戦乙女

文字数 17,217文字

 時世は誉れ高き一番の美人、そして大金持ちの娘であることは全校で知られており、自分がその妹に選ばれたことを春子もうれしく、誇りに思っていた。
 時世の家は、桜並木の坂道を駅からたらたら登っていった先にある大きなお屋敷で、屋根瓦はあくまでも黒く、ぐるりの板塀は町の一角をまるまる一つ四角く占領し、それゆえこの屋敷には番地がなく、○○町○○丁目と番地を抜かしてもそれだけで郵便が正しく届くとは信じがたいが、事実だった。
 それだけでなく、時世の父は大きな会社の経営者であると来ては、もうまるで物語の主人公のようなお嬢様ぶりではないか。
 しかもこの時世の美貌たるや、まだ女学校を卒業してもいないのに、すでに縁談がチラホラ。
 なんでも噂では、その美しさを一目見んものと、よからぬ心根の男たちが登下校路で待ち伏せするほどとのこと。
 時世の父はついに、娘のために専用の馬車を購入する決心をしたとか。
 春子がその時世の妹だといっても、血のつながった本物の姉妹ではない。
 毎年春に新入生たちが入学してくると、最上級生はその中で自分好みの娘に目をつけ、廊下ですれ違うときや、机の中に忍ばせるなどの方法で手紙を送る。
 やがてそれが文通のようになり、双方が納得の上で、仮の姉妹のような親しい関係を結ぶことになる。
 この学校だけでなく、あの時代の高等女学校ならどこでも普通に見られる習慣だったのだ。
 もちろん、すべての最上級生が校内の妹を持つわけではない。
 すべての一年生が誰かの妹だったわけでもない。
 そこにはやはり格のようなものがあり、本人の美貌や親の財力、校内やクラスでの人望が関わってくる。
 だから自分で分不相応だと感じる者は、たとえ最上級生であっても、下級生に手紙を送ったりはしなかった。
 こういう擬似的な姉妹関係が、果たして学校を卒業後も継続したのかは、筆者にはよくわからない。
 筆者は男だし、何よりもこれは今から九十年ほども昔の物語なのだ。
 制服の制定されていない学校も多く、そういう場合生徒たちは着物を着て、はかまを身につけていた。
 家の遠い生徒のための寮も校内にあり、何を隠そうこのXX高等女学校でも、家から通うのはほんの一握り、ほとんどの生徒は寮で寝起きしていた。
 さてさて、話を元に戻そう。
 春子は、時世の校内の妹に選ばれていた。
 ということは春子は、一年生の中でも飛び切りかわいらしく、目立つ娘だったのだろう。
 この校内の妹のことを、当時はエスと呼んでいたらしい。
 英語の「シスター」の頭文字を取り、「春子さんって、時世さんのエスなのよ」というぐあいで。
 広辞苑をひも解くと、エスとは「俗に女学生など若い女性の間の同性愛の対象を示す語」とあるから、まあそういうことなのだ。
 これでもまだ、「おまえ(筆者)の言うことなど信用できるか」とおっしゃる向きは、川端康成の「乙女の港」を読まれるがよろしい。これはもう「エス」がバリバリの中心テーマなのだ。
 このXX高等女学校は五年制の学校であり、だから最上級生の時世は五年生ということになる。
 女学校一年生が現在の中学一年に当たるから、時世は現在なら高校二年というところだ。
 この時代の学校は、現代よりも生徒の上下関係が厳しかったようだ。
 時代が時代だから当然かもしれないが、自分よりも学年が下の者を呼びつけ、勝手な用事を言いつけたり、伝言をさせたりするのは当たり前だったらしい。
 だから時世も、気まぐれに最上級生の特権を行使することにしたのであろう。
 校舎の中で、一年と四年は階も違い、場所も離れていたので、一年のクラス前の廊下に四年生が顔を出すなど、そうそうあることではなかった。
 だからそこに水色のリボンが見えたとたん、一年生たちも多少は緊張したかもしれない。
 二十を超える視線が、近づいてドアに手をかける四年生の上に注がれた。
「春子さん、時世さんがお呼びよ。すぐに行きなさい」と四年生は口を開いた。
「はい」
 同級生と頭をくっつけあうようにしてスゴロク遊びをしていたが、春子はピョンと飛び上がった。
 あとも見ずに廊下に飛び出し、階段を駆け上がって行った。
 当時も今も、女学生が噂好きなのは変わらない。
「おやおや春子さんったら、打ち上げ花火みたいに飛んでいっちゃったわ。時世さんは何の御用なのかしらね?」
「お菓子でもくれるんじゃないの?」
「そうとも限らないわよ。用事を言いつけられることもあるんですって」
「どんな?」
「戸棚の整理とか、上着のほつれ直しとか」
「へえ…」
「春子さんはお裁縫が得意だからいいのよ」
「そうよね。あんたにお姉さまがいたら大変よ。ボタン一つまっすぐに付けられないんだもの」
「何よ、あんたなんか調理の時間、いつも玉子焼きを焦がすくせに」
「なによ」
「なによ」
 と一年のクラスは騒がしかった。
 時世は待ちきれず、五年生の教室の外に出て待っていた。
 息を弾ませながら、やっと春子が姿を見せた。
「ああハーチャン、来てくれたのね…」
 古い木造建築は廊下も薄暗く、おまけに時世の教室は曲がり角に面していた。
 すばしっこく小柄な一年生のスパイが一人や二人、そこに身を隠すのは簡単なことだったのだ。
 時世の用事は大したことではなかった。
 二言三言と交わしてすぐにうなずき、春子は自分の教室へと戻っていった。
 ところが一年生の教室では、思いもかけないことが起こっていた。
「ようハーチャン、エスのお姉さまの御用はなんだったの?」
 と春子が足を踏み入れるやいなや、一人が声をかけたのだ。
 驚きのあまり、春子は棒のように立ち止まってしまった。
 ハーチャンというのは、時世との間だけの秘密の呼び名であり、家族にさえそう呼ばれることはなかった。
 最愛のエスとの間だけの神聖で神秘な事柄だったのだ。
 それがこの日、ついに他人の耳に入ってしまった。
 よりによって同級生たちだ。
 春子よりも前に教室へ戻り、先ほどのスパイは同級生たちにこう告げたことであろう。
「ねえねえ知ってる? 私、耳を疑っちゃった。時世さんってさ、春子さんのことをなんて呼んでいると思う?」
 こんなおいしい話を耳にして、一年生が容赦するはずはない。
 五年生の富豪令嬢に目をかけられているなんて、というやっかみもあったことだろう。
「まあハーチャンったらあ」
「ハーチャン、今日はいい天気ね」
「次の授業は何の科目だったっけ、ハーチャン」
「ハーチャン、宿題してきた?」
「ねえハーチャン、時世さんのことはトーチャンと呼ぶの?」
 これにはクラス中がどっと笑った。
 顔を真っ赤にして春子は教室から逃げ出しかけたが、運悪くそのとき教師が姿を見せた。
 春子はうつむき、席に着くしかなかった。
 ところが騒ぎは、教師の耳にも入っていたらしい。
「みなさん、騒がしいですよ。ハーチャンって誰のことなの?」
 この先生は、女教師と聞いて読者のみなさんが想像するとおりのタイプだった。
 型どおりの着物にはかま姿だったが、これでキンキン声とやたら堅苦しい物言いと来た日には、もう完璧というもの。
 この教師が髪を丸くドームのように高く結い、小じわの多い細い目で、教室中をじろりと見回したものだから生徒たちは一瞬で口を閉じ、石像にように全員動かなくなってしまった。
「さあさあ、ハーチャンでもミーチャンでもいいから、授業を始めますよ。教科書の十八ページを開きなさい…」
 翌日から、一年生のクラスはさらに騒がしくなった。
「ハーチャン、ハーチャン、窓の外をトーチャンが通るよ。早く早く」
「そうよハーチャン、早く来ないとトーチャンが通り過ぎちゃうよ」
「えっ、トーチャンってあの人のことなの? わあきれいな人。トーチャンというから、ヒゲの生えたおじさんみたいなのかと思ってた」
 時世の姿が、チラリとでもどこかに見えるたびに、このような大騒ぎになったが、いつも耳まで真っ赤になって、春子はうつむくしかないのだった。
 運の悪いことに一年の教室は、理科室や図書館、運動場などどこへ行くにも避けて通れない場所だった。
 五年生が校内を移動するたびに、「トーチャン、トーチャン」と声が上がるようになった。
 この事態は時世だけでなく、五年生全体にとってもおもしろかろうはずがなかった。
「ねえちょっと、このごろ一年のチビたちが生意気だと思わない?」
「そうよ。我がクラスの級長を捕まえて、『お父ちゃん、お父ちゃん』だなんて、それはないわ」
「違うよ。お父ちゃんじゃなくて、トーチャンよ」
「ああ、そうだっけ?」
「しっかりしてよ。親しみを込めて時世さんがエスをハーチャンと呼ぶのを冷やかしているんだわ」
「腹が立つわね。級長をバカにされて黙っていられないし、一つみこしを上げるか」
「みこしって?」
「我がクラスが立ち上がって、一年どもにガツンといわせるのよ」
「ガツンなんてやだわ。野蛮よ。ぶん殴るんでしょう?」
「暴力を使わなくても、方法はいくらでもあるわよ」
「どんな?」
「それをみんなで知恵をあわせて考えるのよ。我らが級長を下級生にバカにされたままじゃいられないわ。上級生の威厳を見せてやらないとね」
 級長という単語は、現代の読者には耳慣れないかもしれない。
 これも当時の言葉で、意味は要するにクラス委員長のこと。
 ただこの時代、クラス副委員長以下、図書委員とか風紀委員とか、金魚のエサやり委員とかまでが存在したかどうかは筆者も知らない。
 さてさて、それからしばらくたったある日、理科室の中には重苦しい空気が流れていた。
 理科室。
 高等女学校にもそんなものがあったのだ。
 現代とは違い、実験器具などもずいぶん少なかったであろう。
 電気機器などは影もなく、ビーカーはただのガラスのコップ、ピンセットはワリバシで代用したのではないかと筆者は思ったりする。
 放課後のことで人は少ない。
 この理科室にいたのはたった三人だが、実はさらに数人がまわりの廊下にさりげなく散らばり、偶然でも通りかかる生徒がないかと目を光らせていた。
 事情を知らない通行人を追い返すことまではできないが、理科室内にいる者たちにすばやく警報を送る必要があったのだ。
 これは秘密の会合だった。
 理科室の中の三人。
 なんとなく机を飛ばし、離れて座っている。
 まず年長の一人が口を開いた。
「わざわざ集まって下さって感謝するわ。こんな緊急で秘密の集まりなのにね」
「そうよ、なぜこんなにコソコソしなくちゃならないの?」
「それはおいおい説明します。まずそれぞれ自己紹介をしましょう。私は四年の級長、進藤四津子です」
 四津子は、着物もはかまも薄紫で統一されている。
 第四学年を示すリボンの色は水色だが、色取りの邪魔にならないように気をつかって、小さめの物にとどめている。
 髪はまだ切らず日本髪のままだが、とがった鼻が品よく高いので、都会的な印象を与える。
「ああ知ってます。四津子さん、あなた茶道部の副部長でしょう?」
「ええ。そういうあなたは二年の級長ね。お名前は?」
「田中二葉。じゃあ最後のお一人は三年の級長かしら?」
「ええ、私は三年の脇坂三重子。もちろん級長だわ」
 二年生の二葉のブルーの着物は、まるで夏の空がそのまま抜け出てきたかのようだ。
 はかまは浅黄色で整え、この時代の少女としては快活で髪が短く、カチューシャで押さえているのは白い耳を見せるためらしいが、決してやりすぎではない。
 三年の三重子は、草葉模様の浮き出た緑の着物がすがすがしいが、海老茶のはかまは年の割りに落ち着きすぎているかもしれない。
 流行に乗って髪を切る決心まではまだつかないらしいけれど、長いお下げに編んでいるのはそれなりに新時代風なのかもしれない。
 無邪気な顔で、二葉は不思議そうに見回した。
「ねえ、どうして一年と五年の級長はここにいないの?」
「それはきっと、一年と五年のいさかいが議題だからじゃないかしら」
「いさかいって何?」
「それが議題でしょう、四津子さん?」
「ええ、そうよ」
 二葉は目を丸くした。
「あれあれ私、そんなの知らないよ」
「二年はのんびりしているのねえ。隣の学年のことじゃないの」
「だって…」
「最近、五年の級長の姿が見えるだけで、一年のおちびさんたちが『トーチャン、トーチャン』とうるさくしているでしょう?」
「うん、そのことなら知ってる」
「それで五年生が怒ったのよ。自分たちの級長をバカにされて、最上級生の威厳に傷をつけられたように思ったんだわ」
「それで一年との間にいさかいが始まったの? バカみたい」
「いさかいというよりも戦争ね。一年生と組む課外活動はすべて欠席するし、一年生と廊下ですれ違っても挨拶もしない。おはようございますどころか、会釈もないのよ」
「へえ、それは重症だわ」
「だから今日、三人でここに集まることにしたのよ。一年と五年をなんとか仲直りさせなくてはならないわ」
「ケンカなんて、ほっておけばそのうちあきるんじゃない?」
「そう思って、私も最初は静観したの。ところが二週間たっても改善のきざしがない。それどころか今日、さらに困ったことが起こったわ」
「どんな?」
「三重子さん、あなたは聞いた?」
「ええ聞いたわ。中庭の木の幹から、誰かが大きな垂れ幕を吊り下げたのでしょう? 五年の教室からよく見えるように、わざと窓のまん前にね」
「半紙をノリで何枚もつないであったわ。あんなに目立つものを二葉さんは見なかったの?」
「私、今朝は汽車が遅れたから遅刻したの」
「ああ、あなたは寮生ではないのね」
「うん、通学生。垂れ幕にはなんて書いてあったの? 教えて」
「『オラ、トーチャンのこと大好きだあ』だって」
「あはははは」
 はしが転んでもおかしい年頃なのだろう。二葉はお腹を抱えて笑い転げた。
「ああおかしい。ひいひいひい…」
 ついに目には涙まで浮かべるのを、四津子と三重子はあきれ顔で眺めたが、散々笑って、やっと二葉は口がきけるようになった。
「それは大傑作ね。でも私が遅れて校門をくぐったときには、そんな物はもうなかったわよ」
「五年生が怒って、すぐに引きはがしたからよ。くしゃくしゃに丸めて、ゴミ箱に放り込んでいたわ」
「へえ」
「もしかして二葉さん、あなたは朝の礼拝にも遅刻したの?」
「うん、私が来たのは一時間目の途中だった」
「じゃあ礼拝堂の事件も知らないのね」
「知らない。まさか朝の礼拝でも何かあったの?」
「そのまさかよ」
「何が起こったの? わかった。一年生たちがまた何かやったのね」
「そのとおり。今朝は五年生が当番で、時世さんがみんなの前でお祈りをしたの」
「トーチャンが? まあ」
「その言い方はやめなさい。そのせいで戦争になってるんだから」
「はーい」
「お祈りの中で時世さんが『天にましますお父様』と言うたびに、一年生のあちこちからクスクス笑いが聞こえるのよ。『トーチャンがトーチャンのことを言ってる』って。先生たちには意味がわからなかったらしいけど、顔が引きつっている人もいたわ。今日は校長先生がお留守で幸いだったのよ」
「ああ私、その場にいたかったわあ。三重子さんはいたの?」
「もちろんいたわ」
「面白かった?」
「面白いどころか、いつ時世さんや先生たちが怒り出すかとハラハラしたわ」
「でも結局怒らなかったのでしょう?」
「そうだけど、今日の昼休みになって、手紙が送られてきたのよ。五年生一同から私たち宛にね」
「どんな手紙?」
「ここにあるから、ご自分で読みなさいよ」
 手にとって視線を落としたが、二葉はすぐに音を上げた。
「嫌よ。私、毛筆の続け字なんて読めないわ。漢字ばっかり多いし。日本語に直してよ」
「何言ってるの? それも立派な日本語じゃないの」
「だけど私、読めないものは読めないわ」
 四津子と三重子は顔を見合わせた。
「近頃の二年生はどうなっているのかしら」
 だが二葉は悪びれない。
「ねえ読んでよ。ねえねえ、下級生いじめをしないでよ」
「いじめなんかしません。じゃあ要約してあげるわ。まず前半で一年生たちにしつけがないこと、悪ふざけが過ぎることを嘆いたあと、こう結んでいるのよ。『これはもう五年と一年の間の戦争である。二年から四年の各学年は、五年につくか一年につくか、その態度を明らかにせよ』というんだわ」
「うひゃあ、本格的な宣戦布告なんだ」
「そうよ。どちらにもつかない中立は許さないとも書いてある。『今週中に態度を明らかにしない学年は敵とみなす』そうよ」
「今週中って、土曜日までか。あと三日しかないじゃないの」
「だから私たちがここに集まっているのよ」
「だけど戦争って、五年生はどうやって戦うつもりなのかしら。本物の兵隊さんみたいに鉄砲を撃つの? 鉄カブトをかぶって、ホフク前進するの?」
「そんなことをしたら着物が汚れるわ。私が心配しているのは、もうすぐ創立二十周年記念祭があることなの」
「創立二十年祭? それは何?」
「はあ、今年の二年生って、本当に何も知らないのね。一年生に負けない幼稚ぶりだわ」
「ふんだ。上級生ぶったってせいぜい一年か二年、私たちより長く空気を吸っているというだけじゃないか」
「怒らない怒らない。二十年祭というのは文字通り、この学校ができて二十年目の記念日ということよ」
「そうよ、創立は明治何年だっけ? 年数は忘れたけど、この町で一番古い学校なんだからね」
「へえ、知らなかった」
「今の校長先生は三代目よ。初代の校長先生がとても偉い人で、その十三回忌も兼ねているから、盛大なお祭りになるはずなの。市長とか議員とか、町の偉い人もたくさん出席するわ」
「だからね、そんなお祭りなのに、もしも五年生が協力を拒否したらどうなると思う? 五年生なしじゃ成功しっこないのよ」
「どうして?」
「なんといっても、五年生が一番物知りで実力があるもの」
「そうよね。五年生には、お茶やお花の先生のお嬢さんだっているわ。当然、その同級生にはお免状もちもたくさんいる」
「お免状もちって?」
「お茶やお花、踊りなんかを習って、もう一人前になりましたという証明書よ。お免状をもらうには、何年も何年も練習しないといけないの」
「へえ」
「四年には、お免状もちなんてほとんどいないわ。五年生が加わってくれないと、二十周年祭なんてとてもできないのよ」
 二葉は、パッと顔を輝かせた。
「わかった。じゃあ簡単じゃないの。みんなが五年生の味方について、一年生を仲間はずれにすればいいんだわ」
「あんたは単純ねえ。そんなことをしたら、学校の和はどうなるの? 来年には進級して、今の一年生が二年生になるのよ。そうして来年の新入生を手なずけてしまったら? 四年後には一年生が最上級生になることを忘れないでね」
「そうかあ。そう簡単にはいかないのね」
「だからこそ、この戦争を今すぐ終わらせなくてはならないのよ。その方法を相談をしたいのよ」
 しばらく話し合いは続いたが、よい知恵はなかなか浮かばなかった。
 ついに二葉はしびれを切らしたようだ。
「ねえ結局、ここは正攻法しかないということじゃないの?」
 二葉は有名なやり手商家の娘で、面倒くさいことや回りくどいことが大嫌いだった。
 なんでも単刀直入にしかやらない。
 上級生に敬語を使うことも嫌いらしいが、四津子も三重子も、その点は見逃すことにしたようだ。
「どういうことなの、二葉さん?」
「ことここにいたっては、もう一年生に直談判するしかないということよ。あまり五年生をバカにするなってね」
「バカにしているとあなたは思うの?」
「当たり前じゃないの。少なくとも軽く見ているから、ああいう行動に出るんだわ」
「まあ、それはそうよね」
「一年の級長の家は私の近所よ。今から行ってみましょうよ」
 他に知恵もなく、四津子と三重子も引きずられるしかなかった。
 先輩二人の手を引き、二葉は元気よく校門を出て行った。
 すぐに駅へ着き、うまい具合にあまり待たされずに、三人は汽車に乗ることができた。
 この時代のことだから、断じて電車ではない。
 木でできた箱のような車両に客が乗り、それをイモムシみたいなヤカンみたいな形の黒い機械が、湯気と煙を出しながら引っ張ってゆくのだ。
 二葉の家は隣町にあるので、そこの駅で下車した。
 駅前の様子を、四津子はキョロキョロしながら見回した。
「私、この町へ来るのは初めてだわ。三重子さんはどう?」
「私も初めてよ。汽車で通り過ぎたことは何回もあるけどね。ねえ二葉さん、すると一年の級長も通学生なのね」
「うん、見えてきたわ。あそこの農家よ」
 この時代には少し開けていたが、駅と鉄道ができる前は普通の農村だったのだろう。
 瓦屋根の家々の間に、わらぶき屋根の家がときどき混じっているのだ。
 そんな家は庭もまわりの家より広く、生垣に囲まれ、鶏が散歩していたりする。
 猫もいて、縁側で昼寝をしているのがかわいらしい。
「あの家ね。じゃあお邪魔しましょうか」
 年長者らしく、四津子は先に立って歩き出そうとしたのだが、不意にそでを引く者がいる。
 不審そうに振り返ると、そでをつかんでいるのは二葉だった。
 何か言おうとした四津子だが、二葉の様子がおかしく、何か遠くへ注意を向け、眺めているのだ。
 それだけでなく、三重子も同じ方向へ視線を向けている。
「どうしたの、二人とも?」
「だってほら、あのずっとむこうを例の二人が歩いてゆくのが見えないの?」
「二人って?」
 三重子が首をかしげた。
「おかしいわね。時世さんは学校から遠からぬところに家がある通学生だし、春子さんは寮生よ。どうしてこんな隣町にいるのかしら?」
「そうね、不思議だわ」
 二葉が鼻を鳴らした。
「あなたたちバカねえ。あれは逢引に決まっているじゃないの」
「逢引?」
「デート、ランデブー、忍び逢い、なんとでも好きな言葉で呼びなさいよ。学校のそばでは冷やかされるから、わざわざこんな遠くまで来ているんだわ」
 時世と春子は寄り添い、こちらに背中を向けて腕を組んで歩いている。
 腕と肩を密着させているのだが、小柄な春子が肩に頭を乗せることを時世は許してやっている。
「なんだか嫌ねえ」と四津子がつぶやいた。
「どうして?」と三重子と二葉は振り返る。
「だって、あの二人あんまりくっつきすぎよ。まるでノミの夫婦みたいじゃないの」
「あら私好きよ、ああいうの」
 と二葉は言い、真似て三重子にくっついて見せたのだ。
 三重子の腕を取り、ぶら下がるようにした。
 四津子は眉をひそめ、
「三重子さん、黙ってないであなたも何か言ったら? 重くて腕が抜けそうとか」
 と言ったが、その思惑は見事に外れてしまった。
「うーん、お言葉だけど四津子さん、やってみるとこれも悪い感じじゃないわよ」
「何よあなたまで。アホらし…」
 と二人を置いて四津子は歩き出しかけたが、二葉のほうがすばやかった。
 とっさに三重子に目配せをし、行動に移ったのだ。
「あら四津子さん、そんなに意地を張るものじゃないわよ」
「そうよそうよ」
 と三重子も同調している。
 二葉と三重子は、春子がしていたのと同じようにして、左右から四津子にしがみついたのだ。
 四津子はひどく困った顔をし、
「何が意地なもんですか。ちょっと二人とも、町の通りでなんてみっともない。手を放しなさいよ」と振りほどこうとする。
 すぐに手は離れてしまったが、二葉は不審そうに片方の眉を上げた。
 これはおかしいぞ。四津子さんったら、なぜこんなに強く抵抗するのかしら?
 なんだかおかしな雰囲気のまま二、三回咳払いをし、時世たちなど目に入らないかのごとく、四津子は農家の庭先へと歩を進めてしまった。
 残りの二人もついてゆくほかない。
 だが一年の級長に会うことはできなかった。
 お茶の稽古に行って、夕方まで帰らないと家人から告げられたのだ。
 しかし三人も、そういつまでも待っているわけにはいかない。
 仕方なしに、この日はそのまま引き上げることになった。
 庭先から表へ出てみると、どこへ行ったのか時世たちの姿はもうどこにもなかった。
 翌朝の教室で、自分の机の中に手紙を発見し、三重子は少し驚いた。
 そっと着物の下に隠し、人気のない所へ行って広げてみると差出人が二葉だったので、もう一度目を丸くした。


 昨日の件につき、至急ご相談したきことあり。
 放課後時間を作って下さればありがたし。
 理科室前にて待つ。


 放課後になり、三重子は約束の場所へ出かけた。
 今の時間なら人気はなく静かだ。
 二葉はすでにいて、駆け寄ってきて、さっそく口を開いた。
「時間がないので手短に話すわ。答えてちょうだいね。三重子さんは、四津子さんとは長いお知り合い?」
「そうね、入学以来ずっと知っているわ」
「それだけ?」
「いいえ、実は小学校も一緒なのよ」
「なら四津子さんの家のこともご存知ね。どんなおうちなの?」
「そんなことを聞いてどうするの? 探偵にでもなったおつもり?」
「いいから答えてよ。大事なことかもしれないんだから」
 三重子はため息をついた。
「ふう、四津子さんの家は地主さんで、お父様はお金持ちよ」
「おうちがあるのは遠い町ね」
「十里ほどだから、遠いというほどでもないわ。あの町からこの学校へは、たくさんの生徒が入学しているのよ。みんな寮に入っているけどね」
「その中に四津子さんの親戚はいないかしら?」
「いるわよ。四津子さんのおうちは田舎の豪農だから、何代か前に分かれた分家があるのよ」
「分家? ああ、家を継がない次男や三男坊が、本家から分かれて自分の家を持ったのね」
「その分家のお嬢さんがこの学校にも来ているの」
「その人の名前がわかる? 春子さんと同じ一年生かしら?」
「あらカンがいいのね。そのとおり一年生で、名前は墨田さんよ」
「ふうん墨田さんというのか。覚えておこう。ねえ本家って、田舎ではずいぶん威張っているんでしょう? 分家のことを家来みたいに思ってさ」
「それはそうよ。私の家も分家筋だけど、お父さんもお母さんも、お正月にはいつも本家へ一番にご挨拶に行くわ。本家が何か普請とか、大きな畑仕事をするたびに、進んでお手伝いにも行くもの」
「ははーん」
「どうしたのよ? なぜそんなにうれしそうに笑うの? 気味が悪いわ」
「いいってことよ。思いついたことがあるんだ。まあ見てて。私、もしかしたらこの戦争を終結させることができるかもしれないわ」
 言い終わらないうちに、二葉はもう駆け出していた。
 はかまを短めにはき、いかにもおてんば風に足首を見せているのだが、それが階段を一段抜かしに駆け下りてゆくのを、三重子はあきれ顔で見送った。
 ところがその十分後には、二葉の足取りは重く変わっていたのだ。
 先ほどとはあまりに対照的で、短い時間に一体何があったのだろう。
 階段を一段抜かしどころかゆっくりゆっくり、もう少しで立ち止まってしまいそうなほどだ。
 足元をむいて顔もうつぶせているので、まわりの様子も全く見えていない。
 あまりにも心ここにあらずで、突然ちょんちょんと肩に触れられ、小さな悲鳴を上げたほどだ。
「きゃっ」
 そこには四津子がいて、不思議そうな顔で二葉を見つめているのだった。
 二葉は呆然として口を開いた。
「あら四津子さん…」
「どうしたのよ? 何をそんなに考え込んでいらっしゃるの?」
 しばらくの間、目をパチクリさせていたが、やがて二葉は落ち着きを取り戻したようだ。
「私はとびきり悪い星の下に生まれているのかなあ。こんな時に、よりによって四津子さんに出会うなんて」
「ここで私と顔を合わせてはまずいの?」
「まずいのまずくないのって、面目のなさでは最大級よ」
「なぜ?」
「ええ白状するわ。あのね私、ついさっきまで、戦争の黒幕は四津子さんだと思っていたの。だから鼻を明かしてやろうと調べ始めたのよ」
「調べるって? なぜ私が黒幕だと思ったの?」
「だって昨日、時世さんたちの逢引を目撃したとき、あなたの様子はとてもおかしかったわ。誰だって疑いを持つわよ」
「私は普通にしていたわよ」
「うそ。あまりにもそっけなくて、逢引なんか目にもしたくないという表情だったわ」
「それはそうよ。私、あんな軟派な人たちってどうも好きになれないのよ。人前であんな醜態をさらすなんて、清い乙女のすることではないわ」
「お硬いのねえ」
「なんとでも言いなさいよ。それで二葉さん、私の何をどう誤解していたというの?」
「春子さんのクラスには、墨田さんという人がいるのよ」
「知っているわ。私の親戚の子よ。うちから見ると分家に当たるのよ」
「本家の権威をちらつかせて、四津子さんが墨田さんに命令したのだと私は思ったの。なんでもいいから時世さんの醜聞を探り出してこいって」
「醜聞?」
「だから墨田さんはスパイを働いて、恋人たちの絶対の秘密を突き止めたのだと思ったの」
「絶対の秘密って何よ? まさかハーチャンという呼び名のことじゃないでしょうね? バカらしいわ。恋人同士の内密ではあるけれど、醜聞というほどではない」
「私には十分醜聞に思えるわ」
「まあ見解の相違ね」
「だけどもういいの。みんな私の勘違いだったのよ。あの日、墨田さんは風邪で学校を欠席していたとわかった。いま保健室で確かめてきたの。私、四津子さんにも濡れ衣を着せていたことになるわ。ごめんなさいね」
「濡れ衣も何も、私は寝耳に水よ。でも疑いが晴れてよかったわ。そもそも、なぜ私がそんな醜聞を探り出さなくちゃならないの?」
 話しにくそうに、二葉は口ごもった。
「ええとあのね…、私、四津子さんも春子さんのことが好きで…、だってあの子きれいだもん。四津子さんが横恋慕して、時世さんから奪い取ろうと計画して…」
「まあ、あきれた。あなた雑誌や小説の読みすぎよ。吉屋信子なんて好きなんでしょう?」
「ふん、読書の好みを人にとやかく言われることはないわ」
「どうだか。ある先生が言ってらしたわ。『少女の友』とか『少女倶楽部』とか『令女界』とか、ああいう雑誌を読むことはそろそろ禁止すべき時期ではないのかって」
「うそよ、うそうそ。吉屋信子が読めなくなったら、私死んじゃう」
「ほらばれた。まあお好きに。もしも自殺するのなら、遺書にちゃんと理由を書いておいてね。『少女小説を読むことが学校で禁止されたのを苦に自殺します』って。ご両親は泣くに泣けなくて、お葬式も出せないと思うわ」
「バカ、いじわる。お母さんに言いつけてやるから」
 と二葉の目には涙が浮かび始めている。
「あらあら赤ちゃんね。何も泣くことはないじゃないの。私が悪かったわ」
「バカバカ、許してあげないから」
 四津子が驚いたのは、ここで二葉が突然駆け出したことだ。
 着物のそでをつかんで引きとめようとしたが一瞬遅く、二葉はすり抜けてしまった。
 しかし涙のせいで、二葉も目の前がよく見えていなかったに違いない。
 階段を駆け下りてある教室に飛び込み、自分の机と信じて腰かけたものの、何かおかしいのだ。
 授業は済んでいるが何か用事があるのか、教室にはクラス全員がまだ残っていた。
 しかし彼女らはいやに突然背が高くなり、その髪にとめられたリボンも見慣れない色ではないか。
 ハンカチで目をふきながら、
「私の同級生たちは、なぜリボンの色をいっせいに変えてしまったのかしら?」
 と二葉はぼんやり思った。
 そして、ついに真実に気がついたのだ。
 二年生のリボンは赤色、しかし今、まわりの生徒はみな青のリボンを身につけているではないか。
 意味に気がつき、二葉はあっと声を上げた。
「あら私、いつの間にか五年生のクラスへ来ていたんだわ」
「そうよ、あわてんぼさん」
 と答えたのは、二葉にも見覚えのある顔。
「あっ、時世さん…」
「あら、私の名前をご存知なのね」
「そりゃあ知ってますよ。学校一のお金持ちだし、戦争の原因になってる人だし。あっ…」
 まずいことを言ってしまったと二葉は気付いたが、もう遅い。
 まわりに五年生たちが集まり始めている。さっそくその一人が口を開いた。
「それは言い方よねえ。戦争の原因になった美女かあ。まるでトロイ戦争のヘレンみたいじゃないの」
 せっかくの指摘ではあったが、その隣に陣取っていた生徒は、あまり世界史が得意ではなかったようだ。
「ヘレンって誰? 英語のワトキンス先生のお名前はジェーンよね?」
「あんたはもっと身を入れて教科書を読みなさいよ。トロイ戦争って、紀元前のギリシャよ」
「ふんだ。私は日本史にしか興味ないの」
「何言ってるのよ。秀吉と信長の区別もつかないくせして」
「あれはちょっとした間違いよ。たった一回だけじゃないの」
 すでに涙も乾き、目を丸くして二葉は上級生たちを見回している。
 最初は当惑していたが、やがてその顔には微笑が広がっていった。
「なんだあ。五年生といったって、堅苦しい学者や道徳家みたいな人の集まりじゃないんだわ。私たち下級生と同じで、ふざけあったり、仲良く笑ったりしてるんだわ」
 これまで二葉は、最上級生とはいかにもいかめしく、話しかける暇も、取り付く島もない人々だと思っていたのだ。
 なんとまあ大きな思い違いをしていたことか。
 五年生の一人が二葉に話しかけた。
「それであなた、リボンの色から見ると二年生ね。自分のクラスと間違えて、ここへ飛び込んできたのね。泣いてたけど何かあったの?」
「うん…、ええ。四年の級長にいじめられたんです」
「まあ四津子さんが? あなたみたいにかわいい人をいじめるなんて許せないわね。ここへ呼びつけて、仕返しをしてやりましょうか?」
 だがそれを別の一人がたしなめてしまった。
「ちょっとちょっと、今は一年との戦争をどうするか話し合っている最中なのよ。四年生とも戦争を始めようというの?」
「ああそうか。それも面倒ねえ。他の学年から、あの手紙の返事は届いたの? あっ時世さん、わかってる、わかってるって。あの手紙を送ることにあんたが絶対反対だったことはわかってる。でも今や事件はあなた個人を離れて、五年生全体の問題に発展しているのよ」
「なら私、級長を辞任するわ」
「またそう言って脅すう」
「脅しているんじゃないのよ。私は真剣よ」
 またまた二葉は目を丸くしてしまった。
 一年生との戦争は、五年生にとっても余裕のある戦いではなく、学級内部に不一致や軋轢が存在していたのだ。
「へえ私、五年生といったらもっと賢く、立派な人たちばかりだと思ってた」
 と二葉は独り言を言った。
 二葉の目の前で、五年生たちの話し合いはしばらく続いた。
 それを聞いてわかったことだが、やはり時世は最初から戦争には反対だったが、クラスの一部が先走ってしまったらしい。
 しかしこぶしを振り上げたはいいが、戦争の終わらせ方に自分で悩んでいるのは皮肉というしかない。
 しかも創立二十周年祭が近づいていることは五年生も気にしていて、記念すべき祭を最上級生である自分たちが中心になってうまくやり遂げないことには、面目も何もあったものではない。
「何のことはないわ」
 と二葉はあきれた。
 二十年祭のことを校内でもっとも気にかけているのは、他ならぬ五年生自身だったのだ。
「だったら、あんな手紙は始めから送らなかったらいいんじゃないの?」
 とも二葉は思ったが、一時の激情に駆られ、後先考えずにしてしまったのだろう。
 今では後悔しているが、あの時にはやむを得ぬ行動だと思えたに違いない。
「この人たち、バカだわ」
 と声には出さなかったが、二葉は結論を出した。そしてついに話しかけたのだ。
「ねえ時世さん」
 級友たちの間にうずまって、静かにうつむいていたが、時世は顔を上げ、悲しそうに微笑んだ。
「なあに、二葉さん?」
「私、ちょっといい考えがあるのよ」
 その言葉を他の五年生たちも聞きつけた。
「何よ二葉さん? その考えって何なのよ?」
「そうよ教えてよ。私たち本当に困っているのよ」
「そうよそうよ。もったいぶらないでね」
 二葉は見回し、自分が突然受けることになった注目に驚いたが、悪い気分ではなかった。
 二葉は話し始めた。
「私には妹がいるの。小さくて、まだ尋常小学校に通っているわ。私たちのおばあ様がいい人で、私がこの女学校に入学するとき、冬の寒い日に着ていきなさいって、きれいな羽織を下さったの」
「へえ、本当にいいおばあ様じゃないの」
「でも妹はそれが気に入らなかったの。『私もあんな羽織がほしい』って駄々をこねたわ」
「まだ小さい子なんでしょう?」
「ええ。一年生たちもうちの妹と同じなんだと思う。春子さんが時世さんのエスになって、一人だけ優しくされているのがくやしいんだわ。『自分もお姉さまたちから優しくされたい』とやきもちを焼いているのよ。私も去年までは一年生だったからわかる。ついこの間までは尋常小学校にいた人たちなのよ」
「つまりあなたは、この戦争の原因は一年生たちのやきもちにあるというのね」
「そうよ」
 五年生なのに、まだ油っぽいニキビ面の一人が口を開いた。
「じゃあ解決は簡単じゃないの。私たちの一人一人が一年生をエスにして、お菓子を上げたり、手紙を書いたり、かわいがってあげればいいんだわ」
 ニキビ面の親友なのだろう。やせた背の高い娘で、くっついて隣に座っていた一人が言った。
「ふうん、でも一年生の中に、あんたのエスになりたがる人がいるかねえ?」
 クラス中にどっと笑いが起こったが、笑われた本人は平気な顔をしている。
 あれはとても神経の太い人なのだろう、と二葉は感心してしまった。
 もしもクラス全体からあんなに笑われたとしたら、二葉ならとても我慢できないだろう。
 その考えが顔に出ていたのかもしれない。ニキビ面の娘は二葉に話しかけた。
「気にすることはないのよ。みんな本気で言っているのではないのだから」
「でも…」
 と二葉はどう答えていいかわからない。
 さっきの背の高い娘が言った。
「こう見えてもこのニキビさんは、五年生で一番数学ができるのよ。クラス全員の尊敬を集め、博士と呼ばれるほどだわ」
「えへん」
 とニキビ博士は胸を張ったのである。
「じゃあ九十九の二乗はいくつ?」
 ソロバンや暗算には、二葉もいささか自信があった。それゆえ少し挑戦してみたくなったのだ。
「そんなの簡単よ。九千八百一じゃないか」
「すごいわ」
 クラス全員が感心した。だが博士は平気な顔で言うのだ。
「単純なことよ。二次方程式の因数分解の逆を考えればいいのよ。九十九じゃなくて、『百マイナス一』の二乗と思えばいいんだわ」
「へええ」
 時世が咳払いをした。
「そんなことより、一年生と仲直りする方法を考えましょうよ。私は二葉さんの意見に賛成だわ。皆さんはどう? 反対の人はいらっしゃる?」
 もちろん、「異議なーし」と全員が声を合わせた。
 果たして計画はうまく運んだのだ。
 五年生が知恵を出し合って書いた手紙を、二葉が中立国の大使の役をして、一年の級長の家へ届けた。
 五年生との戦争は、一年生にとっても重荷に感じられていたらしい。
 家の玄関に突然現れた二葉を始めは不審そうに眺めていたが、すぐに級長は表情を和らげたのだ。
「ああよかった。この手紙をもらってとてもうれしいわ。実は私たちも困っていたのよ。校内を歩いて五年生と出くわさないはずがないし、春子さんはここ数日欠席したままだし」
「病気なの?」
「ううん、寮母さんの話では、寮を出ておうちへ帰ってしまったそうよ」
「それは困るわね」
「でもこの手紙できっとすべて解決するわ。明日学校へ行くのが楽しみだわ。クラスのみんなはどんな顔をするかしら。五年生の人たちは、私たち全員をピクニックに招待してくださるのでしょう?」
「今度の日曜ね。もう準備が始まっているわ。校長先生のご許可も得られたし」
「うれしい。これでまた学校は平和になるのね」
「まだ油断はできないわよ。一年の誰がどの五年生のエスになるか、取り合いにならないといいけどね」
「人数はどうなの?」
「一年と五年は同じ人数よ、と言いたいところだけど、実は一年が一人多いの」
「じゃあどうするの? 一人あぶれてしまうわ。かわいそうだわ」
「解決策はもう考えてあるのよ。四年の四津子さんを知っているでしょう? あの人もピクニックに加わってくれるって。一年が一人も余らないように、あの人もお姉様になってくれるそうよ」
「まあ、早く日曜になればいいわ。お天気かしら?」
 生徒たちの願いが通じたのか、日曜は朝からよく晴れ、ピクニックには良い日になった。
 駅から汽車に乗り、数駅先の公園まで出かけるのだった。
 一応の関係者として見届ける責任があると感じたのだろう。駅の待合室には二葉も姿を見せていた。
「あら二葉さん、見送りに来てくれたのね。ありがとう。私とても感謝しているのよ」
 その姿を見つけて、時世が話しかけた。
 その表情はとても明るい。
 隣にいる春子も、はにかんではいるがうれしそうで、時世の手を放さないのだ。
「えっ、私は何もしていませんよ」
 と二葉は目を丸くした。
「いいえ、あなたは一年生と五年生の間のわだかまりを見事に解いてくれたわ」
「あれは私ただ、涙で前が見えなくて、間違えて五年の教室へ飛び込んだだけですよ」
「その間違いに私たちみんなが感謝しているのよ」
「そうよそうよ」
 と、そばで聞いていた五年生たちも加わった。
 見れば彼女たちも、すでに思い思いにエスを決めたのか、小さな一年生を一人ずつ伴っているのだった。
 気になって目を走らせると、かのニキビ博士もいかにも気弱そうな少女と腕を組み、髪をそっとなでてやっているではないか。
 なでられている方もまんざらではなく、頬を赤くしている。
 少し離れたところにはあの背の高い五年生もいて、二葉は思わずクスリときたのだが、やはり一年の中でもっとも背の高い娘を伴っているのだった。
「あら、そろそろ汽車の時間よ」
 と誰かが言った。
 駅員がやってきて改札口を開き、娘たちはゾロゾロと通り抜けていった。
 定期券を見せ、二葉もそのあとに従った。
 汽車が来るまで、長くは待たなかった。
 二葉にとっては毎日乗るものだが、学校のそばに住む者には珍しいのかもしれない。突然吹き上がる白い蒸気に首をすくめている。
 娘たちが乗り込み、発車時間になった。
 汽笛を鳴らし、汽車はゴトンと動き始める。
 よくすいた列車だが、その一両を娘たちが占領してしまっている。
 窓はすべて開けられ、全員が身を乗り出して、ホームに残る二葉に向かって手を振っているのだ。
「色とりどりの着物が鮮やかで、まるでお花畑のようだわ」と二葉は思った。
 娘たちを乗せ、汽車は遠ざかってゆく。
 二葉はずっと長く手を振り続けた。
 ああ、乙女たちの上に幸あれかし。
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