序
文字数 3,198文字
マリオン・ホワイトについて。
柔らかな金髪を肩くらいまで伸ばし、歩くたびにふわりと揺れる。日差しを浴びれば光を放つ天使の輝き。
その瞳は、アクアマリンの淡いブルー。
よく整った顔立ち。きゃしゃで優雅な手足。
全身を映し出す鏡の前で、白いリネンの寝間着をきた姿で、くるりと回ると真っ白なすねが見える。
魔法で足を手に入れた、儚い人魚姫。そんな少女、マリオン。
その朝は、いつもとは何かが違った。
どこがとはっきりとは言えない。
ただ、何か――例えば目覚まし時計の音程がほんの僅か、高く感じたとか、トースターの焼き上がりがいつもより数秒遅く感じたとか、そういう、誰にも気づかないほど微かなもの。予兆とも言えないほどのもの。
ひどくだるい頭を振りながら、マリオンは目覚め、ドレッサーに向かい、髪の毛を整え、茶と白を基調とした制服を身に着けた。
台所に入ってゆくと、兄が新聞を広げ、コーヒーを飲んでいた。いつもの通り、寸分も違わない。正確な――そう、極めて正確な――日常の風景。
黒髪のデューカは、顔立ちや顔の色などは妹と瓜二つだ。ただ、髪の色と目の色が違った。
夜の申し子のような漆黒の髪と瞳。痩身ながら針金のように力強い四肢は、エネルギッシュに動く。新聞記者という仕事は、マリオンには想像できないほどハードなものらしい。兄と顔を合わせることができるのは、毎朝、学校に行く直前の、ほんのわずかな時間だけであった。
マリオンはあくびを噛み殺しながらパンをトースターにセットし、ココアを作り、テーブルに着く。
眼鏡をかけた兄が新聞をたたみ、気がかりそうに見つめた。
「なあに」
「どうしたんだ今日は。顔色が良くないが」
そうかな、と、マリオンは呟いた。チーンと元気な音を立てたパンを取りに立ち上がる。
「休むか、今日は」
兄が過保護ぶって、そんなことを言うので、マリオンはちょっと笑った。
「いいよ、大丈夫だよ。今日はテストだし、行かなきゃ」
言ってから、ああそうか、テストだった、一夜漬けしたせいで感覚がおかしいのかな、と思い当たる。
もやっとした、奇妙な感覚は、しかし、パンを半分ほど食べると、もうよくなった。
「本当に大丈夫なのか」
玄関までついてくる兄貴を振り返り、マリオンはにたっとして、それからベエーと舌を出してやった。
こらっ、という声を背に、ドアを閉めてエレベーターに走る。4階建てマンションの最上階が自宅だった。
ティン、と軽やかな音と同時にエレベーターは開き、走りこむと、先客が乗っていたのでぎょっとした。
「おはよう」
「あ、おはようございま…」
デューカと同じくらいの年齢の青年が、屈託なく笑っている。黄色がかった顔色と、黒髪、そして親しみやすい顔立ち。いかにも気さくに挨拶をしてきたのだが。
(誰だろう、このマンションにこんな人、いないと思うけれど)
荒い手編みのセーターを着て、ジーンズをはいて、ラフな姿である。さっきまで部屋でくつろいでいたような恰好だ。
「マリオン・ホワイト…さん」
名前を呼ばれたので、ぎょっとした。
にこにことした笑顔の底に、ぎらりとしたものが見える。何か意図を秘めた目が、すぐそこまで来ていた。
肩をつかまれた時、エレベーターが開いた。転がるようにしてエレベーターから飛び出すと、一階のエントランスを横切り、外に走り出る。
息を切らしながら立ち止まって振り返るが、男が追ってくる様子はない。
(変)
大通りに出よう、そうしたらもう安全だから。
速足で歩きながらマリオンは何となく上を見た。ちょうど台所の窓が見えるからだ。すると、タイミングよく兄が顔を出して、気がかりそうな視線でマリオンを探した。
「デューカ」
と、呼ぶと、はっとしたようにマリオンを見つけ、なぜか脱力したように笑っている。
「このー」
マリオンは虚勢を張った。自分はなんともない、いつもどおりだとアピールせずにはいられなかった。
元気ぶって、めいっぱい手足を使った、秘密の合図。幼いころから使っている、二人だけの信号を送る。
シ・ス・コ・ン
この、シスコン!
ぎょっとしたように目を剥き、何か叫んでいる兄をしり目に、ケラケラと笑ってマリオンは走り出した。
見知らぬ男に呼びかけられたこと以外は、いつもとほとんど変わらない朝だった。
何かおかしい、ちょっと変、と感じたのはごく微々たること。
思うそばから、煙のように疑いが晴れた。
いいえ、ここは「いつもの場所」。
わたしは「いつものマリオン」。
何もおかしいことはない。おかしいのは徹夜で勉強した自分のオツム。
マ・リ・オ・ン。
わたしは、マリオン。
異変がはっきりと訪れたのは、午後のテストの時だった。
苦手な数学を何とか切り抜けた後のこと。
それは歴史のテストの最中だった。
40人きっかりの生徒たちが、整然と並んだ机に向かい、答案に鉛筆を走らせている。その時、一瞬、奇妙に明るい光が走った。
それはどこからきた光なのか。
教室全体が白色に包まれた。マリオンは目が眩んで叫び声をあげた。
同じように他の生徒たちも悲鳴を上げ、がたがたと立ち上がる音が響いた。
閃光の中で、目が眩んだ状態で走り回る生徒たちは、ぶつかりあい、さらなる悲鳴が生まれる。
「落ち着きなさい、落ち着いて、落ち着き…」
教師の声にも悲鳴が混じる。
ガラスが次々に割れる音がして、マリオンも肩に熱い痛みを感じた。
本能的に椅子から降り、机の下に飛び込んで頭を抱える。
轟音が響いて、学校全体が揺れた。
気がつくと、がれきの中に、マリオンは倒れていた。
机に隠れていたのと、柱の陰の席にいたのが幸いしたらしく、マリオンは無傷であった。
立ち上がると教室は見事に壊れ、天井もなくなっている。そろりそろりとがれきの上を探り歩くと、つぶれた机の下から、誰かの制服の切れ端が見えた。
制服の切れ端。
じゃあ、制服を着ていたクラスメイトは。
マリオンは悲鳴を上げた。その悲鳴が、頭の中で不思議な反響を含みこだました。怯え、ほとんど正気を失いながら、廊下に走り出た。
奇妙なことに、破損したのはマリオンのいた教室だけらしい。学校の廊下はいつも通りである。
ただ、人が全くいないのが不気味だった。
ごとごと心臓が音を立て始め、マリオンは冷たい汗をかいた。
何か、とんでもないことが起きている。何か、説明のできないような、何かが。
と、マリオンは足を止めた。
今しがた通り過ぎた全身鏡に、ありえないものが映っていた。ような気がした。
(バカな、そんなバカな)
目を閉じて、呼吸を整える。
いや、そんなはずはない。
そんなはず。
ゆっくりと振り向き、鏡を見つめ、それから。
「なに、これ」
(わたしはマリオン)
(マリオンは金髪で、碧眼の、まるで人魚姫が魔法で地上に足を踏み入れたような)
「うそ、違う、こんな」
(そんな娘が、マリオン・ホワイト)
調子の狂った悲鳴が、無人の学校に響く。
そしてマリオンは駆け出した。
転びながら廊下を駆け抜け、階段を駆け下り、内履きのまま外に飛び出して、うちに向かう。
うちへ。マリオンのうちへ。
「デューカ、デューカあっ」
全身鏡に映っていたのは、固い黒髪をおさげにした、黒い瞳の小柄な少女。
それは見知らぬ姿だった。断じて、そんな貧相なうつしみは、デューカ・ホワイトの妹、マリオン・ホワイトのものではない。
そんなことが、あってなるものか。
柔らかな金髪を肩くらいまで伸ばし、歩くたびにふわりと揺れる。日差しを浴びれば光を放つ天使の輝き。
その瞳は、アクアマリンの淡いブルー。
よく整った顔立ち。きゃしゃで優雅な手足。
全身を映し出す鏡の前で、白いリネンの寝間着をきた姿で、くるりと回ると真っ白なすねが見える。
魔法で足を手に入れた、儚い人魚姫。そんな少女、マリオン。
その朝は、いつもとは何かが違った。
どこがとはっきりとは言えない。
ただ、何か――例えば目覚まし時計の音程がほんの僅か、高く感じたとか、トースターの焼き上がりがいつもより数秒遅く感じたとか、そういう、誰にも気づかないほど微かなもの。予兆とも言えないほどのもの。
ひどくだるい頭を振りながら、マリオンは目覚め、ドレッサーに向かい、髪の毛を整え、茶と白を基調とした制服を身に着けた。
台所に入ってゆくと、兄が新聞を広げ、コーヒーを飲んでいた。いつもの通り、寸分も違わない。正確な――そう、極めて正確な――日常の風景。
黒髪のデューカは、顔立ちや顔の色などは妹と瓜二つだ。ただ、髪の色と目の色が違った。
夜の申し子のような漆黒の髪と瞳。痩身ながら針金のように力強い四肢は、エネルギッシュに動く。新聞記者という仕事は、マリオンには想像できないほどハードなものらしい。兄と顔を合わせることができるのは、毎朝、学校に行く直前の、ほんのわずかな時間だけであった。
マリオンはあくびを噛み殺しながらパンをトースターにセットし、ココアを作り、テーブルに着く。
眼鏡をかけた兄が新聞をたたみ、気がかりそうに見つめた。
「なあに」
「どうしたんだ今日は。顔色が良くないが」
そうかな、と、マリオンは呟いた。チーンと元気な音を立てたパンを取りに立ち上がる。
「休むか、今日は」
兄が過保護ぶって、そんなことを言うので、マリオンはちょっと笑った。
「いいよ、大丈夫だよ。今日はテストだし、行かなきゃ」
言ってから、ああそうか、テストだった、一夜漬けしたせいで感覚がおかしいのかな、と思い当たる。
もやっとした、奇妙な感覚は、しかし、パンを半分ほど食べると、もうよくなった。
「本当に大丈夫なのか」
玄関までついてくる兄貴を振り返り、マリオンはにたっとして、それからベエーと舌を出してやった。
こらっ、という声を背に、ドアを閉めてエレベーターに走る。4階建てマンションの最上階が自宅だった。
ティン、と軽やかな音と同時にエレベーターは開き、走りこむと、先客が乗っていたのでぎょっとした。
「おはよう」
「あ、おはようございま…」
デューカと同じくらいの年齢の青年が、屈託なく笑っている。黄色がかった顔色と、黒髪、そして親しみやすい顔立ち。いかにも気さくに挨拶をしてきたのだが。
(誰だろう、このマンションにこんな人、いないと思うけれど)
荒い手編みのセーターを着て、ジーンズをはいて、ラフな姿である。さっきまで部屋でくつろいでいたような恰好だ。
「マリオン・ホワイト…さん」
名前を呼ばれたので、ぎょっとした。
にこにことした笑顔の底に、ぎらりとしたものが見える。何か意図を秘めた目が、すぐそこまで来ていた。
肩をつかまれた時、エレベーターが開いた。転がるようにしてエレベーターから飛び出すと、一階のエントランスを横切り、外に走り出る。
息を切らしながら立ち止まって振り返るが、男が追ってくる様子はない。
(変)
大通りに出よう、そうしたらもう安全だから。
速足で歩きながらマリオンは何となく上を見た。ちょうど台所の窓が見えるからだ。すると、タイミングよく兄が顔を出して、気がかりそうな視線でマリオンを探した。
「デューカ」
と、呼ぶと、はっとしたようにマリオンを見つけ、なぜか脱力したように笑っている。
「このー」
マリオンは虚勢を張った。自分はなんともない、いつもどおりだとアピールせずにはいられなかった。
元気ぶって、めいっぱい手足を使った、秘密の合図。幼いころから使っている、二人だけの信号を送る。
シ・ス・コ・ン
この、シスコン!
ぎょっとしたように目を剥き、何か叫んでいる兄をしり目に、ケラケラと笑ってマリオンは走り出した。
見知らぬ男に呼びかけられたこと以外は、いつもとほとんど変わらない朝だった。
何かおかしい、ちょっと変、と感じたのはごく微々たること。
思うそばから、煙のように疑いが晴れた。
いいえ、ここは「いつもの場所」。
わたしは「いつものマリオン」。
何もおかしいことはない。おかしいのは徹夜で勉強した自分のオツム。
マ・リ・オ・ン。
わたしは、マリオン。
異変がはっきりと訪れたのは、午後のテストの時だった。
苦手な数学を何とか切り抜けた後のこと。
それは歴史のテストの最中だった。
40人きっかりの生徒たちが、整然と並んだ机に向かい、答案に鉛筆を走らせている。その時、一瞬、奇妙に明るい光が走った。
それはどこからきた光なのか。
教室全体が白色に包まれた。マリオンは目が眩んで叫び声をあげた。
同じように他の生徒たちも悲鳴を上げ、がたがたと立ち上がる音が響いた。
閃光の中で、目が眩んだ状態で走り回る生徒たちは、ぶつかりあい、さらなる悲鳴が生まれる。
「落ち着きなさい、落ち着いて、落ち着き…」
教師の声にも悲鳴が混じる。
ガラスが次々に割れる音がして、マリオンも肩に熱い痛みを感じた。
本能的に椅子から降り、机の下に飛び込んで頭を抱える。
轟音が響いて、学校全体が揺れた。
気がつくと、がれきの中に、マリオンは倒れていた。
机に隠れていたのと、柱の陰の席にいたのが幸いしたらしく、マリオンは無傷であった。
立ち上がると教室は見事に壊れ、天井もなくなっている。そろりそろりとがれきの上を探り歩くと、つぶれた机の下から、誰かの制服の切れ端が見えた。
制服の切れ端。
じゃあ、制服を着ていたクラスメイトは。
マリオンは悲鳴を上げた。その悲鳴が、頭の中で不思議な反響を含みこだました。怯え、ほとんど正気を失いながら、廊下に走り出た。
奇妙なことに、破損したのはマリオンのいた教室だけらしい。学校の廊下はいつも通りである。
ただ、人が全くいないのが不気味だった。
ごとごと心臓が音を立て始め、マリオンは冷たい汗をかいた。
何か、とんでもないことが起きている。何か、説明のできないような、何かが。
と、マリオンは足を止めた。
今しがた通り過ぎた全身鏡に、ありえないものが映っていた。ような気がした。
(バカな、そんなバカな)
目を閉じて、呼吸を整える。
いや、そんなはずはない。
そんなはず。
ゆっくりと振り向き、鏡を見つめ、それから。
「なに、これ」
(わたしはマリオン)
(マリオンは金髪で、碧眼の、まるで人魚姫が魔法で地上に足を踏み入れたような)
「うそ、違う、こんな」
(そんな娘が、マリオン・ホワイト)
調子の狂った悲鳴が、無人の学校に響く。
そしてマリオンは駆け出した。
転びながら廊下を駆け抜け、階段を駆け下り、内履きのまま外に飛び出して、うちに向かう。
うちへ。マリオンのうちへ。
「デューカ、デューカあっ」
全身鏡に映っていたのは、固い黒髪をおさげにした、黒い瞳の小柄な少女。
それは見知らぬ姿だった。断じて、そんな貧相なうつしみは、デューカ・ホワイトの妹、マリオン・ホワイトのものではない。
そんなことが、あってなるものか。