天才の亡霊
文字数 6,147文字
白い照明が灯る。
メインモニタールームでは、クルーが配置に就いていた。
中央、一段高い位置にガイ・タカラダが座り、ボブヘアの小柄なサラ・アイアンが、体のわりに通る声でエンジンの起動状態をカウントしている。
安定感のあるお尻が椅子から食み出しているメアリ・バートラム、キリギリスのように痩せたチャック・モーガン、東洋風のつり目と薄い唇、艶のある長い黒髪のワン・リーリンの三人が前方、左舷、右舷のモニターに目を凝らし、異常がないか確認している。
そして後方確認は、ガイの後席に陣取るパイ・ヤンの仕事だ。
発信直前の独特の緊張感が、メインモニタールームに満ちている。
「前方、異常ありません」
「左舷、異常ありません」
「右舷、異常ありません」
「後方、異常ありません」
サラ・アイアンのカウントが機械的に続く。
「テン、ナイン、エイト、セブン」
そっとパイが後ろから顔を寄せ、ガイにささやく。
「アズがまだ起きているうちに行って。マリオンが回収してきた資料のことで話があるみたい」
ガイが、目だけで頷く。
「フォウ、スリー、トゥー、ワン、ゼロ。パイオニア号、エンゼリアより後方発進、大気圏より脱出します」
ブー。
パイオニア号全体にサイレンが鳴り響く。
白い通路に、クルーの部屋に、倉庫に、エンジンルームに、厨房に、そして、コロニー部に。
「重力装置が完全に作動するまで、静止してください。重力装置が作動するまで動かないでください」
コロニー部では、のどかに雲が浮かぶ青空から、女性の声で指令がかかった。
田園でトラクターを動かしている農夫、果樹園で果実をもいでいる女性たちが動きをとめ、近くの大木にしがみつく。商店街はにぎやかな音楽があちこちで掛かっているが、店員も客たちも速やかに動きを止める。
お盆を持ったウェイトレスが、近くのテーブルに盆を置き、店の柱にしがみつく。
ケーキセットを食べていた親子はテーブルの下に入り、やんちゃざかりの子供を、母親が慌てて捕まえて自分の胸の下に押し込む。「いやだママ、いやだよ」「じっとして、いい子だから…」
そしてクルーたちが働くパイオニア号メイン部では、出発前の独特の緊張感が各部署に満ちていた。
「重力装置が作動するまで危険です。重力装置が作動するまで、静止してください…」
女性のアナウンスが繰り返されている。
その声を聴きながら、アズは厳しい顔で本を――「エンゼリア史」と、金文字でタイトルされた厚い本を――にらみつけていた。明らかに寝不足の顔をしている。もともと不機嫌そうなつくりの顔だちが、隈とやつれた頬に落ちた影のせいで、余計にきつくなっていた。
足を高々とくみ上げた上司の後ろで、カメオが気弱そうな顔に緊張を走らせながら立っている。
カメオの後ろには、ふてくされたような顔でパイプ椅子に腰を下ろしているクリスがいた。
ベッドに腰掛けて、三人と対峙しているのはマリオンである。ガラスのように表情をなくしたアクアマリンの瞳で、茫然と座り込んでいる。
ガクン、と大きな衝撃が走り、そして突然体重が軽くなった。上昇し、ゆっくりと落ち着くように重力装置が働き始める。やがて、すっかり落ち着き、せわしないアナウンスが鳴りやんだ時、やっとアズが口を開いた。
「……とんでもない話だ」
低い声は無感情だった。だが、アズの目は鋭く光ってマリオンをとらえている。
「ありえることだと思います」
マリオンは答えた。白い、陶器のような頬が、一瞬けいれんを起こしたように震える。
「……父が既に亡くなっている、にも関らず、エンゼリアを支配し、地球を攻撃するよう兄に指示を出し続けている――」
エンゼリアが地球を攻撃し続けることは、エンゼリアが人類を叡智のもと、最も輝かしい未来へ導くためには必然のことであり、後世に続くエンゼリア人の使命となるであろう。
全能なるエンゼリアの創生主、レイ・ホワイト(ホワイト一世)は宇宙歴597年8月に逝去するも、その優れた頭脳はエンゼリア中心部に安置され、エンゼリアを導き続けている。
エンゼリアの名の由来は、エンゼリアが天使すなわちエンゼルの守る星であるということからである。
宇宙歴599年の時点では、正統なエンゼリア人は二人――頭脳のみとなり生き続けるホワイト一世とその息子、デューカ・ホワイト(ホワイト二世)のみであるが、翌600年には完全なるイヴの記憶を引き継いだ選ばれし妃との婚姻を経て、子孫を得――。
アズがぶつぶつと読み上げた。
おぞましい、と、つぶやくようにマリオンは言うと唇を噛んだ。
カメオが心配そうにマリオンを見つめている。
「おかしいわ、だって今は599年でしょう、なんで未来のことまで書いてあるのよ」
教科書でしょ、と、それまで蚊帳の外で黙りこくっていたクリスが口をはさんだ。
「こいつぁ、テキストの一番後ろのほうに書いてあるんだよ。お勉強がこの部分にさしかかる頃には、あの黒髪のショウ・シャンは完全にマリオンとして、まやかしの世界に根付いている予定、だったんだろう」
だって、兄と妹でしょう。
またクリスが口をはさんだ。
マリオンは額に手を当てて俯いた。ひどく青ざめている。
「マリオン、大丈夫か。少し横になったほうがいい…」
カメオが見かねて声をかけた時、ノックもなく扉が開いた。
厳しい表情のガイが入室してくる。
ベッドに腰掛けて俯いているマリオンをちらりと見ると、ガイはアズの横にきた。
「来たか大将」
アズは立ち上がり、ううんと伸びをする。
「会議が必要だぜこれは。ちょっと予想もしてないことが起きている、らしい。あくまで憶測だがな」
「……平たく言って、なんだ」
ガイが問いただすように言うと、アズは口元だけで笑った。
「レイ・ホワイトは既に死んでいる。エンゼリア人は現在二人、正確には一人だけだ。地球は、たった一組の、誇大妄想親子にかき回されたってわけだ」
ガイたちが出て行った後、突然静かになった部屋で、マリオンは身動きせずに俯き続けていた。
カメオはそんなマリオンを見て、立ち尽くしたままである。
クリスは情けなさそうにそんな二人を眺めていたが、やがて泣きべそを浮かべて部屋から走り出て行った。
クリスの甘い残り香が漂っている。
「マリオン」
決心したように、カメオが動いた。そっとマリオンの横に座ると、肩に手を触れようとする。
「追ってあげないの」
ぴりりとした声でマリオンが言い、カメオは伸ばしかけた手を止める。
アクアマリンの瞳が、ややきつい表情でカメオを捉えていた。
「放っておけない、君を」
カメオはマリオンの背中に手を回したが、マリオンの反応は薄かった。石のように身動きしないまま、マリオンは言った。
「わたしもエンゼリア人なんだわ」
「マリオン、それは」
「一人にして」
カメオの胸を押すと、マリオンは素早くベッドにもぐりこみ、毛布を頭からかぶった。
「行って。一人にして」
「マリオン――」
**
メインモニタールームに続く広間は、急遽、会議室に変わる。
パイプ椅子を寄せ集めて円陣を作り、ガイ、パイ、アズの他、手の空いたクルー達がそこに座った。
皆、手元に配られた資料に目を走らせている。
「恐らくこの資料は真実、もしくは真実に近いと思われる。なぜならば、自分たちの身内になる予定の女の子を、こいつで教育しようとしていたんだから」
アズが言うと、チャックが丸めた資料で肩を叩きながら顔をしかめた。煙草を禁じられたので、仕方なくガムを噛んでいる。くちゃくちゃと音をさせながらチャックが発言した。
「んでもよ、脳みそだけになったレイ・ホワイトがエンゼリアを支配しているのだとしたら、そいつをぶっ壊せば済む話じゃないんすか」
気に食わない、というようにアズが眉間にしわを寄せる。
ガムやめなよ、ガム、と、チャックの隣にちょこんと座っているサラが、そっと耳打ちした。
エンジンルームの長であるマイクが、太った腹を窮屈そうにまげて資料に目を走らせている。近眼が進み、分厚い眼鏡をかけている。この中では最年長だ。
「だが、連中は本物のマリオンが生きていること、しかもこのパイオニア号のクルーであることを知っちまったんだろう」
脂の多い団子鼻から、ずり落ちてくる眼鏡を小指で支えながら、マイクが言った。
「こんな予定なんざ破り捨てて、本物を欲しがると思うんだがな、俺は」
「いくら記憶を移植しても、胎児の時点からDNAをいじられ、優秀な『エンゼリア人』として作り上げられた本物には叶わない」
メアリが二重アゴに押された喉から、すこししゃがれた声を絞り出して言う。
「わたしは知らないのよ。一体、どうしてマリオンは7歳の時点で父親と兄から離別したの。そんなにマリオンにこだわるなら、ずっと離さないでいればよかったのに。母親は何をしてるのよ?」
ガイは厳しい表情で口を引き結んでいる。
アズは溜息をついた。
空気を呼んだサラが、そっと言った。
「……マリオンにもプライベートはあるわ。おかしな父親に7つまでの記憶をもぎとられて捨てられたんでしょう。それだけで十分よ、そっとしておいてあげて」
「人類にかかわることよ」
自分の図々しさを指摘されて、むっとしたメアリが食い下がる。
「それにこのままじゃマリオンだって信じられない。あの子はエンゼリア人でしょう、なんたって家族なのよ」
ざわついた空気を見回して、ガイとアズは目を見合わせた。
苦い顔で頷きあうと、ガイが重たい口を開く。
「7つの時に離婚したんだよ、両親が」
眉間にしわを寄せながら喋るガイを、アズがちらっと眺めた。
「母親は心神喪失状態だった。離婚時、マリオンは記憶をもぎ取られていたが、それは、レイ・ホワイトにとってマリオンの価値がそういうものだったからだろう。兄のデューカを慕い、己の優秀さをよく知っている、そういった幼い記憶を抜き取ったんだ。レイにはそれができた。その技術が、彼にはあった」
まるで、マリオンの痛みが自分の痛みであるかのように、ガイは眉間に深くしわを刻み、目元に影を作る。
(マリオン、マリオン――)
「母親は」
追い打ちをかけるように問いかけたメアリの声を制するように、ガイは咳払いをした。鋭い目だった。
「母親はまもなく亡くなった。自殺と聞いている。マリオンは施設で育ったんだ」
どうだ満足か、と、ガイが言いかけたのを、かき消すようにアズが怒鳴るように言った。
「クルー個人のことについては、これ以上追及するな」
さすがのメアリもしゅんとした。
壮絶な過去を持つ痛みは、誰もが知っている。
みんな、家族や大切な誰かを唐突に失っている。ある日、突然、エンゼリアと名乗る得体のしれない敵が来襲したのだ。燃え上がる建物、崩れる家屋、逃げ惑う人々。あの風景を、ここにいる誰もが知っていた。
しいんとした重たい空気を破るように、またマイクが口を開いた。
「それにしても、俺なら本物の娘を取り戻そうとするがね」
「でも、パイオニア号は無事にエンゼリアから離れたわ」
サラが身を乗り出して言った。
「そうだな、連中がマリオンを取り戻すことはできんさ」
マイクが大きく頷く。「だからこそ、俺は心配なんだよ。俺たちは本当にエンゼリアから抜け出したのか、ってね」
「マイク、それは、どういう」
ガイがけげんそうに言いかけた時だった。
アズの表情が凍り付いた。
女性たちは悲鳴を上げ、その場にいる誰もが愕然とした。
ざざ。ざざざ。ざざざざ。………。
クルーが作る円陣の中央に、途切れながら映像が現われた。
まるで、ディスプレイに映し出した動画が、突然電波妨害され、砂嵐が発生したかのような(ざざ。ざざざ)ぎこちなさで、そのものは唐突に姿を現した。
「どうやらご健在のようですな」
優雅に貴族風なお辞儀をしながら(ざざざ。ざざ…)白髪の彼は言った。微笑を刻んだ顔で、まっすぐにガイ・タカラダを見つめている。
「レイ・ホワイトだ」
俺知ってる、テレビで見たことあるんだ、とチャックが早口で叫び、目を見開いた。
「奴は死んでいる、惑わされるな」
アズがその場にいるクルーすべてを怒鳴りつける。多くの者は口もきけず、中には腰を抜かした者もいた。
「ガイ・タカラダ、さん」
全てを見通すような深い青の瞳で、天才博士の幻影は言った。滑るような動きで両手を広げ、少し悲しそうに首をかしげている。
「返していただけませんかな、娘を」
幽霊よ、とメアリが金切り声を上げて立ち上がり、悲鳴を上げながら広間を飛び出していった。
それには構わずに、レイは言った。
「パイオニア号、でしたか、この船の名前は。娘さえ返していただければ、パイオニア号には手を下しません。それができなければ」
ぐっと目に力を籠め、立ち上がりながらガイは言った。
「できなければ、なんだ」
ふっとレイは目を伏せた。さみしそうに微笑する。そしてゆっくりと目を開けた。冷酷な輝きが瞳に満ちている。
「力づくで、船を戻すだけです。エンゼリアに」
ハァ、とアズが不愉快そうに言い、ガイは眉をぐっとひそめた。
「船長、船長っ」
メインモニタールームに続く扉が開き、ワン・リーリンが広間に飛び込んできた。いつものクールビューティが消え失せている。目を見開き、恐怖に顔を凍り付かせながら、リーリンは叫んだ。
「船が、船がっ」
「どうした」
ガイが叫び返す。
あ、とチャックが素っ頓狂な声を上げた。唐突にレイ・ホワイトの姿が途切れたのである。
リーリンは叫び続けた。
「船が進みません、エンジンは作動しているのに、後退し始めています。このままではエンジンが」
いかん、とマイクが重たい体を起こして立ち上がり、音を立てながら走り出した。エンジンルームに向かうのだ。
「エンジンを止めるように連絡してくれ、このままじゃ爆発するぞ」
怒鳴りながらマイクは広間を後にする。
はいッ、と泣きそうになりながらリーリンがメインモニタールームに飛び込んだ。
「大将」
立ち尽くすガイの広くたくましい肩に手をかけながら、アズが言った。
「指示を、下してくれ」
ガイはゆっくりと振り向いた。
**
宇宙船パイオニア号は、エンジンの回転を止めた。
ゆっくりと、だが確実に後退してゆく。
そしてその速度は次第に増していった。
まるで地球そっくりに青く輝く美しい星、エンゼリアに、吸い込まれるように。
メインモニタールームでは、クルーが配置に就いていた。
中央、一段高い位置にガイ・タカラダが座り、ボブヘアの小柄なサラ・アイアンが、体のわりに通る声でエンジンの起動状態をカウントしている。
安定感のあるお尻が椅子から食み出しているメアリ・バートラム、キリギリスのように痩せたチャック・モーガン、東洋風のつり目と薄い唇、艶のある長い黒髪のワン・リーリンの三人が前方、左舷、右舷のモニターに目を凝らし、異常がないか確認している。
そして後方確認は、ガイの後席に陣取るパイ・ヤンの仕事だ。
発信直前の独特の緊張感が、メインモニタールームに満ちている。
「前方、異常ありません」
「左舷、異常ありません」
「右舷、異常ありません」
「後方、異常ありません」
サラ・アイアンのカウントが機械的に続く。
「テン、ナイン、エイト、セブン」
そっとパイが後ろから顔を寄せ、ガイにささやく。
「アズがまだ起きているうちに行って。マリオンが回収してきた資料のことで話があるみたい」
ガイが、目だけで頷く。
「フォウ、スリー、トゥー、ワン、ゼロ。パイオニア号、エンゼリアより後方発進、大気圏より脱出します」
ブー。
パイオニア号全体にサイレンが鳴り響く。
白い通路に、クルーの部屋に、倉庫に、エンジンルームに、厨房に、そして、コロニー部に。
「重力装置が完全に作動するまで、静止してください。重力装置が作動するまで動かないでください」
コロニー部では、のどかに雲が浮かぶ青空から、女性の声で指令がかかった。
田園でトラクターを動かしている農夫、果樹園で果実をもいでいる女性たちが動きをとめ、近くの大木にしがみつく。商店街はにぎやかな音楽があちこちで掛かっているが、店員も客たちも速やかに動きを止める。
お盆を持ったウェイトレスが、近くのテーブルに盆を置き、店の柱にしがみつく。
ケーキセットを食べていた親子はテーブルの下に入り、やんちゃざかりの子供を、母親が慌てて捕まえて自分の胸の下に押し込む。「いやだママ、いやだよ」「じっとして、いい子だから…」
そしてクルーたちが働くパイオニア号メイン部では、出発前の独特の緊張感が各部署に満ちていた。
「重力装置が作動するまで危険です。重力装置が作動するまで、静止してください…」
女性のアナウンスが繰り返されている。
その声を聴きながら、アズは厳しい顔で本を――「エンゼリア史」と、金文字でタイトルされた厚い本を――にらみつけていた。明らかに寝不足の顔をしている。もともと不機嫌そうなつくりの顔だちが、隈とやつれた頬に落ちた影のせいで、余計にきつくなっていた。
足を高々とくみ上げた上司の後ろで、カメオが気弱そうな顔に緊張を走らせながら立っている。
カメオの後ろには、ふてくされたような顔でパイプ椅子に腰を下ろしているクリスがいた。
ベッドに腰掛けて、三人と対峙しているのはマリオンである。ガラスのように表情をなくしたアクアマリンの瞳で、茫然と座り込んでいる。
ガクン、と大きな衝撃が走り、そして突然体重が軽くなった。上昇し、ゆっくりと落ち着くように重力装置が働き始める。やがて、すっかり落ち着き、せわしないアナウンスが鳴りやんだ時、やっとアズが口を開いた。
「……とんでもない話だ」
低い声は無感情だった。だが、アズの目は鋭く光ってマリオンをとらえている。
「ありえることだと思います」
マリオンは答えた。白い、陶器のような頬が、一瞬けいれんを起こしたように震える。
「……父が既に亡くなっている、にも関らず、エンゼリアを支配し、地球を攻撃するよう兄に指示を出し続けている――」
エンゼリアが地球を攻撃し続けることは、エンゼリアが人類を叡智のもと、最も輝かしい未来へ導くためには必然のことであり、後世に続くエンゼリア人の使命となるであろう。
全能なるエンゼリアの創生主、レイ・ホワイト(ホワイト一世)は宇宙歴597年8月に逝去するも、その優れた頭脳はエンゼリア中心部に安置され、エンゼリアを導き続けている。
エンゼリアの名の由来は、エンゼリアが天使すなわちエンゼルの守る星であるということからである。
宇宙歴599年の時点では、正統なエンゼリア人は二人――頭脳のみとなり生き続けるホワイト一世とその息子、デューカ・ホワイト(ホワイト二世)のみであるが、翌600年には完全なるイヴの記憶を引き継いだ選ばれし妃との婚姻を経て、子孫を得――。
アズがぶつぶつと読み上げた。
おぞましい、と、つぶやくようにマリオンは言うと唇を噛んだ。
カメオが心配そうにマリオンを見つめている。
「おかしいわ、だって今は599年でしょう、なんで未来のことまで書いてあるのよ」
教科書でしょ、と、それまで蚊帳の外で黙りこくっていたクリスが口をはさんだ。
「こいつぁ、テキストの一番後ろのほうに書いてあるんだよ。お勉強がこの部分にさしかかる頃には、あの黒髪のショウ・シャンは完全にマリオンとして、まやかしの世界に根付いている予定、だったんだろう」
だって、兄と妹でしょう。
またクリスが口をはさんだ。
マリオンは額に手を当てて俯いた。ひどく青ざめている。
「マリオン、大丈夫か。少し横になったほうがいい…」
カメオが見かねて声をかけた時、ノックもなく扉が開いた。
厳しい表情のガイが入室してくる。
ベッドに腰掛けて俯いているマリオンをちらりと見ると、ガイはアズの横にきた。
「来たか大将」
アズは立ち上がり、ううんと伸びをする。
「会議が必要だぜこれは。ちょっと予想もしてないことが起きている、らしい。あくまで憶測だがな」
「……平たく言って、なんだ」
ガイが問いただすように言うと、アズは口元だけで笑った。
「レイ・ホワイトは既に死んでいる。エンゼリア人は現在二人、正確には一人だけだ。地球は、たった一組の、誇大妄想親子にかき回されたってわけだ」
ガイたちが出て行った後、突然静かになった部屋で、マリオンは身動きせずに俯き続けていた。
カメオはそんなマリオンを見て、立ち尽くしたままである。
クリスは情けなさそうにそんな二人を眺めていたが、やがて泣きべそを浮かべて部屋から走り出て行った。
クリスの甘い残り香が漂っている。
「マリオン」
決心したように、カメオが動いた。そっとマリオンの横に座ると、肩に手を触れようとする。
「追ってあげないの」
ぴりりとした声でマリオンが言い、カメオは伸ばしかけた手を止める。
アクアマリンの瞳が、ややきつい表情でカメオを捉えていた。
「放っておけない、君を」
カメオはマリオンの背中に手を回したが、マリオンの反応は薄かった。石のように身動きしないまま、マリオンは言った。
「わたしもエンゼリア人なんだわ」
「マリオン、それは」
「一人にして」
カメオの胸を押すと、マリオンは素早くベッドにもぐりこみ、毛布を頭からかぶった。
「行って。一人にして」
「マリオン――」
**
メインモニタールームに続く広間は、急遽、会議室に変わる。
パイプ椅子を寄せ集めて円陣を作り、ガイ、パイ、アズの他、手の空いたクルー達がそこに座った。
皆、手元に配られた資料に目を走らせている。
「恐らくこの資料は真実、もしくは真実に近いと思われる。なぜならば、自分たちの身内になる予定の女の子を、こいつで教育しようとしていたんだから」
アズが言うと、チャックが丸めた資料で肩を叩きながら顔をしかめた。煙草を禁じられたので、仕方なくガムを噛んでいる。くちゃくちゃと音をさせながらチャックが発言した。
「んでもよ、脳みそだけになったレイ・ホワイトがエンゼリアを支配しているのだとしたら、そいつをぶっ壊せば済む話じゃないんすか」
気に食わない、というようにアズが眉間にしわを寄せる。
ガムやめなよ、ガム、と、チャックの隣にちょこんと座っているサラが、そっと耳打ちした。
エンジンルームの長であるマイクが、太った腹を窮屈そうにまげて資料に目を走らせている。近眼が進み、分厚い眼鏡をかけている。この中では最年長だ。
「だが、連中は本物のマリオンが生きていること、しかもこのパイオニア号のクルーであることを知っちまったんだろう」
脂の多い団子鼻から、ずり落ちてくる眼鏡を小指で支えながら、マイクが言った。
「こんな予定なんざ破り捨てて、本物を欲しがると思うんだがな、俺は」
「いくら記憶を移植しても、胎児の時点からDNAをいじられ、優秀な『エンゼリア人』として作り上げられた本物には叶わない」
メアリが二重アゴに押された喉から、すこししゃがれた声を絞り出して言う。
「わたしは知らないのよ。一体、どうしてマリオンは7歳の時点で父親と兄から離別したの。そんなにマリオンにこだわるなら、ずっと離さないでいればよかったのに。母親は何をしてるのよ?」
ガイは厳しい表情で口を引き結んでいる。
アズは溜息をついた。
空気を呼んだサラが、そっと言った。
「……マリオンにもプライベートはあるわ。おかしな父親に7つまでの記憶をもぎとられて捨てられたんでしょう。それだけで十分よ、そっとしておいてあげて」
「人類にかかわることよ」
自分の図々しさを指摘されて、むっとしたメアリが食い下がる。
「それにこのままじゃマリオンだって信じられない。あの子はエンゼリア人でしょう、なんたって家族なのよ」
ざわついた空気を見回して、ガイとアズは目を見合わせた。
苦い顔で頷きあうと、ガイが重たい口を開く。
「7つの時に離婚したんだよ、両親が」
眉間にしわを寄せながら喋るガイを、アズがちらっと眺めた。
「母親は心神喪失状態だった。離婚時、マリオンは記憶をもぎ取られていたが、それは、レイ・ホワイトにとってマリオンの価値がそういうものだったからだろう。兄のデューカを慕い、己の優秀さをよく知っている、そういった幼い記憶を抜き取ったんだ。レイにはそれができた。その技術が、彼にはあった」
まるで、マリオンの痛みが自分の痛みであるかのように、ガイは眉間に深くしわを刻み、目元に影を作る。
(マリオン、マリオン――)
「母親は」
追い打ちをかけるように問いかけたメアリの声を制するように、ガイは咳払いをした。鋭い目だった。
「母親はまもなく亡くなった。自殺と聞いている。マリオンは施設で育ったんだ」
どうだ満足か、と、ガイが言いかけたのを、かき消すようにアズが怒鳴るように言った。
「クルー個人のことについては、これ以上追及するな」
さすがのメアリもしゅんとした。
壮絶な過去を持つ痛みは、誰もが知っている。
みんな、家族や大切な誰かを唐突に失っている。ある日、突然、エンゼリアと名乗る得体のしれない敵が来襲したのだ。燃え上がる建物、崩れる家屋、逃げ惑う人々。あの風景を、ここにいる誰もが知っていた。
しいんとした重たい空気を破るように、またマイクが口を開いた。
「それにしても、俺なら本物の娘を取り戻そうとするがね」
「でも、パイオニア号は無事にエンゼリアから離れたわ」
サラが身を乗り出して言った。
「そうだな、連中がマリオンを取り戻すことはできんさ」
マイクが大きく頷く。「だからこそ、俺は心配なんだよ。俺たちは本当にエンゼリアから抜け出したのか、ってね」
「マイク、それは、どういう」
ガイがけげんそうに言いかけた時だった。
アズの表情が凍り付いた。
女性たちは悲鳴を上げ、その場にいる誰もが愕然とした。
ざざ。ざざざ。ざざざざ。………。
クルーが作る円陣の中央に、途切れながら映像が現われた。
まるで、ディスプレイに映し出した動画が、突然電波妨害され、砂嵐が発生したかのような(ざざ。ざざざ)ぎこちなさで、そのものは唐突に姿を現した。
「どうやらご健在のようですな」
優雅に貴族風なお辞儀をしながら(ざざざ。ざざ…)白髪の彼は言った。微笑を刻んだ顔で、まっすぐにガイ・タカラダを見つめている。
「レイ・ホワイトだ」
俺知ってる、テレビで見たことあるんだ、とチャックが早口で叫び、目を見開いた。
「奴は死んでいる、惑わされるな」
アズがその場にいるクルーすべてを怒鳴りつける。多くの者は口もきけず、中には腰を抜かした者もいた。
「ガイ・タカラダ、さん」
全てを見通すような深い青の瞳で、天才博士の幻影は言った。滑るような動きで両手を広げ、少し悲しそうに首をかしげている。
「返していただけませんかな、娘を」
幽霊よ、とメアリが金切り声を上げて立ち上がり、悲鳴を上げながら広間を飛び出していった。
それには構わずに、レイは言った。
「パイオニア号、でしたか、この船の名前は。娘さえ返していただければ、パイオニア号には手を下しません。それができなければ」
ぐっと目に力を籠め、立ち上がりながらガイは言った。
「できなければ、なんだ」
ふっとレイは目を伏せた。さみしそうに微笑する。そしてゆっくりと目を開けた。冷酷な輝きが瞳に満ちている。
「力づくで、船を戻すだけです。エンゼリアに」
ハァ、とアズが不愉快そうに言い、ガイは眉をぐっとひそめた。
「船長、船長っ」
メインモニタールームに続く扉が開き、ワン・リーリンが広間に飛び込んできた。いつものクールビューティが消え失せている。目を見開き、恐怖に顔を凍り付かせながら、リーリンは叫んだ。
「船が、船がっ」
「どうした」
ガイが叫び返す。
あ、とチャックが素っ頓狂な声を上げた。唐突にレイ・ホワイトの姿が途切れたのである。
リーリンは叫び続けた。
「船が進みません、エンジンは作動しているのに、後退し始めています。このままではエンジンが」
いかん、とマイクが重たい体を起こして立ち上がり、音を立てながら走り出した。エンジンルームに向かうのだ。
「エンジンを止めるように連絡してくれ、このままじゃ爆発するぞ」
怒鳴りながらマイクは広間を後にする。
はいッ、と泣きそうになりながらリーリンがメインモニタールームに飛び込んだ。
「大将」
立ち尽くすガイの広くたくましい肩に手をかけながら、アズが言った。
「指示を、下してくれ」
ガイはゆっくりと振り向いた。
**
宇宙船パイオニア号は、エンジンの回転を止めた。
ゆっくりと、だが確実に後退してゆく。
そしてその速度は次第に増していった。
まるで地球そっくりに青く輝く美しい星、エンゼリアに、吸い込まれるように。