兄の記憶

文字数 5,572文字

 「デューカ、助けて、変なのっ、おかしいの」

 マリオンはじゅうたんの上にお尻を着いたまま、立ち上がることができなかった。震える体を引きずり、デューカの足元まで這った。

 タオルを使いながら、兄は無言で妹の混乱を眺めている。デューカが物静かなのはいつものことだ。そうだ、兄は普段通りだ。マリオンは泣きじゃくりながら、デューカの足に縋りついていた。

 静寂の中の違和感。
 錯乱の中で、それは冷たい水の一粒が脳天に当たったかのような不安を生んだ。

 (いつも通り・・・・・・)
 (そのはず・・・・・・)
 (いいえ・・・・・・)
 
 どうして。なぜ、黙っているの。デューカ!

 心臓が重苦しく打っている。恐る恐る、マリオンは見上げる。
 冷たい、黒い、怜悧な相貌。兄の目。

 デューカは、涙に汚れたマリオンの顔をつくづくと眺めた。やがて、ぽつりと言った。
 「あと、一日だったのに」

 え、と、マリオンは聞き返した。

 マリオンの目を覗き込むと、もう一度、デューカは言った。
 「あと一日だったんだ。それで君はマリオンになれたのに」

 (何を)
 「でも、アクシデントが起きた」
 (言ってるの、お兄ちゃん)

 ゆったりとした動き方で屈むと、兄はマリオンのあごに指をかけ、くいっと上向けた。思慮深い闇色の瞳。形の良い鼻筋。見慣れているはずの、兄の顔。その顔が、淡々とマリオンを眺めている。
 兄は、前髪の隙間からマリオンの表情を探った。そして、感情をこめない微笑を浮かべた。
 「台無しだ」

 とんっ。ごく軽い力で肩を押され、マリオンはくたくたと後ろに倒れた。花模様のじゅうたんの上に頬を置きながら、大きく目を見開いて立ち上がる兄を見上げる。

 兄の目は。
 「記憶をね、入れ替える実験だったんだよ」
 ものを見る目だった。
 「それで君の脳にマリオンの記憶を焼きこんだんだ。もう少しのところまできていたのに、それなのに」

 お兄ちゃんっ、とマリオンは絶叫する。

 新種の虫でも見るような表情で、兄は身をよじるマリオンを眺めていた。
 「だけどね、君の中には、既にマリオンの一部が入り込んでいるんだ。さて」
 ぶつぶつと呟きながら、デューカは視線をさまよわせる。思慮深い瞳には、やはり何の感情も見えないのだった。

 「君を、どうしたものか」
 腕を組み、首を傾げながら、デューカは部屋を出た。まるで、そこにいるマリオンの不安や戸惑いなど、自分には興味がないことであるかのように。

 ぱたり。扉が閉まる。ガチャリ。鈍い音を立てる。
 その音が、混乱に沈むマリオンを叱咤した。

 マリオンはドアノブにしがみついた。そして、へたへたと崩れた。
 外からカギがかけられている。扉は開かなかった。

 (悪夢だわ、これはきっと、夢なんだわ)

 振り向くと、ドレッサーが、黒髪でそばかすの、平凡な容姿の女の子を映していた。

 (悪夢よ。現実のはずがない。ああ、お願いだから、早く醒めて)
 じゅうたんに座り込んだマリオンは、ドレッサーに移る顔から眼を逸らした。
 
 夢だ。夢なのだ、これは。
 マリオンは顔を覆い、目を閉じる。醒めろ、醒めろと念じながら。

**

 ホワイト家の両親は忙しく、兄妹が幼いころから留守がちだった。
 マリオンは、年の離れた兄のデューカに守られて育った。

 漆黒の髪と瞳を持つ兄は、少年時代からもてていた。よく、ガールフレンドたちが家に遊びにきたものだが、兄は必ずマリオンも同席させた。
 お人形のようなマリオンは、ちょこんと兄の隣に座っているだけだったが、その愛らしさは、たいていの女の子の出鼻をくじいた。アクアマリンの瞳であどけなく見つめ、首をちょっとかしげて「お兄ちゃん、この人だあれ」と聞く。するとデューカは必ずこう言った。
 「クラスメイトの子だよ。お友達だ。そうだね、ねえ」
 ただの、クラスメイトの子。そして、大事な美しい妹。

 「僕にはマリオンだけなんだ。マリオンがいれば、それでいいんだ」

 「勝ち目なんかないわ」

 ある日、うちにきた女の子の一人が、付き添ってついてきたもう一人の子に泣きじゃくりながら言った。手洗い場の中で、ひそひそと。

 マリオンはちょうど、おしっこがしたくてトイレまで来ていた。けれど、個室の前でお姉ちゃん二人が立ち話をしている。入ることができず、仕方なく、立ち止まった。
 (早く、出て行ってくれないかな、お姉ちゃんたち)

 「デューカは妹にぞっこんよ、マリオンしか見ていないのよ。なによ、妹なんか」

 しいっ、と、泣いていない方のお姉ちゃんが口に指をあてる。
 敵意に満ちた視線が幼い女の子に向けられた。

 「なにも分からない子供よ」
 泣いていた方のお姉ちゃんが、胸元をつかんでマリオンの顔を覗き込んだ。怖い顔で、ぎゅうっとにらみつけてくる。

 吊り上がった目と、赤く塗った口紅、そこからのぞく汚れた前歯。
 マリオンは怖くなった。うわん止めてと泣き出した。すると、デューカが飛び込んできて、ガールフレンドの手をつかんでマリオンから離した。マリオンはすかさず兄の腰に抱き着き、後ろに回って隠れた。

 「帰ってくれない、悪いけど」
 丁寧に、しかし毅然と兄は言った。
 「気持ちは嬉しいけれど、僕にはマリオンが一番なんだよ、同じようにマリオンを大切にしてくれる子じゃないと、恋人とは思えないんだ」

 (ああ、お兄ちゃん、大好きよ)
 (マリオンの王子様は、デューカだけだね)

**

 細い手足と透き通るような肌を持つマリオン。町を歩けば誰もが振り向く素敵な子。

 やがてマリオンは、男の子たちに興味を持たれるようになった。
 マリオンは常に学年の高嶺の花、誰も触れることができない存在だった。マリオンは、どんな男の子が声をかけて来ても、全く靡かなかった。

 「デューカ、ねえ、次の休みだけど」
 「デューカ、お兄ちゃん、宿題教えて」
 「デューカ、ねえ、デューカったら」

 呼べばいつも優しい笑顔で振り向く兄。
 マリオンより、ずっと背丈が高い。だから、腕を組んだ時は、まるでぶら下がっているみたい。

 学業で忙しくても、仕事を始めても、デューカはマリオンのもの。
 マリオンだけのもの。

**

 混乱の中で、気を失っていたらしい。
 マリオンは、じゅうたんの上に倒れていた。目を開くと部屋は西日で染まっている。

 夢を見ていたのか。昔の夢を。
 頭がズキズキする。顔をしかめつつ、身を起こした。

 振り向くと、やはりドレッサーに映るのは地味な風貌の黒髪そばかすの女の子だった。
 マリオンは――いまやマリオンとは呼べないが、仮にそう呼ぶとして――大きく息を吐き、目を閉じた。
 眠ったせいか、少し気持ちが落ち着いている。

 (デューカ、確かに一緒に育った)
 (抱きしめてくれた腕とか、添い寝の腕枕とか、おやすみのキスとか)
 (ちょっと深入りしそうになったガールフレンドを連れてきて、結局わたしを優先したあの日とか)

 鮮やかに思い出すことができる。
 何月何日の朝食が、失敗してくずれた目玉焼きだったとか。
 その時のベーコンがよい匂いを立てていて、コーヒーも新しいのを開けて美味しかったとか。
 そしてデューカの細い指先の中指の爪が少し欠けていたこととか。

 (変だわ)

 ゆっくりと息を止めながら、マリオンは記憶の海を探る。

 寄せては返す、記憶の波。
 星の光を受けて宝石のように輝く、兄との思い出の数々。
 ひとつの傷もない、美しくて完璧な。

 もう一度、マリオンは目を閉じ、押し寄せてくる記憶の渦に向かう。
 (ああ、そうか)

 まるで、データをフォルダから取り出すように。
 細部まで正確に、精巧に注意深く作られた(作られ・・・・・・た、一体それはどういうことだろう)それらの記憶はまるで。

 (まるで、物語のよう)

 「おかしいわ。こんなの普通じゃない」

 上半身を起こし、薄暗くなった部屋を見回す。
 アラベスク模様が彫刻されたベッド、枕元におかれたいくつかのぬいぐるみ、壁に貼られた映画のポスター、勉強机に飾られた家族の写真。

 そっと立ち上がると、その写真を手に取ってみる。
 美しい兄と妹が、肩を寄せ合って笑っている。

 (この写真は、今から2年前、避暑地に旅行にいった時に、現地の店の人に頼んで撮ってもらったものよ)
 マリオンは、また記憶のフォルダを一つ探し当てる。
 カタカタと頭の中で機械音がするような錯覚に陥った。

 (そして午後1時2分、その店に入り、簡単な食事をしたのよ。パンケーキとアップルジュースの食事で、運ばれてきたのは1時21分32秒。まあまあ早かった。味は美味しかったから、デューカと、いいねって言い合ったのよ)

 ウェイトレスが水のおかわりを持ってきてくれて、その人がとても感じの良い中年女性だったから、思い切って写真をお願いしたのよ。快諾してくれたわ。そして、デューカがチップを渡したっけ。

 カタカタ、カタ。

 午後1時46分、店の前の木をバックに、わたしたちは並んで立ち、ウェイトレスがカメラのシャッターを切る。

 ぱちり。

 できすぎている。
 記憶が、あまりにも精巧すぎる。

 ことん、と写真を机に戻すと、マリオンはベッドに腰掛けた。
 目の前のドレッサーに映る己の姿をまじまじと見つめる。

 (写真のマリオンとは別人)
 じゃあ、わたしは一体。
 「わたしは、誰」

**

 ふいに、頭の中がえぐられるように痛んだ。
 (ウッ)

 それは、脳の神経の中に針金をつっこまれて、無造作にかきまぜられるような痛みだった。マリオンは両手で頭を抱え、思わずベッドにつっぷした。

 強い波のようにうねる痛みと戦っているうちに、ある、全く見知らぬ風景が脳裏に浮かび、マリオンはぎょっとした。
 
 (なに、これは。一体、何の記憶だろう)

 焦げた建物の残骸が目の前に広がっている。汚れた顔と手足。冷たい地面に座り込む。ああ、雨が降り始めた。だけど、わたしはどこにも行くところがない。
 冷たい冷たい痛い痛い、どこか傷ついている、悲しい、とても悲しい。

 『助けてあげようか』

 静かな声が聞こえて振り返るとそこには、背の高い痩身の人が立っている。傘もささずに肩を濡らしながら。

 『僕と一緒に来るといい。いくところがないんだろう』

 その人の顔を、まざまざと思い出して、マリオンは息を止めた。

 憂うような漆黒の瞳と濡れた黒髪、人形のように冷たいほど整った顔立ちと、穏やかで優しい声。
 それは、デューカだった。

**

 いつの間にか頭の痛みは治まっている。まるで、この奇怪な記憶が(記憶・・・・・・なのかしら、これはわたしの記憶なの)蘇ったことで、悲鳴を上げていた脳が、落ち着いてくれたかのようだった。
 
 今しがた浮かんだ風景。一体、これはなんだったのか。
 夢と言うにはあまりにも生々しい。

 硝煙臭さや理不尽さ、明日を生きることなど想像できないほどの深い悲しみと苦しみ。これは、偽物ではなかった。これは、確かに本物だ。

 (これは、いつか体験した、本当にあった出来事)
 細く細く、呼吸を続けながらマリオンはこぶしを握る。指の関節が白く浮き上がるほど強く。

 (じゃあ、ここは。このマンションは、この部屋は、お兄ちゃんの思い出は)

 親指を立て、ぎゅっと爪を噛みしめたその時だった。

 とん、とん、ととん。
 窓ガラスが叩かれている。

 ここは四階だ。人が立って窓を叩けるような場所ではない。
 ぎょっとして窓を見ると、レースのカーテンの奥に、人の顔がぼんやり映っていた。

 マリオンがきゃっと叫ぶのと、鋭い音を立てて窓ガラスが破られたのはほぼ同時だった。
 ガラスの破片が飛び、マリオンは腕で顔をかばった。
 その腕をぐっとつかむ者がいる。見上げると、あのエレベーターの男だった。

 「手間どらすなよ、お嬢さん」

 ラフなセーターの上に皮のジャンパーを着て、手は黒い皮手袋で守られている。腰にはワイヤーがついており、窓ガラスの外に続いている。
 ふあっと、風が部屋に入り込む。カーテンが派手に巻き上がった。

 「来るんだよ、ここから逃げるんだ。あんた、殺される」
 マリオンは男に引きずられて立ち上がった。

 (誰、この人は誰なの、知っている人なの)

 「疑うような目で見るな。あんたが今何を考えても無駄なのは自分でもわかるだろ」
 ぶっきらぼうに男は言い、ちょっと気の毒そうにマリオンを眺める。
 「まあ、気の毒な状態であることは、認めるがな。今は何も言わずに逃げるんだ」

 「あなたは誰、そしてどうしてこんな」
 マリオンの問いに男が答えるより早く、部屋の扉が開いた。
 冷たい光を帯びた目のデューカが飛び込んでくる。マリオンは腕をつかまれたまま振り向き、兄が銃口をこちらに向けているのを見た。

 「おにい、ちゃ」

 銃声が耳をつんざく。
 嘘。嘘だ。デューカが銃を使った。撃ったのだ。

 身体が羽が生えたように軽やかに宙を舞い、空に飛び立った。わたしは天使。このまま何もかも消して、空に帰りたい。

 そう思った。
 マリオンは目を閉じた。つうっと涙が一筋滑り落ちる。
 そのまま意識を失った。

 (デューカ、お兄ちゃん、助けて)
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