第2話

文字数 2,456文字

 話はいつも、キートが放浪の末たどり着いたキンシャサから逆に、ケニア・モンパサまでの道のりで起こったことだった。やはり故郷が恋しいのだろうと、ヒョードルは思った。
 イレボから鉄道で、二百キロ東のダイヤモンドの産地・カナンガに出ると、キサンガニに通じる幹線道路が走っている。千三百キロの旅だ。キサンガニは人口百六十万人の交易都市で、ウガンダ軍とルワンダ軍の間で繰り返し戦闘が発生している。
 さらに千キロほど東に行くと、ウガンダ国境に近いピグミー族の居住地として有名な「イトゥリの森」に出る。キートはここで、彼らの仲間に入れてもらい、狩猟の日々を送ったという。コンゴ東部はウガンダと国境を接し、国境沿いに横たわるアルバート湖を渡ると、やがて海のような湖が見えてくる。ケニア、ウガンダ、タンザニアにまたがるアフリカ最大の湖、ビクトリア湖だ。人類の歴史を作ったナイル川の源流でもある。
 ウガンダには一年ほど滞在したといい、小学校しか出ていないキートが英語を話すことができるのは、ウガンダで公用語である英語を学んだからだという。
 ウガンダをさらに東に向かい、標高四千三百メートルのエルゴン山を越えると、南端にアフリカ最高峰のキリマンジャロ山を有するケニアとなる。上質な酸味で世界的に有名なキリマンジャロコーヒーは、標高五千八百九十五メートルの頂上と登山口を有するタンザニア側の中腹で栽培され、タンザニアコーヒーとも呼ばれている。
 キリマンジャロを越えると、インド洋に面するキートの故郷、港町・モンパサが見えてくる。 キートの目蓋の裏には、美しいコバルトブルーのモンパサの風景が映っているに違いなかった。
 ヒョードルがたどった道も、キートに似ていた。
 内戦のキンシャサで両親を失い、天涯孤独となったのは、ヒョードルが四歳の時だった。
 当時の明確な記憶はないが、縫製工場で働いていた母と手をつなぎ、銃弾が飛び交う中を逃げ惑った。目の前に海のような川が見えてきたことだけは目に焼き付いている。背後に土埃を上げながら戦闘車両が迫ってくる。
 彼らの目的は金ではなく、悲鳴を上げながら逃げ惑う女たちだった。後から聞いた話だが、道路工事で汗を流していた父は、武装勢力に連れ去られたという。その後の消息は分からない。
 母はヒョードルを抱きしめ、底の見えない流れに飛び込んだ。川面を浮き沈みし、手を差し伸ばそうとした悲痛な顔が、母の最後の記憶となった。ヒョードルだけは、奇跡的にコンゴ川で漁をしていた老人の船に引き上げられた。
 その後ヒョードルは、漁師の家族として育てられ、少年期を生き延びた。漁師の家には子供がいなかった。ヒョードルは、魚をさばいたり、網の修理などを手伝い、家族の一員として暮らすことができた。やがて船も老朽化し、老人も漁に出られなくなった。老夫婦は飢餓の中で息を引き取った。再びヒョードルには放浪の生活が待っていた。
 そんな時、手を差し伸べてくれたのが溶接工だったキートの家族だった。キートは、キンシャサで日本人のボランティア団体から溶接技能を学んだという。ヒョードルは、いつかは自分もと、溶接の仕事に胸を熱くしたものだ。
 ヒョードルの友人の中には、実業家のボディーガードや豪邸の庭師など、富裕層の恵みで楽に生きようとする人も多かった。ヒョードルはその生き方に納得できず、社会の底辺で、この国を作るあらゆる肉体労働に汗を流した。
 キート夫婦には一人娘のアニタがいた。四つ年上のヒョードルは、妹のように接していた。アニタもまた、精悍な黒色の相貌に澄んだ目を持つヒョードルを兄のように慕っていた。アニタが十八歳の成人を迎えた時、結婚することになった。アニタは村でも評判の美人で、ヒョードルは生まれて初めて、自分は幸せ者だと神に感謝した。
 だが、そんな穏やかな日々は長くは続かなかった。
 キンシャサで政府軍と反政府武装集団の激しい戦闘が起こった。家族が住む村は武装集団に焼き払われた。難民たちは皆、武装集団の襲撃を怖れながら、草原の中で飢餓の生活を強いられた。
 ヒョードルの家族は、漁業ができそうなイレボを目指した。イレボ郊外のカサイ川上流は、大地を覆いつくすように熱帯雨林が広がっている。家族はその樹海の中で身を隠すように暮らし始めた。
 だが、コンゴ中央部のカサイ州も、他国軍の侵入による治安悪化に加え、反政府武装勢力による地元住民の虐殺や誘拐が頻発し、おびただしい数の難民が生まれていた。

 辺りはすっかり暗くなった。
 ヒョードルとキートはズシリと重い川の幸を背負い家路についた。今日の獲物は一メートルを優に超える大物だ。これらのナマズは、家の裏で燻製にし、町の市場で高く売ることができる。溶接や道路工事の仕事を失った家族に取って、貴重な現金収入だった。
 帰りに、農家に回り、主食のウガリをつくるトウモロコシを買う。ウガリは広くアフリカ各地の主食となっている。鍋に湯を沸かし、その中にトウモロコシの粉を入れ、弱火で温めながら木べらで練り上げたものだ。
 ヒョードルは、時には弓の上手なキートについて、鹿に似たインパラを狙い草原に狩りにも出かけた。そんなときキートは、全ての衣服を脱ぎ捨て、コシミノだけの格好になる。狩猟民族は、自らが獣となることにより、彼らの息吹を体で感じることができるという。視覚や聴覚など、草原の獣と同じ波長の感覚を研ぎ澄ますことにより初めて、標的に矢を射ることができる。
 富を求め、競争に縛られる都会の人々の影で、狩猟採集民族は今でも独自の光を灯し続けている。大自然との共生を大切にするピグミー族やブッシュマンは、アフリカの大地に根を下ろし、生き続けてきた。彼らは高層ビルに象徴される繁栄に惑わされることなく、古来連綿と続くアイデンティティを守り続けている。果たしてどちらが人類本来の力を維持し、地球の本当の恩恵を受けているのだろうか。それはどちらが天国に近い生活をしているのかという問いと重なってくる。
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