第51話 別離の兆し

文字数 1,705文字

「あれは、死んだはずの久遠殿と元楼主の東にちげぇねえ」

 犬山がさけんだ。興奮し過ぎて、気がおかしくなりそうだ。

「久遠殿は、炎上した船の甲板の上にいたではございませんか? 」

 たまが訊ねた。

「たぶん、離れた場所で、東は、小舟に乗って待機していたのだろうぜ。

久遠殿は、火を放つ寸前に、その小舟に乗り移り、

役人共の姿が見えなくなったのを見計らい、

別の船へ向かったというわけさ。

さすがは、久遠殿。実に巧妙な手口だ。

これで、幕府は、罪人は死んだと思うはずだ」

 犬山が答えた。

「元あづま屋の主が一緒ということは、

抜荷の首謀者は、元あづま屋の楼主ということも考えられますね」

 たまが前のめりの姿勢で言った。

たまも気が動転しているようだ。

 後日。橋蔵の調べで、

「相楽屋」と名を変えた元「あづま屋」の楼主は、

薬種の取引を通じて、抜荷に加担するようになった。

越後の湊を出入りする薩摩船が、積んで来た船荷の中に紛れ込ませた

長崎奉行所の鑑札を素通りしたいわゆる「抜荷」の禁制品

こたびで言うと、「唐薬」を密かに江戸へ運び、

安く仕入れて高く売るという手法で泡銭を稼いでいた。

 江戸の商人たちの間で、「抜荷」の噂が広まっていることを知った

久遠は、「抜荷」を疑う商人たちに

身分を偽り近づいて探っていた。

どういうわけか、久遠も、「抜荷」に加担するようになった。

流崎は、「相楽屋」におさきを女中として潜入させて探らせて、

捜査情報が事前にもれていることに気づいた。

久遠の屋敷に出入りする商人の存在を知り、久遠に疑いの目を向けた。

「抜荷」の本格的な捜査がはじまるのは、

もう少し先の話になるが、

この時点で、「抜荷」は、一部の商人たちの間で悪習と化していた。

「あづま屋と近しかったおさきを利用するとは、

流崎殿もあなどれないお人でさあ」

 橋蔵が報告を終えると言った。

「すでに、容疑者死亡でお蔵入りになっている事件だ。

今さら、蒸し返したどころでどうにもならねえ」

 犬山が言った。

「そうさね」

 橋蔵がそわそわしながら相槌を打った。

「たまの奴もどこへ行っちまったのか、あの後、音信不通なわけさ」

 犬山がため息交じりに言った。

「親分。そのことなんですがね。

どうも、たまに、見合い話が来ているようなんでござんす」

 橋蔵が言いにくそうに言った。

「何か、そわそわしていると思ったが、

わしに言おうか否か迷っていたわけか」

 犬山が身を乗り出すと言った。

「すいやせん」

 橋蔵が平謝りした。

「相手はどこの誰なんだ? 」

 犬山は平静を装い訊ねた。

 なぜか、心がざわざわした。絵師になると言った矢先に、

見合い話が飛び込んで来たのだ。

たまにはいつも、驚かされることばかりだ。

「それが、番町の薬園にいる異国帰りの男だそうな」

 橋蔵が答えた。

「異国帰りとな? それはまた、どういうわけだ? 」

 犬山は思わず声を荒げた。

「たまが弟子入りするはずだった絵師が

持ちかけた話みてぇでさあ。

何でも、その絵師は、お武家様なのだが家督を継ぎたくない一心で、

僧姿をしていたそうなんだが、来年、正式に出家することが

決まったんてんで、たまの身を案じた上でのことだそうな」

 橋蔵が淡々と事情を話した。

 橋蔵自身も寝耳に水の出来事だったらしく、まだ、実感が持てないようだ。

「どこの馬の骨かわからぬしかも、異国帰りの得体のしれぬ男を

たまの見合い相手にするとは、その師匠も相当、イカれた野郎にちげぇねえ」

 犬山は言っている間にも怒りが込み上げた。

「たまが、元遊女で絵師を志しているところが、

異国帰りの男と結びついたのかもしれねえ。

つまり、異国帰りの男の妻は、

型破りな女じゃねぇと務まらねぇというわけでさあ」

 橋蔵が言った。

「たまはどうするつもりなんだ? 」

 犬山はふと、たまのきもちが気になった。

「ご自分で確かめたらどうなんです? 」

 橋蔵が上目遣いで言った。

「親分。三枡兄さんから伝言でさあ」

 犬山が腰を浮かせた時だった。

厨から、庄左衛門が出て来た。

「伝言とな? 」

 犬山が言った。

「相談がある故、楽屋に顔を出して頂きたいとのことでさあ」

 庄左衛門が告げた。

 犬山は、「伊勢屋」を出ると、三枡の元へ向かった。

 









 

 





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