あとがき

文字数 3,192文字



 最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。

 あとがきとして、「てるの鏡」を書くにいたったいきさつなどを記しておきます。

 トップページの紹介文にも書いてありますが、この物語の元ネタは福島県鏡石町に鎌倉時代から伝わるという「鏡沼伝説」です。

 去年(二〇二二年)一月のことですが、他の物語を書くために(仮称・花の舞。「牛窪記」という古史書にに材を取った三河牧野家の悲恋物語です。今年中には公開したいと思っています)主要な登場人物である「岩瀬氏」の調査をしていたところ、たまたま開いた鏡石町のホームページに次の文章を見つけました。




    水底に哀しくも美しい愛の伝説が眠る沼

 鎌倉時代の悲話伝説に由来する鏡沼は、別名「かげ沼」とも呼ばれ、現在はその片鱗を残す沼の跡が、田園の中にひっそりと残っています。古い文献によれば、この沼には蜃気楼が起きると言われ、芭蕉も「奥の細道」の中で、「かげ沼という所をいくに、今日は空曇りて物影うつらず」と、期待した「物影」が見られなかった心残りを記しています。


    鏡沼の伝説

 鎌倉時代。都の若武者・和田平太胤長は、時の執権・北条時政(ママ)の悪政を改めんと討伐を企てました。
 しかし、策謀は事前に発覚し、胤長は遠く奥州岩瀬の地へ流されてしまいました。鎌倉に残された胤長の妻・天留は、夫への慕情耐えがたく、夫の跡を追ってひとり奥州へ。
幾日も歩き続け、ようやく鏡石へとたどりついた天留を待っていたのは、夫の非業の死でした。悲嘆に打ちのめされた天留は、もはや生きる望みはないと、沼に身を投げたのです。
 この時、彼女が胸に抱いていた鏡は、今でも水底から哀しげな輝きを放ち続けているといわれています。



 この夫婦に興味が湧き、色々調べてみると、かなり面白い! これはモノになりそうだ。

 で、史料を集め、読解し、「花の舞」は放ったらかしにして、ゴールデンウィーク明けに書き始めました。当初は平太と天留の物語として四万字ほどの短編に仕立てる予定で、二か月程度で書き終わるかな、と思っていたのですが、いやいや、とんでもない話でした……。

 折も折、北条義時が主人公の大河ドラマが放送されていましたが、義時ってこんなに善人? いやいや、そんなわけはあるまい。腹にどす黒くドロドロしたものを蔵している男のはずだ。それに和田一族の男たちも、ちょっと挑発されただけで見境なく蜂起するほどバカで単細胞だったはずはない。などと思い、謀を弄する男のいやらしさや筋を通そうとする男たちの愚直さといった描写も入れたくなり……。終わってみれば予定文量の四倍以上に膨れ上がってしまいました(苦笑。なお大河のあらすじはネットニュース等に出ている記事で把握していましたが、ドラマ自体はほとんど観ていません。スミマセン)。

 オマエの小説、大河ドラマの二番煎じだろう? と言われるのが嫌で、何とかドラマに追い付かれないうちに脱稿したかったのですが。鎌倉時代のことを書くのは私にとってかなりのチャレンジであり、物語が長くなるにつれ、いちいち史資料を確認する作業も増えて、投稿頻度も週一になり、あっという間に追い越され、結局大河ドラマの終了から半年以上遅れてのフィニッシュと相成りました。やれやれ。

 自分的には久しぶりにかなり力をいれて書いたのですが、その割には反響はなく、読んでくれる人も少なかったです……。うーん(毎回欠かさずにお読みになってくださった方、本当にありがとうございました。ともすれば挫けそうになるモチベーションが保てたのは皆様のおかげです)。

 もっとも戦国幕末と違い、そもそも興味を持ってもらえるテーマじゃないからしょうがないか、などと自分自身を慰めておりますが。普通の人には難しそうな箇所や人物の背景、戦国時代に繋がる家系等には註釈なども入れてみたのですが、それはそれで邪魔だったかな、と若干の反省もしている次第です……。



 なお愚作は「吾妻鏡」の記事をベースに、一部「明月記」「愚管抄」「鎌倉北条九代記」等も参考にして書いてみましたが、吾妻鏡は多くの研究者が指摘している通り、かなり問題のある史書なので、一部では筆者個人の見解も文中に記してあります。

 また、泉親衝の乱や和田合戦で、敗者側にいた人物が書いた一次史料はどうやら存在していないようで、ほとんど全ての史料が勝者の側から見た、いわば「大本営発表」であり、断片しか見えてこないので、これらの事件の経緯や詳細は謎ですが、その辺りは少し想像を逞しくして描いてみました(物語が「公式発表」と大きく違う部分は註釈に記してあります)。

 なお、和田義盛の郎党「岩神」「黒山」「佐平」、平太の郎党「三戸四郎太郎」、天留の腰元「槙野」、二階堂家代官の「陸田」、盗賊の「阿武隈の五郎」などは架空の人物であることをお断りいたします。

 その他つまらないこだわりで恐縮ですが、「鎌倉幕府」という言葉は江戸時代末期に出現したようで、鎌倉時代はこの武家政権のことを単に「関東」もしくは「鎌倉」などと言っていたようなので、「鎌倉幕府」という文言は使わず、文中で特に政体を指し示す必要のある時は「鎌倉府」と表現しています。また、政権のトップである「鎌倉殿」は、九条道家の三男藤原頼経が京より招かれて第四代将軍に就任するまでは「頼朝の血筋」が重要で(頼経も頼朝の姪孫(てっそん)で、血縁ではあります)、必ずしも「征夷大将軍」である必要はなかったようなので、「将軍」という名称も使っていません。



 作中で紹介した吾妻鏡ほかの現代語訳については筆者自身の翻訳によるもので、先人の業績を引用したものではありません。よってその責は全て筆者に帰するものであります。



 最後となりましたが、愚作を書くに当たって以下の古文書類や文献、論文等を参考といたしましたことを記しておきます。

 ◎史書・古文書類

「吾妻鏡」 北条本、吉川本(北条本は江戸時代初期に刊行された「伏見版」、吉川本は国書刊行会発行の刊本を使用)
「明月記」 藤原定家
「愚管抄」 慈円
「北条九代記」
「鎌倉北条九代記」浅井了意カ
「海道記」 源光行カ
「将軍記」
「尊卑分脈」三、五、八、十一、十二
「走湯山縁起」
「越佐史料」 高橋義彦

 ◎書籍

「諸家系図纂」巻十一
「續国史大系」第四巻
「千葉県夷隅郡誌」 夷隅郡役場
「千葉縣安房郡誌」 千葉縣安房郡教育會
「鎌倉市史3」 鎌倉市史編纂委員会
「姓氏家系大辞典」 太田亮
「岩瀬案内記」 鈴木克己他編
「かねさは物語」 関靖
「新編鎌倉志」 河井恒久、力石忠一他
「吾妻鏡の人びと : 鎌倉武士の興亡」 岡部周三
「日本の歴史 11 戦国大名」 杉山博
「武具の日本史」 近藤好和

 ◎論文等

「鎌倉の埋蔵文化財」1~26 鎌倉市教育委員会
「『鎌倉北条九代記』の背景 : 『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり」 湯浅佳子
「初期鎌倉幕府と北条氏」 山本みなみ
「中世鎌倉の橋」 高橋慎一朗
「日本中世前期武家社会の政治構造の研究」 申宗大
「得宗被官南条氏の基礎的研究 ― 歴史学的見地からの系図復元の試み―」 梶川貴子
「五十嵐さんの発祥は新潟? 由来を調べると壮大な展開に」 小川聡仁 朝日新聞2021年1月17日

 ◎その他

 ※ウェブサイト
「国土交通省 利根川上流河川事務所」
「同 江戸川下流河川事務所」
「同 荒川上流河川事務所」
「同 荒川下流河川事務所」
「同 渡良瀬川河川事務所」
「九州大学付属図書館」
「慶應義塾大学病院 KOMPAS」
「伊豆山神社ホームページ」
「大本山 清澄寺オフィシャルサイト」
「熱海市公式ウェブサイト」
「千葉県立図書館 菜の花ライブラリー」
「神奈川県立歴史博物館」
「鎌倉市ホームページ」
「加須インターネット資料館」
「御前崎市公式ホームページ」
「下田郷資料館」
「薦野の歴史をつなぐ会」


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