第39話 札差 花笠屋田右衛門

文字数 1,941文字

 四万六千日。この日に参拝すると、

4万6千日も詣でたと同じご利益があるとして

浅草観音をはじめ、江戸市中の観音を祀る寺には多くの人たちが集まる。

犬山は、迷信を信じないタイプなのだが、

縁日には巾着切が多発するとの教訓や橋蔵の誘いもあって、

参拝客でごった返す浅草寺へ行った。

「ゲッ!凶が出やがった」

 犬山が舌打ちすると言った。

「わしは吉でした」

 橋蔵が、吉と出たくじを見せると告げた。

「ほおずきごときに、この人の多さ、何とかならねぇのか? 」

 犬山は、前へ進むこともままならない混雑ぶりに疲れ切っていた。

「ほおずきの実を水で丸呑みすると、大人は癪がおさまり

子は虫気が治るとの迷信がありやすからねえ」

 橋蔵がのんびりと言った。

「だいたい、この日、参拝しただけで、

4万6千日詣でたのと同じご利益があるというのもおかしいじゃねぇか? 」

 犬山が悪態をついた。

「いってえ、たまと何があったんでさあ? 

たまに再会してから、ずっと、親分は虫の居所が悪いし、

何かあったとしか思えませんぜ」

 橋蔵が首を傾げると言った。

「野暮用を思い出した。先に行っていろ」

 犬山が、和紙を売る店の前で足を止めると言った。

「では、雷門の近くで落ち合いましょう」

 橋蔵がそう告げると、

いなせな恰好をしたほおずき売りの声に

つられるようにして歩いて行った。

 犬山が、買い物を終えて店を出た矢先のことだ。

「盗人だ! 誰か捕まえてくんねえ! 」

 人込みの中から、誰かがさけぶ声が聞こえた。

「おい、盗人というのは貴様のことではないか? 」

 近くで、誰かの罵声が聞こえた。

 何事かと声がした方を見ると、

人込みから外れた場所に、黒山の人だかりができていた。

「親分。どうやら、向こうで、ケンカがはじまったようですぜ」

 橋蔵が、ほおずきの鉢を胸に抱えながらすっ飛んで来た。

 2人が駆けつけた時には、黒山の人だかりの向こうで、

浅葱裏と三下風の町人がもみ合っていた。

「うう。何しやがる! 」

 2人が、人波をかきわけて前に出たその時、

三下風の町人が突然、

 右腕を押さえるようにして地面の上に両ひざをついた。

「その傷は、ひょっとして? 」

 犬山が、三下風の町人が、

右腕から血を流していることに気づいた。

「わしの仕業ではない! 信じてくだせえ」

 浅葱裏が後ずさりすると言った。

「これは何だ? てめぇの刀か? 」

 犬山が、浅葱裏の

足元に落ちていた短刀を拾うと言った。

「わしの刀を使ったこの者の自作自演にちげぇねえ」

 浅葱裏が、痛そうに右腕を押さえる

三下風の町人を名指しした。

「悪いのは、あの巾着切の方ですぜ。

このお侍様は、あの巾着切を捕えようとして

もみあいになった末、誤って、刺しちまったにちげぇねえ」

 近くにいた町人がさけんだ。

「この者が申すことに間違いないか? 」

 犬山が、他の野次馬たちを見渡すと訊ねた。

野次馬たちは、互いの顔を見合わせるばかりでらちがあかない。

そこへ、巾着切の被害に遭った張本人が駆けつけた。

「何か、盗まれたものはあるか? 」

 犬山が、かぶき者風の町人に訊ねた。

 この男に見覚えがあった。

浅草で札差を生業とする「花笠屋」田右衛門という名の町人だ。

「財布の中身は、たいしたことはねぇでさあ」

 田右衛門があっけらかんとして言った。

「わしは、この者が、

その人にわざとぶつかり懐から財布を

抜き取るところを見つけて追いかけたんだ。

いきなり、刀を向けて来たのはこの者の方です。

防ぐのが精いっぱいで、刺す暇なんぞありませんでした」

 浅葱裏が訴えた。

「親分。こいつは、名を伝蔵という三下でさあ」

 橋蔵が、犬山に耳打ちした。

「おい、盗んだ物を出せ」

 犬山が言った。

「わしだけでなく、この浅葱裏もしょっぴいてくんねえ」

 伝蔵が渋々、盗んだ財布を差し出すと言った。

「浅葱裏とはなんだ? わしには、

谷町久平というちゃんとした名があるわけだ。

おてんとうさまに誓って、わしは、

しょっぴかれるような真似はしておらぬ」

 谷町が仁王立ちすると言った。

「谷町とやら。何はともあれ、

騒ぎを起こしたことには変わりはねぇわけさ。

話を聞くため、おまえさんにも、一緒に来てもらわねばならぬ」

 犬山がそう言うと、谷町が肩を落とした。

「無事に戻って良かったな」

 犬山が、田右衛門に財布を返すと告げた。

「町方ごときが、お武家を捕えることは出来ねぇのでは? 」

 田右衛門が財布を受け取ると言った。

「それが出来るんだなあ、これが。

勤番侍は、屋敷外では町人と同じなわけさ」

 橋蔵が、田右衛門に言った。

「そういうわけだ。わかったか? 」

 犬山がそう言い捨てると、

田右衛門はその場は引き下がった。

ところが、どういうわけか、吟味を受ける前に、

伝蔵も谷町も、無罪放免となって釈放されたのだった。
















 
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