランクをサーっと持っていかれたというわけです」
 男性は身振り手振りを交えて、被害に遭った時の状況を説明してくれました。
 話を聞きながら目を遠くに向けると、数メートルほど離れたところに座っていた小さな男の子が、男性を指差している姿が見えました。そして、隣にいた母親らしき女性の腕をしきりに叩いていました。
「海外旅行、初めてだったんですか?」
 私は、両手を添えて被害届を男性に返しました。
「いえ。フィリピンが、初めてでした」
 男性は私をじっと見つめたまま、被害届を受け取りました。そして、私から目をそらすと、素早く被害届をカバンに入れました。
 その手さばきに感心していたら、突然、男性が叫びました。
「大使館の対応がひどいんですよ! 何もしてくれなかったんですっ!」
「えっ、大使館って、フィリピン大使館、日本大使館、どちらのことですか?」
 普段、お客様から「大使館」という言葉が出ると、日本にあるフィリピン大使館のことを意味することが多いのですが、この男性の言う大使館がどちらのことを言っているのかわからなくなってしまい、つい、男性に確認してしまいました。
「マニラの大使館ですよ」
 不機嫌な表情で男性が答えました。
「あ、日本大使館のことですね」
 不機嫌な顔をした男性を見ながら、私は答えました。
「トランクを取られてすぐに、大使館へ行ったんですよ!」
 男性は急に目を吊り上げて言いました。
「え? どうやって?」
「え?」
 私の言葉に驚いたのか、男性が驚いた表情で私を見ました。
「ジプニーですか? あ、タクシーですよね」
「……え、あ。ああ」
「あれだけの大金を取られたあとに、日本大使館へ行く交通費は、あったんですか?」
「ま、まあ……。奇跡的に、財布は取られなかったので」
 男性は、ややうつむき加減に答えました。
「まあ、行ったんですよ。大使館に」
 男性は顔を上げると両手を上下に動かしながら、話を続けました。
「そしたら、セキュリティーって言うんですか? フィリピン人のスタッフから、明日来なさいって、こうやって、パッパッて、追い返されたんですよ!」
「追い返された?」
「ひどいですよね? 被害に遭ってすぐ、大使館に駆け込んだのに、今日はもう終わったから明日来てくれって」
「え? ちょっと待ってください。今日はもう終わったって……。何時に、大使館へ行ったんですか?」
 私は思わず、男性の話を止めてしまいました。
「何時って……。夜の10時頃かな。いや、荷物取られたのが10時頃だったから、11時前か11時を過ぎてたかもしれないですね」
 男性は、夜の繁華街でお酒をたしなんだ後、宿泊先へ向かう途中に、ひったくりに遭ったと説明しました。
「私は、国連関係の仕事をしているんですよ。毎日、世界平和のために働いているんです。あの日も、フィリピンの平和のため、粉骨砕身しました。明日の英気をバーで養って……。よし、明日も、フィリピンの平和のために働くぞ、と心に誓った帰り道に、あの事件が起こったんです。国連関係で働く人間が犯罪被害に遭ったというのに、緊急対応せず、大使館は時間外だからという理由で、この私を追い返したんですよ!」
 男性は話し終えると、感極まった表情で天井をじっと見つめました。
「次の日、日本大使館へ行ったんですね」
 私の声に驚いたのか、それとも我に返ったのか。男性は両手をカウンターにつけると、前のめりに上半身を私に近づけました。
「聞いてくださいよ! 私が獅子奮迅のごとく世界平和のために働いているというのに、大使館の人間は、この私に、適当な対応をしたんですよっ!」
 男性は、カバンの中に手を入れて、かき回すように手を動かしました。
「見てください、これ!」
 男性は「帰国のための渡航書」と書かれた小さな冊子のようなものを私に見せました。
「大使館に行ったら、こんなものを作らされたんですよっ!」
 私の目の前で、男性は小さな冊子を振り回しました。
「お客様。こちらは、パスポートの代わりになる書類です」
 男性の手の動きがピタリと止まりました。
「パスポートも取られていたんですね。先ほど拝見した警察の被害届にはパスポートの記載はなかったように思いますが」
「……」
 男性は両目を上下左右に動かしました。 
「すぐに日本に帰りたいと言ったから、日本大使館は、この、帰国のための渡航書を出してくれたんじゃないんですか?」
 私は右手で男性が手にしている小さな冊子を指し示しました。
「はいっ!」
 男性は、姿勢を正すと、室内に響き渡る声で返事をしました。そして、手にしていた冊子をじっと見つめました。
 やれやれ。私は心の中でつぶやきました。
「でも」
 男性は再び、前のめりになりました。
「大使館は、お金を取ったんですよ。国連関係の仕事をしてる私から」
 私は一瞬、言葉を失いました。
「パスポートを作る時、お金がかかります。パスポートと同じ役割をする帰国のための渡航書も、お金がないと作れません。お客様は、その渡航書を作るために、お金を払ったんですよね?」
 私が前のめりに説明すると、男性は私から離れるように、姿勢を正しました。
「私の知り合いが、他の国の日本大使館で帰国のための渡航書を申請した時、警察に出した被害届にパスポートを盗まれたこと書かれていなかったという理由で、渡航書の発行を断られました。知り合いは、警察に被害届を出した時に、気が動転してパスポートのことを書き忘れたそうです。が、大使館の人にそのことを説明しても、受け付けてもらえなかったと言ってました」
 男性はうつむいてしまいました。
「知り合いは、警察にパスポートが盗まれたという被害届を作ってもらい、帰国のための渡航書を出してもらったそうです。それに比べたら、お客様は、被害届にパスポートを取られたことが書いてなくても、渡航書を出してもらえたじゃないですか。マニラの日本大使館の対応は、素晴らしかったと思いますよ」
「……」
「それでも、日本大使館の対応にご不満なら、外務省に相談してください」
「はいっ!」
 男性の返事が部屋中に響き渡りました。
 私は男性に軽く頭を下げて、窓口を去ろうとしました。
「あっ、あのっ!」
 男性が慌てて呼び止めました。
「ひったくり被害に遭ったことを、警察庁へ報告した方がよろしいのでしょうか?」
 言いたいんでしょ? 
 私はそう言いたいのをグッと堪えて、男性を睨みました。
「それも、外務省へご相談ください」
「はいっ!」
 男性は、直立不動で返事しました。
「無料相談の時間は、ここまでです。ご予約のお客様がお待ちですので」
 私の言葉を遮るかのように、男性が「すみません!」と叫びました。
「外務省って、どこにあるんですかっ?」
 私は目を大きく開いて、男性を数秒睨みました。ゆっくり息を吸うと、男性を指差していた男の子に聞こえるような声で男性に答えました。
「国連でお仕事されていらっしゃるなら、外務省がどこにあるか、ご存知ですよね?」
 男性は、私よりも大きな声で答えました。
「ワタクシは国連、関係、の仕事をしておりますので、そこまでは、ちょっと……」
 私は、ゆっくりとした口調で男性に言いました。
「そうですか。それでは、持っているパソコンで、外務省がどこにあるかを、調べてください」
 男性は、慌ててカバンを肩に下げると、ノートパソコンを抱きしめるように抱えました。そして、私に頭を下げることなく私に背を向けると、小走りで相談センターを出て行きました。
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