第3話 偽装結婚を主張する男

文字数 3,705文字

 日本で地道に働いて就労ビザを取るよりも、日本人の配偶者としてビザを取る方が簡単だと思う外国人が多いようです。
 日本人男性と結婚した外国人女性の中には、日本で就労が可能なビザを取得したとたんに、夫婦としての生活を終わらせ、新しい生活を始める方がいます。こういう女性との結婚を「愛のない結婚」と呼ぶのか、「偽装結婚」と呼ぶのかは、配偶者だった方のとらえ次第、のようです。

「偽装結婚だったんだ」
 窓口に現れた日本人男性の声は、少し怒っているようでした。
 磨きをかけたかのような頭頂部から、蛍光灯の光よりもまぶしい光が放っていました。
「偽装結婚、ですか?」
 私は、ちょっと大げさに驚いてみました。それが良かったのか、男性は嬉しそうな表情であたりを見回すと、急に顔を私の方に近づけ、小さな声で話しました。
「オレはね、一緒になる前に、偽装結婚は嫌だよって言ったんだよ。でもさ、彼女がさ、どーしても、オレと一緒になりてーって言うから、籍入れたんだよ」
 私もあたりを見回すと、口に手を添え、男性の耳に自分の声が届くように言いました。
「偽装だとわかって結婚した、ということですか?」
「だから、違うんだって」
 男性は、やや声を張り上げました。
「オレは、結婚するなら、偽装結婚は嫌だよって言ったんだよ。だってさ、オレみたいなおっさんと結婚したいなんて言ってきたんだよ。なーんか、目的があるんじゃないかって思うじゃない?」
 男性は、自分の頭を軽くなでました。
「でもね、彼女が、ドナリさんがいい、ドナリさんと結婚したいって言ったからさ。しゃーねーな、じゃあ結婚すっかーって、籍、入れたわけよ」
 ドナリさんは、上着のポケットからスマートフォンを取り出しました。
「これ、奥さん」
 スマートフォンの画面には、ドナリさんとほほを寄せ合う外国人女性が写っていました。ドナリさんの顔が、若干にやけているように見えました。
「奥さん、綺麗な方ですね。どちらの国の方ですか?」
「フィリッピン」
 ドナリさんの声が弾んでました。
「こーんな、若くてキレーな子がさ、オレと結婚したいって言ってきたわけよ」
「どこで、知り合ったんですか?」
「よく行く飲み屋のママがさ、ドナリさん、ひとりモンでしょ、ガイジン好きでしょって、彼女を紹介してくれたの。日本に留学に来て2年ぐらいって言ってたけどさ、日本語まあまあ話せるからさ、すぐに仲良くなったんだ」
 スマートフォンの画面をじっと見つめると、ドナリさんは軽く、息を吐きました。
「オレは彼女に700万ぐらい貢いだ。でもさ、5年一緒に住んでても、彼女からは、たった4万しか、もらえなかったんだよ。4万だぜ、4万」
 700万円の内訳を聞くと、ドナリさんは表情を曇らせました。
「結婚って、いろいろと金かかるべ? アンタもわかるでしょ? 何にいくら使ったなんて、忘れちまったよ」
「そうですか」
 結婚にかかる700万円ってなんだろう。
 そんな好奇心を引きずりながら、私は質問を続けました。
「奥様からの4万円は、現金、ですか?」
「ちげーよ」
 ドナリさんは、カバンをカウンターに置きました。
「このカバンとよ、この時計」
 ドナリさんは左手を私に突き出すようして、腕時計を見せました。どちらにも、見たことのないロゴのようなものが入っていました。使い古されたカバンや腕時計は光沢を失っていましたが、カバンの表面はなめらかで、腕時計はドナリさんの腕になじんでました。
「カバンも腕時計も、ブランド品じゃないですか!」
 私の驚き方は大根役者よりひどいものでしたが、ドナリさんは目を大きく開いて驚きました。
「これ、ブランド? 本当かい? 飲み仲間がよ、ドナリさん、この時計とカバン、1つ2万ぐらいで激安ショップで売ってるよって言ってたから、安モンだと思ってた」
 カバンと時計を交互に見るドナリさん。疑いの目とは対照的に、口元は少し緩んでました。
「まあ、安モンでもさぁ、このプレゼントをくれた頃は、オレへの、愛があったってわけさ」
 ドナリさんはカバンを優しくなでました。
「彼女が、家、出てっちまったんだ」
 ドナリさんの表情が険しくなりました。
「いつですか?」
「んで、探しに行ったら、オレの友達の店で働いていたんだよ」
 ドナリさんは私の質問を無視し、話を続けました。
「どうして、お友達のお店で働いていたことがわかったんですか?」
「だから、オレ、その店に行ったんだ」
 私は、ドナリさんに質問することを諦め、黙って話を聞くことにしました。
「店に入ってさ、彼女探して、呼んでくれって頼んだら、ご指名ですかって、若いにーちゃんに聞かれたわけよ。おー、指名すっから呼んで来いって、にーちゃんに言ったら、すーぐ来てくれたよ、彼女が」
「お店に入って、奥様を指名されたんですね」
「彼女は来てくれたんだけどさ、ああいうところって、プライベートな話ってできねーんだな」
 ドナリさんは軽く頭をなでました。
「そうなんですか? 奥様とお話されてなかったんですね」
「オレの隣に、ここらへんにさ、女の子がいてさ、それから、黒い服着たガタイのいい男がよ、彼女にピターってくっついてんだもん」
「2人きりになれなかったんですね」
「彼女、売れっ子みたいでさ、10分ぐらいオレんとこにいたと思ったら、指名が入りましたーって、別のテーブル行っちゃったの。黒い服の男と一緒に。オレの隣にいる女の子と2人になったんだけど、その女の子に、なんか飲ませなきゃ、なんだか悪くなっちゃって」
 その後も、ドナリさんはお店に通い、奥様を指名して、奥様から接待を受けたそうです。
「何度もお店に行っているのに、一度も、奥様と夫婦の会話をしていないんですか? 奥様に、帰って来い、とか言っていないんですか?」
「あの中では、オレは客だから」
 奥様の隣には、いつも、黒い服を着た体格の良い男性が影のように寄り添っていたそうです。
「彼女がさ、何飲むって聞いたからさ、ビールかなって答えて。最近どうって聞かれたから、仕事が忙しいって言ったんだよ」
 ドナリさんは、軽く頭をなでました。そして、軽く息を吐きました。
「オレは、彼女に尽くしたわけよ」
 でしょうね。
 店に乗り込んで派手な衣装の妻と大ゲンカとか、店の前で待ち伏せして仕事帰りの妻を捕まえて「帰ってこい」と泣き叫ぶ。なんていう話を想像していた私は、男性の「尽くした」という言葉に大きくうなずいてしまいました。
「でも、彼女は、さ」
 そう話すと、男性は、ふうっと大きく息を吐きました。
「オレに怒鳴られたとか、殴られたって、店の女の子たちに言いふらしていたんだよ」
 男性の話によると、奥様は、夫から身体的暴力を受けていると警察に相談し、弁護士を通して裁判所に離婚調停を申し立てたというのです。
「裁判所からの通知には、オレが生活費を入れないとか、日常的に彼女に暴力をふるうって、書いてあったんだ」
 男性は、スマートフォンの画面をいじると、裁判所から届いたという文書の写真を私に見せました。
「そりゃあね、オレだって、人間だから、カッとなりゃあ、怒るし、トシで耳が少し遠くなってっから、声が大きくなっちゃって、普通にしゃべってても、怒鳴ったように聞こえる。妹に言われたんだ。にーさん、女の人の前では、優しく話してねって」
 スマートフォンをカウンターに置いた男性は、その画面を見つめたまま、話を続けました。
「でもね、オレは女性に手をあげない。彼女のこと、殴ったことはないんだよ」
「そうなんですね」
 私は少し大きな声で言いました。
「彼女はフィリッピンの人だから、着てる物がさ、ちょっとアレなわけ。スッケスケとか、ツンツルテンとか。フィリッピンではそれでいいかもしんないけど。オレの住んでる田舎じゃさ、いろーんなこと、いう人がいるわけ。だから、妹に頼んで、ちゃーんとした服買って、彼女に渡してたわけよ。買い物行くときはTシャツでもいいけど、短い丈のじゃなくて、長い丈のズボン履いてけよって。妹の買う服が気に入らないのは、オレ、わかってる。でもよ、金渡したら、彼女、ぜーんぶ、フィリッピンに送っちゃうんだもん」
「生活費を入れないとか、暴力をふるったことはない、ということですね」
 私は先ほどより声を大きくして、ゆっくりとした口調でドナリさんに言いました。
「そんな嘘ついて、裁判所に行かなくてもよ、彼女がさ、別れたいって……オレに言ってきたら、別れるよ、……オレ」
 ドナリさんが、言葉を詰まらせながら言いました。
 私は、ドナリさんのカバンと腕時計を見ながら、奥様と離れて暮らしていても、ドナリさんは奥様のことが好きなんだと思いました。
「でもさ、1000万貢いだのに、偽装結婚だったのが悔しいよ!」
 ん?
 お店に通った分が加算されてるっ!

 相談センターがお世話になっている弁護士の連絡先を、ドナリさんに教えました。
「サバキ先生は、フィリピン人との離婚問題をたくさん扱ってますし、偽装結婚についても詳しいですよ」
 ドナリさんは、丁寧にお辞儀をすると、背中を丸めたまま、相談センターを出て行きました。
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