第6話 私の子どもは日本人

文字数 4,099文字

「困ったことに、なりました」
 深く沈んだ声が受話器から聞こえてきました。
 日本人男性からの電話でした。
「籍を入れていないフィリピン人女性との間に……子どもができました」
 彼女から認知を迫られて困っている。認知をすると、戸籍にその事実が載ってしまう。自分には、妻子がいるので、認知はしたくない。彼女に認知を諦めてもらう方法を教えてほしい。
 そんな相談ではないかと想像した私は、ツバを飲み込みました。
 私が受話器を持って身構えていることなど知る由もなく、男性は話を続けました。
「胎児認知しようと思って市役所行ったら、今はダメだ、子どもが生まれてから来てくれ、と言われました。で、子どもが生まれてから市役所行ったら、なんでもっと早く認知しなかったのか、と言われました」
 男性の「困ったこと」とは、「胎児認知ができなかった」ことのようです。
「フィリピン大使館で子どもの届けを出してからでないと、認知ができないよ、と役所の人に言われました」
 男性の声に怒りが感じられました。
「そうですか。では、市役所の指示に従って……」
 私の言葉が終わらないうちに、男性が叫ぶように言いました。
「なんで……。なんで、胎児認知ができなかったんだっ!」
 それは、こちらが聞きたい。
 私は目を閉じて、ゆっくりとその言葉を飲み込みました。
「父親が胎児認知できるって、民法で認められている。それなのに」
 かすかに、男性の声が震えました。
「彼女が結婚しているって。たったそれだけのことで、市役所は、認知はできないと言ってきたんですよ。おかしいでしょ?」
 たったそれだけのこと。
 男性はそう言いましたが、子どもの母親が婚姻中の場合は、胎児認知の手続きができません。
 子どもの父親が別の男性であることが明らかであっても、妻が婚姻中に身ごもった子どもは、戸籍上の夫の子どもとみなされます。このため、子どもの実の父親は、胎児認知の手続きができないのです。
 子どもが生まれてから、子どもの母親または元夫のどちらかが、元夫と子供に親子関係がないことを裁判所に申し立てることができます。元夫が子どもの実父でないことを裁判所が認めたら、子どもの実の父親は、子どもを認知することができるのです。
 男性は、全く内容を理解せず、私に話していたようですが、私は、男性が胎児認知をできなかった理由が「子どもの母親であるフィリピン人女性が、別の男性と結婚していた」ことだと理解しました。
 そりゃあ、「今はダメ、子どもが生まれてから来てくれ」と、市役所の人に言われるよ。
 私は心の中でため息をつきました。
 男性は話を続けました。
「娘が生まれるとすぐに、彼女は、旦那さんだった人と離婚しました。弁護士からすぐにやった方がいいって言われて、娘は元旦那さんの子どもじゃないという裁判をやりました。そんなにもめることもなく、裁判で、娘は元旦那さんの子どもじゃないことが認められて、娘は元旦那さんの籍から外れました」
 男性は先ほどより落ち着いた声で話しました。
「そうですか。それで、裁判の後、すぐに、認知の手続きをしようと、市役所へ行ったんですね」
 私の言葉に、男性は「ん?」と返しました。私はその返事に違和感を覚えました。
「まあ、裁判の後、と言えば、後だけど、すぐ……でも、ない」
 男性は歯切れ悪く、答えました。
 男性の話によると、フィリピン人女性の離婚が成立するとすぐに、親子3人で暮らし始めました。女性とは結婚をしていないものの、周囲からは夫婦として認められているとのこと。女性と娘さんは、男性の氏を名乗って生活しているそうです。
 娘さんの小学校入学手続きの際に、市役所から「娘さんの国籍がわからない」と指摘されたことで、男性は長い間、認知の手続きをしていなかったことを思い出しました。
「ということは、認知の手続きをしに、市役所へ行ったのは、最近ってことですか?」
「そうです」
 男性は短く答えました。
 市役所が「なぜ、もっと早く認知しなかったのか」と男性に話した気持ちが、わかりました。
「娘が幼稚園に入る前に、前の旦那さんの戸籍から娘を抜かなきゃって、そのことだけ考えてて……。前の旦那さんが、彼女が私と結婚するなら、娘と親子じゃないっていう裁判に出ない、協力しないって彼女の弁護士に言ってきたんです。なので、彼女の弁護士と話をして、彼女との結婚は、裁判が終わってからにしようってことにしたんです。弁護士が市役所に事情を説明してくれて、住民票は親子3人、同じ苗字にしてくれたんですよ。裁判終わったら、ちゃんとやってね、みたいなことを弁護士から言われたような気がするんですけど。なんだかんだで、ずるずると……。娘が幼稚園に入る前に前の旦那さんの籍から抜けることができたし、住民票で私と娘が親子であることが証明できてるし。もともと、私の子どもなんだから、当然、娘は日本人だと思ってました。でも、市役所の人が、前の旦那さんの戸籍から娘が抜けた時点で、娘は日本の国籍を失っているって言ったんですよ。私が娘を認知しないと、娘は日本人になる手続きができないって」
 男性の声は低く、時折、怒りが混じっているように感じました。
 フィリピン国籍のお母さんから生まれた娘さんは、お母さんが日本人男性Aさんと婚姻中だったため、母親の国籍であるフィリピン国籍と、戸籍上の父親であるAさんの日本国籍を持つ二重国籍者でした。ところが、Aさんが実の父親でないことが分かったため、娘さんは、Aさんの戸籍から抜けたと同時に、日本国籍を失いました。
 相談センターに電話をかけている日本人男性が娘さんを認知し、親子関係が立証されてからでないと、父親の国籍である日本国籍を持つことができないのです。
「すぐに役所で娘の認知をしようとしました。ところが、役所から、娘のパスポートか出生証明書を持って来いって言われたんです。娘がフィリピン人であることを確認しないと、認知の手続きができないって……。おかしな話だと思いませんか? 娘は私の子なんですよ! 私が父親だって言ってるんだから、国籍なんて関係ないでしょ?」
「認知の手続きをする前に、市役所の人は、子どもの国籍を確認します。お母さんがフィリピンの方なので、お嬢さんもお母さんと同じフィリピン人であるかを確かめるために、お嬢さんのパスポートか出生証明書の提出を……」
「何言ってるんだっ! 娘は、日本人だ! 私の子だから、日本人なんだ!」
「あ、あの。落ち着いてください」
「落ち着いてるよ、こっちは! あんたが、訳の分からないことを言ってるから、怒っているんだよっ!」
 自分の子だと主張する男性に、市役所が子どもの国籍を確認する理由を説明するのは、時間と労力を要しました。私は男性に同じ話を繰り返し伝えました。
「なるほどね。母親と同じ国籍であることを確認するために、娘のパスポートか出生証明書が必要ってわけか」
 ようやく、男性は私の話を理解してくれました。
「そうです」
 私は疲れ切った声で答えました。
「最初からそう言えばいいんだ。わかりづらいんだよ、あんたの説明は」
 男性のこの一言に、私は叫びたい衝動にかられました。
 私の説明の途中で、あなたが「自分の娘だ、日本人だ」と叫ぶから、時間がかかったんでしょうがっ!
 私は受話器を両手でつかむと、ぞうきんを絞るように動かしました。少しだけ、気分が軽くなったような気がしました。
「あの……」
 突然、男性が、神妙な声で言いました。
「できますよね、認知?」
 男性の質問に、なんと答えてよいのかわからず、私は少しの間、黙ってしまいました。
「あんたに言っても仕方ないことだけど、私ね、役所の人間のこと、信用していないんですよ」
「信用? していないんですか?」
 男性への驚きと怒りが同時に起こり、私は思わず、大きな声を発してしまいました。
「当たり前じゃないですか!」
 男性も大きな声で答えました。
「胎児認知ができなくなったのは、市役所のせいなんだからっ!」
 胎児認知ができなかったのは、当時、子どものお母さんに配偶者がいたから。
 男性は、いつになったら理解してくれるのだろうか。私は心の中でため息をついた、その時でした。
「胎児認知ができてたら、娘が日本人じゃなくなるなんてことは、起こらなかった。だからね、私、裁判所に行って、市役所を訴えてきたんです!」
「え?」
 男性と長時間話をしているから、市役所を訴えたという男性の話は、私の幻聴ではないかと思いました。私、疲れているから、そんな風に聞こえたのかもしれない、と。
 男性は、興奮気味に話を続けました。
「子どものヘソの緒持って」
「ヘソの緒を持って……て。えっ? ええええええっ!」
 自分でもびっくりするほど、大きな声を出してしまいました。
「ちょ、ちょっと、待ってください! 裁判所に、ヘソの緒を、出したんですか?」
「そうだけど」
 慌てる私とは対照的に、男性は落ち着いた声で答えました。
「な、何のために、ヘソの緒を?」
「決まってるでしょ。親子の証明ですよ」
「親子の証明って……。お電話で、私と話していたのは、お子さんのお母さんだったって、ことですか?」
「あんた、頭悪いの? 私は、男。子どもの父親だよ」
「お父さん、ですよね? ……なら、どうして、ヘソの緒を?」
「だから、親子の証明だって、言ってるだろっ!」
 男性の声に怒りが混じっているのが受話器を通して伝わりました。
「父親として、娘さんとの親子関係を証明したいなら、ヘソの緒じゃなくて、DNA鑑定の結果じゃないんですか?」
 受話器から男性のため息が聞こえてきました。
「ヘソの緒は、娘が生まれる前に、私と親子だったことを証明できるんだって。胎児認知ができたはずだったのに、わけのわからない理由で市役所に阻止されたことを証明するために、ヘソの緒を出したんだよ」
 男性の話を聞き終わった私の肩に、目に見えない大きな石が何個も乗せられた感じがしました。
「頭の悪い奴と話すと、疲れる」
 男性は吐き捨てるように言うと、ガチャリと電話を切りました。
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