騎士娘

文字数 12,513文字


 相当に古い時代のことゆえ、もはや名すら伝わっていないが、ある国に都があった。
 たいそう繁栄し、平和な町でもあったが、あるとき町中を噂が駆け巡ったのだ。
「なんでも、ローズという名の美しい娘がいるらしいぞ」
「お前は顔を見たのかい?」
「見たとも。噂にたがわぬかわいらしさだったぞ。しかも美しさだけでなく、ローズは教養もそなえている」
「ほうほう」
「だがローズには1つ、いや2つ欠点があってな」
「なんだい、そりゃあ?」
「1つ目はそれ、元気が良すぎること。年頃なのに絹のドレスも着ず、髪も結わずに野山を駆け回っておる」
「そんなのは大した欠点ではないな。もう一つの欠点とはなんだ?」
「こっちが深刻さ。ローズは大の男嫌いときた」
「男嫌い?」
「そうとも。今まで何人とも知れない男たちが求婚したが、ローズはいっかな首を縦に振らない」
「どうせ、大したことのない男たちなのだろう?」
「そんなことはない。みなどこへ出しても恥ずかしくない美男ばかり。しかも貴族の跡取り息子や、外国王家の血を引く若者までが含まれていた」
「それなのにローズは、みんな断ったのか?」
「そうともさ。それで都中が大騒ぎだ。誰が最初にローズのハートを射止めるか。『私の妻になれ』という命令を聞かせるかで、競争になっている」
「それは面白い。きっと賭屋(かけや)も張り切っているだろう。どうれ俺も一丁、金貨の1枚でも張ってみるかな」
「だが簡単な競争ではあるまい」
「どうしてだね?」
「男嫌いの娘に、『あなたの花嫁の座に座ります』と言わせるのが、どれほど困難か。しかもローズのような頑固者とくれば、まるで大岩を水に浮かせるようなものだぞ。相当な工夫が必要だ」
「なるほどね、違いねえや。じゃあ俺も金貨は、『ローズは誰とも結婚しない』というほうに賭けたほうが賢いな」
「ああ、そうしろよ。悪いことは言わないからさ…」



 その部屋の中へ、ローズはおそるおそる足を踏み入れた。
 屋敷全体もそうだが、この部屋の中もいかにも金持ちらしく整えられ、家具や調度品もみな美しい。
 壁に飾られている絵にいたっては、ローズはもう少しで大きな声を上げるところだった。
「あれっ、この絵は本物のミケランジェロですか?」
 ローズをここまで案内してきた男は、ゆっくりとうなずいた。
「もちろんさ。わが一族が偽物を飾ると思うかい? だてに国中で一番の金持ちではないさ…。さあ着いた。ここが妹の部屋だ」
「妹様はどこにおられます?」
「そんな固い呼び方をすることはない。ヘレナと呼んでやってくれ。そのほうが本人も喜ぶだろう。妹はそれほど君にあこがれ、恋していたのだ」
「だけどアルベルト、それが信じられません。私はヘレナの顔も知らないのですよ」
「そのベッドの上にいるから、後で顔を見てやってくれ。ヘレナが君に恋したのは、こういういきさつだったらしい」
「はい」
「君は『満月の会』に属しているね?」
「ええ、満月の夜に丘の上に集まり、詩を朗読したり、短い劇を上演したりする集まりです。ヘレナは、そこで私を見かけたのですか?」
「友人に誘われ、たまたま出席したそうだ。それが自分の人生を大きく変えてしまうことなど、夢にも知らないでね。詩を朗読する君の声のすばらしさに、妹はコロリと参ってしまった。『もし自分が死んだら、あの方をこの部屋へ招いて欲しい』と言ったのは妹本人なのだよ」
「本人がそう口にしたのですか?」
「いや、遺書に書いてあった。かわいそうに、遠からぬ死をヘレナも予感していたのだろう。町中のどの医者に見せても、手の施しようのないほど重い恋の病だったからね」
「その原因が私だったわけか…。しかしヘレナは、なぜ私に声をかけなかったんですか? 家柄から言っても、ヘレナのほうがずっと上のはず。しかも私は、このお屋敷にヘレナのような若い娘さんがいたなど、一度も聞いたことがありません」
「ヘレナは引っ込み思案で、屋敷の外へ出ることがほとんどなかったのだよ。それはそうと、遺書に書かれていた妹の最後の意思なのだがね」
「もしも本当に私が原因で亡くなったのなら、私にはそれに従う義務があるでしょう」
「ああ、その言葉は大変にありがたいよ。ヘレナもさぞかし喜ぶことだろう」
「それでアルベルト、遺書にはなんと書かれていたのですか?」
「生前は一度も言葉をかわすことがなかったとはいえ、この世を去る前の最後の時間だけはせめて、君と共に過ごしたいのだそうだ」
「私は葬儀に出席するのですか?」
「そうではない。君には今夜一晩、この部屋で妹と共にいてもらいたいのだよ」
「この部屋の中で? 朝までただ一人で?」
「君とヘレナの二人きりさ」
「だけど…」
「女とはいえ剣を持ち、君が国王陛下から正式に騎士の称号を与えられていることは、僕も知っている。騎士といえば、真実と実行の人でなければならない。しかも淑女へのいたわりは、騎士にとって徳の中の徳。ゆめゆめローズ、君も忘れてはいまい? さあ今夜君は、妹と共に朝まで時間を過ごしてくれるね?」
 ローズは首を縦に振るしかなかった。
 満足そうにうなずき、ヘレナの兄は部屋を出ていこうとしたが、ローズは口を開いた。
「だけどアルベルト、私は今とても空腹なんです。せめて何か食べ物を置いていってくれませんか? まさかヘレナも、この部屋の中で私が餓死することまでは望んでいなかったでしょう?」
「ああ、食事はすぐに手配するよ。心配しなくていい」
 アルベルトは約束を破らなかった。
 少しして召使いたちが本当に食事を運んできたのだ。
 豪華で金のかかった料理だったが、召使いたちが出ていった背後で、ドアにカチリと鍵をかける音が耳に届いたとき、ローズはため息をついた。
「とうとう私は、死んだ人と二人きり、ひとつ部屋の中に閉じ込められてしまったのだわ」
 ローズは窓に近寄り、外を見たが、ここは3階にあり、壁には足がかりになりそうなものはない。
「鳥でもない限り、ここから逃げ出すのは不可能だ。悩んでも仕方がない。このあとのことは、とりあえず空腹を満たしてから考えよう」
 料理は窓ぎわのテーブルに置かれ、ベッドは部屋の反対側にある。
 天蓋(てんがい)がつき、レースのカーテンに覆われた大きなベッドだが、そこにはたしかに人が横たわっている気配がある。
 しかしローズは、ヘレナの死顔を眺めることはできなかったのだ。
「ど、どうして? どうして私はこんなに眠いのだろう…。しかもこれほど突然に…」
 食事の途中に襲い掛かってきた猛烈な睡魔に押し流され、フォークをポトンと床に落とし、なんとローズはそのまま眠り込んでしまったのだ。



 あれからどのくらい時間がたったのか。
 目を覚ましたとき、自分が硬い床の上にいることに気づき、ローズは本当に驚いた。
「あれれ、私はなぜこんな場所にいるのだろう? アルベルトは私の食事に毒を混ぜたのだろうか…。だとすれば、これが噂に聞く三途の川か?」
 起き上がって見回すと、ローズは若い娘と目が合った。
「お兄様、ローズが目を覚ましたわ。こっちへ来て」
 ローズは娘を見つめたが、もちろん知らない顔だ。
 すぐにアルベルトがやってきたが、体を起こしたローズが驚いたのは、ここが水の上だということだった。
 ローズが身を横たえていたのは、ボートの中だったのだ。
 大きなボートではない。
 だが青い空の下で、帆は風をはらんでいる。
「アルベルト、私はどうしてこんなボートの上にいるんです? このお嬢さんは誰ですか?」
「それが妹のヘレナなのだよ」
「ヘレナ? ああ、やはり私は死んだのだわ。だからヘレナと共に三途の川をいま渡ろうとしている…。あああ…」
「ローズしっかりしたまえ。ヘレナは死んでなどいない。あれはすべて、君をここへ連れてくるための芝居だったのだ」
「えっ、ヘレナは生きている? じゃあこれは三途の川ではない? このボートも三途の渡し舟ではない?」
「もちろん違うさ」
「じゃあ私はまだ生きている?」
「もちろんじゃないか」
「わーい」
 ローズは大喜びで飛び上がったが、その心をすぐに疑問が満たしたのだ。
「ではアルベルト、どうして私をだましたんです? ひどいじゃないですか」
「君が親切な人間かどうか、信用して秘密を打ち明けてよいものかどうか。勇気を持つかどうかを確かめたかった。見ず知らずの死者と一緒に一晩を過ごすなど、相当な勇気が必要に違いないからね」
「あの豪華なベッドの上には何がいたんです?」
「ただの人形さ。それはそうと、これからのことを話しておきたい。見てのとおり、ここは海の上だ」
「ひどいじゃないですか。どうして事前に打ち明けてくれなかったんです? そうすれば、喜んで協力したのに」
「君の勇気をまず確かめる必要があったのさ。そして君は合格し、今このボートにいる」
「だけど…」
 へさきに立ち、アルベルトは前方を指さした。
「見たまえローズ。あれが僕たちの目的地、三石島だ」
「私はさらわれてきたわけですね。これでは逃げようがない。私に何をさせたいんですか?」
「おやおや、なかなか思い切りがよいな。おいでヘレナ。ローズに挨拶をしたまえ」
 恥ずかしそうに進み出て、ヘレナは会釈をした。
「こんにちは、ローズ」
「こちらこそヘレナ。お目にかかるのは初めてですが、お部屋の中はすでに拝見しましたよ」
 ヘレナは耳まで真っ赤になった。
「まあ、どうしましょう…」
「ええ、ええ。せっかくだから、国中で一番裕福なお嬢さんの宝石箱の中まで拝見しておけばよかったわ」
「まあ…」
 アルベルトが口を開いた。
「何も困ることはないさ、ヘレナ。僕たち兄妹は、悪事を働こうとしているわけではない。そうだローズ、説明の続きをしよう」
「ええ、あの三石島には何があるんですか?」
「わがグルンワルド一族の別荘があるが、それ以外に住人はいない。岩だらけの小さな島に過ぎないからね」
「グルンワルド家の別荘のことなら聞いたことがあります。たいそう豪華なものらしいですね。王様の錬金術師とは、それほどよいお給料なのでしょうか?」
「三石島は、もともとは避暑のための別荘だったが、今は違う。一ヶ月ほど前からは、ある囚人を入れておく場へと変わった」
 ヘレナが声を上げた。
「お兄様、お願いだからお母様を囚人などと呼ばないでくださいな」
「いやヘレナ、僕は事実を述べているだけだよ。母上は今、あの別荘の高い塔に幽閉されている。そういう事実は認めなくてはならないな」
「でもお兄様…」
「ヘレナ、いい子だから、少し静かにしていてくれるかい? 島に到着する前に、僕はローズに事情を説明してしまいたいのさ」
「はい、お兄様」
「さてローズ、いま君の耳に入ったことはすべて真実なのだよ。母は突然悪魔に取り付かれ、髪を振り乱し、誰も聞いたことのない言葉を口走り始めた。激しい口調なのだが、言葉の内容は誰にも理解できなかった」
「なぜですか?」
「医者にも見せたが、原因はわからない。始めは一時的な錯乱かとも思ったが、安静を保って一週間過ぎても、二週間過ぎても一行に治まらない。そんな母をもちろん人前に出せるわけがなく、やむを得ずあの島に隠しているということさ」
「だけどアルベルト、それと私とどういう関係があるんですか? 悪魔つきなら、神父を呼んだらどうです? 私は聖書なんて読んだこともないし、教会もろくに行きません」
「母が口にするうわごとのような言葉は、本当に誰にも理解できなかった。だから先日、僕はある学校教師を母の前へ連れて行った。その結果わかったことがある。『これは古代ギリシャ語ではないか』とその教師は言うのさ」
「ははあ、そこで私が呼ばれてきたわけですね」
「その通りさ。君は古代ギリシャ語がわかるからね。だから僕たちと一緒に島へ行き、悪魔のしゃべる言葉を通訳してもらいたいのだよ」
 ボートはやがて小さな船着場に着き、ローズたちは上陸した。
 別荘は、そこからいくらも離れてはいなかった。
 広い部屋に入れられ、目の前に朝食の皿が並べられたとき、ローズは口を開いた。
「アルベルト、お母様の様子はいかがですか?」
「いま召使いたちにきいてみたが、相変わらずだそうだ」
「今すぐにお目にかかるほうが良いのではありませんか?」
「いや、母は昼間はずっと眠っている。日が暮れないと目を覚まさないのさ…。ヘレナ、おまえは母上の寝室へ行ってきたのだろう? どうしておられた?」
「眠っておいででした」
「だろう? そういうことなのさローズ。僕たちはゆったり構えていればいい。何もあせることはないさ」
 やがて日が暮れ、夜がやってきた。
 アルベルトに連れられ、塔へ通じる階段をローズは登っていったが、ヘレナの姿はなかった。
 錯乱した母親の様子は、若い娘には見るのもつらく、もちろん心中はアルベルトも同じだが、表情には出さなかった。
「さあローズ、着いたぞ。このドアのむこうだ」
「うー、なんだかドキドキします。ねえアルベルト、私は二つの物が苦手なんです。知ってます?」
「なんだね?」
「一つ目はカエル。あのぬれた肌でピョンと跳ねられると、それだけで怖くて逃げ出しちゃう」
「もう一つは何だね?」
「悪魔に取り付かれて古代ギリシャ語しかしゃべらない奥方の通訳に駆り出されることです…。ねえアルベルト、このまま帰っちゃいけません? 私、さっきから動悸が止まらないんです」
 だがもちろん、アルベルトが心を変えることはなかった。
 キーを取り出し、ドアを開いたのだ。
 幽閉場所といっても、牢獄ではない。
 金持ちの屋敷らしく家具や調度品も美しく整えられ、召使いもいて、アルベルトとローズを迎えた。
「これはこれはアルベルト様、ご機嫌うるわしゅう存じます」
「やあヨハン、おまえも元気そうだな。これが例の通訳殿だ。無理を言って、来てもらったのだよ」
「さようでございますか。言いたいことを言って、悪魔めには一日も早く立ち去ってもらわないと、奥方様がお気の毒で、お気の毒で」
「母上はどうしておられる?」
「先ほどお目覚めになりましたが、ご様子は相変わらずでございます」
「そうか。では僕が通訳殿を案内しよう」
「はい、アルベルト様」
 部屋を横切り、アルベルトとローズは廊下の突き当りまで進んだ。
 もう一つドアがあり、開くと居間に出た。
 やわらかなクッションに腰かけ、アルベルトの母は茶を飲んでいた。
 若いころは大変な美人だったに違いないが、足音を聞きつけてローズたちを振り返る目つきは、まるでおびえた獣のようだ。
 この女の名がジェシカであることは、ローズもすでに聞かされていた。
 口を開き、鋭い声でジェシカは何かを言ったが、もちろん古代ギリシャ語だ。
 アルベルトには理解できなかった。
「母上、この者の名はローズといい、ヘレナの友人です。母上のお見舞いをしたいと申すゆえ、連れてきました」
 ローズはおずおずと会釈をした。
「ジェシカ様、私はアルベルトにだまされ、誘拐されて、無理やり連れてこられた気の毒な者でございます。どうか呪ったりしないでくださいませ…」
 鋭い声でもう一度ジェシカは何か言ったが、これもアルベルトには理解できなかった。
 ローズはアルベルトを振り返った。
「よろしければアルベルト、ジェシカ様と二人だけでお話したいのですが」
「ああ、よかろう。よろしく頼むよ」
「はい」
 アルベルトが部屋を出てゆき、ドアが閉まる音を待ちかねたように、ジェシカは再び口を開いた。
「おまえの名はローズと言うのだね? 私の話す言葉がわかるのだね?」
「はい、ジェシカ様」
「いいからここにお座り。まず茶を一口飲んでおくがいい。長い会話になるであろうから」
「私が古代ギリシャ語を話すと、なぜおわかりになったのですか?」
「この部屋に入ってくるなり、私が投げかけた言葉に反応したからさ。表情は隠していたが、おまえは片方の眉をピクリと上げた」
「『悪魔に魂を売った愚か者め。自分がその母であることが呪わしい』とジェシカ様はおっしゃいました。悪魔に取り付かれたふりをして、なぜ古代ギリシャ語ばかり口にするのです?」
「わがグルンワルド一族には、古代ギリシャ語を話す教養のある者は一人もおらぬからさ。私はある事実を伝えたいのだ。しかし屋敷の中で何を口にしても、すぐにアルベルトの耳に入ってしまうであろう」
「悪魔に魂を売った者とは息子様、つまりアルベルトのことなのですね」
「そうとも…。ああ、いま思い出したぞ。おまえは女だてらに騎士をしておる娘だな」
「はい」
「騎士とはありがたい。さぞかし頼りになろう。よいか、今こうしておまえと私が話している瞬間にも、壁の向こうにはアルベルトの家来が潜み、聞き耳を立てているのじゃぞ」
「それゆえの古代ギリシャ語なのですね」
「若いころ、私はある劇団に属していた。そこではギリシャ史劇を演じておってな」
「だから古代ギリシャ語にご堪能というわけですね」
「前置きはもうよい。私が伝えたいのは、非常に重要なことだ。よく聞き、おまえの力で解決してもらいたい。アルベルトには絶対に悟られるな。やつが悪事の中心なのだ」
「実の息子様がそうでは、さぞおつらいことでしょう」
「情けなさに泣き疲れて、もはや涙も出ぬわ…。アルベルトの犯した罪は、まさに神に対する裏切りに等しい」
「えっ、何をおっしゃいます?」
「よいよい、それが死をもってしか償えぬ罪であることは、私もよくわかっている。この期に及んで、息子の命乞いなど一言もせぬつもりさ…」



 翌朝のまだごく早い時間、ローズが驚いたのは、ドアの外から激しいノックが聞こえることだった。
 全身の力でドアを叩いている。
「お願いローズ、早くドアを開けて…。大変なことが起こったの」
 あわててベッドを飛び出し、ローズがドアを開けると、そこにはヘレナがいた。
「おやヘレナ。どうしたのです、こんなに朝早く?」
「大変なの、ローズ。お母様が死んでいる。誰かに…、いえ何かに殺されたのだわ」
「なんですって?」
「塔の部屋がメチャクチャに荒らされ、お母様は、お母様は…」
「しっかりしなさいヘレナ。泣いていちゃわからない。ジェシカは何者にやられたのです?」
「獣ですわ。昨夜のうちに、鋭い牙を持った巨大な獣がお部屋に入り込んで…」
「その獣はどこへ行きました? 狼ですか?」
「ええ、狼よ。でももう姿はない。どこかへ行ってしまった。ついさっきメイドが見つけたの。後に残るのは、お母様のおかわいそうな死体だけ。血まみれになって…」
「なんとヘレナ、遅かったか」
「ローズ、あなたには何か心当たりがあるのですか?」
「ええヘレナ、実は昨夜の悪魔との会話はそのことでした」
「悪魔めが狼のことを語りましたの?」
「いいえ、語ったのはジェシカです。ヘレナ、あなたも薄々気がついていたのではありませんか?」
「ええ、まあ…。実をいえば、あれはすべて母の演技かもしれないとは感じておりました」
「まったくその通りだったのですよ。アルベルトに知られることなく心配事を誰かに相談するには、ジェシカは悪魔に取り付かれたふりをするしかなかったのです」
「アルベルト? やはり狼とアルベルトの間には関係があるのですね…。ああ、どうしよう? やっぱりそうだったんだわ」
「どうしたのです?」
「母もきっと私と同じことを考えたのでしょう…。ねえローズ、信じられないかもしれないけれど、アルベルトの正体は狼男なんです。おそらく母も、私と同じ光景を目撃したのだわ。そうなのでしょう?」
「ジェシカが話した内容はこうでした…」
「ええローズ、こうなったら、もう何もかも話してください」
「ジェシカが言うには、毎夜毎夜遅く、この別荘の敷地から一匹の狼が姿を現し、島の中を駆け回る。たいそう大きく凶暴そうな狼ではあるが、朝になると魔法のように姿を消し、もう影もない。やっとそのあと、アルベルトが部屋から起き出してくる。狼とアルベルトの姿を二つ同時に見た者は一人もいない」
「それだけではありません、ローズ。私は見たんです」
「何を?」
「昼間、人目につかないようにコソコソと、アルベルトが台所から大きな羊肉の塊を持ち出すところをです」
「羊の肉? 生のままですか?」
「ええ。私は部屋の窓からそっと見ていたんです。アルベルトは生肉を持ち出し、島のどこかに隠しました。すぐに戻ってきましたが…」
「そのときには、もうアルベルトは手ぶらだったんですね」
「はい」
「昼間のうちに肉を持ち出してどこかに隠し、夜になってから狼の姿でむさぼり食うのか。うまいやり方だ…。ヘレナ、もしや狼の姿はあなたも目撃しましたか?」
 ヘレナは身を震わせた。
「ええ、一度だけ」
「どんな感じでした?」
「それはもう大きくて、長い毛がふさふさして、絵で見るものとまったく同じでした。恐ろしさのあまり、私は心臓が止まりそうでした…。あらローズ、どうしましょう?」
「どうしたのです?」
「足音が聞こえます。アルベルトがやってくるのだわ…」
 だが二人には、当惑して顔を見合わせる余裕すらなかった。
 やがて部屋のドアを押し開け、本当にアルベルトが姿を見せたのだ。
「ああローズ、ここにいたのか。大変な事件が起きた。昨夜のうちに何者かが母上を…」
 ところが、ここでローズは爆発してしまったのだ。
「何よアルベルト、しらじらしい。自分の母親を自分で殺しておいて…」
 手を伸ばし、あわててヘレナはローズの口をふさいだが、もう遅かった。
 すでにアルベルトの耳に入っていたのだ。
「なんだってローズ、なぜ僕が母を?」
「だってあんたの正体は、狼男じゃないか」
 アルベルトは目を丸くした。
「僕が狼男だって?… ははあ、母がそう言ったのだね」
「そしてあんたは、秘密に気がついたジェシカを自分の手で殺したんだわ」
 ヘレナが口を開いた。
「ねえお兄様、お願いだからウソだと言ってくださいな。お兄様の正体は狼男ではないのでしょう?」
「いやヘレナ、期待を裏切ってすまないが、僕は正真正銘の狼男なのさ」
「どうして?」
「すべて錬金術の研究のためだよ。王宮の隠れた地下室で秘密の古文書を見つけ、僕は自分の体で実験したのさ」
 ローズはにらみつけた。
「それが肉体を狼に作り変える実験だったのね」
「そんな顔をするものではないさ、ローズ。人間は、誰でも心の奥底に獣性を隠し持っている。僕はそれをただ解き放っただけだ。狼に変身すると、実に爽快な気分だよ」
「ああ、そうですか。なら生肉でも羊肉でも、好きなだけかじればいいんだわ…。だけど、罪のない町の人を襲うのはやめてよね」
 ヘレナの顔色が変わった。まるで紙のように白くなったのだ。
「なんですって、ローズ? お兄様は人まで食べているの?」
「そうよヘレナ、あなたは引っ込み思案すぎるわ。屋敷の外に出ないから、町の噂にうといのは仕方がないけれど」
 表情を崩し、アルベルトはニヤリと笑った。
「僕が人を食うとしたらどうなのだね。人の肉は羊よりもうまい、ということを僕は発見したのさ…。さあローズどうする? 秘密を知られた以上、君をこの島から帰すわけにはいかなくなったぞ」
「お兄様…」
「いやいやヘレナ、お前が心配することはない。いくら狼男でも、血を分けたお前や、忠実な召使たちまで手にかけることはないのだから」
「ではお兄様、なぜお母様を殺してしまったのです?」
「ああヘレナ、それはやむをえなかったのだ。母は僕の正体に気づき、ローズに頼んで退治させようとしたのだから」
「でもお兄様、ローズは…」
「妹よ、それもやむをえないさ」
「だってお兄様…」
 だがその言葉にアルベルトは返事をしなかったのだ。
 隙を見てアルベルトは、バネのようにすばやく動き、テーブルの上に置かれていたローズの剣を手にしてしまった。
 それをサッと背中に隠されると、ローズはもう手も足も出ないのだった。
 両手を胸の前で組み合わせ、ヘレナが声を上げた。
「お願い、お兄様。ローズの命だけは…」
 ヘレナの表情に合わせ、ローズも言葉を震わせた。
「そうよアルベルト、『血縁もなく、召使でもないローズを生かしておく義理はない。頭からバリバリ食べてやる』なんて言わないわよね?」
「それはどうかな、ローズ?」
「お願い、アルベルト…」
「ローズ、君は本当の狼男を見たことがあるかい? 今これから見せてやるよ…」
「いやっいやっいや、殺さないで。剣もなしで、抵抗もできずに死ぬなんて…。あのう私、命が助かるのなら、あなたのもう一人の妹にでも、召使にでも、もう何でもなります…」
「なる? 君が何になるというのだね? なかなか思い切りのよい方向転換だが、本当に君は、僕の何にでもなるのだね?… しかし、あいにく妹は一人でいいし、召使の席にも空きはないな」
 ローズはもう目に涙をためている。
「そんなアルベルト、意地悪を言わないで…」
「いやいや、ローズ。僕の血縁者の席には、ただ一つだけ空きがあるぞ。その席に着くことを誓うのなら、君を手にかけるのはやめよう」
「それは何の席です? 狼男に食べられないですむのなら、私、どんな席にでも座ります。歯医者の診察台だろうが、おかかえ馬車の御者台だろうが」
「そうかい? いま空きのある場所と言えば、僕の花嫁の席しかないが、君はそれでいいのだね?」
「花嫁? あなたの花嫁? 私が?」
 あまりのことに、ローズはどう答えてよいかもわからなかったが、そのとき再びドアの開く音が聞こえたのだ。
 部屋の中へ入ってくる人物があり、アルベルトが声を上げた。
「おや母上、ドアの影でお聞きでしたか? 僕の花嫁として、ローズの事をどうお考えです? おめがねにかないますか?」
 アルベルトの言うとおり、部屋に入ってきたのはジェシカだったのだ。
 ローズはポカンと口を開けた。
「ジェ、ジェシカ? どうしてあなたがここにいるんです? どうして狼男に食われ、血まみれになって塔の中で死んでないんですか?」
 ジェシカは息子に顔を向けた。
「そうだねえ、アルベルト。女だてらに腰に剣を刺すなど、おてんばがすぎる気が最初はしたが…」
「でも母上、いい娘でしょう?… ヘレナ、おまえも何か言ったらどうだい?」
「ええお兄様、同性の私が恋しがっても、ローズはいつも親切でした。よく心を砕いてもくれましたわ」
 その言葉に、ジェシカは不承不承うなずいた。
「それは私も認めるよ。古代ギリシャ語しか話さない悪魔つきの相手も、ちゃんとしてくれたからねえ」
 アルベルトは言葉を続けた。
「それに母上。ローズ本人も、もう僕の妻になることを承知してくれたも同じです。もちろん命おしさからでしょうが、騎士の誓いは神聖です。一度立てたものを、簡単には取り消せません」
 ここでローズは、憤然と言い放ったのだ。
「あ、あんたたち、みんなグルだったのね」
 それを横目で冷ややかに見つめ返したのがジェシカだった。
「おや、今頃お気づきかい? その通りさ。私の悪魔つきも、ヘレナがお前に恋したというのも、アルベルトの狼男もみんなね」
「どうしてそんなことを?」
「知ってのとおり、アルベルトももう年頃。そろそろ結婚を考えなくてはならん。しかし、なかなかいい相手がなくてね。グルンワルド一族の若い当主として、結婚相手は慎重に決めねばならん。財産を目当てに近寄ってくる娘は多いが、金欲しさの花嫁など、こちらから願い下げさ」
「それはまあわかるけど、そこへどうして私が出てくるのかしら?」
「ある人が、おまえのことを推薦してくれたのさ。『ローズという娘は気立てもよく、責任感もある。女だてらに剣術ごっこをするなど、多少おてんばではあるが、それもご愛嬌』とね」
「剣術ごっこが好きで、悪うございましたわね…。だけどおかしいわ。アルベルトが狼男でないとすると、町で聞かれる話は何なのかしら? 夜な夜な人々が、狼に襲われて命を落としているというやつよ」
 ジェシカは笑った。
「ああ、あれか。あれは私が召使に命じ、町の中で立てさせた根も葉もない噂さ。金をやって酒場へ行かせ、口から出まかせを述べさせただけのこと…」
「えっ?」
「まあいい。種明かしはここまでさ。騎士の口から一度出た言葉は、必ず実行されねばならん。私たちは、お前にそれを期待してよいのであろう?… ねえローズや」



 その翌日、都の中をまた新しい噂が駆け巡った。
「おい聞いたか? あの男嫌いのローズが、ついに結婚を承知したとよ」
「えっ、本当か? お相手は誰だい?」
「それが王宮の錬金術師、アルベルトだとさ」
「へえ、国で一番の金持ち一族とはいえ、これは意外だな。しかしまあ、よくローズが承知したもんだ」
「そこはそれローズも騎士だ。結婚しろと言われ、『はいそうですか』と簡単に承諾するわけがない。ローズは最後に、ある条件を出した」
「どんな条件だい?」
「ローズも騎士なんだ。グルンワルド家に対し、剣術で挑んだのさ。『もしも私を打ち負かすことができれば、おとなしく嫁になりましょう』と言い放って…」
「ほうほう。しかしローズの嫁入りが正式発表されたということは、アルベルトが剣で見事打ち負かしたということだな」
「なんのなんの。アルベルトのやつは錬金術師で、剣など触ったこともないという優男(やさおとこ)だ。その代わりにと一歩前へ出たのが…」
「誰だい? まさか妹のヘレナじゃあ?」
「ところがどっこい、ジェシカ奥方なのさ」
「奥方?」
「ああ、お前にも見せたかったぜ。ああ見えてジェシカは、若いころは弓の名手と歌われた。年を取っても、腕は衰えてない。あの長い腕で大弓を取るところなんざ、まるで女神のようだったぞ」
「へえ」
「その放つ矢が3本、ダンダンダン。ローズの服のそでを射抜き、あっという間に木の幹に縛り付け、さすがの騎士も身動きもならんと来た」
「ああ、お前はいい目の保養をしたんだな。それに比べて俺なんざ…」
「どうしたね?」
「『ローズは誰の嫁にもならない』というほうに賭けたおかげで、有り金を全部すっちまったよ。どうしてくれんだい」
「そういうなよ。俺は反対側に賭けてたんだ。だから今、ちょいと財布が暖かい。酒と飯ぐらいおごってやるぜ」
「いよっ、そうこなくちゃあ、兄弟」
「ああ、今夜はよく食い、よく飲もうや…。ローズの花嫁姿を見ることができるんだ。来週の日曜、きっと教会は群集で満員になるに違いないぜ」
「そりゃまた、どうしてだい?」
「なんといっても騎士なんだから、ローズは普通の花嫁衣裳じゃ嫌なんだとさ」
「普通の花嫁衣裳とは違う? じゃあどう違う衣装を着るんだい?」
「白い絹のドレスには変わりないが、その腰に剣をつるすんだとさ。そういう特別のドレスをデザインするために、外国からお針子の名人が呼ばれたらしいぜ」
「へえ、花嫁衣裳と剣ねえ。それをどう融合させるんだろうなあ。よお兄弟、教会になんざ普段はまったく縁のない俺たちも、これは見に行かずばなるめえよ…」
 ローズとアルベルト。
 都に噂の種をまき、ここに一つの物語が終わりを告げたのである。
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