第20話 店の名物 じゃこごうこ

文字数 1,544文字

 それから、数週間後の昼時。

庄左衛門夫婦が営む飯屋の前を通りかかると、

めずらしく、席が空くのを待つ大勢の客で長蛇の列ができていた。

犬山は気になって、その列に並んだ。

「お待たせしました。どうぞ。あら、犬山様」

 犬山の順番が来ると、出迎えた女中が、犬山に気づいて声をかけた。

「ずいぶん、盛況のようだが、何がどうしたんだい? 」

 犬山が席に着くと、注文を取りに来た女中に訊ねた。

「三枡さんが、うちの店を

いきつけの店だと宣伝してくださったみたいなんですよ」

 女中が機嫌良く答えた。

「理由はそれだけではないだろ。

客の中には、歌舞伎に縁がなさそうな者らもおるではないか」

 犬山が何気なく、店内を見渡すと言った。

「そうなんですよ。実は、旦那が1年ぶりに、厨で腕を振るうってのを

聞きつけた常連客が戻って来たわけなんです」

 女中がうれしそうに言った。

「旦那とは、庄左衛門のことか? 

先日、あれだけ、派手にやり合ったってのに、

めでたく、元さやにおさまったというわけか」

 犬山が言った。

「違いますよ。おかみさんは急用で外出しています。

店を閉めるわけにはいかないと言うことで、

急遽、旦那が呼び戻されたというわけなんです」

 女中が事情を説明した。

「おい、何、油売ってんだい? 早く、注文取って来い! 」

 店の奥から、庄左衛門の声が聞こえると、

女中が決まり悪そうに訊ねた。

「何にしましょうか? 」

「そうだな。常連客と同じものを頼むぜ」

 犬山は、常連客が舌鼓を打つ店の名物を注文した。

 少しして、運ばれてきたのは、何の変哲もない煮物だった。

「これが、店の名物か? 」

 犬山は思わず、落胆の声をもらした。

「あなどっちゃあいけねぇよ」

 斜め向かいの席から聞き覚えのある声が聞こえた。

「誰かと思えば、おめぇか。何なら、こっちへ来たらどうだ? 」

 犬山が、三枡に気づくと手招きした。

「こいつは、じゃこごうこと言って、水ナスの古漬けと雑魚蝦を

出汁で炊いたもんだ。だまされたと思って食ってみな」

 向かいの席に移って来た三枡がそう言って勧めた。

「じゃこごうこ」のレシピ
1 水ナス漬けを塩出しする
2 鍋の中に、酒・みりんを入れて、煮立ったら、だし汁・しょうゆ・
 千切りにしたショウガを加える
3 2の中に、雑魚蝦を丸ごと、または、頭だけ取り殻をつけたまま入れて煮る
4 3の中に、水気を切った水ナスを加えて、中火で10分~20分煮て冷ます

ご飯のお供に、お茶漬けの具にぴったり!

恐る恐る、箸で食べやすい形にほぐした水ナスを

口に運んだ瞬間、何とも言えないほんわかした気分になった。

「うめぇか? 間抜けた面しやがって」

 三枡がそう言うとクククと笑った。

「漬物と聞いて、もっと、塩辛いかと思ったが、

出汁が効いていて、雑魚蝦と上手い具合に調和している。

それにしても、雑魚蝦を使うとは思い切ったもんだぜ」

 犬山が感心したように言った。

箸が止まらないと言うのは、こういうことを言うのかと思った。

「炊く前に、塩出しされておる。

手間をかけた分、出汁が染みてうまいってわけさ」

「水ナスの料理なんぞ、初めて口にしたぜ」

「無理もねえ。何せ、水ナスの産地は上方だ。

故に、江戸では、調理法は出回ってねぇからよ。

実は、わしが初めてこいつを食ったのは、上方なのよ」

「この料理を教えたのは、おめぇってわけか? 」

 昼飯を食べて、一足先に店を出ようとした三枡が

去り際にふり返ると、犬山に言った。

「雑魚だからとバカにしちゃあいけねぇよ。

雑魚蝦でも、調理法次第で、海老みてぇにうまくなる。

歌舞伎も同じだぜ」

店の外へ出ようとした三枡の背中に、

ちょうど、太陽の光りが差して、まるで、後光が差したように見えた。

三枡と入れ替わりに、庄左衛門が何か言いたそうに、歩み寄って来るのが見えた。
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