第8話

文字数 4,199文字

 それから一年が経った。ヒョードルは弓で獲物を狩り、アニタは荒地を耕し、キャッサバ芋を作りながら家族を養っていた。だが、生活は貧しくても、以前にはない笑顔が戻ってきた。
 そんな時、村に不吉なことが起こり始めた。
 最初の事件は、村はずれの沼に生息していた大ナマズが一匹もいなくなった。沼のほとりの泥に何かがのたうち回った跡が残っていた。一メートルほどに成長した大ナマズは、キートが餌をやりながら育てたものだ。村の祭りに捧げられる貴重な食料だった。
 次に起きた事件は、ヤギ小屋からヤギが一頭残らず消え去った。何か巨大な恐ろしいものが、村に近づいてくる気配を覚えた。
 小屋は村を囲むように広がる畑の端にたたずんでいた。ライオンや豹などの猛獣が襲ったとすれば、手足の食い残しぐらいあるはずだが、一滴の血も残っていなかった。
 これはパイソン以外には考えられない。それもかなり大きなやつだと、長老が断言した。
「この辺り一帯は、元々パイソンの生息域だった。奴らにしても、人間が自然を壊し、そこに移り住んでくれば死活問題に違いない。だが我々も、武装勢力に追われ、逃げ場はここしかないのだ。パイソンには気の毒だが、生きるためには狩るしかない。ただし、狩るのは我々に襲い掛かった時と、家畜の被害が発生した時に限る。パイソンがいなくなれば、ワニやライオンの天下となる。生態系のバランスが崩れれば、いつか私たちにも限界が訪れる」
 若いころパイソンハンターの村で暮らしたことがあるという長老がリーダーとなり、大蛇狩りチームを作ることになった。
 すぐに、足腰のしっかりした男たちが集められた。大ナマズの餌係だったキートも、悲しみから自ら志願した。アニタは止めたが、友達のように懐いていたナマズを失った彼の決心は硬かった。
 集まった男たちは皆高齢で、以前はパイソンハンターだったことになっているヒョードルは、アニタに勧められ参加することになった。ヒョードルのたった一つの弱点が蛇だと知る者は誰もいなく、若く精悍な男を、皆喜んで迎え入れた。
 女たちは夜通し、捕獲用の網を縫った。男たちは、古びた鉈や蛮刀をかき集め、刃こぼれを直し研ぎ上げていった。
 ジャングルで獲物を探すパイソンも、ジャングルの中に棲は作らない。ジャガーなどの猛獣に巣を嗅ぎつけられ、穴から頭部を出した瞬間に牙を立てられたら、ジャングル最強の動物も生き残る道はない。逆に密林や草原で、最大九メートルと言われるパイソンとの一騎打ちなら、四つ足最強と言われるトラも骨を砕かれ、胃液で融かされる運命となる。
 リーダーは、ナマズ沼の方角にパイソンの住処があるとにらんだ。
 武器の準備が終わり、いよいよ出発の早朝、十羽の鶏の首が跳ねられ、滴り落ちる鮮血をバケツに受けた。大蛇誘引の血は、さらさらしても固まり過ぎてもいけない。ドロリとなる頃合い、約二時間を逆算し、一行は村を出た。
 ナマズ沼を過ぎ、起伏のある草原を目指す。
 パイソンは大きくなればなるほど用心深くなる。だから長生きできるとも言える。普通の寿命は十八年ほどだが、最大級になると三十年も生き続ける。
 パイソンの視力は弱いが、嗅覚は鋭い。ただ、昼も夜も同じように見えるという特徴を持つ。下あごで微妙な振動を感じ取り、人間はもちろん、ネズミが這いまわる微かな振動も察知できる。長い舌をちょろちょろと出しているが、決して遊んでいるわけではない。獲物の臭いを感じ取っているのだ。気づかれずに背後に近づいた時、ちょろちょろと舌を出し始めたら、もうヤツの射程に入ったと覚悟をしなければならない。もう一つ、最強の武器はピット機関と言われる赤外線センサーだ。非常に精度が高く、獲物や外敵の体温を検知することができる。パイソンは、これら視覚、嗅覚、振動検知、赤外線検知の総合力で、獲物や敵を認識する。
 草原やジャングルでパイソンと対峙するのは、檻の中でライオンと闘うようなものだ。一人が死を覚悟の犠牲になる以外に勝ち目はない。全身が武器の大蛇を仕留めるには、巣穴から引きずり出し、頭部が現れた瞬間を狙い、急所を一突きにする以外に方法は無い。牙はすべて喉の奥へと向かっている。一たび咬みつかれたら逃れることは不可能だ。それを逆に利用することになる。
 目指すは土ブタが掘った穴だ。パイソンは、他の動物が苦労して掘った巣穴を横取りして潜んでいる。もちろんそれまで棲んでいた動物はすでに餌となっている。
 最初に見つけた穴は人が潜り込めるぐらいの大きさがあった。リーダーが、小枝に火をつけ、頭から入っていった。
「だめだ! ここは危険だ。かなり大きなのがとぐろを巻いてじっとこちらを見ている。卵を温めているのかもしれない」
 パイソンの卵はひと塊になっており、母親は何日間も温めているのだ。非常に気が立っているという。ヒョードルは、穴の中の状況を想像し、思わず身震いした。
 次に見つけた穴は、両足がすっぽりと入る程度の大きさだった。中を確認することはできない。いよいよ奥の手を使うことになった。
 誰が噛ませ役になるかの話になった。嚙ませ役とは言え、命がかかる一番重要な役目だ。突然、足を引きずりながらついてきたキートが手を挙げた。
 皆、驚きの目を向けた。その視線に歓迎の色は無かった。
 ヒョードルは覚悟を決めた。
「俺は元パイソンハンターだ。俺に任せてくれ!」
 誰もが納得の声を上げた。だがキートだけは、悲し気な目を落としていた。彼は全てを知っていたのかもしれない……。
 左足にぼろ布を何重にも巻き付け、鶏の血をどっぷりと染み込ませた。ヒョードルは、人間の胴体ほどの穴に、両足を揃え入って行った。大蛇の攻撃は素早い。いつ引きずり込まれるか分からない。ヒョードルの胴には太いロープが巻き付けられている。四人の引手が、その時に備え、腰を落としている。その時だった。突然ヒョードルの左足首に何かが咬みついてきた。恐ろしい力で、穴の奥へと引きずり込んでいく。あっという間に、体が脇の下まで沈み込んだ。
 ヒョードルは叫んだ。
「ヤツだ! ヤツが咬みついてきた。凄い力だ。早く引き上げてくれー」
 足首に、ぼろ布を貫通したパイソンの牙の感触が伝わってくる。奈落の底に引きずり込まれて行く死の恐怖に、顔から血の気が引き、脂汗が噴き出してくるのが分かった。
 四人の足裏が、台地を滑り始めた。残された二人がそれぞれヒョードルの手を握った。わずかに体が引き上げられたが、再び強大な力が働き、体がずるずると穴の奥に引きずり込まれていく。徐々にヒョードルの肩が伸び切り、顔が穴に隠れようとした時だった。
 キートが足を引きずりながら飛び込んできた。猛然と穴の周りを崩し、自らも穴に入ると、ヒョードルにしがみついた。キートの体が楔となり、動きが止まった。ヒョードルは、伸び切ろうとする左足を渾身の力で耐えた。さすがに大蛇も、八人の抵抗には敵わなかった。ロープを引く掛け声と共に、二人は徐々に、徐々に、穴の外へと引き上げられた。
 格闘すること三十分。ヒョードルの足首をすっぽりと呑み込んだ大蛇の頭部が見えてきた。大蛇の牙はすべて喉の奥へと向かっている。一度咬みついた牙は、ぼろ布が絡みつき、逃れることはできない。
 長老がナイフを取り出した。足首を飲み込んだままの大蛇の頭部に鋭い目を走らせる。
 蛇の頭部の目と目の間を額板と言い、その後ろに頭頂板と呼ばれる大きな鱗がある。その中心に大脳があり、損傷を与えれば時間はかかるが徐々に死へと向かう。
 長老が、急所にナイフを突き立てた。大蛇の目が、ギラリと光ったように見えた。反射的に牙に力が込められ、ヒョードルは呻き声をあげた。キートが手製のナイフを取り出し、止めの一刺しを浴びせようとした時だった。長老が、キートのナイフを抑えた。
「気持ちは分かるが、すでにパイソンは死へと向かっている」
 長老が、静かに諭した。
 皮の価値が下がることもあるだろうが、自分たちの生活を支えてくれる、神の化身への畏敬の念を忘れてはいなかった。
「もう大丈夫だ。顎の力が弱まってきた――」
 ヒョードルは、大蛇の首を左手でしっかりと握った。動きは鈍っているが、蛇体はまだまだ巨大なパワーを秘めている。
「もう少しで足が抜けそうだ。誰か首を押さえていてくれ」
 キートが、大蛇の首を両手で握り締めた。大蛇が口を開け始めた。ヒョードルは、そのタイミングを逃さなかった。ずるりと血の滴る左足を抜き、体制を整えた。
「絶対に首を離さないように――。そのまま俺に渡してくれ」
 ヒョードルの手は大きい。再び左手で大蛇の首を握り締めた。大蛇は本能的に口を開け、牙をむく。ナイフが上あごを貫通した傷口から、大量の血が滴り落ちているのが見えた。
 数人の引手が、ヒョードルの右手を握り、掛け声を上げながら大蛇を引きずり出した。大蛇が徐々にその巨体を見せ始めた。時おり巨体を波打たせ、その反動でヒョードルの左手から頭部を外そうとする。左手がしびれてきたヒョードルは、右手に握り変えた。渾身の力で、大蛇を引きずり出していく。手を離せば一巻の終わりだ。蛇は、たとえ頭部を切断されても、本能的な動きに変化はない。あっという間に穴深く潜り込んでいくだろう。
 だが、いくら引いても尻尾が見えてこない。蛇体の全貌が姿を現したのは、九メートル近く引いた時だった。大きさからすると、ナマズやヤギを飲み込んだパイソンに違いなかった。
「よーし、あとは自由にしてやれ」
 長老が、大蛇の動きが緩慢になったのを見計らい、口を開いた。
 ヒョードルは、恐る恐る手を離そうとした。だが五本の指は固まったままだ。キートが、大蛇の首から、一本、一本、指をはがしてくれた。すでに大蛇には、牙をむく力はなかった。五感を失った大蛇は、行く当てもなく、ずるずると同じところを這いまわっている。
 人間に惨たらしい地獄を見せつける生き物でも、今わの際をさらす姿は見るに忍びない。全ての生き物は、善悪を超えた宿命を背負っている。それが、自然界の過酷な掟だ。
 八人が、一メートルほどの間隔で蛇体を担ぎあげた。これで、当面村人は、柔らかなパンを食べ、きれいな水を飲むことができる。
 一行は、夕陽が落ちようしている草原を、歌を歌いながら家路に着いた。
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