第28話 やっぱりそうなる話。

文字数 2,189文字

 なにが起きたのかまったくわからない。
 急に悲鳴をあげた平林さんを呆然とみつめた。
 口もとに違和感を感じて手をあてると、濡れた感触にハッとした。

(鼻血が出てる……)

 だから急に平林さんが悲鳴を上げたのか。
 溢れるように流れて焦った。反対側の手でポケットを探ってハンカチを出そうとするのに、焦りでうまく取り出せない。のぼせたように頭もぼんやりしてきた。

「木村くん、急にどうしたと?」

 千堂副部長も驚いて棚に置かれたティッシュボックスを差し出してくれた。
 竹林統括部長も呆気にとられた表情で、腕組をしたまま微動だにしない。
 気を遣ってくれるのはありがたいけれど、その前にその色をどうにかしてくれ。
 会議室に充満している嫌なグレーのせいで、思うように息ができない。視界がぼやけて、ああ、これは倒れるな、と他人事のように思った。
 やっぱりこうなるか……。
 力が抜けて机に突っ伏し、湯飲みが倒れたのがわかる。また、平林さんが悲鳴を上げたのが聞こえた。

 ――うるさいよ。誰のせいだよ。大げさに叫んでる暇があったら色を止めてくれよ。
 誰に向けてか知らないけど、オレを巻き込まないでほしい。派閥とか権力とか、オレは興味ないんだから。
 ああ、もう。こんなの絶対に大ごとになるじゃあないか。

「どうしました? なにごとですか?」

 会議室のドアが開かれて、誰かが入ってきたのと同時に目の前が真っ暗になった。

 ハッと気づいたとき、オレは会議室の床に横になっていた。人の気配に視線を移すと、安本さんと湊さんが製本作業をしているのがわかった。

「あっ、木村くん、気がついた?」
「まだ横になっていたほうがいいですよ。無理をしちゃあダメです」

 そう言われても、まだ仕事中だし、会議室の中は今は穏やかでなんの色も視えず、気分も悪くはない。
 起きて二人に迷惑をかけたことを謝った。

「大丈夫、大丈夫。木村くんが謝ることはないから。私、間野部長に知らせてくるね」

 湊さんが会議室から出ていった。安本さんが濡れタオルを手渡してくれた。

「……すみません。ありがとうございます」
「大丈夫ですか? なにがあったんです?」
「なにが……っていうか、オレが具合を悪くしちゃって……のぼせたんですかね。鼻血が出ちゃいました」
「千堂さんたちになにか――」
「あっ、それはないです。本当に具合が悪かっただけで……」

 そう。なにかされたとは言えない。
 ただ、気持ち悪い色を発していただけで、暴力を振るわれたわけじゃあないから。
 濡れタオルで顔を拭いた。鼻血はもう止まっていてホッとする。

「木村さんって……」

 安本さんがなにかを言いかけたとき、湊さんと間野部長が会議室に入ってきた。

「横になっていなくて大丈夫?」
「はい。ご迷惑をおかけしてすみませんでした」
「迷惑なんてことはないから。とりあえず、顔を洗って着替えをしたほうがいいわね」

 間野部長に新しいワイシャツを手渡された。

「ちょうど森村くんが替えを持っていたから、使ってって」
「すみません、本当にありがとうございます」

 ワイシャツを手にトイレに行くと、顔を洗って着替えを済ませた。胸もとが血で汚れたシャツを手に、ため息をこぼしながらトイレを出ると、エレベーターの前で間野部長が待っていた。
 促されて連れていかれたのは、一階の来客用に作られた打ち合わせ用ブースだった。

「で、なにがあったの?」
「なに、っていうほどのことでは……ちょっと具合が悪くなってしまっただけで、のぼせて鼻血が出てしまったんです」
「だって凄い悲鳴だったじゃない? 千堂くんに殴られたりしたんじゃあないの?」
「それはないです。本当に。平林さんが大げさだっただけです。ただ……オレ、次の更新はできません……」

 間野部長は眉を下げて苦笑いをした。

「そう言われちゃうんじゃあないかと思っていたのよね。浅川くんたちからも聞いているけど、巻き込んじゃって本当にごめんなさいね」
「……いえ」
「本当は直接雇用で続けてほしかったのよね。三人とも良くやってくれるし、図面を書くのも早いし、本当に助かっていたから」
「すみません」

 オレはただ、頭を下げるしかできなかった。

「なんだ。木村くんも辞めてしまうのか?」

 顔を上げると金森事業部長が安本さんと湊さんを連れてブースに入ってきた。

「今、二人からも話しを聞いた。仕事が滞るようなこともあったみたいだけれど、気づいてやれなくて申し訳なかったね」

 上役からそんなふうに言われて、オレは恐縮するしかなかった。
 間野部長も金森事業部長も、温かくて濃いオレンジをしている。さっきの会議室での色とは正反対だ。

「これからは仕事に障りがないように流れを良くする体制を作るつもりでいるから、派遣さんたちにも働きやすくなると思う。いろいろと状況が変われば、三人ともあるいは残る選択もしてくれるだろうか?」

 オレは安本さんと湊さんをみた。互いに顔を見あわせてわかる。二人とも残らない。

「申し訳ありません。とてもありがたいとは思いますが、やっぱり更新はできません」

 安本さんがそう言い、湊さんもオレもうなずいて同意した。

「そうか。それじゃあ仕方がないな。これまで頑張ってくれて本当にありがとう。期限までわずかだけれど、残りの期間もよろしく頼むよ」

 金森事業部長はそういって席を立った。
 最後まで一瞬も嫌な色を発しなかった。
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