黒のプリンス
文字数 5,425文字
……ギシ。
ギシギシ。
ワイヤーが軋む音が聞こえた。
その繊細な指は優雅に現われた。白い手が伸び出てきて屋上のコンクリに着く。
華奢な見た目とは裏腹に、その手は関節に力を籠め、まるで強烈な吸盤のようにコンクリに貼りついている。そして、もう片方の手が、形の良い黒髪の頭と同時に穴から抜け出てきた。
マリオンは、ゆっくりと銃を構えた。
「動かないで」
髪を風にあおられながら、よくとおる声で威嚇する。
ふわり、と、黒髪が風に舞った。その人は優雅に苦笑した。威嚇されたにも関らず、滑るような動きで腕に力を籠め、上半身を現わす。そして長い脚が片方、コンクリを踏みしめた。
ズガン。
マリオンの放った弾丸は、相手の額に向け真っすぐに飛んだ。
船の中のショウは悲鳴をあげた。
しかし、男は相変わらず優雅な微笑を口元に刻んでいる。
弾丸の進路は当たる寸前で奇妙に曲がりくねり、あらぬ方向に飛んで消えた。
「ここでは、僕は守られている」
デューカ・ホワイトは屋上に両足を踏みしめ、マリオンと対峙した。
「君は、マリオン」
一文字一文字、かみしめるようにデューカは言う。
瞳に相手を映しこみながら。
「……僕の、マリオン」
「わたしは誰のものでもないわ」
マリオンは叫び、飛びのくように後ろに下がって小型船に飛び乗ろうとした。
瞬間、デューカの姿が消えた。
んっ、と押し殺した声でマリオンは苦痛をこらえる。成り行きを見守っていたショウは口に手を当てた。
魔法のように移動したデューカは、マリオンの後ろに回り、腕をひねりあげていた。
「行かせない」
そっと耳元で囁く。
その時だった。
プププ、プププ。
マリオンの腰のバッグの中で、何かが鳴った。
プププ、プププ、プププ………。
ショウ・シャンが、青ざめながらも必死で、小型船の天井を手動で開いている。デューカもマリオンも、船の中のショウ・シャンの動きなど、気に留めていなかったのだ。
プププ、プププ、プププ………。
**
ヘッドホンを耳に当て、トランシーバーを口元に近寄せながら、ガイはじっと待った。まるで獲物を狙う猛獣のように動かない。
重苦しい沈黙が広間に落ちていた。
アズとパイは、辛抱強くガイの様子を見守っている。
「出ないのね」
パイがそっと言うが、ガイは動かず、じっとヘッドホンを当て続けている。
アズは溜息をつき、腕時計をちらりと見た。旧時代風のアナログ型だ。いちいち時刻を調整する必要があって手間だが、どうしても手放せないものである。
「あと、二時間」
アズは言った。死刑宣告のように、その声は広間に響き渡る。
やがてガイの表情が変わり、目を見開いてヘッドホンを外した。ゆっくりと顔をあげ、アズとパイを交互に見る。
「呼び出しが、途切れた」
「貸してくれ」
アズが猫のように、にゅっと体を伸ばしてガイの手元からヘッドホンを取り上げ、トランシーバーを手元に寄せた。せわしない動きでダイヤルする。
すぐにアズはヘッドホンを外した。厳しい表情である。
「繋がらない」
パイが目を伏せた。
ゆっくりとガイが、腰の銃を取り上げ、充填を確認する。
「1時間半たっても戻らない場合は、無条件でパイオニア号を脱出させる。いいな、パイ」
パイは息を飲んだ。大股で広間を出ていくガイの背中を見送る。
アズは肩をすくめて溜息をつき、パイは拳を握りしめた。
「あの男、誰にも止められねえよ」
諦めたようにアズが言う。
**
コンクリに叩きつけられて砕かれた通信用マイクを見て、マリオンは歯を食いしばった。
デューカはマリオンの腰から奪い取ったバッグから、不快な音源を突き止め、すみやかに破壊したのである。
腰のバッグには貴重な資料が入っている。奪われるわけにはいかない。
マリオンはデューカの背中に素早く組み付き、柔術の要領で、すんなりと投げ飛ばした。
投げ飛ばされたデューカは、しなやかな動きで片膝を立てて着地すると、銃を取り出して構えた。
バッグを取り返したマリオンは船に飛び乗ると、ワープ起動させる。
何発が弾丸が機体をかすめるが、すんでの差で上空に舞い上がり、まさにワープに入ろうとする。
「……ショウ・シャン」
後部から冷たい風が舞い込んでいることに気づき、マリオンはぎょっとして背後を振り向いた。そして愕然とする。
ショウ・シャンの姿が座席から消えていた。
消えたショウ・シャンを思い、一瞬、動きをとめた。その僅かな隙が仇となった。
下方から狙い撃ちしてくる弾丸の一つが、小型船の動力部をかすめ、僅かに破損させたのだ。ワープに入る寸前だった船は唐突に動きを止め、ゆるゆると下降を始めた。
「ちい」
マリオンは額に汗を浮かべながら懸命に船を操作する。
どうしても上昇しない。
どうしても――。
操縦を放棄し、マリオンはハッチを開く。勢いよく風が舞い込み、金髪が強く乱れた。
煙を舞いあげながら下降を続ける船。マリオンは席から立ち上がった。
**
小型船は煙を吹きながら商店街の中に突っ込んだ。爆音が鳴り響く。
黒い煙と炎が立ち上るが、その勢いは徐々に失われてゆき、十分もしないうちに、灰色の濃い煙が立ち上るだけになった。
(エンゼリアの、自動修復機能だわ)
消防や救急が働いている気配は全くない。
それどころか、人どおりすらなかった。
パラシュートで通りに着地したマリオンは、銃を手にしながらゆっくりと歩き出す。
服飾店、なにかのビル、書店、飲食店――。
(繁華街……なのよね、ここは)
「営業中」のランプが光る書店の前を行き過ぎる。店の内部ではにぎやかな音楽が流れているらしい。外にまで微かに聞こえていた。
やがてマリオンは、こじゃれた喫茶店の前にさしかかる。
なんとなく気になって、そっと茶色の扉を開いてみた。落ち着いた照明の店内からは、聞き覚えのある音楽が流れてきた。
……ロン。ロンロンロン。
純喫茶風の音を立てながら扉は開き、そして静かに閉じた。
一歩、二歩と入り込みながらマリオンは無人の店内を見回す。
コポコポ。
カウンタの奥ではドリップコーヒーが入る音がする。
思わず銃を持つ手に力を込めながら、用心深く進んだ。
客席には誰もいない。
しかし、食べかけのケーキや、温かな目玉焼きなどがテーブルには乗っている。
(喫茶店をしている、つもり)
店の中を見回りながら、マリオンはカウンタの内側に入り、厨房を覗く。
無人の厨房が、動き続けている。
カツカツカツカツ。カツカツカツカツ。
きざみキャベツができてゆく音。
人はいない。機械仕掛けの包丁が動いている。
キチキチキチキチ。キチキチキチキチキチ。
いたるところでゼンマイが動く音がする。ガス台も、流しも、調理台も(キチキチキチキチ)どこもかしこも精密な機械が(キチキチキチ)回り続けている。
カツカツカツ……。
(ビートルズだわ、これ)
なんとなく耳に残る曲を聴きながら、マリオンはカウンタから出る。
ロン、ロンロンロンロン。
純喫茶風の音が鳴り響く。思わず銃を構えて振り向く。
ゆっくりと扉が開き、そして閉じる。入ってくる者は誰もいない。
(お客がきた、つもり)
カウンタにもたれながら、マリオンは成り行きを見守る。
やがて厨房では、何かを焼き始める音が聞こえだし、甘く香ばしい香りが漂い始めた。
(ホットケーキの注文を受けた、つもり)
「人の姿が見えるようになるまで、もう少しかかる」
ふいに耳元で声がして、マリオンは飛びのいで銃を構えた。
カウンタの内側で、優雅な笑みをたたえたレイ・ホワイトが店のマスターよろしく腕組みをして立っている。
ズガンズガンズガン。
マリオンは、無表情のまま、立て続けに打ち放した。
全く変わらぬ姿を保ちながら、レイは肩をすくめて苦笑した。
「同じことを繰り返すとは、わが娘ながら、ふがいない」
(ホログラムだわ)
蒼白の顔色で、額に汗しながらマリオンは立ちつくした。
厨房から、白いのっぺりとしたものがウェイトレス風の衣装を纏って、滑るように出てきた。品よく肩まであげた盆には湯気のたつホットケーキとココアが乗っている。マネキン風のロボット、いや、アンドロイドか。ほとんど音も立てずに客席まで食事を運んでゆくと、また音もなく戻ってきてカウンタの中に入り、「スタッフオンリー」の扉の向こうへ消える。
「水はセルフサービスなんだ」
愉快そうにレイが言った。
「9時05分に男女二人連れが来店する。一人はベーコンエッグ、もう一人はコーヒーだけを頼んで、ちょっと口をつけただけで出て行ってしまう。非常に急いでいるらしい」
微笑みをたたえながらレイは続ける。
「9時21分に来店したのは銀行員風の男だ。タバコを吸うために来たんだろう。コーヒーを頼んで、一服して、そして客のところに行くつもりらしい」
「それが、この店のシナリオというわけ」
鋭い声でマリオンが口をはさんだ。
構わずに、レイは指を整った形の唇に当て、嬉しそうに言う。
「そろそろ修復が完了しようとしている。もうあとわずかなんだ。見なさい」
一瞬、足元が揺らぐような感覚を覚えた。マリオンは銃を持っていない側の腕で、泳ぐように空気をかいた。プリンか何かを高いところから落とし、皿で受けたような不安定な感じ(ぷるる、ん)がして、身体のバランスが一瞬失われたのだ。
そしてマリオンは目を見開いた。
野球帽をかぶった少年がホットドックを食べながら、母親に綺麗に食べるよう注意を受けている。
化粧の濃い女性と、恰幅の良い男性のカップルがけだるそうに朝食をとっている。
灰皿に置いた煙草を取ろうとする銀行員風の男。
賑やかで楽し気な喫茶店の風景が広がっていた。
が、数秒も経つと、また奇妙に不安定な(ぷるる……ん)揺らぎが襲ってきて、また店の中は元の空虚な無人状態に戻っていたのだった。
「いつもの平穏なエンゼリアに戻ろうとしている。見たろう。これがエンゼリアだ」
楽しそうにレイが言った。
マリオンはぐっと唇をかみしめる。眉を厳しく寄せて、青い顔で父親の姿を振り向いた。
「まやかしじゃないの。バカバカしいわ。あなたたちは何がしたくて――」
また、純喫茶風の扉の音が鳴り響いた。
おどけたようにレイが片方の眉を上げる。
「おやおや、招かれざる客のようだ」
そしてレイの姿は唐突に消えた。
マリオンはゆっくりと振り向き、そして大きく目を見開く。
肩で息をしながら飛び込んできたのは、ガイであった。
「船長」
駆け寄ろうとするマリオンを見て、ガイは安堵の溜息をつく。そして、笑顔になった。いつもの屈託のない笑顔。
「船長」
しかしマリオンは大きく息を飲み、高い声で再度、叫んだ。
いけない、背後に!
笑顔のガイの後ろに、鋭く光る黒い瞳があった。そして、銃口が不気味な光を放つのを、マリオンは見た。
しかし、銃声はなかった。
飛びのいて身を低くしたガイと、銃を構えたマリオンは、息を飲んでそれを見た。
デューカは銃を持っている。その手にしがみついて、動きを封じている少女があった。
ショウ、とマリオンが悲鳴に似た叫びをあげる。
ふいにガイがマリオンの腕をつかむと、猛烈な勢いで喫茶店の出口に突入した。少女に組み付かれたまま目を見開いているデューカの体を突き飛ばす。
「きゃあっ」
一緒に突き飛ばされた少女が悲鳴を上げた。
振り向いている余裕はない。背後からデューカが銃を放ってきたからである。
**
ショウ・シャンは、茫然とアスファルトに座り込み、目の前でデューカが銃を構え、機械的に引き金を引いている姿を見上げる。
黒い瞳と黒い髪を持つ、貴公子のような彼。
ふいに、ショウは鮮烈に思い出す。
(泣かないで)
細い、優雅な指と綺麗な横顔の少年。まるで王子様のような。
(なおしてあげるから、だから…)
わたしの、お人形。
ショウは大きく息をついた。そして立ち上がる。
「だめ」
走り出す。
「だめだよ、そんなことしちゃだめっ」
悲鳴のように叫びながら、銃を使い続けるその人に向かい、ショウは飛び込む。
「そんなこと、しないでえっ」
王子様は。
王子様の綺麗な手は。
そんなことに使われるべきじゃない。
**
マリオンは一瞬立ち止まった。そして、それを見たのだ。
ショウがデューカ・ホワイトに飛びつき、アスファルトの上に転がるのを。
しかし、次の瞬間、マリオンはガイに手を引かれ、振り返る余裕もなく走らねばならなかった。
この後、ショウ・シャンがどうなったのか、マリオンもガイも、知りようがなかった。
ギシギシ。
ワイヤーが軋む音が聞こえた。
その繊細な指は優雅に現われた。白い手が伸び出てきて屋上のコンクリに着く。
華奢な見た目とは裏腹に、その手は関節に力を籠め、まるで強烈な吸盤のようにコンクリに貼りついている。そして、もう片方の手が、形の良い黒髪の頭と同時に穴から抜け出てきた。
マリオンは、ゆっくりと銃を構えた。
「動かないで」
髪を風にあおられながら、よくとおる声で威嚇する。
ふわり、と、黒髪が風に舞った。その人は優雅に苦笑した。威嚇されたにも関らず、滑るような動きで腕に力を籠め、上半身を現わす。そして長い脚が片方、コンクリを踏みしめた。
ズガン。
マリオンの放った弾丸は、相手の額に向け真っすぐに飛んだ。
船の中のショウは悲鳴をあげた。
しかし、男は相変わらず優雅な微笑を口元に刻んでいる。
弾丸の進路は当たる寸前で奇妙に曲がりくねり、あらぬ方向に飛んで消えた。
「ここでは、僕は守られている」
デューカ・ホワイトは屋上に両足を踏みしめ、マリオンと対峙した。
「君は、マリオン」
一文字一文字、かみしめるようにデューカは言う。
瞳に相手を映しこみながら。
「……僕の、マリオン」
「わたしは誰のものでもないわ」
マリオンは叫び、飛びのくように後ろに下がって小型船に飛び乗ろうとした。
瞬間、デューカの姿が消えた。
んっ、と押し殺した声でマリオンは苦痛をこらえる。成り行きを見守っていたショウは口に手を当てた。
魔法のように移動したデューカは、マリオンの後ろに回り、腕をひねりあげていた。
「行かせない」
そっと耳元で囁く。
その時だった。
プププ、プププ。
マリオンの腰のバッグの中で、何かが鳴った。
プププ、プププ、プププ………。
ショウ・シャンが、青ざめながらも必死で、小型船の天井を手動で開いている。デューカもマリオンも、船の中のショウ・シャンの動きなど、気に留めていなかったのだ。
プププ、プププ、プププ………。
**
ヘッドホンを耳に当て、トランシーバーを口元に近寄せながら、ガイはじっと待った。まるで獲物を狙う猛獣のように動かない。
重苦しい沈黙が広間に落ちていた。
アズとパイは、辛抱強くガイの様子を見守っている。
「出ないのね」
パイがそっと言うが、ガイは動かず、じっとヘッドホンを当て続けている。
アズは溜息をつき、腕時計をちらりと見た。旧時代風のアナログ型だ。いちいち時刻を調整する必要があって手間だが、どうしても手放せないものである。
「あと、二時間」
アズは言った。死刑宣告のように、その声は広間に響き渡る。
やがてガイの表情が変わり、目を見開いてヘッドホンを外した。ゆっくりと顔をあげ、アズとパイを交互に見る。
「呼び出しが、途切れた」
「貸してくれ」
アズが猫のように、にゅっと体を伸ばしてガイの手元からヘッドホンを取り上げ、トランシーバーを手元に寄せた。せわしない動きでダイヤルする。
すぐにアズはヘッドホンを外した。厳しい表情である。
「繋がらない」
パイが目を伏せた。
ゆっくりとガイが、腰の銃を取り上げ、充填を確認する。
「1時間半たっても戻らない場合は、無条件でパイオニア号を脱出させる。いいな、パイ」
パイは息を飲んだ。大股で広間を出ていくガイの背中を見送る。
アズは肩をすくめて溜息をつき、パイは拳を握りしめた。
「あの男、誰にも止められねえよ」
諦めたようにアズが言う。
**
コンクリに叩きつけられて砕かれた通信用マイクを見て、マリオンは歯を食いしばった。
デューカはマリオンの腰から奪い取ったバッグから、不快な音源を突き止め、すみやかに破壊したのである。
腰のバッグには貴重な資料が入っている。奪われるわけにはいかない。
マリオンはデューカの背中に素早く組み付き、柔術の要領で、すんなりと投げ飛ばした。
投げ飛ばされたデューカは、しなやかな動きで片膝を立てて着地すると、銃を取り出して構えた。
バッグを取り返したマリオンは船に飛び乗ると、ワープ起動させる。
何発が弾丸が機体をかすめるが、すんでの差で上空に舞い上がり、まさにワープに入ろうとする。
「……ショウ・シャン」
後部から冷たい風が舞い込んでいることに気づき、マリオンはぎょっとして背後を振り向いた。そして愕然とする。
ショウ・シャンの姿が座席から消えていた。
消えたショウ・シャンを思い、一瞬、動きをとめた。その僅かな隙が仇となった。
下方から狙い撃ちしてくる弾丸の一つが、小型船の動力部をかすめ、僅かに破損させたのだ。ワープに入る寸前だった船は唐突に動きを止め、ゆるゆると下降を始めた。
「ちい」
マリオンは額に汗を浮かべながら懸命に船を操作する。
どうしても上昇しない。
どうしても――。
操縦を放棄し、マリオンはハッチを開く。勢いよく風が舞い込み、金髪が強く乱れた。
煙を舞いあげながら下降を続ける船。マリオンは席から立ち上がった。
**
小型船は煙を吹きながら商店街の中に突っ込んだ。爆音が鳴り響く。
黒い煙と炎が立ち上るが、その勢いは徐々に失われてゆき、十分もしないうちに、灰色の濃い煙が立ち上るだけになった。
(エンゼリアの、自動修復機能だわ)
消防や救急が働いている気配は全くない。
それどころか、人どおりすらなかった。
パラシュートで通りに着地したマリオンは、銃を手にしながらゆっくりと歩き出す。
服飾店、なにかのビル、書店、飲食店――。
(繁華街……なのよね、ここは)
「営業中」のランプが光る書店の前を行き過ぎる。店の内部ではにぎやかな音楽が流れているらしい。外にまで微かに聞こえていた。
やがてマリオンは、こじゃれた喫茶店の前にさしかかる。
なんとなく気になって、そっと茶色の扉を開いてみた。落ち着いた照明の店内からは、聞き覚えのある音楽が流れてきた。
……ロン。ロンロンロン。
純喫茶風の音を立てながら扉は開き、そして静かに閉じた。
一歩、二歩と入り込みながらマリオンは無人の店内を見回す。
コポコポ。
カウンタの奥ではドリップコーヒーが入る音がする。
思わず銃を持つ手に力を込めながら、用心深く進んだ。
客席には誰もいない。
しかし、食べかけのケーキや、温かな目玉焼きなどがテーブルには乗っている。
(喫茶店をしている、つもり)
店の中を見回りながら、マリオンはカウンタの内側に入り、厨房を覗く。
無人の厨房が、動き続けている。
カツカツカツカツ。カツカツカツカツ。
きざみキャベツができてゆく音。
人はいない。機械仕掛けの包丁が動いている。
キチキチキチキチ。キチキチキチキチキチ。
いたるところでゼンマイが動く音がする。ガス台も、流しも、調理台も(キチキチキチキチ)どこもかしこも精密な機械が(キチキチキチ)回り続けている。
カツカツカツ……。
(ビートルズだわ、これ)
なんとなく耳に残る曲を聴きながら、マリオンはカウンタから出る。
ロン、ロンロンロンロン。
純喫茶風の音が鳴り響く。思わず銃を構えて振り向く。
ゆっくりと扉が開き、そして閉じる。入ってくる者は誰もいない。
(お客がきた、つもり)
カウンタにもたれながら、マリオンは成り行きを見守る。
やがて厨房では、何かを焼き始める音が聞こえだし、甘く香ばしい香りが漂い始めた。
(ホットケーキの注文を受けた、つもり)
「人の姿が見えるようになるまで、もう少しかかる」
ふいに耳元で声がして、マリオンは飛びのいで銃を構えた。
カウンタの内側で、優雅な笑みをたたえたレイ・ホワイトが店のマスターよろしく腕組みをして立っている。
ズガンズガンズガン。
マリオンは、無表情のまま、立て続けに打ち放した。
全く変わらぬ姿を保ちながら、レイは肩をすくめて苦笑した。
「同じことを繰り返すとは、わが娘ながら、ふがいない」
(ホログラムだわ)
蒼白の顔色で、額に汗しながらマリオンは立ちつくした。
厨房から、白いのっぺりとしたものがウェイトレス風の衣装を纏って、滑るように出てきた。品よく肩まであげた盆には湯気のたつホットケーキとココアが乗っている。マネキン風のロボット、いや、アンドロイドか。ほとんど音も立てずに客席まで食事を運んでゆくと、また音もなく戻ってきてカウンタの中に入り、「スタッフオンリー」の扉の向こうへ消える。
「水はセルフサービスなんだ」
愉快そうにレイが言った。
「9時05分に男女二人連れが来店する。一人はベーコンエッグ、もう一人はコーヒーだけを頼んで、ちょっと口をつけただけで出て行ってしまう。非常に急いでいるらしい」
微笑みをたたえながらレイは続ける。
「9時21分に来店したのは銀行員風の男だ。タバコを吸うために来たんだろう。コーヒーを頼んで、一服して、そして客のところに行くつもりらしい」
「それが、この店のシナリオというわけ」
鋭い声でマリオンが口をはさんだ。
構わずに、レイは指を整った形の唇に当て、嬉しそうに言う。
「そろそろ修復が完了しようとしている。もうあとわずかなんだ。見なさい」
一瞬、足元が揺らぐような感覚を覚えた。マリオンは銃を持っていない側の腕で、泳ぐように空気をかいた。プリンか何かを高いところから落とし、皿で受けたような不安定な感じ(ぷるる、ん)がして、身体のバランスが一瞬失われたのだ。
そしてマリオンは目を見開いた。
野球帽をかぶった少年がホットドックを食べながら、母親に綺麗に食べるよう注意を受けている。
化粧の濃い女性と、恰幅の良い男性のカップルがけだるそうに朝食をとっている。
灰皿に置いた煙草を取ろうとする銀行員風の男。
賑やかで楽し気な喫茶店の風景が広がっていた。
が、数秒も経つと、また奇妙に不安定な(ぷるる……ん)揺らぎが襲ってきて、また店の中は元の空虚な無人状態に戻っていたのだった。
「いつもの平穏なエンゼリアに戻ろうとしている。見たろう。これがエンゼリアだ」
楽しそうにレイが言った。
マリオンはぐっと唇をかみしめる。眉を厳しく寄せて、青い顔で父親の姿を振り向いた。
「まやかしじゃないの。バカバカしいわ。あなたたちは何がしたくて――」
また、純喫茶風の扉の音が鳴り響いた。
おどけたようにレイが片方の眉を上げる。
「おやおや、招かれざる客のようだ」
そしてレイの姿は唐突に消えた。
マリオンはゆっくりと振り向き、そして大きく目を見開く。
肩で息をしながら飛び込んできたのは、ガイであった。
「船長」
駆け寄ろうとするマリオンを見て、ガイは安堵の溜息をつく。そして、笑顔になった。いつもの屈託のない笑顔。
「船長」
しかしマリオンは大きく息を飲み、高い声で再度、叫んだ。
いけない、背後に!
笑顔のガイの後ろに、鋭く光る黒い瞳があった。そして、銃口が不気味な光を放つのを、マリオンは見た。
しかし、銃声はなかった。
飛びのいて身を低くしたガイと、銃を構えたマリオンは、息を飲んでそれを見た。
デューカは銃を持っている。その手にしがみついて、動きを封じている少女があった。
ショウ、とマリオンが悲鳴に似た叫びをあげる。
ふいにガイがマリオンの腕をつかむと、猛烈な勢いで喫茶店の出口に突入した。少女に組み付かれたまま目を見開いているデューカの体を突き飛ばす。
「きゃあっ」
一緒に突き飛ばされた少女が悲鳴を上げた。
振り向いている余裕はない。背後からデューカが銃を放ってきたからである。
**
ショウ・シャンは、茫然とアスファルトに座り込み、目の前でデューカが銃を構え、機械的に引き金を引いている姿を見上げる。
黒い瞳と黒い髪を持つ、貴公子のような彼。
ふいに、ショウは鮮烈に思い出す。
(泣かないで)
細い、優雅な指と綺麗な横顔の少年。まるで王子様のような。
(なおしてあげるから、だから…)
わたしの、お人形。
ショウは大きく息をついた。そして立ち上がる。
「だめ」
走り出す。
「だめだよ、そんなことしちゃだめっ」
悲鳴のように叫びながら、銃を使い続けるその人に向かい、ショウは飛び込む。
「そんなこと、しないでえっ」
王子様は。
王子様の綺麗な手は。
そんなことに使われるべきじゃない。
**
マリオンは一瞬立ち止まった。そして、それを見たのだ。
ショウがデューカ・ホワイトに飛びつき、アスファルトの上に転がるのを。
しかし、次の瞬間、マリオンはガイに手を引かれ、振り返る余裕もなく走らねばならなかった。
この後、ショウ・シャンがどうなったのか、マリオンもガイも、知りようがなかった。