第9話

文字数 1,921文字

 貧しいながら穏やかな日々が過ぎていた時だった。キートが意外なことを口にした。
「ヒョードル、おまえたち家族は都会に出て行った方がいい。俺が生きているうちに、溶接技術を教えてやる」
「ばかな、二人を置いて出て行くなんてことはできやしねぇ」
 ヒョードルの脳裏に、溶接工の夢がよぎった。すぐに打ち消したが、にぎやかな街の光景が、目蓋の裏に残った。

 大蛇狩りの仕事が無い時は、ヒョードルは弓を携えジャングルに分け入る。
 今日は朝から一匹の獲物も仕留められず、草原はオレンジ色に染まり始めた。忘れようとしても、キートの言葉が蘇ってくる。
 弓矢も尽き、疲れた身体で家路へと向かおうとした時だった。
 ふいに木立からライオンが現れた。タテガミも弱弱しい老いたライオンだった。ライオンは掠れた咆哮を上げながら、今にも襲いかかる気配を見せていた。だが、ライオンはなぜか立ち止まった。
 老いてはいても、相手は百獣の王と言われるライオンだ。だらしなく涎を垂らし、腹を減らしているはずなのに、なぜだ――。
 パイソンハンターとして生きるヒョードルに、本能的な恐れを抱いたのだろうか。いや、そんなはずはない。大蛇は今でも恐い。
 弓矢が無ければ、人間は最弱の動物だ。だが、老ライオンは、肉の誘惑と闘うように金縛りの中で固まっている。俺がそんなに強そうに見えるのだろうか――。
 だが、それは思い過ごしだった。
 老ライオンの耳が立った。タテガミが逆立っている。目がギラリと光った。攻撃の態勢だ。
 ヒョードルは、ライオンから目をそらさず後退さりした。ライオンは、じわりと距離を縮めてくる。さらに一歩後退さった時だった。窪みに足を取られ、ひっくり返ってしまった。

 絶体絶命!

 ライオンが、残像を残し飛び上がった。ヒョードルは恐怖のあまりうずくまる。だが、ライオンの牙がヒョードルに襲いかかることはなかった。ライオンは、背後の何かに飛びかかっていった。
 すぐ傍でライオンの野太い咆哮と砂塵が舞い上がっている。ヒョードルは何が起こったのかと、恐る恐る目を凝らした。
 なんとそこには、ライオンと巨大な蛇の壮絶な闘いが繰り広げられていた。ナマズを飲み込んだ大蛇より一回り大きい。ヒョードルは足がすくみ、尻餅をついたまま後退さった。
 目にもとまらぬ速さで大蛇の鎌首がライオンに飛びかかる。ライオンは大蛇の頭部を押さえつけ、必死に牙を立てようとするが、その度に牙が折れていく。ついに大蛇は、巨体をくねらせ、ライオンの腹に巻きついた。ライオンは苦しそうに口を開け、蛇腹に絡められていった。
 大蛇は牙のなくなったライオンをガラス玉のような目で見つめている。褐色にぬめるまだら模様が、じわり、じわりと締め上げていく。バキバキ、バキッと鈍い音が草原に響いた。老ライオンの断末魔の咆哮が、砂塵にかき消された。
 大蛇は口を百八十度に開き、今にもライオンの頭部を飲み込もうとしている。やっと我に帰ったヒョードルは、何かに取りつかれるようにナイフを抜いた。大蛇の背後に忍び寄る。ライオンを飲み込もうとする大蛇の頭部が夕日の残光に照らされている。大蛇を仕留める千載一遇のチャンスだ。
 ヒョードルは、覚悟を決めた。左手で大蛇の首を押さえた。あの時の感触を超える冷酷な力が伝わってくる。素早く頭部の急所にナイフを突き立てた。だが、急所を守る鱗は予想外に硬かった。大蛇がものすごい力で鎌首を返してきた。ヒョードルは負けじと、大蛇にしがみつき、振り回されながらも、突き立てたナイフに渾身の力を込めていった。
徐々に、バネが仕込まれたような大蛇の首から力が失せていった。見る見る蛇腹は緩み、細く変形したライオンの腹が見えてきた。
 ヒョードルは、神の恵みを丁寧に岩陰に隠し、動けなくなったライオンを小高い場所に引きずって行った。
 まだ温もりが残るオンの背中を擦りながら呟いた。
「なぜおまえは、巨大モンスターに闘いを挑んだのだ? 負けると知っていて……」
 ふとヒョードルは、まばらなタテガミからのぞくライオンの右耳に目が吸い寄せられた。耳の半分が欠けていた。おまえは、もしかしてあの時の……。
 故郷をしのぶようなライオンの目に夕日が映っている。一粒の光りがそれを呑みこむと、永遠の眠りについた。
 ヒョードルは大地にひざまずき、ライオンの牙を一本一本掬い上げながら、その精霊を全身に浴びた。

 草原の彼方が真っ赤に燃えている。
 太陽が炎の揺らめきを残しながら、地の果てに帰っていく。

 ヒョードルは誓った。
 自分は大地の土になるまで、この大自然の仲間と一緒に、生きて行こうと……。
 
                  (了)



      
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