兄の記憶
文字数 5,572文字
「デューカ、助けて、変なのっ、おかしいの」
マリオンはじゅうたんの上にお尻を着いたまま、立ち上がることができなかった。震える体を引きずり、デューカの足元まで這った。
タオルを使いながら、兄は無言で妹の混乱を眺めている。デューカが物静かなのはいつものことだ。そうだ、兄は普段通りだ。マリオンは泣きじゃくりながら、デューカの足に縋りついていた。
静寂の中の違和感。
錯乱の中で、それは冷たい水の一粒が脳天に当たったかのような不安を生んだ。
(いつも通り・・・・・・)
(そのはず・・・・・・)
(いいえ・・・・・・)
どうして。なぜ、黙っているの。デューカ!
心臓が重苦しく打っている。恐る恐る、マリオンは見上げる。
冷たい、黒い、怜悧な相貌。兄の目。
デューカは、涙に汚れたマリオンの顔をつくづくと眺めた。やがて、ぽつりと言った。
「あと、一日だったのに」
え、と、マリオンは聞き返した。
マリオンの目を覗き込むと、もう一度、デューカは言った。
「あと一日だったんだ。それで君はマリオンになれたのに」
(何を)
「でも、アクシデントが起きた」
(言ってるの、お兄ちゃん)
ゆったりとした動き方で屈むと、兄はマリオンのあごに指をかけ、くいっと上向けた。思慮深い闇色の瞳。形の良い鼻筋。見慣れているはずの、兄の顔。その顔が、淡々とマリオンを眺めている。
兄は、前髪の隙間からマリオンの表情を探った。そして、感情をこめない微笑を浮かべた。
「台無しだ」
とんっ。ごく軽い力で肩を押され、マリオンはくたくたと後ろに倒れた。花模様のじゅうたんの上に頬を置きながら、大きく目を見開いて立ち上がる兄を見上げる。
兄の目は。
「記憶をね、入れ替える実験だったんだよ」
ものを見る目だった。
「それで君の脳にマリオンの記憶を焼きこんだんだ。もう少しのところまできていたのに、それなのに」
お兄ちゃんっ、とマリオンは絶叫する。
新種の虫でも見るような表情で、兄は身をよじるマリオンを眺めていた。
「だけどね、君の中には、既にマリオンの一部が入り込んでいるんだ。さて」
ぶつぶつと呟きながら、デューカは視線をさまよわせる。思慮深い瞳には、やはり何の感情も見えないのだった。
「君を、どうしたものか」
腕を組み、首を傾げながら、デューカは部屋を出た。まるで、そこにいるマリオンの不安や戸惑いなど、自分には興味がないことであるかのように。
ぱたり。扉が閉まる。ガチャリ。鈍い音を立てる。
その音が、混乱に沈むマリオンを叱咤した。
マリオンはドアノブにしがみついた。そして、へたへたと崩れた。
外からカギがかけられている。扉は開かなかった。
(悪夢だわ、これはきっと、夢なんだわ)
振り向くと、ドレッサーが、黒髪でそばかすの、平凡な容姿の女の子を映していた。
(悪夢よ。現実のはずがない。ああ、お願いだから、早く醒めて)
じゅうたんに座り込んだマリオンは、ドレッサーに移る顔から眼を逸らした。
夢だ。夢なのだ、これは。
マリオンは顔を覆い、目を閉じる。醒めろ、醒めろと念じながら。
**
ホワイト家の両親は忙しく、兄妹が幼いころから留守がちだった。
マリオンは、年の離れた兄のデューカに守られて育った。
漆黒の髪と瞳を持つ兄は、少年時代からもてていた。よく、ガールフレンドたちが家に遊びにきたものだが、兄は必ずマリオンも同席させた。
お人形のようなマリオンは、ちょこんと兄の隣に座っているだけだったが、その愛らしさは、たいていの女の子の出鼻をくじいた。アクアマリンの瞳であどけなく見つめ、首をちょっとかしげて「お兄ちゃん、この人だあれ」と聞く。するとデューカは必ずこう言った。
「クラスメイトの子だよ。お友達だ。そうだね、ねえ」
ただの、クラスメイトの子。そして、大事な美しい妹。
「僕にはマリオンだけなんだ。マリオンがいれば、それでいいんだ」
「勝ち目なんかないわ」
ある日、うちにきた女の子の一人が、付き添ってついてきたもう一人の子に泣きじゃくりながら言った。手洗い場の中で、ひそひそと。
マリオンはちょうど、おしっこがしたくてトイレまで来ていた。けれど、個室の前でお姉ちゃん二人が立ち話をしている。入ることができず、仕方なく、立ち止まった。
(早く、出て行ってくれないかな、お姉ちゃんたち)
「デューカは妹にぞっこんよ、マリオンしか見ていないのよ。なによ、妹なんか」
しいっ、と、泣いていない方のお姉ちゃんが口に指をあてる。
敵意に満ちた視線が幼い女の子に向けられた。
「なにも分からない子供よ」
泣いていた方のお姉ちゃんが、胸元をつかんでマリオンの顔を覗き込んだ。怖い顔で、ぎゅうっとにらみつけてくる。
吊り上がった目と、赤く塗った口紅、そこからのぞく汚れた前歯。
マリオンは怖くなった。うわん止めてと泣き出した。すると、デューカが飛び込んできて、ガールフレンドの手をつかんでマリオンから離した。マリオンはすかさず兄の腰に抱き着き、後ろに回って隠れた。
「帰ってくれない、悪いけど」
丁寧に、しかし毅然と兄は言った。
「気持ちは嬉しいけれど、僕にはマリオンが一番なんだよ、同じようにマリオンを大切にしてくれる子じゃないと、恋人とは思えないんだ」
(ああ、お兄ちゃん、大好きよ)
(マリオンの王子様は、デューカだけだね)
**
細い手足と透き通るような肌を持つマリオン。町を歩けば誰もが振り向く素敵な子。
やがてマリオンは、男の子たちに興味を持たれるようになった。
マリオンは常に学年の高嶺の花、誰も触れることができない存在だった。マリオンは、どんな男の子が声をかけて来ても、全く靡かなかった。
「デューカ、ねえ、次の休みだけど」
「デューカ、お兄ちゃん、宿題教えて」
「デューカ、ねえ、デューカったら」
呼べばいつも優しい笑顔で振り向く兄。
マリオンより、ずっと背丈が高い。だから、腕を組んだ時は、まるでぶら下がっているみたい。
学業で忙しくても、仕事を始めても、デューカはマリオンのもの。
マリオンだけのもの。
**
混乱の中で、気を失っていたらしい。
マリオンは、じゅうたんの上に倒れていた。目を開くと部屋は西日で染まっている。
夢を見ていたのか。昔の夢を。
頭がズキズキする。顔をしかめつつ、身を起こした。
振り向くと、やはりドレッサーに映るのは地味な風貌の黒髪そばかすの女の子だった。
マリオンは――いまやマリオンとは呼べないが、仮にそう呼ぶとして――大きく息を吐き、目を閉じた。
眠ったせいか、少し気持ちが落ち着いている。
(デューカ、確かに一緒に育った)
(抱きしめてくれた腕とか、添い寝の腕枕とか、おやすみのキスとか)
(ちょっと深入りしそうになったガールフレンドを連れてきて、結局わたしを優先したあの日とか)
鮮やかに思い出すことができる。
何月何日の朝食が、失敗してくずれた目玉焼きだったとか。
その時のベーコンがよい匂いを立てていて、コーヒーも新しいのを開けて美味しかったとか。
そしてデューカの細い指先の中指の爪が少し欠けていたこととか。
(変だわ)
ゆっくりと息を止めながら、マリオンは記憶の海を探る。
寄せては返す、記憶の波。
星の光を受けて宝石のように輝く、兄との思い出の数々。
ひとつの傷もない、美しくて完璧な。
もう一度、マリオンは目を閉じ、押し寄せてくる記憶の渦に向かう。
(ああ、そうか)
まるで、データをフォルダから取り出すように。
細部まで正確に、精巧に注意深く作られた(作られ・・・・・・た、一体それはどういうことだろう)それらの記憶はまるで。
(まるで、物語のよう)
「おかしいわ。こんなの普通じゃない」
上半身を起こし、薄暗くなった部屋を見回す。
アラベスク模様が彫刻されたベッド、枕元におかれたいくつかのぬいぐるみ、壁に貼られた映画のポスター、勉強机に飾られた家族の写真。
そっと立ち上がると、その写真を手に取ってみる。
美しい兄と妹が、肩を寄せ合って笑っている。
(この写真は、今から2年前、避暑地に旅行にいった時に、現地の店の人に頼んで撮ってもらったものよ)
マリオンは、また記憶のフォルダを一つ探し当てる。
カタカタと頭の中で機械音がするような錯覚に陥った。
(そして午後1時2分、その店に入り、簡単な食事をしたのよ。パンケーキとアップルジュースの食事で、運ばれてきたのは1時21分32秒。まあまあ早かった。味は美味しかったから、デューカと、いいねって言い合ったのよ)
ウェイトレスが水のおかわりを持ってきてくれて、その人がとても感じの良い中年女性だったから、思い切って写真をお願いしたのよ。快諾してくれたわ。そして、デューカがチップを渡したっけ。
カタカタ、カタ。
午後1時46分、店の前の木をバックに、わたしたちは並んで立ち、ウェイトレスがカメラのシャッターを切る。
ぱちり。
できすぎている。
記憶が、あまりにも精巧すぎる。
ことん、と写真を机に戻すと、マリオンはベッドに腰掛けた。
目の前のドレッサーに映る己の姿をまじまじと見つめる。
(写真のマリオンとは別人)
じゃあ、わたしは一体。
「わたしは、誰」
**
ふいに、頭の中がえぐられるように痛んだ。
(ウッ)
それは、脳の神経の中に針金をつっこまれて、無造作にかきまぜられるような痛みだった。マリオンは両手で頭を抱え、思わずベッドにつっぷした。
強い波のようにうねる痛みと戦っているうちに、ある、全く見知らぬ風景が脳裏に浮かび、マリオンはぎょっとした。
(なに、これは。一体、何の記憶だろう)
焦げた建物の残骸が目の前に広がっている。汚れた顔と手足。冷たい地面に座り込む。ああ、雨が降り始めた。だけど、わたしはどこにも行くところがない。
冷たい冷たい痛い痛い、どこか傷ついている、悲しい、とても悲しい。
『助けてあげようか』
静かな声が聞こえて振り返るとそこには、背の高い痩身の人が立っている。傘もささずに肩を濡らしながら。
『僕と一緒に来るといい。いくところがないんだろう』
その人の顔を、まざまざと思い出して、マリオンは息を止めた。
憂うような漆黒の瞳と濡れた黒髪、人形のように冷たいほど整った顔立ちと、穏やかで優しい声。
それは、デューカだった。
**
いつの間にか頭の痛みは治まっている。まるで、この奇怪な記憶が(記憶・・・・・・なのかしら、これはわたしの記憶なの)蘇ったことで、悲鳴を上げていた脳が、落ち着いてくれたかのようだった。
今しがた浮かんだ風景。一体、これはなんだったのか。
夢と言うにはあまりにも生々しい。
硝煙臭さや理不尽さ、明日を生きることなど想像できないほどの深い悲しみと苦しみ。これは、偽物ではなかった。これは、確かに本物だ。
(これは、いつか体験した、本当にあった出来事)
細く細く、呼吸を続けながらマリオンはこぶしを握る。指の関節が白く浮き上がるほど強く。
(じゃあ、ここは。このマンションは、この部屋は、お兄ちゃんの思い出は)
親指を立て、ぎゅっと爪を噛みしめたその時だった。
とん、とん、ととん。
窓ガラスが叩かれている。
ここは四階だ。人が立って窓を叩けるような場所ではない。
ぎょっとして窓を見ると、レースのカーテンの奥に、人の顔がぼんやり映っていた。
マリオンがきゃっと叫ぶのと、鋭い音を立てて窓ガラスが破られたのはほぼ同時だった。
ガラスの破片が飛び、マリオンは腕で顔をかばった。
その腕をぐっとつかむ者がいる。見上げると、あのエレベーターの男だった。
「手間どらすなよ、お嬢さん」
ラフなセーターの上に皮のジャンパーを着て、手は黒い皮手袋で守られている。腰にはワイヤーがついており、窓ガラスの外に続いている。
ふあっと、風が部屋に入り込む。カーテンが派手に巻き上がった。
「来るんだよ、ここから逃げるんだ。あんた、殺される」
マリオンは男に引きずられて立ち上がった。
(誰、この人は誰なの、知っている人なの)
「疑うような目で見るな。あんたが今何を考えても無駄なのは自分でもわかるだろ」
ぶっきらぼうに男は言い、ちょっと気の毒そうにマリオンを眺める。
「まあ、気の毒な状態であることは、認めるがな。今は何も言わずに逃げるんだ」
「あなたは誰、そしてどうしてこんな」
マリオンの問いに男が答えるより早く、部屋の扉が開いた。
冷たい光を帯びた目のデューカが飛び込んでくる。マリオンは腕をつかまれたまま振り向き、兄が銃口をこちらに向けているのを見た。
「おにい、ちゃ」
銃声が耳をつんざく。
嘘。嘘だ。デューカが銃を使った。撃ったのだ。
身体が羽が生えたように軽やかに宙を舞い、空に飛び立った。わたしは天使。このまま何もかも消して、空に帰りたい。
そう思った。
マリオンは目を閉じた。つうっと涙が一筋滑り落ちる。
そのまま意識を失った。
(デューカ、お兄ちゃん、助けて)
マリオンはじゅうたんの上にお尻を着いたまま、立ち上がることができなかった。震える体を引きずり、デューカの足元まで這った。
タオルを使いながら、兄は無言で妹の混乱を眺めている。デューカが物静かなのはいつものことだ。そうだ、兄は普段通りだ。マリオンは泣きじゃくりながら、デューカの足に縋りついていた。
静寂の中の違和感。
錯乱の中で、それは冷たい水の一粒が脳天に当たったかのような不安を生んだ。
(いつも通り・・・・・・)
(そのはず・・・・・・)
(いいえ・・・・・・)
どうして。なぜ、黙っているの。デューカ!
心臓が重苦しく打っている。恐る恐る、マリオンは見上げる。
冷たい、黒い、怜悧な相貌。兄の目。
デューカは、涙に汚れたマリオンの顔をつくづくと眺めた。やがて、ぽつりと言った。
「あと、一日だったのに」
え、と、マリオンは聞き返した。
マリオンの目を覗き込むと、もう一度、デューカは言った。
「あと一日だったんだ。それで君はマリオンになれたのに」
(何を)
「でも、アクシデントが起きた」
(言ってるの、お兄ちゃん)
ゆったりとした動き方で屈むと、兄はマリオンのあごに指をかけ、くいっと上向けた。思慮深い闇色の瞳。形の良い鼻筋。見慣れているはずの、兄の顔。その顔が、淡々とマリオンを眺めている。
兄は、前髪の隙間からマリオンの表情を探った。そして、感情をこめない微笑を浮かべた。
「台無しだ」
とんっ。ごく軽い力で肩を押され、マリオンはくたくたと後ろに倒れた。花模様のじゅうたんの上に頬を置きながら、大きく目を見開いて立ち上がる兄を見上げる。
兄の目は。
「記憶をね、入れ替える実験だったんだよ」
ものを見る目だった。
「それで君の脳にマリオンの記憶を焼きこんだんだ。もう少しのところまできていたのに、それなのに」
お兄ちゃんっ、とマリオンは絶叫する。
新種の虫でも見るような表情で、兄は身をよじるマリオンを眺めていた。
「だけどね、君の中には、既にマリオンの一部が入り込んでいるんだ。さて」
ぶつぶつと呟きながら、デューカは視線をさまよわせる。思慮深い瞳には、やはり何の感情も見えないのだった。
「君を、どうしたものか」
腕を組み、首を傾げながら、デューカは部屋を出た。まるで、そこにいるマリオンの不安や戸惑いなど、自分には興味がないことであるかのように。
ぱたり。扉が閉まる。ガチャリ。鈍い音を立てる。
その音が、混乱に沈むマリオンを叱咤した。
マリオンはドアノブにしがみついた。そして、へたへたと崩れた。
外からカギがかけられている。扉は開かなかった。
(悪夢だわ、これはきっと、夢なんだわ)
振り向くと、ドレッサーが、黒髪でそばかすの、平凡な容姿の女の子を映していた。
(悪夢よ。現実のはずがない。ああ、お願いだから、早く醒めて)
じゅうたんに座り込んだマリオンは、ドレッサーに移る顔から眼を逸らした。
夢だ。夢なのだ、これは。
マリオンは顔を覆い、目を閉じる。醒めろ、醒めろと念じながら。
**
ホワイト家の両親は忙しく、兄妹が幼いころから留守がちだった。
マリオンは、年の離れた兄のデューカに守られて育った。
漆黒の髪と瞳を持つ兄は、少年時代からもてていた。よく、ガールフレンドたちが家に遊びにきたものだが、兄は必ずマリオンも同席させた。
お人形のようなマリオンは、ちょこんと兄の隣に座っているだけだったが、その愛らしさは、たいていの女の子の出鼻をくじいた。アクアマリンの瞳であどけなく見つめ、首をちょっとかしげて「お兄ちゃん、この人だあれ」と聞く。するとデューカは必ずこう言った。
「クラスメイトの子だよ。お友達だ。そうだね、ねえ」
ただの、クラスメイトの子。そして、大事な美しい妹。
「僕にはマリオンだけなんだ。マリオンがいれば、それでいいんだ」
「勝ち目なんかないわ」
ある日、うちにきた女の子の一人が、付き添ってついてきたもう一人の子に泣きじゃくりながら言った。手洗い場の中で、ひそひそと。
マリオンはちょうど、おしっこがしたくてトイレまで来ていた。けれど、個室の前でお姉ちゃん二人が立ち話をしている。入ることができず、仕方なく、立ち止まった。
(早く、出て行ってくれないかな、お姉ちゃんたち)
「デューカは妹にぞっこんよ、マリオンしか見ていないのよ。なによ、妹なんか」
しいっ、と、泣いていない方のお姉ちゃんが口に指をあてる。
敵意に満ちた視線が幼い女の子に向けられた。
「なにも分からない子供よ」
泣いていた方のお姉ちゃんが、胸元をつかんでマリオンの顔を覗き込んだ。怖い顔で、ぎゅうっとにらみつけてくる。
吊り上がった目と、赤く塗った口紅、そこからのぞく汚れた前歯。
マリオンは怖くなった。うわん止めてと泣き出した。すると、デューカが飛び込んできて、ガールフレンドの手をつかんでマリオンから離した。マリオンはすかさず兄の腰に抱き着き、後ろに回って隠れた。
「帰ってくれない、悪いけど」
丁寧に、しかし毅然と兄は言った。
「気持ちは嬉しいけれど、僕にはマリオンが一番なんだよ、同じようにマリオンを大切にしてくれる子じゃないと、恋人とは思えないんだ」
(ああ、お兄ちゃん、大好きよ)
(マリオンの王子様は、デューカだけだね)
**
細い手足と透き通るような肌を持つマリオン。町を歩けば誰もが振り向く素敵な子。
やがてマリオンは、男の子たちに興味を持たれるようになった。
マリオンは常に学年の高嶺の花、誰も触れることができない存在だった。マリオンは、どんな男の子が声をかけて来ても、全く靡かなかった。
「デューカ、ねえ、次の休みだけど」
「デューカ、お兄ちゃん、宿題教えて」
「デューカ、ねえ、デューカったら」
呼べばいつも優しい笑顔で振り向く兄。
マリオンより、ずっと背丈が高い。だから、腕を組んだ時は、まるでぶら下がっているみたい。
学業で忙しくても、仕事を始めても、デューカはマリオンのもの。
マリオンだけのもの。
**
混乱の中で、気を失っていたらしい。
マリオンは、じゅうたんの上に倒れていた。目を開くと部屋は西日で染まっている。
夢を見ていたのか。昔の夢を。
頭がズキズキする。顔をしかめつつ、身を起こした。
振り向くと、やはりドレッサーに映るのは地味な風貌の黒髪そばかすの女の子だった。
マリオンは――いまやマリオンとは呼べないが、仮にそう呼ぶとして――大きく息を吐き、目を閉じた。
眠ったせいか、少し気持ちが落ち着いている。
(デューカ、確かに一緒に育った)
(抱きしめてくれた腕とか、添い寝の腕枕とか、おやすみのキスとか)
(ちょっと深入りしそうになったガールフレンドを連れてきて、結局わたしを優先したあの日とか)
鮮やかに思い出すことができる。
何月何日の朝食が、失敗してくずれた目玉焼きだったとか。
その時のベーコンがよい匂いを立てていて、コーヒーも新しいのを開けて美味しかったとか。
そしてデューカの細い指先の中指の爪が少し欠けていたこととか。
(変だわ)
ゆっくりと息を止めながら、マリオンは記憶の海を探る。
寄せては返す、記憶の波。
星の光を受けて宝石のように輝く、兄との思い出の数々。
ひとつの傷もない、美しくて完璧な。
もう一度、マリオンは目を閉じ、押し寄せてくる記憶の渦に向かう。
(ああ、そうか)
まるで、データをフォルダから取り出すように。
細部まで正確に、精巧に注意深く作られた(作られ・・・・・・た、一体それはどういうことだろう)それらの記憶はまるで。
(まるで、物語のよう)
「おかしいわ。こんなの普通じゃない」
上半身を起こし、薄暗くなった部屋を見回す。
アラベスク模様が彫刻されたベッド、枕元におかれたいくつかのぬいぐるみ、壁に貼られた映画のポスター、勉強机に飾られた家族の写真。
そっと立ち上がると、その写真を手に取ってみる。
美しい兄と妹が、肩を寄せ合って笑っている。
(この写真は、今から2年前、避暑地に旅行にいった時に、現地の店の人に頼んで撮ってもらったものよ)
マリオンは、また記憶のフォルダを一つ探し当てる。
カタカタと頭の中で機械音がするような錯覚に陥った。
(そして午後1時2分、その店に入り、簡単な食事をしたのよ。パンケーキとアップルジュースの食事で、運ばれてきたのは1時21分32秒。まあまあ早かった。味は美味しかったから、デューカと、いいねって言い合ったのよ)
ウェイトレスが水のおかわりを持ってきてくれて、その人がとても感じの良い中年女性だったから、思い切って写真をお願いしたのよ。快諾してくれたわ。そして、デューカがチップを渡したっけ。
カタカタ、カタ。
午後1時46分、店の前の木をバックに、わたしたちは並んで立ち、ウェイトレスがカメラのシャッターを切る。
ぱちり。
できすぎている。
記憶が、あまりにも精巧すぎる。
ことん、と写真を机に戻すと、マリオンはベッドに腰掛けた。
目の前のドレッサーに映る己の姿をまじまじと見つめる。
(写真のマリオンとは別人)
じゃあ、わたしは一体。
「わたしは、誰」
**
ふいに、頭の中がえぐられるように痛んだ。
(ウッ)
それは、脳の神経の中に針金をつっこまれて、無造作にかきまぜられるような痛みだった。マリオンは両手で頭を抱え、思わずベッドにつっぷした。
強い波のようにうねる痛みと戦っているうちに、ある、全く見知らぬ風景が脳裏に浮かび、マリオンはぎょっとした。
(なに、これは。一体、何の記憶だろう)
焦げた建物の残骸が目の前に広がっている。汚れた顔と手足。冷たい地面に座り込む。ああ、雨が降り始めた。だけど、わたしはどこにも行くところがない。
冷たい冷たい痛い痛い、どこか傷ついている、悲しい、とても悲しい。
『助けてあげようか』
静かな声が聞こえて振り返るとそこには、背の高い痩身の人が立っている。傘もささずに肩を濡らしながら。
『僕と一緒に来るといい。いくところがないんだろう』
その人の顔を、まざまざと思い出して、マリオンは息を止めた。
憂うような漆黒の瞳と濡れた黒髪、人形のように冷たいほど整った顔立ちと、穏やかで優しい声。
それは、デューカだった。
**
いつの間にか頭の痛みは治まっている。まるで、この奇怪な記憶が(記憶・・・・・・なのかしら、これはわたしの記憶なの)蘇ったことで、悲鳴を上げていた脳が、落ち着いてくれたかのようだった。
今しがた浮かんだ風景。一体、これはなんだったのか。
夢と言うにはあまりにも生々しい。
硝煙臭さや理不尽さ、明日を生きることなど想像できないほどの深い悲しみと苦しみ。これは、偽物ではなかった。これは、確かに本物だ。
(これは、いつか体験した、本当にあった出来事)
細く細く、呼吸を続けながらマリオンはこぶしを握る。指の関節が白く浮き上がるほど強く。
(じゃあ、ここは。このマンションは、この部屋は、お兄ちゃんの思い出は)
親指を立て、ぎゅっと爪を噛みしめたその時だった。
とん、とん、ととん。
窓ガラスが叩かれている。
ここは四階だ。人が立って窓を叩けるような場所ではない。
ぎょっとして窓を見ると、レースのカーテンの奥に、人の顔がぼんやり映っていた。
マリオンがきゃっと叫ぶのと、鋭い音を立てて窓ガラスが破られたのはほぼ同時だった。
ガラスの破片が飛び、マリオンは腕で顔をかばった。
その腕をぐっとつかむ者がいる。見上げると、あのエレベーターの男だった。
「手間どらすなよ、お嬢さん」
ラフなセーターの上に皮のジャンパーを着て、手は黒い皮手袋で守られている。腰にはワイヤーがついており、窓ガラスの外に続いている。
ふあっと、風が部屋に入り込む。カーテンが派手に巻き上がった。
「来るんだよ、ここから逃げるんだ。あんた、殺される」
マリオンは男に引きずられて立ち上がった。
(誰、この人は誰なの、知っている人なの)
「疑うような目で見るな。あんたが今何を考えても無駄なのは自分でもわかるだろ」
ぶっきらぼうに男は言い、ちょっと気の毒そうにマリオンを眺める。
「まあ、気の毒な状態であることは、認めるがな。今は何も言わずに逃げるんだ」
「あなたは誰、そしてどうしてこんな」
マリオンの問いに男が答えるより早く、部屋の扉が開いた。
冷たい光を帯びた目のデューカが飛び込んでくる。マリオンは腕をつかまれたまま振り向き、兄が銃口をこちらに向けているのを見た。
「おにい、ちゃ」
銃声が耳をつんざく。
嘘。嘘だ。デューカが銃を使った。撃ったのだ。
身体が羽が生えたように軽やかに宙を舞い、空に飛び立った。わたしは天使。このまま何もかも消して、空に帰りたい。
そう思った。
マリオンは目を閉じた。つうっと涙が一筋滑り落ちる。
そのまま意識を失った。
(デューカ、お兄ちゃん、助けて)