双子の墓は穴ひとつ

文字数 9,162文字


 学校、特に私立校の入学先を決めるに際し、男子なら、そこの制服がどんなであろうが、気にすることはまずない。
 どこの学校でも似たデザインで、校章さえ変えれば、ほとんど区別がつかない。
 しかし女子生徒はそうはいかない?
 女子生徒なら、「あの学校の制服が着たい」と希望を持ち、それで志望校を変更するだろうか。
 筆者にはわからない。
 実はそんなこと、あまり耳にした記憶がないのだ。
 そもそもこの小説の舞台は現代よりも昔、まだ家々にテレビさえ普及していない時代で、社会の常識も人の考え方もずいぶんと違っていた。
 この時代、女学校の制服はどこも似たり寄ったり。
 ワンピースかツーピースか、白いラインが何本入るか入らないか、スカーフは白か赤かといった程度だった。
 よほどのことでないと、各校の差を気にする人はいなかった。
 だが、この物語の主人公は例外だったのだ。


「その制服いいなあ。私も着たかったのよ」
 もう何回目なのか誰にもわからないが、また同じ言葉を繰り返し、15歳の薬膳葉子はため息をついた。
「この制服がどうしたの?」
 と薬膳花子は振り返った。
 高校に入学が決まり、やっと仕立て屋から届いた制服を鏡の前で試着していたのだ。
 その様子を、葉子は未練たらしく眺めている。
「あーあ、同じ双子で、どうしてこんなに頭の出来が違うのかなあ。お姉ちゃん、ときどき私にもその制服を貸してよね。特にその紫の生地が素敵だわ。平安貴族みたいに高貴な感じがするのよ」
「大げさねえ…。この制服を借りて、あんたどうするの?」
「町の中を歩きたいのよ。みんながどんな顔をするか、楽しみだわ」
「だけどあんたは第二高校に入学が決まったんだわ。第一じゃないわ」
「第二だって第一だってかまうもんか。私はその制服が着たいのよ。着たいから着たいのよ」
 腹を立てた時の癖で、花子は眉を上げたが、そこは姉の貫禄。
 フンと鼻を鳴らすだけにとどめた。
 それ以上妹をたしなめはしなかったのだ。
 花子と葉子は双子、それも一卵性だから、実は家族でさえ見分けがつかない。
 それほど良く似ていたのだ。
 まだ言葉も出ない幼い頃だが、姉妹は二人そろって病気にかかった。
 しかし病名は異なった。
 医師から与えられた2種類の薬のどちらを花子に与え、どちらを葉子に与えるか間違えないよう、母親は姉妹の手のひらにサインペンでそれぞれの名を書いたほどだ。
 姉に向かって葉子は制服の借用を宣言したが、有限実行、果たして本当に実行する日が来た。
 花子が外出した隙に、憧れの第1高校の制服に身を包み、町へ出たのだ。
 この制服は紫の生地を用い、決して派手派手しくはなく、上品なデザインであることが特に気に入っていた。
 ウエストはきゅっと細く、白い飾り帯を締める。
 その結び目は蝶々結びで、まるで十五夜ウサギの耳のように愛らしく突き出しているのだ。
 つばのある帽子は丸く、平凡な形だが、あみだにかぶると少女らしく映え、なんともいえないかわいらしさがある。
 葉子でなくても、この制服にあこがれるのは無理もない。
 葉子は町をひとまわりし、足が疲れると喫茶店でコーヒーを飲んだ。
 第一高校は勉強のレベルが高く、入学を望んだが不合格であった者、憧れるだけで始めからあきらめる者も多かった。
 そんな制服を身につけると、まわりの人々が自分をほめそやし、ヒソヒソと噂話をしているような気持ちがして、葉子はとても鼻が高かった。
 コーヒー代を払い終え、そろそろ家へ帰ろうと店を出た。
「あれっ、おかしいなあ?」
 葉子が右腕に小さな違和感を感じたのは、この時だった。
 コーヒー代を払い、財布をポケットに戻そうとして、右腕を動かしたのだ。
「どうしたんだろう? 制服の右肩に何か入っているんだわ」
 それが肌に当たっているのだ。
 もぞもぞと体を動かし、葉子は異物の正体を探ろうとした。
「よくわからないわ。ここに何かがあるのは確かだけど、触っても動かないし」
 少し気味悪く感じ、葉子は自然と早足になった。
 家の玄関を開けると自分の部屋へ飛び込み、制服を脱いでさっそく調べたのだ。
 異物の正体はすぐにわかったが、それが葉子をさらに悩ませた。
「なんだこれ? 小さなボタンじゃないの。取れないと思ったら、制服の肩の内側にしっかりと縫い付けてあるんだわ。だけどなぜ?」
 なぜこんなところに、こんなものを縫い付ける必要があるのだろう。
 葉子は頭を悩ませた。
 誰もいない家の中は、ひっそりと静まり返っている。
 葉子の独り言だけが、まわりの壁や柱に吸い込まれる。
「ああそうだ。いま思い出したわ。お姉ちゃんには、いつも肩のこの場所に触れる癖がある。何回も見たことがある…。そう、左手の指で、右肩のここにちょんと触るのよ。あれはきっと、布地の上からこの隠しボタンに触れているのだわ。でもなぜかしら?」
 姉の花子がどんなときにその仕草をするのか、葉子は思い出そうとした。
「ええっと、いつどこで見たんだっけ?… そうだ。小学校の交通安全教室のときだわ。『道路を横断するときは、右を見て左を見て、もう一度右を見てから渡りましょう』と先生が言って、道路と横断歩道が校庭に白い線で描いてあって、クラス全員で練習した。あの時お姉ちゃんは、とても神経質そうに、何回も何回もここに触れたわ。それから…」
 葉子は、他の事例を思い出そうと努めた。
「去年の学校の大掃除の時もそうだった。先生の指示で、『この本棚はもっと右へ動かしましょう。その机は左のすみへ片付けてね』とかやってた」
 葉子は考え続けた。そして…
「あっ」
 ついに原因に思い至ったのだ。
 花子が外出から戻るのを、洋子は玄関で待ち構えた。
「お姉ちゃん」
「どうしたの葉子ちゃん、私を待っていたの? あらあら、あんた私の制服を着たのね。家の中ならいいけど、まさか表を歩いたんじゃないでしょうね」
「歩いたけど、ちょっとだけよ。それより大事な話があるんだ。お母さんは一緒じゃないのね?」
「お母さんはまだ帰らないわ。どうしたっていうの?」
「お姉ちゃんの洋服の秘密に私は気がついたんだ」
「秘密って?」
 花子の手を取り、葉子は制服の右肩に触れさせた。
 そこにはもちろんあの隠しボタンがある。
 花子の顔色がサッと変わった。だがそれを隠そうとする。
「葉子ちゃん、あんた何の話をしているの?」
「隠さなくてもいいのよ。私みんな知ってるんだ。さっきお姉ちゃんの部屋へ行って、洋服ダンスの中も調べた。お姉ちゃんの洋服の右肩には全部、小さなボタンが見えないように、隠して縫い付けてあるね。あれはお母さんがしたの?」
「なんのこと? 私にはわからないわ」
「とぼけなくたっていいわ。私たちは双子じゃないの」
 ついに花子は表情を変えた。
「ええ、あのボタンはみんな私が自分でつけたのよ。お母さんは何も知らないわ」
「そうでしょうね。私もお母さんには話したことがないもの」
「何のことを言っているの?」
「お姉ちゃんは、物の右と左を区別することができないのでしょう?」
「えっ、私…」
「心配しなくていいよ。それはお姉ちゃんだけじゃない。今も言ったでしょう? 私たちは双子なのよ。神様は、私とお姉ちゃんをまったく同じに作ったわ。お姉ちゃんが抱えている困難は、私も同じように持っているのよ」
「じゃああんたも、どっちが右でどっちが左なのか、わからなくなることがあるの?」
「うふふ、しょっちゅうよ。私たちの脳は特別製なのかな…。『右へ行きなさい』と誰かから言われるたびに、私はドキドキしてしまう。『右って、どっちの方向だったっけ?』とね」
「あんたはそれで困らないの? 私はいつも困っているわ。だから…」
「持っているすべての洋服の肩の内側に小さなボタンを縫い付けて、目印にしているのね。『こっちが右側だ』って」
「ええ」
「右とか左とか言われるたびに肩に触れて、間違わないように確認しているのね」
「そうよ。何年も前からやっている方法なの。私と同じ困難を抱えて、あんたは困らないの?」
「お姉ちゃんは、私が困っているのを見たことある?」
「ううん、記憶にないわ」
「ほら私の手を見て。右手と左手で爪の長さが違うでしょう?」
「ええ、それは以前から気がついていたわ。あんたは常に左手の爪を長めに伸ばしているわね」
「うふふ、そうじゃなくて、右手の爪を常に短く切りそろえていると言ってほしいなあ。私の場合、右手の爪の短さが、お姉ちゃんの肩ボタンと同じ役目をしているのよ」
「どうして?」
「バカみたいだって笑わないでね。私は毎日のように右手の爪を切っている。つまりこっちの手だけは、常に身奇麗にしているのよ。『みぎれい』ね。誰かに右とか左とか言われたら、私はすぐに自分の手を見るの。そして、爪の短い『みぎれい』な手の側が…」
「…右なのね」
「ご名答。私はもうずっと何年もこの方法でうまくやってきたわ。双子なのにおかしなことね。お姉ちゃんも私と同じ困難を抱えているだなんて、想像したこともなかった」
「私だって同じよ。二人とも同じ困難を抱えて、だけど互いに相談もせず、それぞれ別の解決策を取っていたなんてね」
「本当にね…。ねえお姉ちゃん、私がお姉ちゃんのやり方を真似しても怒らないでね」
「もちろんよ。誰が怒るもんですか…。ねえ私たち、きっと他にも色々協力できるんじゃないかなあ。もしも神様が私たちの脳を特別製に作ったのなら、『物の左右がわからない』という困難だけじゃなくて、もっと他にも何か授けているかもしれないわ」
「どんなことを?」
「もっと素敵なことよ。何かの能力とか才能とかね。ねえ葉子ちゃん、私たちは何が得意で何ができるのか、これから話し合いましょうよ。私たちの特別製の脳と知恵を合わせれば、きっとすばらしい才能が発見できるわ。それを伸ばせば、夢のようだと思わない?」
「そうね、二人で知恵を合わせて、これから考えましょうよ…」
 双子たちの両親にとって、この日の夕食は謎めいたものになった。
 葉子と花子は、いつにも増して仲がよかったのだ。
 双子たちが部屋へ引き上げた後、父もこう言ったほどだ。
「母さんや、うちの娘たちはどうしたのかな? 今夜はいやに仲がよいじゃないか。普段なら宿題を教えあうこともなく、おかずの多い少ないで言い合うことさえあるのに、今夜ときたらどうだい?」
「ええ、私もキツネにつままれたような気分ですよ。お夕食が始まる前のことですけれど、互いに学校の通知簿を見せ合ったり、文集に載った作文を読んで批評しあったり。はては家庭科の宿題に作った裁縫物の見せっこまでしているんです。あの子たち、一体何を始めるつもりなのかしら…」



 事件は、意外なところから露見した。
 深夜、ある駅の駅員から、
「終電車が終点に着いたのに、下車を拒否する酔っ払いがいて困っている」
 と警察に通報があったのだ。
「なんだ、酔っ払いか」
 気のない2人の警察官が派遣されたが、電車内に一歩踏み込んで目を丸くした。
 酔っ払いという言葉から想像したのとは違い、座席にしがみついて下車を拒否するのは若い女だった。
 しかも身なりがよく、化粧も上品で、裕福な家庭を思わせる。
 警察官は念のため婦人警官を呼び、なだめすかしながら、なんとか女を署へと連れ戻った。
 ソファーに座らせると、女は泥のように眠った。
 ハンドバッグを開け、身元を調べた婦人警官は驚いた。
「薬膳葉子…。この名前には見覚えがあるわ。先日、外国から事故死の公報が入ったのもそんな名前だった」
 薬膳という珍しい姓が、婦人警官の記憶を呼び覚ましたのだ。
 すぐに刑事課から刑事を呼び、婦人警官は仕事をバトンタッチした。
 葉子が目を覚ましたのは、3時間後のこと。
 アルコールが抜け、疲れた目で見回した。
 そして目の前にいる刑事の姿に気がついたのだ。
「あなたはだれ?」
 刑事は事情を説明した。
 取調室は寒々しいが、どこの警察署でも似たようなものだ。
 コンクリートの壁に窓が一つ。机とイス。
 葉子と刑事が腰かけ、立会いの婦人警官は壁のそばに立っている。
「ええっと、あなたのお名前は薬膳葉子ですね」
「ええ、そうだわ」
 身元の確認が済むと、話題は先日入った事故死公報のことになった。
 葉子の双子の姉の死に関することで、刑事に乞われるまま、葉子は花子の思い出を語った。
 その中で自然と、双子が抱えた共通の困難が話題に上った。
 2人で力を合わせ、それをどう克服したのかも葉子は語った。
 話を聞き、刑事は感銘を受けたふうだった。
「ははあ、洋服の右肩に縫い隠した小さなボタンか…。その日からあなたがたは、二人が共通に生まれ持つ困難に気づき、認め合い、助け合ったのですね。それからお二人の生活はどうなりました? 何か変化がありましたか?」
「もちろん家族4人で暮らし続けたわ」
「あなたたち双子は、本当にそれほどそっくりだったんですか?」
「うちにあるアルバムをご覧になるがいいわ。二人を区別できる人は世界に一人もいない。両親はすでに亡くなったし、そもそも両親にも区別できなかったしね」
「双子の区別ができる人はいないか…。ただ、あなたたち姉妹本人を除けばね。お2人のことをもう少し話してください」
「刑事さん、あなたは双子に興味がおあり? まあいいわ。お話しましょう」
「お願いします」
「子供の頃は無邪気でよかったけれど、年頃になると、私と花子の前にある男性が現れたわ」
「高橋和夫ですね?」
「あら、どうしてご存知なの?」
「もちろん、パリ警察からの公報に記されていますから」
「ああそうね…。ええ、高橋和夫はとてもハンサムな人だったわ。姉と私は、すぐにどちらも夢中になった。もともと高橋は、テニスクラブで私が知り合ったの。私たちは親しくなり、両親に引き合わせるため、家へ招待したわ」
「両親に引き合わせ…、ということは結婚を考えていたのか…」
「もちろんよ。そこで高橋は姉と出会い、私たちが余りにそっくりなので目を丸くしたわ」
「結果的にあなたは、花子さんに高橋を取られたわけですね」
「あまりにそっくりな姉妹でも、花子には学歴と教養があった。女であの大学を卒業というだけで大したものなのに、成績トップで卒業だからね」
「なるほど…。では新婚旅行の話に進みましょう。花子さんと高橋の新婚旅行です。あなたは反対だったのでしょう?」
「反対しても、どうにもならないわ。日本国憲法にも書いてあるじゃないの。『結婚は両性の合意のみに基づく』って」
「それはそうでしょうが…」
「刑事さん、その後起こったことは、今あなたの目の前にある公報に書いてある通りよ。高橋と花子は新婚旅行でパリへ行き、レンタカーを借りた」
「ヨーロッパは日本と違い、自動車は道路の右側を走るんでしたね」
「そう、日本の道路とは逆になる。普通の日本人でも、右側通行の国で運転するときは緊張するわ。日本人には、『自動車は左側通行』というのが染み付いているから」
「パリ警察の公報にはこうあります。新婚の高橋夫妻は長距離ドライブ中で、普段なら夫が運転するのだが、過労を防ぐため、少しの間ということで花子さんがハンドルを握った。そして…」
 残りは葉子が引き継いだ。
「ある交差点を曲がったとき、本来なら右側レーンに進入すべきところを、誤って左側に侵入した。そして大型トラックと正面衝突し…」
 刑事はため息をついた。「ええ、その通りです。夫婦は二人とも助からなかった」
「刑事さん、まさかあなた、これを殺人事件とでもお考えなのかしら?」
「いいえ、あなたはただ酔っ払いとして保護された。公報が届いた以上、近日中にあなたの家へうかがい、事情をお尋ねするつもりではおりました。そこへ運よくあなたが来たのです」
「ああそう」
「でも私は今、疑問を感じているのです。あなたは今、双子はすべての洋服の右肩に小さなボタンを縫い隠したと言った。だけどそれは、公報の内容と一致しません」
「なんですって?」
「葉子さん、あなたは酒が完全には抜けていない。まだアルコールの影響下にある。だから私との雑談の中でつい本当の事実、『洋服の右肩に隠しボタンをつけた』と口を滑らせたのです。本当ならあなたは、『右肩』ではなく『左肩』と言うべきだった」
「パリ警察は、事故時に花子が着ていた洋服の肩を調べたの?」
「抜かりはありません。公報によると、事故時に花子さんが着用していた洋服には、左肩に隠しボタンが縫い付けてありました」
「うふふ、それが何を意味するのかしら?」
「誰かが花子さんの洋服の肩ボタンをひそかに付け替え、事前に右肩から左肩へと移したのです。それが慣れない右側通行の国で運転中、緊張した花子さんが誤って左車線に侵入する原因になったはずです。もしそうだとすれば、これは立派な計画殺人です」
「それで?」葉子の表情はまったく変わらない。
「花子さんが『左右の区別に関する困難』を抱えていたことを知っているのは、双子の妹のあなただけだ。同じ家に同居するあなたなら、新婚旅行に出かける直前に花子さんの洋服に細工することも可能だったはずです」
「そしてその動機は、ハンサムな男性を取られた恨みね?」
「ええ」
「だけど刑事さん、あなたはもっと基本的なことを疑問に思うべきだわ」
「なんです?」
「花子が洋服の右肩か左肩、どちらに隠しボタンを縫い付ける習慣だったのか、知っている人は私以外、誰もいないのよ」
「いいえ、さっきあなたははっきり、『右肩にボタンを縫い隠す習慣だった』と述べました。これは裁判の場で証拠になります」
「法廷で私の弁護人は、きっとこう言うでしょう。『取調室での証言当時、被告人はアルコールの影響下にあり、その発言は信用できない』とね」
「しかし…」
「刑事さん、あなたは今、事故時に花子が着ていた洋服を調べ、『その左肩に隠しボタンがあった』とおっしゃったわ。本来、隠しボタンは右肩のはずだから、私がひそかに付け替えたのだろうと」
「そうですよ」
「衝突事故で花子の体は車外へ投げ出されたから、パリ警察は肩を調べることができたわ。花子の荷物の中にあった他の洋服はどうでしたの?」
「それはすべて、事故車と一緒に灰になりました。大きな事故で、車体は一瞬で燃え上がったのです」
「では刑事さん、お疑いなら、隠しボタンがどちらの肩に縫い付けてあるか、いま私が着ているこの洋服を調べればよろしい」
「ええ、失礼します」
 婦人警官に命じ、刑事は葉子の上着の肩を調べさせた。
 婦人警官の答えは簡潔だった。「ええ、確かにボタンは左肩にあります」
「でしょう?」葉子はニヤリと笑った。「ねえ刑事さん、まだお疑いなら、どちらの肩に隠しボタンがあるか、私たちの家を捜索すればいいんだわ。花子の部屋の洋服ダンスのことを言っているのですよ」
 刑事は首を横に振った。
「いえ、それは証拠にはなりません。花子さんと夫が新婚旅行に出かけた後で、あなたが右から左にすべて付け替えたかもしれない」
「花子は衣装もちだったから、まあ大変な作業量だこと。夜なべ仕事でもして?」
「殺人罪から逃れるためなら、人はその程度のことをいとわないでしょう。でも念のため、あなた方の家も捜索します。これから捜索令状を取る手続きをしましょう」
 刑事は立ち上がり、婦人警官と二言三言小声で話した後、取調室を出ていった。
 刑事の姿が廊下に消え、ドアがバタンと閉まると、葉子は婦人警官と2人きりになった。
 婦人警官が口を開いた。
「そうだ、令状請求には時間がかかるから、コーヒーでもいれますよ。インスタントでもいいですよね?」
「ええ、いいわ。ブラックでお願いね」葉子は答えた。
「はい」
 婦人警官は取調室を出、葉子は一人になった。
 だがそれはほんの何秒かのことで、思いがけず大きな足音と共に婦人警官が駆け戻り、再びドアを押し開けた。
 うろたえた様子で、取調室に顔を見せたのだ。
 何事か、と葉子は顔を上げた。
 婦人警官は言った。
「あああなた、葉子さん。大変なことになったわ」
「どうしたの?」
「火事よ。早く逃げて…、早く。あちらの部屋から煙が出ている。さあ、私は署長に知らせないと…」
「どっちへ逃げればいいの? 非常階段はどこ?」
「この廊下へ出て、右に行くの。右よ」
「わかったわ」
 イスを蹴飛ばして葉子は立ち上がり、すぐさま駆け出した。廊下に飛び出たときには、婦人警官の姿はすでに消えていた。葉子はつぶやいた。
「右ね…、右へ行けばいいんだわ」
 人気のない廊下を葉子は駆けた。
 ざわめきも悲鳴も耳に届かず、煙の匂いすらないことを奇妙に感じたが、気にする余裕はなかった。
「右よ。ここを右に曲がれば非常階段があるんだわ。非常階段まで行けば、もう安全…」
 曲がり角を過ぎても廊下は続き、突き当りのドアで終点になった。
「あのドア、あのドアの向こうが非常階段だわ。ああ、助かった…」
 葉子は勢いよくドアを押し開けたが、その瞬間、目の前に広がったものに驚いた。
 そこは非常階段どころか、普通の部屋であり、イスや机、捜査資料を収めるキャビネットが立ち並んでいる。
 しかも葉子は一人ではなかった。
 さっきの刑事がここで待っていたのだ。
 葉子は言葉に詰まった。「刑事さん…」
 刑事はニヤリと笑うが何も言わなかった。
 後ろから追いつく足音に葉子が振り向くと、さっきの婦人警官も部屋の中へ入ってきた。
 刑事は婦人警官に話しかけた。
「どうだった? 君はこの参考人に、ちゃんと『曲がり角を右へ非難しろ』と言ったか?」
「はい、もちろんです」婦人警官は答えた。
「一体どういうことなの?」葉子は疑問を口にした。
 刑事は頭をかいた。「いや、つまり…」
 葉子は顔色を変えた。「ははあ、火事なんてウソね。私をだましたんだわ」
 刑事はしゃあしゃあと言った。
「火事はウソですが、あの取調室から右へ曲がれば非常階段に行き着くのは本当ですよ」
「えっ?」
「でもあなたは右ではなく、左に曲がったんです。火事と聞かされてあわてた、とっさの場合です。普段は右肩にあるはずのボタンを左肩に付け替えたことを、あなたは失念した。右と言われ、あなたはボタンのある側へ曲がった。だからこの部屋へやってきたんです」
 葉子の顔が真っ白に変わる。
「わ、私をだましたのね」
「そんなことより、あなたはこれをどう説明するつもりですか? それとも今すぐ弁護士を呼びますか?」
「くそっ、こんなことで…」
 知恵を絞り、葉子は頭を回転させた。
 花子ほどではなくとも、少女時代から賢い子と言われた葉子だったが、頭には何も浮かばなかった。
 この状況から逃れるすべはないと、苦々しく認めるしかなかったのだ。
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