第38話 女の変化に気づかぬ男

文字数 2,345文字

「おめぇが、そんなんだったとは思いもしなかったぜ。

あの子のことは、もう、心の中にはいないってわけだな」

 浪人が、庄左衛門の女房に言った。

「あんたが後ろ向きなことを、あの子が望んでいると思っているのかい?

早く、私ら親子のことなんぞ忘れておしまい。

あんたが幸せになることが、あの子への供養だよ」

 庄左衛門の女房が、浪人に訴えた。

「すまねえ。何てことしちまったんだ」

 浪人がそう言うと、短刀を懐にしまった。

「わかってくれたのかい? 」

 庄左衛門の女房が、

浪人がひるんだ隙に逃れようと身を動かした。

「わしと一緒に死んでくれ! 」

 何を思ったか、浪人が、

庄左衛門の女房を羽交い絞めにすると橋の上へ走った。

「おい、何するつもりだ? 」

 犬山がさけんだ。

「あの野郎! 女房を道連れに身投げするつもりみてぇでさあ」

 二八蕎麦屋の主がさけんだ。

 2人が追いついた時には、浪人が、庄左衛門の女房を捕えたまま

橋の欄干によじ登ろうとしていた。

「身投げするなら、ひとりで勝手にしろ! 」

 犬山がとっさに、浪人の肩をつかむとがなった。

「親分。身投げを勧めてどうするんでえ」

 二八蕎麦屋の主が言った。

「放っておいてくんないか! 生きていたって何も良いことはねぇんだ! 」

 浪人がわめいた。

「私はある。あんたと一緒にしないでおくれ! 」

 庄左衛門の女房がそう言うと、浪人の腕に思い切りかみついた。

「痛ぇ! 何するんだ? 」

 浪人があまりの痛さに耐え切れず、庄左衛門の女房から離れた。

「こっちだ! 」

 二八蕎麦屋の主が、

庄左衛門の女房のからだを上手い具合に引き寄せた。

「わしひとりでも死んでやる! 」

 その時、浪人が橋の上から川へ身を投げた。

ドボン! 大きな音が聞こえると同時に、

橋の下に大きな波紋が浮かび上がった。

「死なせるわけにはいかねえ。おめぇには生きて償ってもらう! 」

 犬山がそうさけぶと、橋の上から川へ飛び込んだ。

浪人の元まで泳ぎ近づくと、

浪人は両手を上げて、水面から顔を出していた。

「もがくのは、死にたくねぇという証だ」

 犬山は、浪人のからだを引き寄せると河岸まで誘導した。

「なぜ、助けた? 」

 浪人が息を吹き返すなり訴えた。

「このまま、地獄に行きてぇか? 自害もりっぱな罪なんだよ」

 犬山が一喝した。

「捕まえてくんな」

 浪人が両手を差し出すと言った。

「言われなくともそうするさ」

 犬山が、浪人に縄をかけた。

「親分。ご苦労様でござんした」

 いつの間にか、橋蔵が来ていた。

「おそいぞ」

 犬山が、橋蔵の肩を軽くこづくと言った。

「お供いたしやす」

 橋蔵が上目遣いで言った。

 それから3か月後。「伊勢屋」の自宅では、

庄左衛門と女房が、近所の人や常連客たちを呼んで祝言を挙げた。

今までの経緯をみんなに打ち明けて、改めて、入籍と相成ったのだ。

一方、かどわかしに遭った倅を捜しに

村から江戸へ出て来た豪農の夫人は、

それらしき男(二八蕎麦屋の主)と再会を果たしたが、

よくよく調べたところ、全くの別人と判明した。

 別の日。万福は、

父親の屋台を訪れて思い存分、蕎麦を食った。

後日、万福の実家、今は、万福の母親が細腕で切り盛りしている

菓子屋を訪れた犬山は、万福が、店を手伝う様子を見て安堵した。

「うちの子の方は相変わらず、店の手伝いもせず、

寺子屋に迎えに来たうちの人とつるんで、日が暮れるまで帰ってきやしませんよ」

 一緒に店を訪ねていた庄左衛門の女房がぐちった。

「ところで、あの絵は何なんだい? 」

 犬山が、壁に貼られた数匹の蝦がこいのぼりみたいに

空を泳ぐふしぎな絵を見つけると言った。

「この絵を描いた絵師が今、2階にいます。

意味を知りたければ、本人に訊ねてみてはどうですか? 」

 万福の母親が、犬山に言った。

 2階に上がると、2階の奥の部屋の戸が開いていた。

「誰がいるのか? 」

 犬山がその部屋に上がり込むと、

熱心に絵を描いていた女が顔を上げた。

「え? なぜ、おめぇがここにいるんだ? 

絵師とは、おめぇのことだったのか? 」

 犬山は、絵を描いていた女が、たまだとわかって驚きを隠せなかった。

「もう、ここへたどり着きましたか? 」

 たまが苦笑すると言った。

「偶然だ」

 犬山が言った。

「酒楽亭の方は、しばらく、お休みさせて頂くことになりそうです。

私が描いた絵を師匠が気に入って、弟子にと言ってくださったんです」

 たまが告げた。

「その師匠というのはまことに、おめぇの絵だけが目当てか? 」

 犬山が訊ねた。

「私が元遊女だから、師匠も遊客と同じだとお言いですか? 」

 たまがするどい声で訊き返した。

「おめぇのことが心配なだけだ」

 犬山が言いつくろった。

「親分は、私の再出発を応援してはくれないのですか? 」

 たまが悲しい顔を見せた。

「おめぇが描いた蝦で思い出した。

蝦と同じように、人それぞれ天分がある。

らしくねぇことをしても失敗するだけだぜ」

 犬山がたたみかけるように言った。

「何も知らないくせに、決めつけないでおくんなさいまし。

私は昔から、絵師になりたかったんです。

色々あって、遊女になったりしましたが、

今、やっと、やりたいことが出来るようになったんです」

 たまが強く訴えた。

「さよか。おめぇの蝦は、川をも超えて空を飛ぶというわけか? 」

 犬山がため息交じりに言った。

「これ、どうぞ」

 去り際、たまが歩み寄って来て、

犬山の手に描いたばかりの浮世絵を

にぎらせると、勢い良く戸を閉めた。

 犬山は階段を下りながら、手渡された浮世絵を眺めた。

描かれた歌舞伎役者の顔立ちが、西洋画を思わせた。

日本から1度も出たことのない女が西洋画法を取得している。

ああは言ったが、たまは近い将来、世間をあっと言わせる

女絵師になるかもしれないと、犬山は笑みをこぼした。


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