炎の皇女  下

文字数 7,331文字

 ある娘と出会い、恋に落ち、カーターが婚約するにいたったのは3年後のことでした。
 テンペスト地区にも住人がまったくいないわけではなく、いくつかは町があり、そこの教会牧師の娘だったのです。
 そういう娘だから、
「結婚式は花嫁の自宅で行うことができて、安上がりですむじゃないか」
 とカーターは同僚たちから冷やかされたりしました。
 ドリスという名の穏やかな娘で、長く伸ばした髪を背中で一つに編んでいます。
 口には出しませんが本人にとっても自慢の髪に違いなく、ブラッシングを手伝ってやることはもちろんカーターも楽しんでいました。
 のろけ話などまわりの人間にとっては面白くもなんともありませんが、本人たちは幸福だったのだからそれはそれでよいでしょう。
 そうやって婚約期間が終わり、結婚式がすみ、カーターと花嫁はハネムーンに出かけることになりました。
 テンペスト地区は大陸の中央部にあり、生まれた町を遠く離れたことがなかったこともあって、花嫁が海というものをまだ一度も目にしたことがなかったというのは驚くべきことではないでしょう。
 だからハネムーンの行程に船旅が組み込まれることになったのですが、どうせ乗るのならということで、船は飛びっきり大型のものが選ばれました。
『月の女神号』という汽船で、白く長い優雅な船体と背の高い三本の煙突を持っています。この煙突からは、黒い煙を高く吹き上げています。
 そういう幸せいっぱいの航海だったのですが、港を出て3日目には季節外れの氷山に衝突し、救命ボートを降ろして全員が海の上をぷかぷかと漂う羽目になったというのはなんということでしょう。
 でも幸運にもけが人はなく、カーターもドリスと同じ救命ボートに乗り込むことができました。
 春なのですが季節外れの氷山を運んでくるほど冷たく、波が高いのではありませんが10艘ほどあったボートをすべて散り散りに押し流してしまうには十分な強さを持った風が吹いていたのです。
 沈没の直前、もちろん『月の女神号』の無線技師はSOSを発信したでしょうが、それを聞きつけてくれた船があったかどうかはカーターたちには知るすべがなく、気がついたときには沈没から2時間がたち、他の救命ボートともすっかり離れ、夜が近づき暗くなりかけていました。
 同じ救命ボートに乗り合わせた人たちは海面を見つめ、言葉をかけて互いを励まし合いましたが、太陽の動きを止めることはもちろんできず、あっという間に水平線の下へと沈んでしまい、海上は真っ暗になってしまいました。
 夜の海とは、想像以上に心細い場所でした。
 雲は少ないのですが新月のことゆえ月の姿はなく、星の光だけがボートと波を照らしています。
「さあてみなさん」中年の男が口を開きました。「これからどうしたものですかな。いささか困った事態になってしまった」
「どなたか明かりをお持ちじゃありません? 本当に暗くなってきたわ」メガネをかけた中年の女が言いました。
「明かりなんてどうするの? 読書でもしたいの」おかしな形につんと鼻が上を向いた娘が声を上げました。
「読書なんかはしませんよ。ただ暗いのはいやだと言っているだけです」
 頭のはげた老人が言いました。「いくら読書をしたくても、私の本は船と一緒に海の底だ。せっかくシェイクスピアを読みかけていたのだが」
「ウソつけ。どうせワイセツ本か何かだろ?」若い男が口を開きました。「昨日の夕方ラウンジで見たぞ。いかにも助平そうにニヤニヤしていたぞ」
 老人は大げさに首を振りました。
「これはなげかわしい。君の父上と一緒にしないでくれたまえ」
 大きな声ではありませんが、ボートの上ではひとしきり笑い声が起こりました。それが静まったところでカーターは言いました。
「しかし本当に困ったことになったな」
「船や飛行機が近くを通りかかったりしないかしら」とドリス。
「だからそのときに明かりが必要になるのですよ。ここにこのボートがいることを知らせなくてはなりません」中年の女が言いました。
「船も飛行機も来るもんですか」若い娘がまた口を開きました。
 さっきの若い男はこの娘の兄なのでしょう。妹の肩を乱暴につつきました。
「来るかもしれないじゃないか」
「まあまあ」振り返り、カーターは兄妹たちを静まらせようとしました。そしてそのとき気がついたのです。
「なんだよ?」不満そうに兄はニキビ面を上げました。
「飛行機だ」中年の男が顔を輝かせました。
「まさか…、いえ間違いない。かすかだけどエンジンの音が聞こえるわ」中年の女も表情を変えました。
 エサを待つ猫の群れのようにして、全員がさっそく空を見上げたのはいうまでもありません。
 最初に姿を見つけたのは、ひねくれた顔をしたあの娘でした。
「見えた。あそこを飛んでる」
「どこだい?」
 彼女が指差す方向へ、全員が目をこらします。
 暗いので見えにくいのですが、オレンジ色をした光なのは間違いないようです。
 水平線が見えないので高度はよくわかりませんが、あまり高く飛んでいるのではない様子です。
 右から左へ、視野をゆっくりと横切っていきます。
「私たちを探しているんだわ」
 声を上げ、ドリスがカーターに抱きつきました。同時にボート全体が喜びに包まれかけたのですが、
「だがあの飛行機はわしたちに気づいてくれるのかね?」
 と老人が言ったときには、それもいっぺんにしぼんでしまいました。
 すぐに相談が始まり、あの飛行機の目を引き、こちらの存在に気づいてもらうにはどうすればいいかを考えることになりました。
「のどがかれるまで大きな声を出して叫んでみてはどうか」
 と若い男が言いましたが、賛成は得られませんでした。
 飛行機の明かりといっても本当に小さな点に過ぎず、きっと距離は何キロも離れているでしょう。
 声など届くはずはありませんし、もし届いたとしても、エンジンの音に邪魔されてパイロットの耳には入らないに違いありません。
 全員があせりを感じ始めました。
 飛行機の明かりはどんどん移動していくのです。急がないとすぐに見えなくなってしまうでしょう。
 しかもボートの上には懐中電灯一つ、ロウソク一本ないのです。
 もちろん始めはちゃんと積んであったのでしょうが、沈没する『月の女神号』から脱出するときに少しトラブルがあり、ボートが大きく傾き、転覆しかけたのです。
 懐中電灯やその他の道具類を入れた箱は、そのとき海の中へ落ちてしまったのでした。
 人も何人かが海に落ち、すぐにボートにはい上がることができましたが、おかげで体中がびしょびしょにぬれてしまっていました。
「おや、こんなものがあったぞ」
 中年の男が不意に声を上げました。何か役に立つものはないかとポケットを探っていたのです。
 顔をぱっと輝かせ、ポケットから手を引っ張り出したのですが、その指は一本のマッチをつかんでいました。
 本当はマッチ箱の中に入っていたのが、何かの拍子に一本だけこぼれたものでしょう。
「そのマッチをすって、あの飛行機に合図を送ればいいわ」中年の女が大きな声を出しました。
「湿ってはいないのかい?」とカーター。
「大丈夫だよ」
「しかし一本きりじゃあ、すぐに消えてしまうさ」若い男がしらけた声を出しました。「まず気づいてなんかくれないね」
「それで火をつけるのよ。何かを燃やせばいいわ」妹が反論します。
「何を? ロウソク一本ないし、みんなびしょぬれなんだぜ」
「ああ、早くしないと飛行機が行ってしまうわ」
「なんにしても無理だよ」老人が声を出しました。「少々何を燃やしたところで、あの飛行機まで届く強い光を出すことはできないさ」
「でもとにかくやってみましょう」しっかりとした声を出し、ドリスが帽子を脱ぎ始めたとき、他の人たちは少し驚きを感じないではいられませんでした。
 彼女は何をするつもりなのでしょう。
「どうするつもりなんだい?」
 脱いだ帽子を下に置き、ドリスは髪をほどき始めました。
 編んであったのを崩し、ヘアピンを引き抜きます。美しい髪が背中にダラリと垂れ下がることになりました。
 ボートが転覆したときとっさに船体にしがみつくことができたので、運良く彼女は海に落ちずにすんだのです。
「本当にいいのかい?」
 意味を察してカーターが声をかけましたが、何も言わずドリスはうなずくだけです。
 口ヒゲ手入れ用の小さなハサミを老人から借り、カーターは仕事を始めました。
 まわりの人たちは、ときならぬ断髪式を見守ることになりました。
 その意味はもう全員に伝わっていたのですが、この美しい髪をたばね、たいまつ代わりに燃やして、飛行機の注意を引こうというのでした。
 ボートの中には、燃やすことができそうな物など他には本当に何も見当たらなかったのです。
 ていねいにたばねられ、一本しかないマッチで慎重に火をつけると、ドリスの髪はさっと燃え上がりました。
 もちろん明るく光を放ちます。
 ボートの人々の目は遠ざかりつつある飛行機を追うことになりました。
 でもすぐに、「ああ」という悲鳴のような声がその口から漏れることになりました。
 飛行機は進路も変えず、どんどん飛び去ってゆくのです。
 耳をすませても、エンジンの響きがほんのわずかでも変化したようには思えません。
 この火を見つけて進路を変えれば、音の聞こえ方だって変わりそうなものですが。
 髪を燃やす火はもう消えかかっていました。カーターの手の中にありますが、細長い棒のような形にして先端に火をつけたのでどんどん短くなり、もう数センチの長さしかありません。
 熱さのあまり、すぐにもカーターは手を放さなくてはならなくなるでしょう。
 でもある思い付きが彼の心を稲妻のように打ったのは、この瞬間のことだったのです。
「エスター、エスター、エスター」
 とカーターが突然大声で叫び始めたとき、人々がどれほど驚いたかは簡単に想像がつくでしょう。
 みなぎょっとしたような表情です。カーターの頭がどうかしてしまったと思ったに違いありません。それでもカーターは叫び続けました。
「エスター、エスター、エスター」
 その間に髪は燃えつき、最後にカーターの指をわずかにこがして、とうとう波の上へと落ちていきました。
 何秒もの間、誰も口を開くことはありませんでした。
 それぐらいあっけにとられていたのです。
 そしてついに飛行機の明かりは視野の外へ消え、エンジンの音もまったく聞こえなくなってしまいました。
 最初に声をかけようとしたのは老人でした。
「大丈夫かね?」
 とでも言おうとしたのでしょうが、言葉を発することは結局ありませんでした。
 ボートの外から突然まったく別の声が聞こえ、全員の注意がその方向へ向くことになったからです。
 体が炎でできているというのは、実はとても便利なことなのかもしれません。
 炎には重さがないか、あってもごく軽いに違いありません。
 だから波の上にだってまっすぐ立つことができるのでしょう。
 ボートから数メートルしか離れていない場所にエセルが立ち、こちらを眺めているのでした。
 今では炎の王国の女王なのでしょう。以前はなかった王冠がその頭上で輝いていることがわかります。
 だけど彼女はかすかに笑い、心なしかあきれた表情をしているようです。
「まさかとは思ったが、念のために来てやったのだぞ」エセルは口を開きました。「おまえは私を呼んだのか、カーター。ならば間違えるな。私の名はエスターではない。エセルだ」
 あまりにほっとしたので、カーターは涙と笑いが同時に浮かんでくるのをどうしようもありませんでした。
 だから言葉にならず、「あうあう」と言っているだけです。
「怪物だわ。お化け」
 若い娘が叫び、仲が悪いはずの兄にしがみつこうとしました。
 でも兄は兄で、もう一人で逃げ出そうとしています。
 ただボートの上だからまわりは海だらけで、どこへも逃げることはできないのですが。
 人々を見回し、カーターを除く全員が大なり小なり同じような表情をしているのを見て、エセルは鼻を鳴らしました。
 そのあと自己紹介を始めたのですが、それが人々をさらに驚かせることになったのはいうまでもありません。
 エセルが口を閉じた後、
「いやはやカーター、君は大変な知り合いをお持ちだねえ」
 と老人が言いました。
「まったくだ」
 他の人たちも同意しないではいられませんでした。
「それで」エセルは人々を見回しました。「何の用があって私を呼んだのかなどと質問するのは、野暮もいいところだな」
「ねえ、私たちを助けてくださる?」ドリスが口を開きました。
「もちろんだ」エセルは答えます。「カーターには恩がある。そのお返しをするさ。だがそれにはどうすればいいのかな? 飛行機はもう遠くへ行ってしまったのだろう?」
「すでに何キロもかなたさ」カーターが首を横に振りました。
「では何か他の手を考える必要があるわけだ。まあいい。少し待っておれ」
 そう言うとエセルの姿は一瞬で消えてしまいました。
 あれほど明るくまばゆかったものが、あっという間にもとの真っ暗な海に戻ってしまったのです。
 カーターたちはため息をつくことになりました。
「わしたちはここでただ待っていればいいのかね? 彼女は本当に戻ってきてくれるのだろうか」
 と老人が言いました。
「おれたち、みんな夢を見てるんじゃないだろうな」若者も口を開きます。
「でもとにかく、待つこと以外何もできないわけだわ」中年の女がしめくくりました。
 暗い水平線のかなたに船の明かりが見えてきたのはもう1時間もたち、カーターたちがほとんどあきらめかけたときのことでした。
「あれは船の明かりじゃない?」若い娘が突然声を上げました。
 それは間違いないようでした。いくつもの電灯をきらめかせ、一隻の船がまっすぐにこちらを目指しているようです。
 エセルはどうやって呼んできてくれたのだろうとみんないぶかしみましたが、真相は見当もつきませんでした。
 それでもこちらへむかって急行していることは間違いなく、へさきが白い波を立て、煙突からはまるで火山のように黒い煙を高く吹き上げているのが見えます。
 助けてもらう立場とはいえ、あの船がなぜあれほど急いでいるのかは、カーターたちにもわかりませんでした。
 その理由がわかったのは、船がいよいよ近くまでやってきたときのことでした。
 なんと夜の暗さゆえ、カーターたちのボートはあの船からはまったく見えていなかったようなのです。
 ぎらぎらと前方を照らしている明かりの中に突然救命ボートの姿を見つけ、驚き、船は激しく汽笛を鳴らしたではありませんか。
 でもそんなことをされても、エンジンも何もないカーターたちのボートがとっさによけることができるはずはありません。
 船は大きくかじを切り、あとぎりぎり数メートルというところでなんとかボートをかわすことができました。
 おかげでカーターたちは、派手に水しぶきをかけられることになりました。
その ときカーターは、相手の船の形をはっきりと見ることができたのです。
「捕鯨船だ」
 カーターの叫びを聞き、まわりの人々は驚かされることになりました。捕鯨船というのは、漁船が魚をとるのと同じようにしてクジラを取る船のことです。
 ただクジラは魚よりもはるかに大きいので、網を使うわけではありません。
 へさきの部分に大砲のような形をしたモリがあり、これを本当に火薬で発射してクジラの体に突き刺すのです。
 モリには長いロープが結び付けてあり、死んだクジラを引き寄せて船に積み込むことができます。
 でもいったい、この捕鯨船は何を追いかけてここまで来たのでしょう。
 カーターたちには見当もつきませんでしたが、捕鯨船はとにかく追跡をあきらめ、カーターたちの救助にあたる気になってくれたのです。
 すでにスクリューを逆回転させて、ブレーキをかけ始めていました。
 その瞬間、ボートのすぐ脇の水面が割れ、一匹のクジラが顔を出したのです。
 どういう種類なのかカーターには見当もつきませんでしたが、とにかくかなりの大きさのクジラで、水面に顔を出し、じろりと目を開けて口を開いたのです。
「船を呼んできてやったぞ。あとは自分たちでなんとかしろ」
 エセルは動物の姿に変身できるということを、このときやっとカーターは思い出すことができました。
 でも返事をする暇はなく、口を開きかけたときにはクジラは水の中へ姿を消してしまって、水の上には小さな泡が漂っているだけでした。
 はしごを下ろし、捕鯨船の船員たちがカーターたちを助けあげてくれたことはいうまでもありません。
 彼らとは人種も国籍も違い、言葉も通じなかったのですが、船長だけは上手に英語を話すことができました。
『月の女神号』の捜索を続けていた海軍の船にすぐに無線連絡が入れられ、二時間もたたないうちにカーターたちは巡洋艦に乗り移ることができました。
 あとはもう自分の国へとまっすぐに帰るだけです。
 カーターとドリスの新婚旅行はこういう結果に終わってしまったわけですが、二人とも不幸だとは感じませんでした。
 テンペスト地区へ戻り、新婚生活が始まったのです。
 カーターたちの家は町はずれにあり、古いけれどこぎれいで、でも特に何の特徴もない家でした。
 二人はすぐに近所の人々の間にとけこむことができたのですが、ただ一つだけ、まわりの人々には理解できないことがありました。
 カーターたちには、居間の暖炉の火を昼も夜もずっと燃やし続けるという奇妙な習慣があったのです。
 冬だけではなく、大きな火ではないが夏の間もそうなので、みんなとても不思議がりました。
 理由をきかれても二人は微笑むだけで、何も答えてはくれません。
 きっと、話しても信じてはもらえまいと思っているのでしょう。
 こうやって、カーターとドリスは炎に見守られながら一生を過ごすことになるのでしょう。
 数年後には二人の間に子供が生まれ、女の子だったので当然のごとくエセルと名づけられたのですが、なぜその名が選ばれたのかという理由も、町の人たちは知らないに違いありません。
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