第36話 人質

文字数 1,860文字

「きゃああ! 」

 庄左衛門の妻子が先に屋台を出た直後、

庄左衛門の女房の悲鳴が聞こえた。

「どうしたえ? 」

 その後から、犬山たちが急いで、

屋台の外に飛び出すと、行方をくらましていた

浪人があろうことか、庄左衛門の女房を捕えて

短刀をその首に突きつけていた。

「わしの女房に何しやがる? 」

 飛びかかろうとした庄左衛門を犬山が全力で止めた。

「また、あんたか? 他人の女房を人質に取るとはこたびは何事だ? 」

 二八蕎麦屋の主がドスの利いた声で言った。

「犬山金吾。おめぇと一緒に、いるのはかどわかしの犯人だ。

何をしておる。すぐに、捕らえろ! 」

 浪人がさけんだ。

「てめぇも悪人なくせして、何ほざいていやがる? 

わしを襲ったのはてめぇだろ? 」

 庄左衛門がすぐさま、言い返した。

「おめぇを襲ったのはわしではねえ。犬山に聞けばわかる。

おめぇを襲った真犯人の手がかりをつかんだはずだからな」

 浪人が言った。

「おめぇが、わしに元寺子屋の師匠が

あやしいと伝えて来た矢先、庄左衛門が襲われた。

その犯人の手がかりが、

寺子屋で使われる半紙とは出来過ぎているぜ。

おめぇが、誰かに罪を着せようと仕込んだとしか思えねぇぜ」

 犬山が言った。

「それと同時に、わしが襲ったという証もねぇんだろ? 」

 浪人が大声を張り上げた。

「おめぇが手にしているその短刀だ。

庄左衛門の手足にできた傷は、短刀で斬った時にできる傷なんだよ。

短刀では致命傷を与えられねぇわけさ」

 犬山が、浪人が手にしている短刀を指し示した。

「人違いだと何度も言ったはずだ。

わしは、あんたが捜しているかどわかしの犯人ではない。

言いがかりもたいがいしろや! 」

 二八蕎麦屋の主が、浪人に訴えた。

「これをよく見ろ。人相書きに書かれている特徴が一致しておる」

 浪人が懐から出した人相書きを見せつけた。

 人相書きに描かれたお尋ね者の顔と二八蕎麦屋の顔は似ても似つかない。

特徴は、くぼんだ白目がちの目と薄い眉毛と書かれている。

あえて言えば、くぼんだ目ぐらいだ。

「よく見る悪相だな、こりゃ」

 犬山が呆れた声で言った。

「この人は、消えた村の子に、

川で死んだ我が子を重ねているだけなんですよ。

 たしかに、その子は出奔者として人別から除かれはしましたが、

かどわかしが起きたとの事実はありません」

 庄左衛門の女房がきっぱりと告げた。

「わしの子もひょっとしたら、かどわかしに遭ったのかもしれねえ。

故に、もし、犯人に会ったら確かめようと思ったわけさ」

 浪人が告げた。

「いい加減、現実を受け入れておくれな。

我が子は溺死したんです! 」

 庄左衛門の女房が、浪人に言った。

「コノヤロー! さっきから、どういうつもりだ? 

おめえ。己が今、どんな立場なのかわかって言っているのか? 」

 浪人がそう言うと、庄左衛門の女房の首すじに短刀を押しつけた。

刃が庄左衛門の女房の色白の細い首に一筋の刀傷を刻み、

その傷から赤い血が地面の上にしたたった。

その血を目にした途端、真広が、庄左衛門の方へ倒れ込んだ。

「おい、どうしたえ? 」

 庄左衛門があわてて、真広のからだを抱きとめた。

「血を見て気を失ったみてぇだ。

女房のことは必ず、わしが助ける。

故に、おめぇは、真広をここから連れ出してくんねえ」

 犬山が、庄左衛門に告げた。

「女房を見殺しなんぞ出来ねえ! 」

 庄左衛門がさけんだ。

「あんた。真広をお願いします」

 庄左衛門の女房が告げた。

「だけど‥‥ 」

 庄左衛門が、真広を抱きかかえると言った。

「これ以上、子に修羅場を見せるな!

 一生の心の傷にしても良いのか? 」

 犬山が、庄左衛門を説得すると、

庄左衛門は渋々、真広を連れて帰宅した。

「これで、誰にも気を遣うことなく、おめぇとやり合える」

 犬山が仁王立ちすると言った。

「こちとらあ、人質がいるわけさ。

妙な真似してみろ? 人質の命はねぇぜ。

さあ、そいつを引き渡してもらおうか? 」

 浪人が、二八蕎麦屋の主の引き渡しを要求して来た。

「親分。わしがおとりになりやす。

その隙に、あの人を助けてやってくだせえ」

 二八蕎麦の主が小声で言った。

「おめぇがおとりになるとな? そんな危ねぇ目には遭わせられねえ」

 犬山が拒んだ。

「いい加減、目を覚ましなせ。死んだ倅のことで古女房を困らせるな」

 二八蕎麦屋の主がそう言って、浪人に近づこうとした。

「罪を認めてわしの手にかかれ。それが、人質を解放する条件だ! 」

 浪人が、二八蕎麦屋の主に言った。

「あんた。もう、馬鹿なことはやめておくれな」

 庄左衛門の女房が、浪人に訴えた。

 


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