クジラのストランド
文字数 11,594文字
わが国の海軍と空軍は、必ずしも仲が良いわけではない。
武器や兵器を共同開発するどころか、人事交流さえほとんどない。
ある水兵が定年まで勤め上げたとしたら、その中で知り合う海軍軍人は何百という数にのぼるだろうが、空軍に所属する知人となるとせいぜい数人、もしかしたら本当にゼロかもしれないほどだ。
だから私もそういう覚悟をしていたのだが、ある日、空軍からお呼びがかかったのには本当に驚いた。
空軍司令部から緊急の要請があり、
「海軍士官を一人貸してほしい」
ということだったのだ。
それだけでも十分なのに、貸してほしいと言われたのが竜騎兵の仕官だったというのは二重の驚きだ。
しかもかなりの緊急事態らしく、
「とにかく今すぐ貸せ」
と言ってきたのだ。
この日、竜騎兵指揮所の当直仕官はアップル大尉であり、私は彼の直属の部下だ。
あの不精なアップル大尉が自分で出かけるはずはなく、
「スミス少尉、おまえが行け」
ということになったのだ。
理由の説明はなかったので空軍が何を考えているのやらさっぱりわからず、何かの準備をするひまもないままに空軍の公用車が姿を見せてしまった。
ハイウェイをかっ飛ばし、三十分後には私は空軍基地へ連れてこられていた。
はじめてやってきた場所なので何もかもが目新しく、私はキョロキョロしていたに違いない。
自動車から降ろされ、いかにも入営したてという感じの当番兵に案内され、私は基地の中を歩いていった。
当たり前だが広い滑走路があり、エンジンがかかっていたり、プロペラを停止させていたりはするが、戦闘機や爆撃機、輸送機などの姿が、私にはとても珍しかった。
飛行機の燃料にするためだろう。滑走路のかなたには丸い形をしたガソリンタンクの群れが見えている。
だが物珍しさを感じているのは私だけではないようだった。
ここでは、空軍兵士たちの姿をもちろん目にすることができた。
そして彼らは海軍の、特に竜騎兵の制服など目にしたこともなかったのだろう。
歩いている者は立ち止まり、話をしていた者は口を閉じ、別の者は仕事の手を止め、工具を置いて私を眺めているのだ。
それも、いかにも遠慮なくじろじろとだ。
暑い夏の日のことだ。
私の制服の青色が光をはね返していたのかもしれない。
胸のクジラ形バッジがまぶしかったか、あるいは子供のおもちゃのように見えたのかもしれない。
私はひどく居心地が悪かったが、とうとう空軍兵士の一人が、若い当番兵に声をかけた。
「おいジャック、そのクジラ乗りをおまえはどこへ連れていこうとしているんだ?」
まわりには数人の兵士がおり、みな耳をそばだてている。
「グリーン大尉のところへであります。司令部から何か命令があったらしいです」
「司令部から?」
「はい、それ以上のことは自分は聞いておりません」
当番兵と私は再び歩き始めた。
そして滑走路を横切り、とうとう目的地に着いたのだ。
駐機場というのか、飛行機を止めておく広い場所だが、そこでグリーン大尉が私を待っていた。
彼女の隣には二人乗りの戦闘機があり、すでにエンジンもかかり、プロペラをゆっくりと回転させている。
古いスクーターのようなパタパタとうるさい排気音を響かせているのだ。
グリーン大尉は小柄だが、それは軍人としてはということで、女としては普通の身長かもしれない。
髪は私よりももっと短く刈ってあり、毛の長さは本当に1センチほどしかないだろう。
まるでタワシのような見かけではないか。
飛行服を身につけ、黒い皮のブーツをはいている。
「ご苦労」
と短く言うだけで、グリーン大尉は当番兵を追い払ってしまい、私に向かっては、自分と一緒に戦闘機へ乗り込めと身振りをするではないか。
「一体どこへ行くのですか?」
「時間がないのだ。説明は飛行中に行う」
上官の命令では仕方がない。
私はハシゴの手すりをつかむしかなかった。
飛行艇ならともかく、戦闘機など私は近くへ寄ったこともなかった。
排気ガスを吸ってむせかけたが、表情には出さないことにした。
機内は想像以上に狭く、操縦席に座ると箱の中に押し込まれたような気分になる。
これではまるで、どこかの遺跡の古代ミイラのような姿勢ではないか。
風防ガラスをカチンと閉める音が聞こえたので顔を上げると、いつの間にかグリーン大尉も乗り込んでいた。
彼女が自分で操縦するのだろう。
目の前には操縦桿(そうじゅうかん)やレバー、いろいろな機器が並んでいる。
それらが一体どのように使うものなのか、私には見当もつかなかった。
狭いイスの上で身をよじり、グリーン大尉はシートベルトの締め方を説明してくれた。
それから司令塔と無線で交信し、アクセルをグイと開け、戦闘機は滑走を始めたのだ。
生まれて初めて乗る戦闘機とはどういうものだったか、と私に質問しないだけの親切心を、あなたが持ち合わせていればいいのだが。
戦闘機の乗り心地とは、つまりそういうものだ。
旋回と上昇を終え、水平飛行に移ってすぐ、グリーン大尉は言った。
「私が操縦する飛行機に乗ってゲロを吐かなかったのは、おまえが初めてだ。ほめてやるよ」
実は本当にのどまで出かかっていたのを、私は一生懸命に我慢していたのだ。
だがグリーン大尉は明らかに笑いを浮かべていたので腹が立ち、何があっても弱音ははくまいと心に決めた。
「お言葉ですが、このくらいの揺れで音を上げるようではクジラには乗れません。大尉はきっと、マッコウクジラの高速航行をご存じないのだと思います」
フンと鼻を鳴らすのが聞こえ、それが彼女の返事だったようだ。
「これからどこへ行くのですか?」
「偵察機が奇妙な物を発見した。だが危険なものなのか、対処する必要があるのか見当がつかなくてな。だから海軍さんに見てもらうことになった」
「クジラと関係があるのですか?」
「よくわからんから、おまえを呼んだのだよ」
目的のものが見えてきたのは二十分ほどたってからのことだった。
最初それは、川の急流のように海が激しく流れているのだと思えた。
それほど波が鋭く盛り上がり、白く泡立っているのだ。
私は思わず目をこすったが、あんな場所に強い海流などあるはずはない。
だから、それらがぶつかりあって波を立てるということもありえない。
「あれは何だと思う?」グリーン大尉の声が聞こえた。
「さあ、わかりません」
「近寄ればわかるさ。腰を抜かすな」
アクセルをしぼり、操縦桿を押し下げ、グリーン大尉は高度を下げていった。
ガラスに顔を押し付け、私が目玉を精一杯、下へ向けたのはいうまでもない。
次第に様子がわかってきた。
グリーン大尉は言った。
「何頭いるかわかるか? さっきも数えてみようとしたのだが、途中でわからなくなった」
「三十から三十五頭というところでしょうか」
「なぜわかる?」
「私も数えたわけではありません。でも一つの群れはいつも大体その程度の大きさですから」
「クジラの種類はわかるか?」
「ゴンドウクジラです。あまり大型の種類ではありません」
「あれでか?」
あきれたような声を出し、グリーン大尉はかじを切った。
とたんに機体が大きく傾き、私は窓ガラスに強く押し付けられることになった。
激しく動くクジラのヒレのせいで、まるで洗濯機の内部のように海岸は白く波立っている。
「やつらは何を考えているのだ?」
というグリーン大尉の声が耳に届いたが、私は返事をするのも忘れていた。
話には聞いていたが、実際に目にするのは初めてだったのだ。
クジラの群れが丸まま一つ、海岸に打ち上げられている。
丸々として、棒のように長い物体が並んで横たわっているのは、まるでソーセージ屋が突然、店内のありとあらゆる商品に日光浴をさせる気になったかのような眺めではないか。
だがここは何もない砂浜に過ぎず、白い砂に向かって波が打ち寄せ、特に変わった風景ではない。
同じような景色の場所は、世界中どこにだって見つけることができるだろう。
そこへ打ち上げられているのだから、クジラたちはみな砂の上に身を横たえているわけだ。
水はごく浅く、黒い肌をした体を波が洗っているだけだが、それでも気がすまないのか、クジラたちはまだヒレを動かしつづけている。
しかしクジラたちは、なんとかして海へ戻ろうとしているのではない。
その反対で、明らかに陸の方向へ向かって進もうとしているではないか。
手足を持たないクジラが陸へ上がっても何もよいことはない。
せいぜい日干しになって死ぬだけのことだ。
再びグリーン大尉の声が聞こえた。
「おまえの座席の下に、写真の入った封筒が置いてある。取り出してみろ」
本当にその通りで、三枚の写真をすぐに見つけることができた。
みなクジラの群れが写っていて、日付も書き込んであり、撮影日は三枚とも違うが、内容は似かよっていた。
撮影場所は今私たちが飛行しているこの砂浜で、眼下の光景と同じようにクジラが何頭も打ち上げられ、それでもまだ陸を目指して、絶望的にヒレを動かし続けている。
「その三枚の写真と合わせて、同じことがこの二ヶ月で四回目ということなのだよ」グリーン大尉は言った。
「クジラたちが砂浜に打ち上げられる事件がですか?」
「クジラの集団自殺と呼ぶほうがふさわしいと私は感じるがね」
「私を呼んだ理由はこれなのですね」
操縦桿の向きを変えながら、グリーン大尉は大きくうなずいた。
「軍にも国防にもまったく関係のない現象かもしれん。だが見ていて気持ちのよいものではない。竜騎兵なら何とかしてくれるかもしれないと思ってな」
しかし空の上から何ができるというわけではない。
一度、空軍基地へ戻り、もう少し詳しい資料を受け取ったあとでまた公用車に乗せられ、私は竜騎兵指揮所まで送り届けられた。
アップル大尉が待ち構えていて、私の口から根掘り葉掘り聞き出そうとしたのはいうまでもない。
竜騎兵部隊は艦隊ではなく、海軍司令部に直接属している。
近海でのパトロールや水中の軽作業、戦時には偵察が主な任務とされている。
そのために必要なクジラを数十頭、プールに飼育しているのだ。
それゆえクジラの専門家集団だと外部からは思われているらしい。
だから時々、こういった仕事が舞い込んだのだ。
アップル大尉の許可を得て、すぐに私は、打ち上げられたクジラたちの調査を手配した。
運良く大学の協力が得られて、一匹を解剖してもらえることになった。
クジラの解剖とは大変な仕事だ。
まずクレーンを使ってクジラをトラックに積み、そろりそろりと大学に持ち帰る。
こんな暑い季節には、時間との戦いになる。
クジラの体は黒く、太陽光線を吸収して温まりやすい。
おまけにクジラは、何センチもの分厚い脂肪層を体に着込んでいるのだ。
手早く解剖しないと、体内の組織が熱で変化してしまう。
死体の調査と解剖のレポートは、二日後に私の元に届いた。
それをたずさえ、私はグリーン大尉をたずねることにした。
空軍基地の様子は前回と変わらなかったが、グリーン大尉はオフィスで私を迎えてくれた。
扇風機の風を向け、イスに座るように身振りをした。
「それで少尉、何かわかったのか?」
「ここに報告書があるので、ご覧ください」
「書類は苦手だ。おまえの口から話してくれ」
「まず一頭を解剖しました」
「あのクジラはやはりみな死んだのか?」
「そうです。砂浜に横たわり、身動きもできないままでした」
「解剖して何がわかった?」
「クジラたちは飢えてもおらず、ケガもなく、特に寄生虫に取り付かれているようでもなく、健康な個体だったようです」
「健康な動物が、あんな行動を取るのか?」
「解剖できたのは一頭だけですが、外から見るかぎり、他のクジラたちも健康そうに見えました」
「それで?」
「クジラたちの年齢はまちまちでしたが、三十五頭中、メスが二十九頭、オスは六頭という組み合わせでした」
「オスが少ないのだな」
「六頭のオスはすべて、生後数年以内の若い個体でした」
「それにどういう意味があるのだね? 私にはさっぱりわからんが」
「あの群れは一つの家族だったということです。クジラの社会は通常、女系家族制で、群れの中のメスクジラたちは互いに親子関係にあります。曾祖母、祖母、母親、娘、孫娘というわけですね。生まれてきたメスは一生涯、自分の群れを離れることなくすごすのです」
「オスはどこからやってくるのだね?」
「オスは、生まれて数年の間はメスと同じように群れの中で過ごしますが、大人になると群れを離れ、一人暮らしをはじめます。クジラの種類によっては、オスばかりでギャング団的な群れを作ることもありますが」
「いかにもむさくるしそうな連中だな。それで少尉、調査の結論は何かね?」
「砂浜に突進して死んだのは、まったく正常な普通の群れであったということです。何も特徴はありません」
「あの現象は原因不明ということか?」
「はい。でもそれでは私も寝覚めがよくありません。もう少し追求したくて、上司の許可を取りました。グリーン大尉にも少しお願いがあるんです…」
グリーン大尉はすぐに私の頼みを聞き入れてくれた。
私は竜騎兵指揮所に戻り、またいつもと同じ生活が始まった。
だが数日後の真夜中、私はたたき起こされることになった。
ドアをドンドンとたたく音で目を覚ましたのだ。
アップル大尉の声が聞こえた。
「スミス少尉、起きろ。空軍から連絡が入ったぞ」
毛布をはねのけ、私は飛び上がった。
着替えるための時間ももどかしかった。
「アップル大尉、今回の場所はどこですか?」
「前の四回と同じだよ。また同じ砂浜へ向かってクジラたちが突進中だ」
寮の正面に、アップル大尉は自動車を駐車していた。
二人で飛び乗り、アクセルを踏み込むと、再びアップル大尉は口を開いた。
「今回は運がよかった。クジラたちが砂浜に乗り上げるまで、まだ二時間はある。クジラたちの背びれが月光に反射するのを、哨戒中の偵察機が偶然発見したそうだ」
「大きな群れなんですか?」
「電報がそこにあるから、自分で読むんだな。オレは運転が忙しい」
「ふうん…。アップル大尉、高速艇は空いていますか?」
「もう用意させてるよ。あとはおまえが乗れば出発できる」
ということは、私のクジラもすでに高速艇に積み込まれているのだろう。
チビ介のことが頭に浮かぶたびに、私は幸せな気分になる。
チビ介は私のマッコウクジラで、もう何年もコンビを組んでいた。
互いにとても気が合い、指揮所にいても暇なときは私もよくプールに顔を出し、裸足になって背中に乗り、一緒に遊ぶこともあるほどだ。
アップル大尉の言うとおり、高速艇はすでにありったけの明かりをつけて、煙突から煙を出しながら、私の到着を待っていた。
私が乗船するとすぐにとも綱がほどかれ、港を出ていった。
全速力を出して、クジラたちがいる場所まで一時間ほどしかかからなかった。
今回も種類はゴンドウクジラだったが、私はまだその姿を直接見てはいなかった。
クジラたちの姿を認め、高速艇が速度を落とし始めるころ、私はすでに船倉へ降りていたのだ。
この船は特殊な構造をしていて、船首が鳥のクチバシのように大きく開くようになっている。
そこを通って、私とチビ介は海中へ出てゆくのだ。
私が船倉へ顔を出すと、チビ介はすでにそわそわしていた。
私と出会ったころはまだ子供だったが、今ではすっかり成長して、体長は十メートルを超えている。
黒い体はつやつやして、ゴムのような手触りがする。
水中から目玉を向け、私が潜水服を着込むのを今か今かと待っている。
潜水服。
これこそ竜騎兵のシンボルといえるものだ。
だが形はドラム缶に手足をつけたようなものにすぎず、格好よさとは無縁でもある。
竜騎兵はこの上に大きなヘルメットをかぶり、そのてっぺんからは、やわらかいが長く強いパイプが伸びている。
このパイプが、クジラの頭部の呼吸口を通ってその肺の奥へと達し、私の潜水服の内部へ空気を送り込んでくる。
つまり竜騎兵は、水中では相棒のクジラから空気をもらって呼吸するのだ。
私が潜水服の中へもぐりこむと、すぐにヘルメットがかぶせられ、しっかりとねじ止めされた。
空気パイプも、すでにチビ介の体に連結されている。
竜騎兵部隊に所属するクジラはすべて、この接続装置を外科手術で埋め込んである。
バルブが開かれ、私とチビ介は一つの息を吸い始めた。
かすかにすっぱい匂いのあるクジラ独特の息だ。
この匂いをかぐと、私はなつかしいような、うっとりするような不思議な気持ちになる。
アップル大尉がやってきて、私のヘルメットをポンとたたいたのは、このときのことだった。
怒鳴るような大声で、ゴンドウクジラたちの進路や速度、深度を教えてくれた。
わかったという印に指を上げ、それから私はチビ介の肌に触れた。チョンチョンとつついて合図をし、船倉を出るために前進させ始めたのだ。
海の中とはどんな景色なのかと、よく人から質問される。
それに対して、私はいつもこう答えることにしている。
「海の中は真っ暗よ。何も見えはしないわ」
まったくそれが真実なのだ。
深さ百メートルを越えると太陽の光も届かず、懐中電灯が頼りの世界になる。
ただ人間とは違い、クジラはまるでコウモリのように、超音波を使って物を見る力がある。
それゆえ竜騎兵は、深海でも相棒のクジラの感覚を頼りに行動することができる。
このときもそうで、浅い海ではあるが時間は真夜中だ。
真っ暗で何も見えはしない。
すでに私はチビ介に対して、
『クジラの群れを見つけ出し、そのあとを追え』
と指示を出していた。
敏感な耳をすませ、迷い一つ見せずにチビ介は泳ぎ始めた。
私と一緒にいるときにはいつも元気がいいので、チビ介は速度を上げて水中を進んでいった。
実のところチビ介は体重が二十トン近くあり、おまけに流線型をしているから、進ませることよりも、停止させるほうが苦労が多かったりする。
マッコウクジラの胸ビレは体に比べてとても小さく、精一杯に広げてもブレーキの効果は小さい。
目標の群れまでの距離はあまりないということが、私にも感じられるようになった。
チビ介の尾びれの動きがゆっくりになったのだ。そろそろ減速にかかるのだろう。
だが結局、私はゴンドウクジラたちを目撃することはなかった。
泳ぎながらクジラは、ときどき水面に頭を出して呼吸するのだが、水中で息を吐いて泡を作ることは、ほとんどない。
そんなことをしても、体内の貴重な酸素が無駄になるばかりだからだ。
だがクジラも、水中では絶対に息を吐かないというわけではない。
その例外的なことが、このとき私の目の前で起こったのだ。
水面下で呼吸口を開き、大きく丸い空気の泡をチビ介が吐き出すことに気がついたのは、たまたま私が懐中電灯を点灯させていたからだ。
この現象の意味は明らかだった。
「あれは何だろう? なぜなのだろう?」
と疑問を感じたとき、クジラはそうするのだ。
彼らなりの身振りだと思っていい。
その身振りを、このときチビ介が見せたのだ。
チビ介が何のことを不思議に感じているのか、私にはわからなかった。
懐中電灯を持ったままキョロキョロしたが、何も特別なものは目に入らない。
私たちのまわりはただ水が広がっているばかりで、小さな魚の姿さえなかった。
しかし私には、理由を求めて見回し続ける余裕などなかった。
チビ介の次の大きな変化が、私を大きく驚かせることになった。
チビ介は突然、全速力で走り始めたのだ。
チビ介の胸には太いベルトが巻かれ、私の潜水服はそれに鎖で止められている。
チビ介が急加速したものだから強く引かれ、私は体勢を崩してしまった。
やっと体勢を立て直して速度計をのぞき込んだ時、その数字が私をもう一度驚かせることになった。
時速三十五キロ。
針はもうほとんど振り切ってしまいそうだ。
チビ介の黒い体は、ロデオの馬のように上下に揺れ、私は自分の体をまっすぐに保つのも難しかった。
グリーン大尉の戦闘機など、これに比べれば天国のようだ。
超音波笛を用いて、もちろん私は『とまれ』という信号を出し続けた。
だがチビ介は反応しない。
こんなことは経験がなかった。
この日まで私とチビ介はとてもうまく、仲良くやってきたつもりなのだが。
私は、どうしてよいかわからなくなってしまった。
こんな状態では、いくら指示を出し続けても仕方がない。
同じことを何度繰り返しても効果はないだろう。
いまチビ介に起こっているこの現象が、あのゴンドウクジラたちに起こったことと同じであることには、私も気がついていた。
チビ介は我を忘れ、方向感覚も距離感覚もすべて失い、ひたすら暴走している。
このまま走り続ければ、いずれチビ介もあの砂浜に乗り上げてしまうことだろう。
防水紙に印刷された海図を眺め、計算してみたが、猶予はせいぜい十五分しかない。
私は背後を振り返った。
だがやはり海中は暗いばかりで、いくら目をこらしても、懐中電灯をかざしても見えるものはない。
チビ介の目玉はリンゴほどのサイズがあるのだが、それがほとんど真後ろを向いていることに気がついたのは、このときのことだった。
チビ介は、何もない背後を必死になって探っている。
私はやっと気がついた。
背後に何もいはしないのに、チビ介は強い危険を感じ、それでパニックに陥っているのだ。
背後から何者かが迫っていると感じているのだ。
でもなぜだろう?
これだけの体格と鋭い牙を備えているのだ。マッコウクジラに敵は多くない。
もし何かを恐れるとすれば、せいぜいシャチの群れぐらいのものだろう。
グリーン大尉にも話したことだが、種類にもよるがクジラは群れを作ることがある。
シャチもそうで、数に頼んで、自分よりも何倍も大きいマッコウクジラを取り囲み、狩りをすることはよく知られていた。
もしマッコウクジラがシャチから襲撃を受けるとしても、暗い海中ではそれを視覚で察知するわけではない。
超音波だ。
潜水艦と同じように、クジラは超音波ソナーを用いて、海中の様子を探る。
それはシャチが獲物を探し、追跡するときも同じだ。
私の耳には何も感じられないが、今この瞬間、チビ介の耳にはきっと何かの超音波が届いているのだろう。
シャチの姿など影もないことから、何かまったく別の物体が発するただのノイズなのだろうが、偶然だがシャチの群れが狩りをするときに発する周波数にごく近いのだろう。
チビ介の立場になって考えて欲しい。視覚よりも聴覚にずっと多くを頼っている彼には、天敵であるシャチの恐ろしい群れが今まさに迫っていると感じられるのだ。
その結果が、このわき目も振らぬパニックと暴走なのだろう。
潜水服の中で、私は少し息をつくことができた。
これで原因が明らかになったわけだ。
超音波の発生源はまだ不明だが、これだけ分かれば何か対策が取れそうな気がした。
体のバランスを崩さないように注意しながら、私は腕を伸ばした。
そして物入れの中を探り、小型の水雷を取り出したのだ。
せいぜい木造船しか沈めることのできないチャチなものだが、私が持っている唯一の爆発物だ。
手袋をはめたやりにくい中で、水流に邪魔されながら、私は作業を続けなくてはならなかった。
途中で何度も時計をのぞき込まないではいられなかった。
砂浜はだんだんと近づいてくる。
ついに水雷の用意ができた。
タイマーをセットし、きっかり三十秒後に爆発するようにした。
浮きもつけて、比重は海水と同じにしてある。
手を離し、私は水流が水雷を持ち去るにまかせた。
チビ介の尾びれを超え、水雷はあっという間に見えなくなってしまった。
水中とは、驚くほど音のよく伝わる場所だ。
水雷の爆発は、私でさえ潜水服の上からガツンと感じるほどの衝撃を与えた。
水雷は大量の泡を生み出したに違いないが、それがカーテンになって、一時的にせよ超音波を妨げてくれることを私は期待していたのだ。
それは正しかったようだ。
チビ介はすぐに我に返り、
「あれれ?」
という顔で私を見た。
もちろんこの瞬間を無駄にするわけにはいかなかった。
すぐに指示を出し、私はチビ介の進路を大きく変えさせた。
そしていくらも走らないうちに、超音波の届く範囲から脱出できたらしい。
チビ介はすっかり普段の様子に戻っていた。
必死な表情でいる私がおかしいのか、甘えて、ひれの先でチョンチョンと触れてきたほどだ。
ほっとしたのと、チビ介が無事であったことがうれしくて、私は泣きたいような気分だったが、そんな暇はなかった。
チビ介に向かって新しい指示を出し、超音波を避けてゆっくり遠回りしながら、高速艇へ帰還することにした。
気の毒なことだが、ゴンドウクジラたちにしてやれることは何もないと、もう私にはわかっていたのだ。
数週間後、私は再びグリーン大尉のオフィスを訪ねた。
「グリーン大尉、先日の件で報告に来ました」
「クジラの件か? ゴンドウクジラというのだったか? 四回目の集団自殺は防ぐことができたのか?」
「残念ながら防げませんでした。それに、あれは自殺ではありません」
「じゃあ何なのだね?」
「先日の四回目を防ぐことはできませんでしたが、あれ以降数週間たつのに、同じ現象は一度も起こっていないでしょう?」
私は、あの夜チビ介と共に経験したことを話し始めた。
グリーン大尉は目を丸くしていたが、途中で口をはさむことはなかった。
私が口を閉じるとため息をつき、とうとう口を開いた。
「その超音波を発する音源とは、一体何だったのだね?」
「クジラの暴走現象が突然起こるようになったのは、三ヵ月前からです。その頃、海で何か事件がありませんでしたか?」
「三ヶ月前か? ああ、あの大嵐のあったころだな。確か大型の軍艦が二隻、沈没したのではなかったか。しかもそのうちの一隻は空母で、おかげで海軍だけでなく、空軍まで迷惑をこうむることになった」
「ええ、あの事故です。嵐の中で操船が不能になり、二隻が衝突したのでした」
「それがクジラと関係あるのか?」
「あの空母は変わった形をしていましたね。まるで二階建てみたいに、飛行甲板が上下に分かれていました」
「ああ知っているよ。私も離着艦の訓練を受けた。しかし今は海の底なのだろう?」
「その沈没場所が問題です。偶然ですがあの空母は、海流の最も激しい場所に沈みました。水面近くだけでなく、海底にも速い流れがあるんです」
「それで?」
「実は私は、相棒のクジラと共に潜って、実際に見てきました。空母は海底でもっとも激しい流れの中央に座り込み、水流は船首の開口部から船内へ入り、船の全長を通り抜け、まるでジェットのように後部から激しく噴き出していることがわかりました」
「まさか、船体が巨大な笛のようになっているのか?」
「そうです。しかもその笛は内部がとても複雑で、いくつもの部屋に分かれ、何十もの柱や鉄骨が流れを切り裂いています。それらが複雑に振動、共鳴して、超音波を発していたんです」
「おやおやなんとまあ。するとその超音波が、クジラたちの耳には、シャチの群れが獲物を追うときの音と似て聞こえたわけだな」
「だから我々は、もはや超音波が発生することのないように処置しました。野生のクジラが翻弄されるのは国防に関係ありませんが、任務中に竜騎兵部隊のクジラが暴走するのは困りますので」
「どう処置したのだね?」
「簡単ですよ。水中作業で爆薬を仕掛け、甲板を穴だらけにしてやりました。柱や鉄骨もいくつかへし折ってきました。これでもう共鳴は起こりません。私自身が指揮をとり、つい昨日処置が終わったところです」
「そういえばこのところ、海軍の艦船が多く沖に出ていた。あれはその作業をしていたのだな。すると、もうクジラの暴走は見られないということか?」
「はい、安心していただいていいと思います」
「しかし竜騎兵とはあきれたものだな。たかがクジラのために海に潜って、そんな爆破作業までするとはな。空母は何メートルの深さに沈んでいた?」
「二百六十メートルほどでしたから、大した深さではありません」
「そうかい? しかしご苦労だったな。感謝するよ。礼をしたいが、空軍には何もなくてな」
「あら先日、戦闘機に乗せてくれたではありませんか。もし大尉が竜騎兵指揮所まで来てくだされば、お返しにクジラに乗せて差し上げますよ。もちろん、潜水服の中でゲロを吐かない自信がおありになればですが…」