第62話 小糠雨 その5

文字数 3,460文字



 後方から激しい物音がしていることに、中軍の最後尾にいる六郎義信が気付いた。いるはずの後続がいないことにも気が付く。

「兄上、後ろがついてきていません……」

 六郎義信は、すぐ前を行く左兵衛尉常盛に馬を寄せて言った。

「うむ?」

 左兵衛尉常盛は立ち止まり、後ろを振り向いた。

 馬の嘶きや地を踏みしめ、駆ける音。男たちの喚声とも怒号ともつかない声。長柄の武器が打ち合う音。それらが混ざり合い、崖が崩れるような響きになって、下の下馬の方角から聞こえてくる。

「これは……。おい、そのほう。ちょっと見て参れ」

 激しい戦闘が発生していることは一目で分かる。左兵衛尉常盛は状況を把握するため、郎党を一人呼び、通り過ぎたばかりの辻に向かわせた。

 男はすぐに戻ってきた。

「……大変なことになっておりまする。辻には敵が満ち溢れ、我が後備えはその向こうで取り囲まれているようでござりまする」

「なに!」

「兄上!」

 大局的な見地では、周りを包囲されて絶望的な戦いをしている部隊は切り捨てて、全面的な衝突を回避し、損害を最小限に抑えて反攻に備えるのが最上の策であろう。冷徹な戦闘教義に支配される現代の軍隊なら、きっとそうするに違いない。

 しかし、もののふの世界はそうではない。左兵衛尉常盛は即座に断を下した。

「俺は味方を助けに行く。そちは父上の元に走り、このことを告げよ」

 左兵衛尉常盛は六郎義信にそう言うと、馬首を巡らせ、手勢や周りの侍を率いて若宮大路を戻っていく。

「なに──!」

 報告を受けた義盛は怒鳴った。怒鳴りながら反転し、来た道を引き返そうとする。

「父上!」

 六郎義信は手綱の水付(みずつき)のすぐ際を掴み、義盛を押しとどめた。

「何じゃ! 放せ!」

「父上が出て行ってはなりません。危うござります」

「なに! そちは仲間を見殺しにせよ、と言うか!」

「暗がりの中でのいくさでござりますぞ!」

 六郎義信は言った。暗中の戦闘では、いつどこから流れ矢や破損した武器が飛来するかも知れず、闇に紛れて刺客が忍び寄る可能性もある。援軍が到着する前に、総大将が討死を遂げることだけは避けねばならない。

「じゃが、味方を見捨てるわけにはならぬぞ」

「父上!」

「………」

「とにかく、いくさは我らに任せて、父上は後ろで見守っていてくだされ。よろしゅうござりますな」

 六郎義信はきつい口調で釘を刺し、側にいる岩神と黒山には義盛をよく見張っておくように言いつけた。さらに三郎義秀に後陣の危機を知らせるため、連れてきた郎党を前衛まで走らせて、自分は前線に向かった。

 岩神と黒山は義盛を挟み込むように馬を寄せ、あるじが勝手に前進しないよう、左右から義盛の手綱を握っている。その両側を前衛にいた男たちが次々に通り過ぎていく。

 激しい戦闘の音が、ほんの二、三町先から聞こえてくる。

 時折負傷した侍を背に乗せた馬がその従者に曳かれ、大量に流血している徒武者が小者に両脇を抱えられて後送されてくる。また時に、誰それ討死──、という声も伝わってくる。

 じりじりとした気持ちを抑えかねて、義盛は歯軋りをしながら前方を睨み続けている。

 一刻も経とうかという頃、ようやく音は小さくなり、やがて聞こえなくなった。いくさに疲れた馬や兵士が、足を引き摺るようにして戻ってくる。誰も彼もが返り血や自身の出血のために、すえたような生臭い臭いを立てている。

「敵は引き上げました……」

「………」

 義盛は無言で頷き、馬を由比ガ浜に向けた。



 刻はすでに夜半を過ぎている。

 浜では身体に矢を何本も受けた馬が力尽きて横たわっている。傷ついた男たちがうめき声を上げ、そぼ降る雨に濡れている。

 損害は大きい。

 無傷、または軽傷で、戦闘に差し支えない者は五十騎ほどしかいない。その他、傷口をきつく縛るなどの処置を施せば、何とか軍事行動に耐えられそうな者は十数騎、残りは重傷者や重篤者、あるいはすでにこと切れた者、もしくは首を取られていくさ場にその亡骸を放置された者などである。

 多くの男は疲労と空腹で動くことができず、馬から降りて砂の上に坐り込んだり、仰向けに寝転がったりしている。

 小者が数人、主人の馬を曳いていき、由比ガ浜の真ん中を通って海に注ぎ込んでいる滑川のほとりで水を飲ませている。

 その者たちがにわかに騒ぎ出した。

 東の沖合に光の点がいくつか見える。それらはゆっくりとした速度で浜辺に近づいてくる。

 ──何だ、あれは。
 ──舟ではないか。
 ──もしや、敵では?

 動く気力のある侍が何人か、波打ち際まで歩いて行き、漆黒の海に向かって目を凝らした。残り少ない矢を箙から抜き、弦に番え、弓を引き絞る用意をする。

 小舟の群れは篝火を振りながら近づき、舳先から砂浜に乗り上げた。先頭の舟で篝火を振っていた、農夫のような(なり)をした男が、目の前で弓を構えている侍に会釈をしてから砂の上に降りる。

「なんだ、彌次郎ではないか……」

 男の顔を見て、三郎義秀は気の抜けた声を出した。

「どなたでござる?」

 三郎義秀の隣で弓を引いていた土肥先次郎維平が、訝しげな顔をしながら訊いた。

「父上の郎党で、久野谷彌次郎という者でござるよ」

 三郎義秀は先次郎にそう答えてから彌次郎に顔を向け、

「そちもいくさをしたくなったのか?」

「いえ、いえ。我もすでにいくさをしておりまするゆえ。ほら、これをご覧くだされ」

 彌次郎は舟に被せてあった筵を剥いだ。そこには米俵がいくつも載せてある。他の舟には矢の束や、薙刀の穂や太刀などの刀剣も積んである。

「俵? 飯か?」

「さようでござりまする。我が殿や平太さまの奥方の命により、皆の衆に握り飯などをお持ちいたしました」

「それはありがたい。この旨、父上に申し上げてくる。そちは飯を皆に配ってやれ」

「はっ。では……」

 彌次郎は下人どもを差配して俵を船から降ろし、それを開けた。その周りに食料にありつけると知った男たちがぞろぞろと集まってくる。

「父上、久野谷彌次郎が参りました」

 三郎義秀は、砂の上に置かれた盾に坐り、難しい顔で腕組みをしている義盛に声を掛けた。

「彌次郎?」

「はい、握り飯や武具などを持って来たようです」

「ああ、さようか……。しかし随分気が利くな」

「なんでも義母(はは)上さまや天留に指図されたとかと申しておりました」

「そうか、天留か。しかしよく気が付くおなごじゃな。天留にはいくさが始まったら飯を用意して前浜に届けよ、とは申し付けておいたが、今日起つとは言っておらなかったからな」

 義盛は難しい顔を崩して笑みを浮かべた。

 その時、彌次郎が俵を担いだ下人を伴いやって来た。

「殿、夕餉をお持ちしましたぞ。召し上がってくだされ」

「おお、彌次郎か。済まぬな」

 彌次郎は俵を開けて、その中に入っていた竹の皮の包みを差し出した。包みの中身は大ぶりな握り飯二つで、青菜の醤漬けやイワシの干物が添えてある。

「ほう、旨そうじゃな」

 義盛は漬物をつまんで口に入れ、握り飯をかじってゆっくりと咀嚼した。

義盛の郎党も包みを受け取り、中身を頬張った。極度の疲労で食が進まないかと思ったが、塩辛い漬物と干物のお陰で意外にすんなりと胃袋に納まっていく。

 腹が満ちた男たちは気力が回復し、口も軽くなって、そこここで話し声が聞こえるようになる。

「ここに来る途中、敵はいなかったか」

 食事が終えた義盛は、削った盾の小片で前歯をせせりながら彌次郎に訊いた。

「来福寺より西は敵が多くおりましたゆえ、小壺に行って舟を借り、荷を運んで参りました」

「小壺か。難儀であったろう」

「いえいえ、さほどでもござりませぬ。名越の坂にも敵はおりましたが、三浦から鎌倉に入ろうとする者だけを警戒していたようで、出ていく我らには何の構えもありませんでした」

「さようか。……ところで、深手を負った者を連れて行けないだろうか。手当てをしてやらないと死んでしまうやも知れぬ」

「名越の坂を越えるのは無理でしょうから……」

 小壺の住人で久野谷家と親交のある小坂三郎という侍に、そこで治療ができるように頼んでみる、と彌次郎は言った。

「そちは来福寺に帰るのか? 名越の坂は越えられないのだろう?」

「それがし一人なら大丈夫でござりまする。敵は軍勢が入るのを警戒しているだけでござりまするゆえ」

 義盛は頷き、小さく嘆息した。

「皆には苦労を掛けておるが……。天留にはよしなに伝えておいてくれ」

「はっ。かしこまりましてござりまする……」

 彌次郎の一行は、空になった舟に重傷者を乗せ、もと来た方角に去っていった。


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