第44話 決起 その4

文字数 2,446文字



「わたくしは、武家の女として当たり前のことを申し上げているだけでござりまする」

「……ならばこうしよう。そなた、来福寺(らいふくじ)を知っておろう」

「はい」

 天留は頷いた。

 来福寺は和田一族の菩提寺で、名越(なごえ)にある。義盛が開基、三浦一族で義盛の従兄弟に当たる佐原(さはら)政連(まさつら)の六男、満昌院(まんしょういん)祐憲(ゆうけん)(俗名佐原六郎政村)が開山となり、建永(けんえい)年間(一二〇六~七年)に創建した。(*註)

 名越は鎌倉市街南部の古い地名で、大町大路と小町大路の交差点「大町四ツ角」より東側、令和現在の街区表示では鎌倉市大町三~七丁目などとなっている。行政や地域住民の無理解による歴史的地名の消滅は全国的に発生しており、非常に残念なことではあるが、名越は名越バス停や名越踏切、名越トンネルといった交通機関の施設や、ごみ処理施設「名越クリーンセンター」、コンビニ「ローソン鎌倉名越店」などにその名を留めている。

 大町大路は宝亀(ほうき)二年(七七一年)まで東海道の一部だった道で、鶴岡八幡宮から由比ガ浜まで南北に延びる若宮大路と並び、鎌倉南部を東西に走るメインストリートである。西は稲村路に繋がっていて、稲村ケ崎を越えて腰越などを通り、その先は東海道に合流して遥かに京の都まで通じている。三郎朝盛が出奔した際に通った道はこれであろう。

 大町大路の東は、名越路から名越坂を経て三浦の地に通じる。この名越坂は非常に急峻な峠道で、「難越」が由来ともされるが、のちに切り通しが掘られて、「名越切通」と呼ばれるようになった。



「名越は鎌倉の内じゃが、合戦場にはなりそうもない」

 義盛はその地にある来福寺に移れ、と言った。

「………」

 天留は不服だった。

 ──結局逃げることに変わりはない。

 と思い、苦い顔をした。

「いやいや、来福寺に移るのは戦火を避けるためではないぞ。──かの寺は由比ガ浜に近い」

 義盛は何気なくそう言ってから、ふと思いついた。

 ──由比ガ浜? そう、由比ガ浜じゃ……。

「由比ガ浜ならうってつけじゃな」

「……?」

「由比ガ浜なら本陣を張るのにちょうどよい、ということじゃ」

「はあ……」

 首を傾げ、なぞなぞの答えが分からずに困っている子供のような表情を浮かべた天留を見て、義盛は微笑した。

「いくさは相州の首を挙げれば終わる。半時でか奴は首になるかもしれぬが、サザエが蓋をするがごとくにいずこかに籠って、なかなか首を渡さぬやも知れぬ」

「………」

「奴がどこに逃げて、どこに籠るかは知れぬが、一日の戦いが終わっても、我らが街中にあるこの屋敷に戻って来て寝ることはなかろう。敵が夜陰に紛れて火矢でも射込んだら大変じゃからな」

 天留は黙って頷いた。

「いくさが一日で終わらなければ、我が軍は由比ガ浜に退いて陣を張ることにする。その時はそなたの出番じゃ」

 義盛は言う。

 来たるべき合戦では夜間に戦闘をすることはないだろう。すると野営のための陣地が必要になるが、少人数づつ分散して各々の屋敷で夜を明かすのは得策ではない。

 かといって数千人の大軍を収容できる広い空間は、建物の建て込んでいる鎌倉には鶴岡八幡宮の境内とそれに隣接する大倉御所の他にはない。しかし鎌倉殿実朝を手中に納めない限り、鶴岡八幡宮と大倉御所を占領して自陣とするのは相当に難しい。

 当初の計画では、三郎朝盛が実朝を説得して自陣営に迎え入れることになっていたが、出奔騒ぎの後は三郎朝盛は御所への出入りが半ば禁じられた状態になっている。また和田一族の一員ではあるが北條家との関係が良好で、敵か味方か判別しかねる態度を取っている高井三郎兵衛尉重茂ですら、御所の中では北條家の者に監視されていて、単独では実朝に近づくことができない。

 そのため、実朝を味方に引きずり込むには、御所に攻め込み、実力で迎えに行くしか手はない。

 だがそれが上手く行かず、実朝を囲い込むことに失敗したら、いくさはすぐには終わらない。終わらなければ、糧食や水の補給が必須になる。負傷者の手当てもしなければならない。義盛はその任を天留に命じた。

「そなたは来福寺の坊主たちと共に(つわもの)どもに与える握り飯などを用意し、由比ガ浜の陣まで持ってまいれ」

「分かりました」

「おお、分かってくれたか」

「……しかし、たしか名越には相模次郎さまのお屋敷があるのでは?」

 義時の嫡男である相模次郎北條朝時の屋敷は名越にある。この建物は元々義時の父親で初代執権だった北條時政の「名越邸」だったが、時政がいわゆる「牧氏事件」によって失脚し、伊豆に隠退した後は、孫の朝時が相続していた。(*註)

「相模次郎は駿河の富士の麓で蟄居中じゃ。相州は彼の者を呼び寄せるべく駿河に飛脚を出したようじゃが、すぐに戻ってはこれまい。今あの屋敷には数人の留守番しかいない」

 朝時が戻ってくると天留が来福寺に入る障害になりかねないが、一両日中に移ってしまえば大丈夫であろう、と義盛は言った。

「我が奥を始め、女子衆やいくさに出ぬ下人もみな、そなたの手伝いをさせるため来福寺に行かせる。すべては久野谷彌次郎に宰領させるが、明日にでも出立できるように荷を纏めてくれぬか」

「かしこまりました」

 天留が頭を下げると義盛も頷き、よろしく頼むぞ──、と声を掛けて立ち上がった。




*註釈

 来福寺 ── 建保五年(一二一七年)、名越から三浦郡和田に移転し、更に江戸時代の寛文十年(一六七〇年)には三浦郡鹿穴(しゃあな)に移転した。和田に移転した理由は不明だが、義盛の挙兵が関係している可能性はある。鹿穴への移転は台風等自然災害の度重なる被害が理由だという。
 宗派は創建当初は天台宗だったが、浄土真宗を経て享保元年(一七一六年)より真宗大谷派となっている。
 現在でも衣冠姿の義盛の木像や、所持品とされるものなどが寺宝として残っている。

 北條朝時 ── 義時の次男だが、正室・姫の前(比企朝宗の娘)所生の嫡出子としては第一子(兄の泰時は出自不明の側室・阿波局の子)。しかし女官誘拐事件を起こし、実朝の不興を買ったのが影響し、のちに廃嫡された。


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