第14話 おゆみ

文字数 1,857文字

 深川の料亭「明星」の近くまで来た時だった。

荒正が突然、立ち止まった。

「どうしたえ? 」

 犬山が、荒正に訊ねた。

「3年前、太一をしょっぴいたのは、このわしだ。

故に、あいつは、わしのことを覚えているかもしれん。

わしがいては、あいつは姿を現さんだろう」

 荒正が答えた。

「それもそうだな。あとのことは、わしらに任せろ。

おめぇがくれた手がかりを無駄にしねぇよう、

必ずや、太一を捕えて真相を明らかにするぜ」

 犬山がそう言うと、再び、歩き出した。

「ちょい待ち。大事なこと言い忘れておった」

 荒正が、犬山の背中に向かって言った。

「何だ? 」

 犬山がふり返りざまに訊ねた。

「相対死事件が起きた日。あづま屋の料理番、磯五郎の包丁が紛失したわけさ。

その包丁だがいまだ、見つかってねえ。

ひょっとすると、たまの恋人を刺殺した時に

使われたのは、その包丁かもしれねえ」

 荒正は、重要な手がかりを伝えると来た道を引き返して行った。

「もし、計画的な殺しだったとしたら、足がつかねぇようにするはずだ」

 犬山が言った。

「他人から盗んだ包丁ならば、すぐに、自分に疑いがかかることもねえ。

時が稼げるってわけでさあ」

 橋蔵が言った。

 「明星」の前まで来ると、若い娘が表をほうきで掃いているのが見えた。

「ひょっとして、姉さんは、おゆみかい? 」

 橋蔵が、その若い娘に近づくと訊ねた。

「さようですが‥‥ 。どなたですか? 」

 おゆみが手を止めると言った。

「わしは橋蔵。こちらは、町廻り同心の犬山様だ。

 あんたに、ちっと、聞きてぇことがあんだ」

 橋蔵が、おゆみに言った。

「おめぇの元恋人の太一の件だ」

 犬山が、おゆみに言った。

「勘弁しておくんなさいまし。もう、あの人とは会っていません」

 おゆみはそう言うと、中に入ろうとした。

「たまから聞いたが、太一が、おめぇを捜しているそうだな? 」

 犬山が、おゆみを引き留めると訊ねた。

「え? 」

 おゆみが驚いた顔でふり向いた。

「太一はここに来ていないか? 隠しても良いことはねぇぜ」

 犬山が言った。

「来てません。店を開ける時間ですので、用がないのでしたらお引き取りを」

 おゆみはそう言うと戸を閉めた。

「親分。思った以上に、おゆみのやつは頑なでさあ。どうしますか? 」

 橋蔵が訊ねた。

「きっと、太一は近くにいるはずだ。あいつのことだ。

 暗くなるまで待って、姿を見せるにちげぇねえ」

 犬山が腕を組むと言った。

「親分。あそこで、一杯やりながら待ちませんか? 」

 橋蔵が、料亭の向かい側に出ていた屋台を見つけた。

「そうさね」

 犬山は、橋蔵の提案に乗った。

 日が暮れたころ、料亭の外の灯りがついた。

身なりの良い客が数人、中に入るのが見えた。

その中には、太一と思われる人物はいなかった。

「それらしきやつは見えません。他の客の目もありますし、

開いている内は姿を見せないつもりかもしれませんぜ」

 橋蔵が小声で言った。

「腹もふくれたことだし、腹ごなしに、その辺でも散歩でもするか」

 犬山が立ち上がると言った。

「親分。こうなったら、出直しますかい? 」

 橋蔵が訊ねた。

「そうはいかねえ。何としてでも、

あいつを捕えて白状させねぇと、ひと1人の命がかかっているわけさ。

それに、今止めなければ、新たな犠牲者を出すことになるやもしれん」

 犬山がそう言うと、料亭へ向かって歩き出した。

「お客さん。まだ、お代を頂いていやせんぜ」

 屋台の主がさけんだ。

「橋蔵。とりあえず、おめぇが出せ」

 犬山が、橋蔵に言った。

「2人分だ」

 橋蔵が渋々、代金を支払うと、犬山のあとを追った。

 その時、料亭の主とおゆみが、最後の客を見送るため外に出て来た。

 おゆみは、2人に気づくと露骨に嫌そうな顔をした。

「犬山様」

 料亭の主が、犬山に気づいて近づいた。

「おめぇの店だったか。与兵衛」

 犬山が言った。

 偶然にも、「明星」の主は、犬山の顔見知りだった。

5年前、犬山は、ここから数メートル離れた場所にあった

「有明」という名の料亭で起きた主殺しを担当した。

その時、「有明」の番頭だった与兵衛と知り合った。

 「有明」は、深川では名の知れた料亭だったが、

事件を機に、客足が途絶えて廃業となった。

主の仁左衛門は、板前の藤吉に刺殺されて即死。

 主を刺殺した藤吉は、駆けつけた同心に

その場で取り押えられその日の内に入牢した。

藤吉は遠島に処されたが、刑が実行される前に

牢屋で謎の死を遂げたのだった。

「おゆみから何もかも聞きました。どうぞ、中へお入りくだせえ」

 料亭の主が、2人を中へ引き入れた。

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