黒のマリオン
文字数 3,900文字
春風の精のような姿のマリオン。
闇の使者のような黒髪の兄デューカと瓜二つの。
でも、鏡に映る姿は違う。
(そんなはずない)
何かの間違いだ。校門を飛び出したマリオンは、息を切らして石の門に寄りかかった。
汗だくの顔をハンカチで抑えながら、何気なく空を見る。
そして、あえいだ。
空が、破れていた。
破れている。空が。
まるで、オレンジの皮が破けているみたいに。
プレゼントの包み紙を、子供がいたずらで少し破りとったみたいに。
晴天の青空が破れていて、そこから暗黒の色が見えていた。
目を凝らすと、瞬く星々も見える。
(空の向こう側が、夜。でもこれはどういう)
ぐらっと、めまいが起こった。
頭の中身がかき回されるような、痛みに似た感覚。
石の壁にしがみついた。汗が流れ、あごから首にかけて滑ってゆく。ぽたり。大きな汗の滴が落ちる。
(きっと、大きな事件が起きているんだわ)
事件。何かは分からない。けれど、ただごとではないのは確かだ。
めまいが収まると、マリオンは歩き出した。
うちに。うちに帰らないと。
気が付くと、右のすねから血が流れている。ガラスの破片で切ったらしい。
違和感を覚え、右の肩に手をやると、ぬらぬらと赤く濡れた。傷ができている、と自覚した途端に、激しい痛みが生じた。
(デューカ)
早く。早く、うちに。兄はまだ、いるだろうか。
足をひきずりながら歩いた。いつもの通学路を、一歩、一歩、のろのろと進む。
それにしても、人通りが少なすぎる。みんな、どこかに避難したのだろうか。
やっと、大通りに出た。お店やビルが並び、普段は車や自転車、歩行者が行きかうはずの賑やかしい場所が、今は、しいんと静まり返っている。
(ああ、いつもの喫茶店)
よく下校時に、友達と寄り道する喫茶がある。
外観は全くいつもと変わらない。紫色に塗られた外壁と、「営業中」の看板。それに明かりもついている。
思わず、入ってみた。
カランカラン。純喫茶風の音を立てて、扉が開く。
可愛らしい動物のイラストが飾られた店内には、ポップな曲が流れている。いつも通りだ。そこでは、コーヒーの香ばしい香りまで漂っていた。
恐る恐る足を踏み入れる。店内は無人だった。
しかし、客席の灰皿には吸いさしのタバコが煙を上げている。食べかけのチョコレートパフェが乗ったテーブルも見えた。
広げた新聞。
飲みかけの紅茶。
あらゆる物が、ほんの少し前まで、人々がここで飲食していたことを示していた。
「チーン」
音が鳴った。マリオンは飛び上がる。
カウンターの奥で、トーストが焼きあがる音がしたのだ。
(ハニートーストを頼んだ人がいたんだわ)
胸に手を当てながら、マリオンは店の中を見回った。
一番奥の壁に、ロココ調の金縁の丸い鏡がかかっている。
胸がどきどきしてきた。
(学校の鏡は細工してあったんだ。誰が映っても、あの女の子が映るような仕掛けなのよ)
自分自身に言い聞かせながら、そっとその鏡を覗き込む。
黒い瞳に黒い髪、そばかすを散らした丸顔に、ちょっと大きめだがお茶目な感じの口。誰だろうこれは。知らない。こんな子、わたしじゃない。
マリオンが顔をしかめたら、その子も顔をしかめた。
「やめてよ冗談はやめて」
叫んだ。悲鳴のようだった。
マリオンは店からバタバタと飛び出した。そのまま向かいのコンビニに飛び込む。
やはりそこも無人だった。喫茶と同じく、今しがたまで人がいたような様子である。レジの台にはホットドッグが置かれていた。レシートと小銭が転がっている。誰かがほんの数秒前に、買い物をしていたところらしい。
マリオンはもう一度、コンビニの中を見回した。やはり、誰もいなかった。
賑やかな音楽が鳴る中、トイレに飛び込む。
そして鏡を見る。食い入るように見る。
映っているのは、どう見ても金髪碧眼の美少女ではない。
(デューカ、ああ)
うちに帰ろう。うちに帰れば何とかなるかもしれない。
(デューカなら何か知っている。きっとデューカなら)
博学で、情報に鋭い有能な記者の兄ならば、この状況を説明してくれるかもしれない。
よろよろとマリオンは歩く。
うちまでもう少し。
マンションのエントランスは不気味なほどしいんとしている。
マリオンは、寒気がするほど息を切らしていた。
ようやくエレベーターの前まで来た。ボタンを押そうとするが、ぎょっと息を飲み、手を止める。
4F。3F。
それぞれの階を示すボタンがオレンジ色に光って、ゆっくりと移り変わってゆく。
誰かが。
誰かが、1Fに降りてくる。ここに、現われようとしている。
どくん。心臓が不快な音を立てる。思わず胸に手を当て、呼吸を整えながらボタンを見守る。
3F。2F。
ティン。
滑らかに扉が開いた。逃れる隙はなかった。扉の中から腕が伸びてきて、マリオンは乱暴に引きずり込まれた。
「マリオン・ホワイト」
と、その男は言った。
朝に見た、見知らぬ男。気さくそうな顔立ちの、あの男が。
「マリオン・ホワイト、いや」
体がすくんで動けないマリオンの耳元で、男は言った。低い、静かな声で。
「君はマリオンではない。わかっているはずだ」
いやあああああ。
自分の悲鳴が、他人の声のように聞こえる。
叫びながらマリオンは男の体を押し返し、後ろ手でエレベーターのボタンを押した。
早く4Fへ。デューカとわたしのうちまで、早く。
じりじりと男が迫ってくる。その動きに合わせ、マリオンは壁づたいに逃げる。
「魔法は解けたんだ、君は俺たちと同じなんだ」
ティン、とエレベーターが止まり、ゆっくりと扉が開く。
男がわっと飛びかかってきた。マリオンはとっさに動いた。エレベーターから飛び出し、素早く「CLOSE」のボタンを押す。そして1Fのボタンを。
エレベーターは滑らかに下降を始めた。
半狂乱になりながら、マリオンは、自室の扉まで駆けた。
うちに入ると、はっとした。
兄の靴が玄関にあったからだ。
(デューカが帰ってきている)
見慣れた革靴をみた瞬間、安堵と、それ以上に強烈な不安が押し寄せてきた。
痛む足を引きずりながら、パタパタと台所に駆け込むが、兄の姿はない。
「デューカ」
呼びながら、うち中を見回った。
居間。客間。
兄の姿はなかった。
兄の部屋の前で息を整え(わたしは何をしているの、お兄ちゃんの部屋よここは)、とんとん、と丁寧にノックする。
答えがない。
もう一度(何をしているの、いつだって無断で飛び込んでいたはずじゃないの。その度に怒られていたわ、でもいつだって懲りずにわたしは)、とんとん、とノックする。
やはり答えがない。
ノブに手をかけたが、開く勇気がなかった(わたしは一体)。
仕方なく台所に戻ると、バスルームから水音が聞こえた。
(シャワーを浴びているんだわ)
やはり兄はいる。大息をついて、とりあえず自室に行く。
ピンクの布団のベッドに、アイボリーの学習机。そして、猫の柄のカーテンがかかった、昔から愛用しているわたしの部屋。
そっと入ってゆき、ベッドに腰掛ける。
ずきずきする肩と足を気にしていると、ふいにドレッサーが気になった。
(今朝は、いつものわたしが映っていたわ)
立ち上がり、愛用のドレッサーの前に立つ。
レースのカバーを、静かに取った。
(ほら、ほら、ほら)
金髪できゃしゃな、碧眼のマリオンがそこに立っている。
息をきらしたせいで頬を赤くして、心配そうな目をしたマリオンがいる。
(やっぱりそうよ、おかしいのはわたしじゃない。おかしいのは)
ところが、突然、ぐらりと世界が揺れた。
強烈なめまい。今日、何度目のめまいだろう。
立っていられずしゃがみこみ、マリオンはあえいだ。
「デューカ、デューカ」
助けを呼びながらドレッサーに手を置いた。やっとのことで立ち上がる。
「デューカ、助けて、変なの」
そして、鏡に目をやった時、マリオンは息をのんだ。
まるで冷蔵庫から取り出したゼリーを、お皿に移した時のように(ぷるるん)鏡の表面が大きく揺れる。
波が大きく寄せ、波紋が不気味にゆっくりと(ぷるる・・・・・・ん)広がった。不快な波紋が落ち着いた時、そこに映っていたのは黒髪のそばかすの少女だった。
「き」
鏡から飛びのき、足がからまって尻もちを着く。
「きゃああああああっ」
きゃあ、きゃあ、きゃああああ。
叫んでも叫んでも納得できない。叫んでも叫んでも叫んでも叫んでも。
がちゃ。
扉のノブが回る音。落ち着いた音。いつも聞いている音。
その音を聞いて、マリオンは振り向いた。涙でべとべとの顔を拳で拭きながら。
「お兄ちゃ」
扉が開いたのだ。そこには、デューカが立っていた。
やはり、シャワーを浴びていたのだろう。湯上りの髪をタオルでふきながら、Tシャツ姿で、デューカが立っている。いつも通りの姿。いつも通りの瞳。
「お兄ちゃん、デューカ、デューカあっ」
叫びながら兄に向けて手を伸ばす。
水のような冷静な瞳で、兄はマリオンを見ていた。
闇の使者のような黒髪の兄デューカと瓜二つの。
でも、鏡に映る姿は違う。
(そんなはずない)
何かの間違いだ。校門を飛び出したマリオンは、息を切らして石の門に寄りかかった。
汗だくの顔をハンカチで抑えながら、何気なく空を見る。
そして、あえいだ。
空が、破れていた。
破れている。空が。
まるで、オレンジの皮が破けているみたいに。
プレゼントの包み紙を、子供がいたずらで少し破りとったみたいに。
晴天の青空が破れていて、そこから暗黒の色が見えていた。
目を凝らすと、瞬く星々も見える。
(空の向こう側が、夜。でもこれはどういう)
ぐらっと、めまいが起こった。
頭の中身がかき回されるような、痛みに似た感覚。
石の壁にしがみついた。汗が流れ、あごから首にかけて滑ってゆく。ぽたり。大きな汗の滴が落ちる。
(きっと、大きな事件が起きているんだわ)
事件。何かは分からない。けれど、ただごとではないのは確かだ。
めまいが収まると、マリオンは歩き出した。
うちに。うちに帰らないと。
気が付くと、右のすねから血が流れている。ガラスの破片で切ったらしい。
違和感を覚え、右の肩に手をやると、ぬらぬらと赤く濡れた。傷ができている、と自覚した途端に、激しい痛みが生じた。
(デューカ)
早く。早く、うちに。兄はまだ、いるだろうか。
足をひきずりながら歩いた。いつもの通学路を、一歩、一歩、のろのろと進む。
それにしても、人通りが少なすぎる。みんな、どこかに避難したのだろうか。
やっと、大通りに出た。お店やビルが並び、普段は車や自転車、歩行者が行きかうはずの賑やかしい場所が、今は、しいんと静まり返っている。
(ああ、いつもの喫茶店)
よく下校時に、友達と寄り道する喫茶がある。
外観は全くいつもと変わらない。紫色に塗られた外壁と、「営業中」の看板。それに明かりもついている。
思わず、入ってみた。
カランカラン。純喫茶風の音を立てて、扉が開く。
可愛らしい動物のイラストが飾られた店内には、ポップな曲が流れている。いつも通りだ。そこでは、コーヒーの香ばしい香りまで漂っていた。
恐る恐る足を踏み入れる。店内は無人だった。
しかし、客席の灰皿には吸いさしのタバコが煙を上げている。食べかけのチョコレートパフェが乗ったテーブルも見えた。
広げた新聞。
飲みかけの紅茶。
あらゆる物が、ほんの少し前まで、人々がここで飲食していたことを示していた。
「チーン」
音が鳴った。マリオンは飛び上がる。
カウンターの奥で、トーストが焼きあがる音がしたのだ。
(ハニートーストを頼んだ人がいたんだわ)
胸に手を当てながら、マリオンは店の中を見回った。
一番奥の壁に、ロココ調の金縁の丸い鏡がかかっている。
胸がどきどきしてきた。
(学校の鏡は細工してあったんだ。誰が映っても、あの女の子が映るような仕掛けなのよ)
自分自身に言い聞かせながら、そっとその鏡を覗き込む。
黒い瞳に黒い髪、そばかすを散らした丸顔に、ちょっと大きめだがお茶目な感じの口。誰だろうこれは。知らない。こんな子、わたしじゃない。
マリオンが顔をしかめたら、その子も顔をしかめた。
「やめてよ冗談はやめて」
叫んだ。悲鳴のようだった。
マリオンは店からバタバタと飛び出した。そのまま向かいのコンビニに飛び込む。
やはりそこも無人だった。喫茶と同じく、今しがたまで人がいたような様子である。レジの台にはホットドッグが置かれていた。レシートと小銭が転がっている。誰かがほんの数秒前に、買い物をしていたところらしい。
マリオンはもう一度、コンビニの中を見回した。やはり、誰もいなかった。
賑やかな音楽が鳴る中、トイレに飛び込む。
そして鏡を見る。食い入るように見る。
映っているのは、どう見ても金髪碧眼の美少女ではない。
(デューカ、ああ)
うちに帰ろう。うちに帰れば何とかなるかもしれない。
(デューカなら何か知っている。きっとデューカなら)
博学で、情報に鋭い有能な記者の兄ならば、この状況を説明してくれるかもしれない。
よろよろとマリオンは歩く。
うちまでもう少し。
マンションのエントランスは不気味なほどしいんとしている。
マリオンは、寒気がするほど息を切らしていた。
ようやくエレベーターの前まで来た。ボタンを押そうとするが、ぎょっと息を飲み、手を止める。
4F。3F。
それぞれの階を示すボタンがオレンジ色に光って、ゆっくりと移り変わってゆく。
誰かが。
誰かが、1Fに降りてくる。ここに、現われようとしている。
どくん。心臓が不快な音を立てる。思わず胸に手を当て、呼吸を整えながらボタンを見守る。
3F。2F。
ティン。
滑らかに扉が開いた。逃れる隙はなかった。扉の中から腕が伸びてきて、マリオンは乱暴に引きずり込まれた。
「マリオン・ホワイト」
と、その男は言った。
朝に見た、見知らぬ男。気さくそうな顔立ちの、あの男が。
「マリオン・ホワイト、いや」
体がすくんで動けないマリオンの耳元で、男は言った。低い、静かな声で。
「君はマリオンではない。わかっているはずだ」
いやあああああ。
自分の悲鳴が、他人の声のように聞こえる。
叫びながらマリオンは男の体を押し返し、後ろ手でエレベーターのボタンを押した。
早く4Fへ。デューカとわたしのうちまで、早く。
じりじりと男が迫ってくる。その動きに合わせ、マリオンは壁づたいに逃げる。
「魔法は解けたんだ、君は俺たちと同じなんだ」
ティン、とエレベーターが止まり、ゆっくりと扉が開く。
男がわっと飛びかかってきた。マリオンはとっさに動いた。エレベーターから飛び出し、素早く「CLOSE」のボタンを押す。そして1Fのボタンを。
エレベーターは滑らかに下降を始めた。
半狂乱になりながら、マリオンは、自室の扉まで駆けた。
うちに入ると、はっとした。
兄の靴が玄関にあったからだ。
(デューカが帰ってきている)
見慣れた革靴をみた瞬間、安堵と、それ以上に強烈な不安が押し寄せてきた。
痛む足を引きずりながら、パタパタと台所に駆け込むが、兄の姿はない。
「デューカ」
呼びながら、うち中を見回った。
居間。客間。
兄の姿はなかった。
兄の部屋の前で息を整え(わたしは何をしているの、お兄ちゃんの部屋よここは)、とんとん、と丁寧にノックする。
答えがない。
もう一度(何をしているの、いつだって無断で飛び込んでいたはずじゃないの。その度に怒られていたわ、でもいつだって懲りずにわたしは)、とんとん、とノックする。
やはり答えがない。
ノブに手をかけたが、開く勇気がなかった(わたしは一体)。
仕方なく台所に戻ると、バスルームから水音が聞こえた。
(シャワーを浴びているんだわ)
やはり兄はいる。大息をついて、とりあえず自室に行く。
ピンクの布団のベッドに、アイボリーの学習机。そして、猫の柄のカーテンがかかった、昔から愛用しているわたしの部屋。
そっと入ってゆき、ベッドに腰掛ける。
ずきずきする肩と足を気にしていると、ふいにドレッサーが気になった。
(今朝は、いつものわたしが映っていたわ)
立ち上がり、愛用のドレッサーの前に立つ。
レースのカバーを、静かに取った。
(ほら、ほら、ほら)
金髪できゃしゃな、碧眼のマリオンがそこに立っている。
息をきらしたせいで頬を赤くして、心配そうな目をしたマリオンがいる。
(やっぱりそうよ、おかしいのはわたしじゃない。おかしいのは)
ところが、突然、ぐらりと世界が揺れた。
強烈なめまい。今日、何度目のめまいだろう。
立っていられずしゃがみこみ、マリオンはあえいだ。
「デューカ、デューカ」
助けを呼びながらドレッサーに手を置いた。やっとのことで立ち上がる。
「デューカ、助けて、変なの」
そして、鏡に目をやった時、マリオンは息をのんだ。
まるで冷蔵庫から取り出したゼリーを、お皿に移した時のように(ぷるるん)鏡の表面が大きく揺れる。
波が大きく寄せ、波紋が不気味にゆっくりと(ぷるる・・・・・・ん)広がった。不快な波紋が落ち着いた時、そこに映っていたのは黒髪のそばかすの少女だった。
「き」
鏡から飛びのき、足がからまって尻もちを着く。
「きゃああああああっ」
きゃあ、きゃあ、きゃああああ。
叫んでも叫んでも納得できない。叫んでも叫んでも叫んでも叫んでも。
がちゃ。
扉のノブが回る音。落ち着いた音。いつも聞いている音。
その音を聞いて、マリオンは振り向いた。涙でべとべとの顔を拳で拭きながら。
「お兄ちゃ」
扉が開いたのだ。そこには、デューカが立っていた。
やはり、シャワーを浴びていたのだろう。湯上りの髪をタオルでふきながら、Tシャツ姿で、デューカが立っている。いつも通りの姿。いつも通りの瞳。
「お兄ちゃん、デューカ、デューカあっ」
叫びながら兄に向けて手を伸ばす。
水のような冷静な瞳で、兄はマリオンを見ていた。