第1話

文字数 1,727文字

 百熱の太陽が勢いをひそめ、遠く川面の漣が金色に輝き始めた。
 ここはコンゴ民主共和国(コンゴ)のカサイ州・イレボ郊外の熱帯雨林を流れるカサイ川の上流。イレボはコンゴの首都・キンシャサから千二百キロほど東の人口八万人ほどの河港都市。下流はナイル川に次ぐアフリカ第二のコンゴ川に合流し、大西洋に注ぐ。
 コンゴ川水系は淡水魚の聖地とも呼ばれ、鯉に似た小魚から二メートル近くにもなるムベンガのような怪魚も生息している。
「ヒョードル、そろそろ来るぞ! 銛の準備だ」
 ヒョードルの義父・キートが声をひそめた。
 夕日が川面を照らし始めると、岸辺に小魚が集まる。それを追って、大きな魚も寄ってくる。キラキラと光る川面を透かし見ていると、黒く大きな影が近づいて来るのがわかった。ヒョードルが狙っているのは、小魚を捕食する大型ナマズだ。
 ヒョードルは、暗く淀んだ川底を這うように近づいて来る巨大な影をとらえた。一メートルは優に超えそうだ。
「今だ!」
 キートが小さく叫ぶ。
 キートが若いころ、全財産を叩いて買ったというブビンガを削り出した銛竿の長さは五メートル。先端が鈍い光を放つ手銛が、黒い魚影の頭部を目がけ打ち込まれた。
銛竿を握る手に確かな手応えがあった。ヒョウドルの全身に、水中で暴れる獰猛な闘魂が伝わってくる。相当に大きい。
 矢じりの形をした銛先には細いロープが取り付けられ、大型魚に刺さった時は、銛竿の先端から自動的に外れるようになっている。
 魚は暴れながら深みへと逃げようとする。銛先には返しが付いている。刺さったら最後、抜けることはない。凄い力だ。ロープを巻き付けた指が擦り切れそうだ。このままでは川に引きずり込まれる。
「ロープを体に巻くんだ!」
 キートが大声で叫んだ。
 ヒョードルはロープを引いたまま体を一回転し、体重をかけながら獲物が弱るのを待った。
 キートと力を合わせ、岸に引きずりあげたナマズは一・五メートルほどあった。銛は魚体を貫通していた。
 キートが若いころは、船の上から、同じ仕掛けを持つ弓で巨大魚を仕留めることができたという。
 入れ食いのように、二匹を仕留めることができた。
 町に出てこれを売れば、家族で二週間食べる米を買うことができる。二人は、木陰で一休みすることにした。
 キートがいつもの昔話を始めた。それは何回聞いても面白い、アフリカ横断の冒険記だった。
キートは少年のころ、ケニア・モンパサの漁師だった父の手伝いをしながら暮らしていた。母は産後間もなく、マラリアで亡くなったという。エビがたくさん獲れる時は、学校も休んだ。
「キート、明日の朝、沖にマグロの大群が来るという情報が入った。危険な漁となる。俺一人で行って来る。今日は早く寝よう」
 それが、キートが父と話した最後の会話になるとは思いもしなかった。
 マグロが獲れた時父は、町のレストランに行き、エッグチャパティ(フライパンで作るミートオムレツ)を食べさせてくれた。後にも先にもあれほど美味しいものは食べたことがないという。
 その日、夜になっても父は帰らなかった。港の噂で、天候が急変し、沖に出た小さな漁船はひとたまりもなかったろうと、老漁師が話していた。
 それからキートは、親類の家を転々とし、道路工事や、砂運びの肉体労働に耐えながら生きていた。
 転機がやってきたのは、伯母さんの家でテレビを見ていた時だった。父が好きだったボクシングの試合が映し出されていた。
 後にキンシャサの奇跡と呼ばれた、ヘビー級世界タイトルマッチで、王者ジョージ・フォアマンと挑戦者モハメド・アリが対戦していた。劣勢だった挑戦者のアリが、チャンピオンのフォアマンに逆転勝利した。ザイール(現在のコンゴ民主共和国)国民は、アメリカの国家権力に反抗したアリをアフリカのヒーローとして歓迎した。テレビに集まった人々は、皆抱き合って喜んだという。
 キートは、漠然とではあるが、世界王者・モハメド・アリが足跡を残した場所に希望の光を感じた。キンシャサを目指し、四千キロメートルに渡る危険地帯を、西へ西へと歩き始めた。
 人殺し以外は何でもやり生き抜いたという、五年間のアフリカ横断の旅を、キートはいつも家族に話すのだった。
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