炎の皇女  上

文字数 18,003文字

 カーターがあいつと最初に出会ったのは、まだ少年だった時代にまでさかのぼります。
 近所の農家で火事があり、納屋が焼けました。
 消防隊がやってくるまでの間、カーターも消火の手伝いをしたのですが、普通の水まき用のものでしかありませんがホースを一本まかされ、とても得意な気持ちでいたことは本人もよく覚えていました。
 オレンジ色の炎をあげ、火は猛烈に燃え続けました。
 すぐに納屋全体に広がり、数分以内に焼け落ちてしまうのは確実だと思われました。
 そして遠くにやっと消防車のサイレンが聞こえ始めたとき、カーターは見たのです。
 それを錯覚だと否定してしまうのは簡単なことです。子供だったカーターですら、幻なのではないかと目をこらし、まぶたを何度もこすったほどですから。
 身長50センチもないオレンジ色の小人が炎の中で踊っていたのです。
 その身体は、まるで炎でできているかのようでした。
 火と同じ色に輝き、動きにあわせて表面をオレンジ色のきらめきが走るのです。
 小柄なのに手足はひょろ長く、身につけている服も炎でできているようで、つま先のとがったブーツとエリのとがった上着、てっぺんのとがった長い帽子のことは、カーターも特によく覚えていました。
 そういう小人がいかにも楽しそうに、燃えさかる床の上で派手に踊りまわっていたのです。
 まわりには他に何人も人がいましたが、そいつの存在に気づいているのはカーターだけのようでした。
 大人たちにはあの姿が見えないのだろうかと不思議な気持ちがし、カーターはそいつの身体に水を当てようとしました。
 うまく命中して背中にぶつかり、大きな音とともに一瞬で冷やされ、その部分が黒く変わるのがわかりました。
 もちろんそいつはすぐに気づき、振り返ってカーターをにらみつけたのです。
 驚いたことにそいつはカーターのことを知っている様子で、目を合わせて突然ニヤリと笑ったのです。
 鼻のとがった醜い老人の顔を持ち、鼻の下のヒゲと、長く伸びたまゆ毛ももちろん炎でできています。
 でもカーターには見覚えのない顔でした。カーターをにらみつけ、不意に口を開いたのです。
「ぼうず、おまえとわしはいつか本格的に対決することになるだろうよ。だが今日のところは、おまえに勝ちをゆずってやる」
 言い終わると、老人の姿は魔法のように消えてしまいました。
 カーターは何度も目をこらしたのですが、もうその姿はどこにもなかったのです。
 火事の勢いがおとろえを見せはじめたのは、やっとこのときのことでした。
 すぐに消防隊も到着し、火事は消し止められました。これが『炎の老人』とカーターの最初の出会いだったのです。
 あいつの名が炎の老人であることをカーターが知ったのは数年後、まったく偶然の出来事からでした。
 カーターは大学生になり、文学を学んでいました。そのときの教材の一つに古い伝説を集めた資料があり、その中に登場したのです。
 あまりのことにカーターは驚き、声も出ず、てのひらに汗までかき始めたほどでした。
 資料の中にはさし絵もあり、あのとき納屋の中で見たとおりの姿で、いかにも憎々しげな表情に描かれていました。
 絵の中からでさえ自分をにらみつけ、挑戦しているかのようだとカーターが感じたほどです。
 でもこの経験も、カーターの人生を大きく変えるには至りませんでした。
 彼の人生が大きく変化するには、その次の出来事を待たなくてはならなかったのです。
 資料に添えられていた説明によると、炎の老人とは何世紀も昔から人類に取り付き、わざわいを振りまいて悩ませ続けてきた悪魔の一人だということでした。
 やつがどこで生まれ、どこからやってきたのかは誰も知りませんでした。
 でも人類の歴史上どこかで大火が起こるたびに目撃されているのは事実でしたし、見た者は口をそろえて、
「身長50センチに満たない炎でできた老人の姿であった」
 と述べていました。
 カーターの心にはもはや何の疑問も感じられませんでした。あの時燃える納屋で見たのは、この老人に違いありません。
 しかしこれだけのことなら、カーターも大きな影響を受けることはなかったでしょう。
 納屋の中で老人から言われた言葉は今でも耳の中に残ってはいましたが、その意味を真剣に考えてみたことは一度もなかったのです。
 数週間後、夏休みが始まり、カーターも大学を離れました。
 友人の招きである都市を訪れることになったのですが、この町は年に一度、7月の夜に開かれる大規模な花火大会で知られており、カーターの訪問もその見物を兼ねていました。
 学生の身分ゆえ大金は出せませんが、運良く安いホテルの部屋を借りることができ、楽しく休日を過ごすことができそうに思えました。
 祭りの夜がやってきて、友人たちとともに町へ繰り出し、カーターも見晴らしのよい川の土手に腰を落ち着けることができました。
 この町は広い川が中心を流れており、その真上へ向けて打ち上げられるのですが、空を彩る花火と、川面にはえる反射を同時に眺めることが最大のごちそうであると考えられていました。
 だからよい場所を得たことでカーターも満足を感じ、打ち上げの開始を楽しみに待つことができたのですが、彼の心が幸福感で満たされていたのも、たった数分間のことでしかありませんでした。
 火災の始まりは本当に突然でした。
 花火の打ち上げ準備は、祭りのために特別に用意された台船の上で行われていたのですが、箱のように四角い形をしたこの台船の上ではもちろん火気の使用は厳禁されていて、発射装置は電気式なのでライターもマッチも必要なく、それどころか乗船前には作業員の全員に身体検査が行われるという徹底ぶりだったのです。
 作業員の中には喫煙の習慣をもつ人もいるわけで、甲板上には花火玉が何百も貯蔵されているのだから当然の警戒なのですが、火気の存在など考えられないこういう状況下で起こった火災でしたから、後になっても原因は誰にも見当がつきませんでした。
 でもカーターは目撃したのです。
 打ち上げが始まるまでの時間つぶしに、友人から借り受けた双眼鏡を使ってカーターは台船の様子を眺めていました。男たちが汗をかきながら準備を進める様子を、手にとるように見ることができました。
 そしてそのとき見えたのです。
 はじめは小さなオレンジ色のきらめきとしか思えませんでした。
 カーターも、そういう色をした布か紙の切れ端が風に吹かれて飛ばされてきたものかと思ったほどでしたが、でもただの布や紙があれほどの輝きを発するはずはないではありませんか。
 その物体は、花火玉がたくわえられている場所へ向かって、気ままな子猫のようにちょろちょろと近寄っていきました。
 そして立ち止まり、まるで双眼鏡を使ってカーターが川岸から眺めていることを知っているかのように振り返り、にやりと笑ったのです。
 確信はありませんでしたが、このときやつと視線が合ったような気が、カーターは後になってもして仕方がありませんでした。
 もちろんそれは、身長50センチにも満たないあの老人の姿をしていました。服装や体つき、表情のすべてが納屋のときと同じだったのです。
 少年時代の古い記憶を、カーターは再びはっきりと思い出すことになりました。
 この後起こったことを詳しく書き記す必要はないでしょう。花火玉は次々に爆発し、台船の上で炎を上げたのです。
 花火玉は大きなものではスイカほどの大きさがあり、上空へ打ち上げる推進力を得るための火薬の層が外側にあり、まばゆい光を放って夜空に模様を描くための火薬がその内側にすっぽりと包まれた形になっています。
 花火玉とはこういう二重構造なのですが、これが大砲のような形の金属製の筒の中にセットされ、空へ向けて点火されることになります。
 でもそれが、なんと石ころのように台船の上に積み上げられた状態で火をつけられてしまったのです。
 筒の中とは違って効率的に推進力を得ることはできなかったかもしれませんが、川岸を埋め尽くす人々に向かってあてずっぽうに飛んでいき始めるであろうことは想像に難くありません。
 そして本当にその通りの現象が起こったのです。大小あわせて数百発用意されていた花火玉たちが、人々の頭上に降り注ぐことになりました。
 友人たちと共に、もちろんカーターも救助に加わりました。
 でも大規模な災害なので消防隊にもなかなか手のつくしようがなく、傷を負うことは幸いにもまぬがれたとはいえ、ついさっきまではカーター自身も群集とともに逃げ回っていた身なのです。
 花火玉は人々に降り注ぎ、推進薬を燃え上がらせたまま飛びはね、突き倒し、のしかかり、転げまわったのです。そして最後には停止し、大爆発を起こして飛び散ることになりました。
 被害を受けた者の傷は相当深く、助からない者も多かったのです。
 しかし群集と共に混乱の中を逃げまどいながら、カーターははっきりと見たのでした。
 花火玉は本当に丸く、ボールのような形をしています。
 それがまるで砲弾のような勢いで飛んでくるわけですが、なんと炎の老人はその上に乗り、おしりをぺたんとつけて座って、面白そうな顔で笑っていたのです。
 カーターの頭上を通り過ぎる時には下を向き、手を振ることも忘れませんでした。
 そうやって楽しそうに人々の群れへと突っ込んでいったのです。花火玉の飛ぶ方向に狙いをつけ、老人がかじを取っていることを、カーターはもはや疑いませんでした。
 花火大会はこのような結果に終わり、カーターがホテルに帰りついたのはもう真夜中を過ぎたころでした。
 消防隊員に混じって救助作業に加わっていたので体中が汚れ、疲れきっていました。
 すぐにもシャワーを浴び、ベッドにもぐりこみたかったのですが、それがかなうのはもう何分か先のことかもしれませんでした。
 ホテルの入口にはカウンターがあり、その前に支配人が座り、居眠りをしていました。小さなホテルだから支配人ではなく、オーナーその人だったのかもしれません。
 でもここは事故のあった川岸からは遠く、時間が遅いこともあってニュースも届いていないのかもしれませんでした。
 小さくいびきをかき、体を軽く前後にゆすりながら眠り続けている支配人の姿は、カーターの目にはひどく平和なものとうつり、思わず微笑が浮かんできそうになるほどでした。
 ため息をついてカウンターに寄りかかり、部屋のキーを受け取るために支配人を起こしたものだろうか、とカーターは考え始めました。
 支配人はそれほどよく眠っていたのです。
 しかし支配人はタバコを吸いかけていて、うっすらと煙を立ち上らせているタバコが灰皿の上に置かれたままになっていることに気がついたとき、カーターは表情を固くしないではいられませんでした。
 あのような火災を経験した直後だから火に対して神経質になっていた、というのではありません。
 しっかりとした大きな灰皿であり、燃えているタバコの一本ぐらいでトラブルが起きるとはとても思えませんでした。
 でもこのタバコがカーターの表情を一瞬でこわばらせたことも事実だったのです。
 どこにでもある紙巻の白いタバコで、根元の部分には茶色いフィルターが取り付けてあります。
 火は前方の三分の一ほどを燃やしつくしたところで、長くなった灰は重力に引かれ、まるでイモムシのように下向きに丸まり始めています。
 そのすぐ隣で火が赤く輝きながら燃えているのですが、その中にマッチの先ほどの小さな手のようなものが見えているような気がしたのです。
 驚いてカーターは見つめなおしました。
 そして目をこらして灰皿に顔を近づけたとき、長く伸びた灰を落とし、いかにも狭くてかなわんというように体をよじりながら、小さな老人がそこから姿を現したのです。
 老人の体の大きさは、エネルギー源となる火の大きさによって決まっているのかもしれませんでした。
 タバコの火ではあまりにも小さすぎるのでしょう。
 このときの姿は、タバコの上にやっと立ち上がることができる程度でしかありませんでした。
 それでも顔を上げ、ふてぶてしくにやりと笑い、カーターと目を合わせたのです。
 ついさっき花火玉の上でしたのと同じように老人はタバコに腰かけ、小さな瞳でカーターを見上げました。
「さあて、おまえは何か言いたいことがあるのではないかね?」
「おまえはなぜあんなことをする?」
 カーターの鼻息がいささか荒かったのは言うまでもありません。
「さあな」老人は片方の眉を上げました。「わしのような者が存在せぬとしたら、この世でいったい誰がトラブルを起こすというのだね。魔王様がおっしゃるには…」
「魔王?」
「まあいい」老人は首を横に振りました。「何を語っても、おまえとわしが互いを分かり合うことはありえまい。わしはわしの仕事を続ける。おまえはおまえでやるがいい」
「私がどうするというのだ?」
 カーターはさらに顔を近づけようとしましたが、老人は片手を振ってしりぞけました。
「私が何をするというのだ?」
「カーターは繰り返しました。知らずに声が大きくなってきます。
「あまり大きな声を出すな」老人は支配人を指さしました。「この男が目を覚ましたらどうする? おまえはともかく、それ以外の者にわしの姿を見られるわけにはいかんのだ。見られたら殺さねばならん」
「そんな小さな体で、どうやって人に害を加えるというのだ?」
 カーターは鼻先で笑わないではいられませんでした。
「簡単なことさ」老人も笑いました。「この男の服のそでにほんの小さく火をつけさえすればいい。小さな火でも皮膚をこがし、その下の脂肪を溶かすことができる。溶けて液体になった脂肪は服の布地に吸収されて燃え続けるさ。ちょうど石油ランプのしんのようにしてな。その熱がさらに脂肪を溶かし、溶けた油を燃料として補給する」
「そんな燃え方ではゆっくり過ぎて、人間ひとりを燃やしつくすことはとうていできまい?」
「できるさ。数時間はかかるがな。燃え残るのはおそらく、布地に包まれていない両手と頭部だけさ」
「そうなる前に本人が目を覚ますさ。服に火がついた熱さでな」
「そうかね?」老人は意地悪そうに顔を上げました。「気づかぬか? この男は数分前から息をしておらぬぞ。脈拍もないようだ。以前から心臓が悪かったと見える」
 カーターはあわてて支配人に触れましたが、その通りでした。
 その体はぐにゃりとやわらかく、もう少しでイスから転げ落ちてしまうほどだったのです。
 手首に触れても脈はなく、胸に耳を押し当てても鼓動を聞き取ることはできませんでした。
「くそ」
 人を呼ぶために駆け出すときカーターのそでが触れて、灰皿が床に落ちました。
 押しつぶされてタバコの火は一瞬で消えてしまいましたが、老人の姿はその前に見えなくなっていました。
 家族の者を起こし、すぐに医者が呼ばれましたが、支配人が息を吹き返すことはありませんでした。
 支配人の心臓は前々から調子が悪く、いつかこうなることが予期されていて、家族にも医者にもそれほど意外なことではないようでした。
 葬儀やその他の仕事を手伝い、三日後、くたくたになってカーターは町を離れました。
 あまりに突然のことで友人や担当の教授たち、家族の誰もが驚きを隠しませんでしたが、採用希望の願書をカーターが郡の消防局に提出したのは、この夏休みが終わった直後のことだったのです。
 大学を中退しての応募など異例のことで、当局も驚いたに違いありませんが、カーターが資格を満たしていることは明らかでしたから、合格が通知されました。
 カーターは必要な訓練を終え、6ヵ月後にはある消防支局に配属されることが決まっていました。
 住み慣れた町を遠く離れての赴任でしたが、カーターは不満には思いませんでした。
 彼がどこへ行こうと、あの老人がそのあとを追ってやってくることは明らかだったからです。
 戦いの結末がつくまで、やつは何があってもあきらめることはないでしょう。
 カーターが配属されたのはテンペスト地区といい、この国に何百もの鉱山が存在し、採掘がさかんに行われていた時代には人口の多い開けた場所でした。
 でもその後数十年たち、鉱業は振るわなくなり、人口は急激に減少していきました。
 今では人が住んでいる場所よりも、打ち捨てられた鉱山や住宅街のほうがよほど広い面積を占めていましたが、数ヶ所ですが地下の石炭層が現在でもくすぶりブスブスと燃え続けていることもあって、警戒をゆるめることはできなかったのです。
 カーターの仕事はもちろん家々や建物火災の消火でしたが、こういった廃屋の見回りといったことも含まれていました。
 友人たちはいぶかしんでいましたが、こういう人口の少ない場所に配置されたことを本人は喜んでいるふしがありました。
 これは彼と炎の老人との個人的な戦いであり、その戦場は主に火災現場ということになるでしょうが、基本的にカーターは防戦側で、攻撃を仕掛けるのは老人の側でしょう。
 ならば人口密度の低い地域であればあるだけ、巻き添えになる犠牲者の数も少なくなろうというものです。
 そう考えて住み慣れた町を離れ、カーターはテンペスト地区へと移り住みました。
 この地区にやってきてカーターが火災を実際に経験したのは赴任後2週間目のことで、それが同時にやつとの再会になりました。
 テンペスト地区はほぼ全域に石炭層が大きく広がっていて、それらが特に分厚く存在する場所がかつては炭鉱として開かれていたわけですが、人工的なものか自然発火なのか同時に何ヶ所かで火災が発生して現在も燃え続けていて、だが地中のことゆえ消火もままならないということも、この地区が見捨てられるにいたった理由の一つでした。
 赤く塗られたパトロール車に乗って見回りをしながら、カーターは古い駅の廃墟に差しかかったところでした。
 ここにも昔は鉄道や駅が存在していたのです。
 50年前にはそれなりの人口があったからで、一時期は市役所や病院、学校や映画館までが建てられていました。
 でもそれも今では見る影もなく、石やコンクリートでできた建物が何棟も、崩れかけた状態で放置されているわけでした。
 それらの内部に足を踏み入れ、カーターも物思いにふけることがありました。
 建物だけでなく、家具や調度類も多くが手付かずで残されていたのです。
 このときカーターがいたのは駅の待合室の中でしたが、窓ガラスが破れて吹き込んだ砂が積もっていることをのぞけば、当時の姿をそのまま残しているといってもよいほどでした。
 ふかふかして座り心地がよかったであろうソファー、ぴくりともしない2本の針がある時刻をさしたままの巨大な時計、部屋のすみの売店には、ステンレス製の背の高いコーヒーメーカーまでがそのまま立っているではありませんか。
 待合室を抜け、カーターはいつの間にかプラットホームに出ていました。
 ここには列車までが当時のまま残っていて、もちろんサビに包まれた姿ですが、それでも十分に昔をしのぶことができます。
 しかしカーターの静かな物思いも、いつまでも続くものではないのかもしれません。
 突然大きな爆発音を耳にし、思わず体を震わせることになったのです。
 もちろん音が聞こえる方向へすばやく顔を向けましたが、物陰になっていて何も見えず、全速で走り始めることになりました。
 そして角を一つ曲がったところで、燃え上がっているものの正体を知ることができました。
 そこもまた駅の一部なのですが、全体をサビに包まれて、まるで砂岩でできているのではないかと思えるほど赤く変わってしまった蒸気機関車の残骸があり、その真下の地面に亀裂が走り、炎が噴き出しているのでした。
 この真下の地下にも燃える石炭層が存在し、何かの拍子で大地に亀裂が入って顔を出したものでしょうが、鮮やかなオレンジ色をし、機関車の下回り全体をすでにおおっています。
 鉄でできた部品をまるで長い舌のようになめているのです。
 そして機関車の屋根の上に、カーターははっきりと姿を見ることができました。
「お若いの、また会ったな」
 覚悟はしていたものの、カーターの口からはどんな言葉も出てきませんでした。
 自分でももどかしく感じましたが、それが顔に出ていたのかもしれません。炎の老人はうれしそうに笑いました。
「うるさいぞ」
 相手を見上げながら、やっとカーターは声を絞り出すことができました。
「まあそう怒るな」
 炎でできた足を器用に曲げて老人は機関車の屋根に座り、車体の下で燃えている炎を指さしました。
「この火はおまえさんには少し熱すぎるかね? 砂漠の真ん中で炎とは似つかわしくないかもしれんが、わしにはどうしても必要なものでな」
 そのなれなれしい話し方がひどく気に入りませんでしたが、足元の石がはぜて突然大きな音を立てたので、カーターは思わず飛びのかなくてはなりませんでした。
「知っておるかね」老人は機嫌よく続けました。「おまえたちが大地と呼んでいるこの地面とは実は薄っぺらいただの岩板に過ぎず、その下では熱いマグマがどろどろに煮えたぎっているのだよ。
 この世が始まる前から地殻の下はそうやって煮えておったし、この世が終わる瞬間までそうであり続けるだろうよ。つまりこの世が続く限りエネルギーの補給を受け続け、わしの力は衰えることを知らんというわけさ」
「そうかい。それはよかったな」
 唇をゆがめてカーターはにやりと笑いましたが、それを見て老人も何か感じることがあったようです。少し居心地の悪そうな声を出しました。
「何を考えておる?」
「これさ」
 すばやくかがんで足元の石を拾い、カーターは強く投げつけたのです。
 老人がさっとよけたので石はそれ、機関車の車体に当たって大きな音を立てました。
 でもおかげで下に落ち、老人はカーターと同じ地面に立つことになりました。
「こうしてみると、おまえの体は本当に小さいのだな」相手を見下ろし、カーターは笑い声を立てました。「それが最大サイズか? タバコの火ではあれほど小さかったのだから、大地の下で燃えている火の力とやらを直接受けるときにはキングコングのように巨大になるのかと思っていたが」
「大きかろうが小さかろうが、たかが人間の身でわしとどう戦おうというのだね?」
「そうかね」
 と静かに答え、カーターが胸のポケットに手を入れようとするのを老人は少し不安そうな顔で眺めることになりました。
「何をするつもりだ?」
「これさ」
 ポケットからカーターが取り出したのはありふれたただのロウソクに過ぎませんでしたが、それが老人に与えた変化は劇的なものでした。
 相手をバカにしたふてぶてしい表情だったのが、さっと変化したのです。
 おかげでカーターは自信を深めることができました。
 にやりと笑い、相手めがけてロウソクをさらに突き出したのですが、そのときの老人のしぐさの必死さといえばこっけいなほどでした。
 まるで毒蛇でも目にしたかのような顔で、わきへ飛びのこうとしたのです。
 でも動きはカーターのほうがすばやく、白い木綿糸でできたロウソクのしんを老人の体にさっと触れさせることができました。
 老人は悲鳴を上げました。
 ぎょっと驚くような大きな声でしたが、そんなものでロウソクの力に勝てるはずはありませんでした。
 老人の姿はあっという間に吸い込まれ、ロウソクの頂上で燃えているただの火へと変化してしまったのです。
 もう今は老人の姿などどこにもなく、ロウソクとその頂上で燃えている小さな火だけなのです。
 もちろんこの火は数センチもない普通の炎に過ぎなくて、人の形などしておらず、口をきくこともありません。
 作戦があまりにあっけなく成功してしまったのは、カーターも目を丸くするほどでした。
 もちろんこれは何も特別なものではなく、どこでも手に入れることができるただのロウソクに過ぎません。
 こうまでうまくいくとはカーターにも意外だったのです。
 ロウソクの炎を見つめ、カーターはくすくすと笑い始めました。
 もっと長く苦しい戦いを予想していたのですが、これほど簡単に決着がついてしまったのです。
 カーターは慎重にゆっくりと立ち上がりました。
 風のない日でしたが念のため手のひらを近づけ、炎が吹き消されないようにしました。
 そうなっては元のもくあみだからです。
 老人はあっという間にもとの姿を取り戻し、また悪事を続けることでしょう。
 炎の老人を退治する方法について、カーターは事前に調べておいたのです。
 文学部の学生なら、古文書を読むなどお手のものでした。
 このあと彼がすべきことはロウソクを静かな場所まで運び、火を消さずにこのままずっと燃やし続けることでした。
 するとロウソクはしだいに短くなり、最後にはロウがつきてフッと消えてしまうでしょう。
 それが老人の最期の瞬間であり、この世から永久に葬ることができる方法なのです。
 ロウソクを手にソロリソロリと歩き始めるカーターの背後で、燃える機関車の火勢も少し弱くなったようでした。
 でもそれはどうでもよいことでした。
 無人の町の無人の駅など、燃えるにまかせておけばいい。
 そんなことよりも、この悪魔を退治することのほうがよっぽど重大です。
 少し歩くと機関車が上げる炎の音は背後にずっと小さくなり、数ブロック行くとまったく聞こえなくなりました。
 見上げると目の前に映画館の建物があり、入口の扉が大きく左右に開かれたままになっていることに気がつき、カーターは足を踏み入れることにしました。
 もちろん歩きながらもロウソクには気を配り続け、何かにつまずいた拍子に落としてしまうことがないようにしました。
 どこの誰が建設したのか、この映画館は本当に大きな建物でした。
 休日にはさぞかし多くの炭鉱労働者が訪れ、客席がいっぱいになったことでしょう。
 たんに映画を上映するだけでなく、演劇を見せるときのために外部の光を取り入れる明かり窓があり、今はガラスがすべて失われていますがそこから太陽の光があふれ、客席やステージを明るく照らしていました。
 風で吹き込んだ砂がどこもかしこも積もっていますが、カーターはステージに近寄り、砂をどけてそっとロウソクを立てることにしました。
 倒れることがないように、砂を根元に寄せて小山を作っておくことも忘れませんでした。
 もう一度砂をどけて今度はそこへ自分が腰かけ、ロウソクが燃えつきるのを待つことにしました。
 それにはどのくらいの時間がかかるのか見当もつかないということに突然気がつきました。
 ロウソクを買った店の売り子にでも質問しておけばよかったと思いましたが、もう手遅れです。
 だけど大きなロウソクではないから、数時間以上かかるということはないでしょう。
 今はまだ午前中です。太陽が傾き始める前にはすべてすんでいることでしょう。
 ロウソクの火はゆっくりと燃え続けています。
 これがあの老人の姿をしていたとはもはや信じられないほどで、今はまったく正常な普通の炎でしかありません。
 明るく光を発し、揺らめくこともまばたくこともなく燃え続けています。
 気を落ち着けて、カーターはまわりを眺める気になりました。
 彼がいるのはステージの上手に近いあたりで、いくらも離れていないところにカーテンがあります。
 いかにも重そうな分厚い布で作られたもので、建設当時としては豪華なものだったのかもしれません。今はすすけて汚れていますが、もとは鮮やかな赤色をしていたのでしょう。
 でもそのカーテンの陰から突然一匹の猫が姿を現したとき、カーターもかなりの驚きを感じないではいられませんでした。
 もちろん、どこにでもいそうな茶色の猫だったのです。
 ただその人懐っこさが並外れていて、初めて出会ったはずなのにもうカーターのそばへ寄り、体を押し付けてくるどころか、ひざの上にまで上ろうとするほどだったのです。
 目を丸くして見下ろし、カーターも背中を二、三回なでてやりました。
 のどをごろごろと鳴らし、とうとう猫は彼のひざに腹ばいになってしまいました。
 無人だと思っていたけれどこの近所には意外にも誰かが住んでいて、その飼い猫だからこれほど人懐っこいのだろうかという気がしました。
 人懐っこいというよりもなれなれしいというほうがよっぽどふさわしいとすぐに思い直しましたが、そんな住人のことなど一度も耳にしたことがなかったし、それよりもカーターを緊張させたのは猫の瞳の色でした。
 あごの下に手を添えて軽く上を向かせてみたのですが、そのとき瞳の奥にごく小さな燃える炎の姿を見ることができたのです。
 少年時代に見た納屋の火事のようにメラメラとした炎で、ロウソクの光が反射したものでないことは明らかでした。
 そう思って眺めなおすと、いろいろとおかしなことが見えてくるような気がしました。
 第一に、猫としてはいささか首が長すぎるのではないでしょうか?
 これではまるでイタチです。
 誰だか知りませんが、猫に変身しているつもりのこやつは、動物学の知識が豊富とはいえないようです。
 猫が口を開けてニャアと鳴いたので、カーターはさらに面白いことに気がつきました。
 あまりのことで思わず笑ってしまいそうになったのですが、首の長さだけでなく、この猫は歯並びまで奇妙なのです。
 本物の猫の歯は釘のようにとがり、数は少ない。
 このニセネコの歯も確かにとがってはいますがいやに数が多く、前歯なども行儀よく一列に並んでいるのです。これではまるで犬の口の中です。
 あきれて、カーターは鼻から息を吹き出しました。
 それに気づいたのかいないのか、猫はひざの上でさらに甘える気配を見せました。
 流し目のような横目でカーターを眺めるだけでなく、ついにはあおむけになって腹を見せ、手にじゃれ付き始めたのですが、カーターが冷静さを失うことはありませんでした。
 猫をロウソクに近寄らせないためにはどうすればよいかを考えはじめていたのです。
 今のところ、猫はロウソクには何の関心も見せてはいませんでした。
 でもかえって、それが怪しい証拠であるような気がしました。
 ステージの上に立てられ、火がついて明るく光を放っている物体に興味をしめさない猫がいるでしょうか。もし本物の猫なのであれば。
「おい忘れたのか」カーターは猫に話しかけました。「猫の後ろ足は前足よりも指の数が多くて、みな6本あるんだぞ。おまえは前後とも5本じゃないか」
 猫の動きが一瞬で止まり、意外そうな顔をして見上げたような気がしましたが、次の瞬間、カーターは大きな声を上げて笑ってしまいました。
 その声が劇場の中に響き、猫が目を丸くしたので手を伸ばし、カーターはその後ろ足に触れました。
「あれあれ、いつの間にか一本増えて指が6本になっているぞ。1分前には確かに5本だったのに」
 猫はまだカーターを見上げ続けていましたが、無邪気な動物の顔を装い続けることはもはやできないようでした。いかにも憎々しげな顔つきへと見る見る変わっていったのです。
 これにはカーターも驚き、ひざの上から放り出し、床へむけて思わず投げつけることになりました。
 空中を飛び、身をひるがえらせ、猫は4本の足でうまく床に立つことができました。
 おかげでほこりが少し舞いましたが、ロウソクの炎に影響を与えるほどではありませんでした。
 カーターをあざむこうとこれ以上努力しても無意味だと悟ったのでしょう。ついに猫の姿を捨てて正体を現し、にらみ付け、カーターを見下ろし始めたのです。
 でもカーターも、もう納屋の火事で興奮していた少年ではありません。眉一つ動かすことなく敵を見つめ返すことができました。
 そういった勇気が自分の内部に隠されていたことに驚きを感じていましたが、そのこともうまく隠すことができました。強い敵と向かい合うときには、驚きを隠すのは重要なことかもしれません。
「なあお嬢さん」
 とカーターは穏やかに話しかけることができたのです。
「なんだ?」
 あの老人の娘なのか孫なのか、彼女の瞳は険しく、声はいかにもとげとげしく響きました。
「助け出しにくるとは、なかなか仲間思いなことだな。魔物たちの間にも情が存在すると見える」
「何の話だ?」
 彼女の顔つきは本当に不思議がっているように見えたので少しとまどいを感じながらも、カーターはロウソクを指ささないではいられませんでした。
「祖父か誰か知らないが、おまえはこいつを助け出しにきたのだろう?」
 炎でできた娘は、あきれたようにフンと鼻を鳴らしました。「なぜそう思う?」
「猫の姿に化けて、おまえはこのロウソクに近寄ろうとしたのだろう? すきを見て押し倒し、火を消すつもりだったのだろう」
「何をバカなことを」
 口を開けて笑い、娘が歯を見せたことがカーターにはとても意外でした。
「なぜ笑う?」
「助けるどころか、私はそいつの最期を見届けにきたのだ」
「ではなぜ猫の姿で近寄ろうなどとした? ロウソクを倒し、火を消すためではないのか?」
「それはおまえが勝手に勘違いをしただけだ。そばへ行き、私はその火が本当に自分の叔父なのか確かめようとしただけだ」
「だから助けようというのだろう?」
「まさか」娘はもう一度鼻を鳴らしました。「なぜ私が助けたりせねばならん?」
「どういうことだ?」
「質問ばかりする男だな。人間の頭の中とは、それほど疑問ばかりなのか?」
「わけのわからぬことばかりおまえが口にするからだよ」
「何がわけがわからぬ?」
「まずそもそも、おまえはいったい何者だ?」
「なんとまあ、おまえはそんなことさえ知らずにいるのか?」娘はため息をつきました。
 それがあまりにも人間とそっくりな音だったので、カーターは相手の姿をもう一度眺めなおしたほどです。
 娘は背が高く、老人と同じようにその体は炎でできていて、発する熱のせいで近寄ることはできないけれど、もし並んで比べることができればカーターにも負けないほどの身長があるでしょう。
 そういう点ではいかにもあの老人と同属らしいとはいえないかもしれませんが、髪や衣装や長いまつげの先までが炎で作られているところは同じでした。
 とても美しい顔をしていますが、自分に対する憎しみゆえだと思っていたあの険しい表情は、実は老人の死を見届けることへの緊張によるものだったのかもしれないとカーターも思い直すことができました。
 だとすると、この娘と老人の間にはいったい何があったというのでしょう。好奇心が頭をもたげはじめるのをカーターは感じました。
 炎の魔物というものが存在することは少年時代から知っていました。
 でもそれがどういう連中で、何を考え、どのような暮らしを送っているのかなど想像してみたこともなかったのです。
 それよりも何よりも、炎の魔物と呼ばれる者があの老人以外にも存在することさえ、今の今まで知らなかったわけです。
 はやる気持ちをおさえ、娘が口を開くのをカーターは待つことにしました。
「私の名はエセルという」娘は話し始めました。「人間の知らぬことであろうが、ある場所に『炎の王国』というものがあってな、私はそこの住人だ。
 炎の王国は火の内側を領土としている。火というものは世界中どこでも四六時中燃え盛っているのだ。だから我々は暮らす場所に悩むことはないのだよ。
 考えてみるがいい。台所や暖炉だけでも世界中に何千万ヵ所と存在しよう? 汽船や蒸気機関車のボイラー、工場の炉などを加えればさらに増えるではないか。最近は電灯に取って代わられたが、石油ランプの内部もかつては我々のすみかだった。
 我々の領土とはそれほど広大であるのだが、そこでもお定まりの争いごとがある。
 おまえがそのロウソクの中に閉じ込めた老人は、実は先代王の息子の一人なのだよ。先代王の時代まで、炎の王国は平和な時代が長く続いた。それは王の善政によるところが大きかったのだが、誰にでも寿命があり、跡継ぎを選ぶ必要が生じた。
 だが王国の民はそのことを気にやんだりはしなかったのだ。王には二人の息子がおり、長男は親切で穏やかな気質で、人望も厚かった。きっとよい王になるだろうとみな安心していた。
 一方、その弟は気の荒い乱暴で意地悪な男で、家来の中にさえ好むものは一人もなかった。しかし順番からして弟が王位につくことはありえず、特に何かが取りざたされることはあの日までなかったのだ」
「弟が何かやらかしたのだな」カーターは言いました。
「その通り。雪見の会のおりであったが…」
「雪見だって?」
 カーターが大きな声を出したので、眉を上げてエセルは見つめ返しました。「我々もそれぐらいのことはするさ。もちろん炎の内側から見物するのだがな。人間の町のクリスマスの夜、クリスマスツリーにともされたロウソクの炎ごしに雪景色を眺めるのだ。なかなか風流なものだぞ。王国の民は火の内側に住んでいるのだということを忘れるな」
「ああ、わかったよ」
「だがあの年の雪見は少し趣向が違っておってな。なんと火山の中から行われたのだ。ある山の火口が今しも活動中で、人間の家の窓から見るのとはまた違う景色を楽しむことができた。
 考えてみるがいい。氷原の中央に高く高くそびえる頂上からまわりを見回すのだぞ。雲のない夜で、すぐ手前の荒野から地平線を越えて空の月や星々まで、邪魔をするものもさえぎるものもなく見渡すことができるのだ。それはそれは胸のすく眺めであった」
「そうだろうな」
「だがその楽しさも長くは続かなかった。王の次男が突然姿を現したからだ」
「王位を求めてだな。兄を殺そうとしたのか? どうやってだ?」
「それはおまえには言えぬ」エセルは首を横に振りました。「炎の魔物を殺す方法を人間になど教えることはできない。ロウソクを使う方法はすでに知っているようだがな。
 ふん、そうがっかりした顔をするな。とにかく弟は兄を殺し、逃走したのだ。兄を亡き者にしたからといって自分が王位につけるはずもなかったが、玉座に座る兄を目にすることが我慢ならなかったのだろう。自分の手に入らぬのなら、兄にも渡してなるものかというひねくれた根性だったのかもしれない」
「なかなか行動力のある弟ではないか」とカーターが口をはさむと、エセルもかすかに笑い顔を作りました。
「とにかく炎の王国にはいられなくなり、この瞬間から弟の逃走劇が始まったのだ」
「王国の王位はどうなった?」
「殺された兄には娘がおり、伝統にのっとり、これが跡を継ぐことに決まった。だが伝統とは面倒なものでな。跡を継いで王位につくには、まず殺された父のかたきを討たねばならぬのだよ」
「ということは?」
「その娘とやらが、今おまえの目の前で父のかたきを討とうとしているのさ」
「王位は今はどうなっているんだい?」カーターは目を丸くしました。
「幸い祖父はまだ生きている。いつ命がつきても不思議はないほど高齢ではあるがな。だから私も急がねばならぬのだ」
「するとこいつは」カーターはロウソクの炎を指さしました。「おまえの叔父ということになるのだな」
 エセルはうなずきました。「そして私の父を殺した者でもある」
「なるほど」腰かけたまま体をかがめ、カーターはひざの上に頬づえをつきました。「しかしおまえのかたき討ちはすでに終わったも同然だろう? このロウソクが燃えつきるのをこのまま待っていればよいのだから」
「そのことではおまえに感謝している。私は叔父のあとを追ってここまでやってきたのだ。ただ一つ不思議なのは、おまえがここで何をしているのかということだ。そもそも、なぜおまえは叔父をロウソクで捕まえなどした? 何が目的なのだ?」
 カーターは自分の物語を語り始めました。少年時代の火事の話からすべてを話したのです。
 口を閉じたまま黙って聞いていましたが、やがてエセルは口を開きました。
「なるほど、いかにも叔父らしい話ではあるな。王国の中だけでなく、外部にも敵を作っていたわけか」
 いつの間にかロウソクがすっかり短くなっていることに気がついたのは、二人ともほとんど同時でしたが、まずカーターが口を開きました。
「おや、話をしていると時間とは勝手に過ぎていってくれるものだな」
「あとどの位かかる?」首をわずかにかしげながら、エセルも口を開きます。
「よくわからんが」カーターは腕時計をのぞき込みました。「たぶんもう1時間とかかるまいよ」
「叔父の命もそれまでということか」
「悲しいのかね?」エセルがため息をついているようなので、カーターは口にしてみました。
「そうではなかろうよ。だがいずれにしても、叔父の逃走と私の追跡はこれで終わりを告げるということだ」振り返り、エセルは突然笑い顔を作りました。「感謝の印として、私の戴冠式におまえを招待してやろうか?」
 カーターも笑い顔を作ることができました。
「ごめんこうむるよ。どんなに上等な耐熱服を着てももちやしない」
 語ることもつきてしまい、二人は口を閉じることになりました。
 そのまま何も起こることなく時間が過ぎてゆき、ロウソクはどんどん短くなり、やがて数ミリとなり、最後にほんの少し明るく輝いて、とうとう消えてしまいました。
 燃えつきてしまったのです。
「さあて」炎が消えた後にゆっくりと立ち上る白い煙から視線を離しながら、エセルが口を開きました。「これで私の使命はすんだわけだ」
「オレの仕事もね」
「そうだな」高い場所から見下ろしながら、エセルは目を細めました。おそらくあれは微笑しているということなのだろうとカーターは思いました。
「これで私は王国へ帰るが」エセルが言いました。「おまえには本当に感謝している。ただの人間にあいつを倒すことができるとは正直なところ想像もしていなかった」
「そうかい」
「感謝の印に、おまえに何か与えようと思う」
「なんだって?」カーターは意外そうに眉を上げました。
「そんな顔をすることはない」エセルは今度こそ明らかに微笑んでいました。「炎の王国の王女はケチではない。何なりと与えようぞ」
「しかし…」
「そうだろうな」自分の指から指輪を引き抜きかけていましたが、その手をエセルは途中で止めることになりました。「炎でできているのでは身につけるどころか、人間には手を触れることもできぬな」
「本当に気にしなくてもいいぜ」
「そうはいかん」エセルは首を振ります。でも突然何かを思いついたようで、その表情が明るくなりました。
「どうしたね?」
「感謝の印として、私は一度だけおまえの呼び出しに応じてやることにしよう。人間の手ではどうしようもないことでも、我々にとっては簡単に手助けができるという場合もあろう? 炎はおまえたちの体を焼いてしまうが、我々にとっては空気や水も同然で、むしろ必要欠くべからざるものだ」
「どういう意味なんだね?」カーターは首をかしげました。
「おまえは消防隊員であろう? ならば燃える家の中に取り残された人間を助け出したいが、火勢が強すぎてどうにも手が出せぬという場合もありえよう?
 そういうとき、私が手助けをしてやることができるかもしれないではないか。よいな。よく覚えておいて、私を呼ぶがいい。だが忘れるな。おまえの求めに応じて私が姿を現すのはただ一度だけだぞ」
「どうやってあんたを呼べばいいんだね?」なんだかキツネにつままれているような気持ちがしないでもありませんでしたが、カーターは口にしました。
 エセルは笑いました。
「簡単なことだ。何でもいいから炎の中へ向かって、私の名を三度繰り返して呼べばいい。おまえが息をつぐよりも早く姿を見せてやるさ」
 こうやってカーターはエセルと別れたのですが、彼女が魔法のように姿を消してしまった後も劇場の廃墟の中に腰かけたまま、頭をぽりぽりとかかないではいられませんでした。
 何もかもが夢のような気がしていたのです。
 時計を見るともう午後遅く、窓から差し込む光は斜めになりかかっています。
 でもそれをのぞけば午前中と変わったところは何一つなく、自分があのような怪物と言葉を交わしたことを証拠立てることができそうなものはまったく見当たりません。
 目に付くのは、ただ短くなって消えてしまったロウソク一本きりで、燃えたロウの匂いはまだ空気の中にかすかに感じ取ることができましたが、それもすぐに吹き散らされ、何もわからなくなってしまうだろうと思えたし、実際それは正しかったのです。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み