キャンプ島
文字数 34,990文字
どうひいき目に見ても、竜騎兵は海軍の花形とは言いがたい。
戦艦のような目立つ装備があるわけじゃなし、潜水艦のように魚雷を発射して、水中に爆音をとどろかせるわけでも、年に一度の海軍記念日に、真っ白な制服姿で首都を行進するわけでもない。
竜騎兵部隊とは全くの裏方なのだ。
潜水服を着込んで海中に身を隠し、同僚といえば真っ黒なクジラたちのみ。
任務の多くは偵察であり、隠密行動が求められるから、さらにその目立たないこと。
これでは新兵を募るのにも苦労するのはうなずけるではないか。
その点に、海軍司令部も危機感を持ったらしい。またまたつまらないプロジェクトを考え出したのだ。
夏休みのキャンプとは、子供には楽しい催しだろう。
それが無人島のキャンプ地ならなおさらだ。
首都にはそういう催しを定期的に開く団体があり、司令部はそのあたりと話をつけたらしいのだ。
しかし竜騎兵指揮所にとっては全くの寝耳に水であり、命令書を受け取って、アップル大尉がどれほどしぶい顔をしたことか。
アップル大尉は、すぐにいつものようにジャネットを呼びつけた。
アップル大尉の部下になってよかったなどと、ジャネットは一度も思ったことがない。
司令部は、竜騎兵部隊を便利な何でも屋と勘違いしているところがあり、アップル大尉はアップル大尉で、ジャネットのことをそう思っているのだろう。
面倒な仕事は、いつもジャネットのところにまわってくるようだ。
だが「スミス少尉、俺の部屋へ来てくれ」と言われれば、ジャネットは腰を上げるしかない。
ジャネットの目の前で、アップル大尉は白い紙をひらひら振ってみせた。
「喜べスミス。司令部のお偉方たちが、またまた素敵なことを言ってきたぞ」
手渡された書類に目を通し、ジャネットはうんざりした。
なんでも夏休み中、どこぞの小学生たちがXX島でキャンプを楽しむそうだ。
成績優秀、将来はエリートコースを歩むことが期待されている子供らであることはいうまでもない。
この中から一人でも竜騎兵に興味を持ち、あわよくば未来の進路として選んでもらおうという下心で、キャンプの一日にあるイベントが企画されたのだ。
それがクジラの体験航海というやつで、言ってみれば観光地の遊覧船と大差ない。
ジャック・カーター以来三十年の歴史を持つ竜騎兵も、ずいぶんと落ちたものではないか。
ジャネットの口調はきつく、詰問するようだったことだろう。
「アップル大尉、まさかこのイベントに私が出るのですか?」
「適任だろう? ハマダラカの奇襲攻撃を事前に察知した例の大手柄以来、おまえは竜騎兵部隊一の有名人じゃないか」
「どうだか。ピエロの衣装を着て、クジラの背中でトンボ返りでもしろというのですか?」
「司令部もそこまで馬鹿じゃないさ。深刻に考えることはない。XX島へ行って、子供らと半日遊んでくればいいのさ」
「そんなに素敵な任務なら、大尉自ら行かれてはどうです? 喜んでお譲りしますよ」
「俺は子供が嫌いでね。じゃあスミス、おまえに命令したぞ」
上官の命令であっては、ジャネットに拒否権はない。
ジャネットはひどく腹が立った。
司令部は竜騎兵部隊を何だと思っているのだろう。
キャンプ場のリーダーでも子供のお守り役でもないのだぞ。
アップル大尉もアップル大尉だ。
これではまるで司令部の奴隷ではないか。
その役割にふさわしくない命令を受けたときには、矢面に立ってでも抵抗するものではないか。
それが上官というものではないのか? それなのになんだ。
腹が立ちすぎて、いっそジャネットは大尉の赤い鼻に辞表を叩きつけてやろうかと思ったが、プールにいるクジラたちのことを思ってやめた。
辞職しては、彼らに会うことができなくなる。
それほどジャネットはクジラたちのことが好きだったのだ。
クジラたちはおとなしく従順で、人間の子供よりもはるかに聞き分けがいい。
しかもクジラには、こちらの思っていること、考えていることを敏感に察知する能力がある。
そばにいるジャネットがおびえればおびえ、楽しいときには一緒になって喜び、幸せなときにはうれしさのあまり、無邪気な子犬のように海面高くジャンプすることだってある。
体長十五メートル、体重三十トンという大型トラック並みの体格だが、犬猫以上に感情が細やかなのだ。
それだけではなく、クジラはとても賢い動物でもある。
与えられた作戦に納得しておらず、ジャネットに迷いがあるときなど、ストライキというのではないがヒレの動きをすべて止め、
『ねえ、その方針で本当にいいの? もう一度頭を冷やして、よく考えたほうがいいんじゃない?』
と言わんばかりにジャネットを見つめ返すことがある。
こういうクジラたちと共に長く過ごすと、もう人間との付き合いなどバカらしくなってしまう。
人間は愚かでアホウで、嘘つきで信用に値せず、この命を預けることなどとてもできないとジャネットは思う。
多かれ少なかれ竜騎兵は変人だと世間ではよく言われるが、入隊して数年、ジャネットもすでにそうなりつつあるかもしれない。
そんなわけで夏のある日、ジャネットはXX島へむかったのだ。
むかう人間はジャネット一人だが、もちろん相棒がいた。
オスのマッコウクジラで、名前はチビ介といい、もう数年間コンビを組み、互いのことはとてもよく知っていた。
チビ介はジャネットの声や足音、肌をなでてやるときのくせなどをすっかり覚え、竜騎兵指揮所のプールにいても、ジャネットが近づくだけで水面に顔を出し、額の呼吸口からピュッと水をふいて、ジャネットをびしょぬれにしてしまうことがある。
それが彼なりの歓迎なのだ。
チビ介という名にふさわしく、行動や仕草はまだまだ子供っぽいが、それでも見かけはもう立派な大人といっていい。
竜騎兵指揮所からXX島まではいささか距離があり、マッコウクジラでも一日ではたどり着けなかった。
幸い途中に別の島があり、ジャネットとチビ介は飛び石伝いにその島の港に一泊し、旅をした。
夏の日差しは厳しく、いくらジャネットでもゆらゆら揺れるチビ介の背中で旅をする気にはならなかった。
潜水服を着込み、いつものようにチビ介の左胸にぶら下がって行くことにしたのだ。
そこは暑すぎず寒すぎず、チビ介は水面よりも少し下を進むから波に脅かされることもなく、ヒレの動きはまるでゆりかごのよう。
ジャネットはうつらうつらしていた。
ときどきは浮かび上がり、機器を使って位置や方向を確かめたが、ジャネットは安心していた。
チビ介は勘がよく、方向を大きく間違えることはほとんどなかった。
ただこの旅も、すべてが予定通り、計画通りだったわけではない。
気象局から予報があり、ちょっとした低気圧がXX島周辺を通過する可能性があるということだった。
そのためにジャネットの出発は数日早められ、XX島キャンプ場にひとまず避難して、低気圧をやり過ごすことになった。
「なんだって?」
とジャネットは思った。
それでは、子供らのお守りをさせられるのが二日か三日も余計に延びてしまうではないか。
ジャネットは機嫌が悪かったが、早々にあきらめることにした。
低気圧が相手では、文句を言っても仕方がない。
だがジャネットにも、文句を言ってやる相手がなかったわけではない。
それどころか、石つぶてのように文句の雨を降らせたい相手がありすぎたほどだ。
気象局の連中だ。
ジャネットと同じところから給料をもらう海軍軍人のくせをして、なんてことだ。
気圧計に頭をぶつけて死んでしまえ。
何が、
『低気圧はXX島の周辺を通過するであろう』
だ。
それどころか、ドンピシャリの直撃だったではないか。
XX島はキャンプ場以外に何もない小島で、シーズン以外は完全な無人になってしまう。
本土から遠くはないが、交通の便は小舟しかない。
低気圧が接近し、すでに波が高くなり始めていたが、近寄る船の姿さえないのに突然現れたジャネットに、キャンプ場の人々は驚いたようだった。
もちろんジャネットは、すぐに種明かしをした。
「私はスミス少尉です。竜騎兵部隊から派遣されてきました。クジラを連れ、たった今到着したところです」
ジャネットが型通りにやってみせた海軍式の敬礼を、さっそく何人かの子供がマネをした。
キャンプの責任者は中年の女で、リーダーとコックを兼ね、子供の数は全部で十二人とのこと。
責任者は自分の名をフンメルと自己紹介したが、なんとも不思議そうな顔をしているのだ。
「竜騎兵の人が来るとは聞いていましたが、クジラはどこにいるのです?」
ジャネットの顔には、思わず笑いが浮かんでしまった。
「まさかポケットの中に入れてはおけませんから、島の入江で待たせています」
「そんなところへクジラを入れて大丈夫なのですか? エサはどうするのです?」
「ロープでつないでいるわけではありませんから、空腹になれば自分で魚を取りに出かけるでしょう。何も心配はいりません」
「本当でしょうか?」
ミス・フンメルは、実はクジラの食事ではなく、真夜中のうちに闇にまぎれてクジラが上陸し、自分たちを頭からバリバリ食べてしまうと心配しているのだろうかとジャネットは空想したが、指摘はしなかった。
クジラが陸に上がるなど、一般人の想像力は恐ろしい。
もしかしたら人食いザメと間違えているのかもしれないが、サメだってまさか島に上陸はすまいに。
ジャネットはもう一回、飛び切りの笑顔をサービスすることにした。
これも納税者相手のお仕事だ。
『はいごらんなさい、ごらんなさい。本日は竜騎兵の笑顔大サービスとござい』
だがこれでフンメルが本当に安心したのかは、ジャネットにはわからなかった。
「フンメルさん、クジラのことは本当に大丈夫です。ところで夕食はまだでしょうか? 今はクジラではなく、自分の胃袋の心配をしたい気分なのです」
「ああ、それはちょうどよかったですわ。私たちもこれから始めるところです。食堂へいらしてください」
そうやって夕食が始まったのだが、その頃にはジャネットは、子供らとすっかり仲良くなっていた。
「ねえジャネット、どうして竜騎兵なんかになったの?」
とテーブルに着くと、すぐに子供の一人が質問した。
照れ笑いを隠しながら、ジャネットは手短に説明した。
思えばジャネットも、ここまでおかしな人生を歩んできたものではないか。
「私が竜騎兵の道へ進んだのは、ちょうどあなたたちぐらいの年齢の頃よ。でも海軍へは入る気で入ったけど、竜騎兵に行くつもりはなかったの」
「どうして? 勉強の成績が悪いから、竜騎兵にしか入れてもらえなかったの?」
「そうじゃないわ。私は何も知らなかったのよ。競争率が低い兵科のほうが楽ができると思って、いい加減に願書を提出したの」
「それで竜騎兵になったの? クジラに足を食いちぎられなかった?」
と発言したのは、メガネをかけて、この中では一番小柄に見える少年だった。
ジャネットは答えた。
「君の名前は?」
「エリック」
「ねえエリック、私を見て。足はあるわ。これは義足ではないのよ」
「でもマッコウクジラは肉食で、口の中には鋭い牙が三十対も並び、一回の食事で約一トンの魚を消費する。全世界のマッコウクジラが一年間に食べる総量は、世界中の人類が食べるすべての魚の量とほぼ同じなんだよ」
「よく知っているのね」
とジャネットは感心したが、子供の世界では読書量はあまり評価されないようだ。
すぐに別の子供が言った。
「エリックは本ばかり読んでいるんだよ。ちっとも外で遊ばないんだ。だから両親が怒って、このキャンプに参加させられたんだ」
「へえ、そうなの」
ジャネットは、エリックをもう一度眺めた。
確かに本の虫と言われれば、そんな感じがする。
髪は短く切っているが、少しパーマがかかっている。肌は白く、鼻もつぼみのようにちんまりと小さい。
次に口を開いたのは、エリックとは対照的に体が大きく、いかにも思慮のなさそうな感じのする少年だった。
名はジョンというのだと、すでにジャネットは聞かされていた。
「ねえジャネット、マッコウクジラと戦艦はどちらが強いの? 戦艦に決まっているよねえ」
ジョンは本当に体が大きい。
シャツに覆われた胸は丸々としているが、太っているばかりではなく筋肉のせいでもあるらしいのは、半そでから見える腕が証明している。
指も丸々としているが、この手に繊細な作業や、きちんとした文字を書くことができるような気はジャネットはしなかった。
少女の一人も言った。
「そうよジャネット、竜騎兵はどうやって敵と戦うの?」
「ううん、竜騎兵の仕事は、戦うことじゃないのよ。偵察をして、敵が何をしているか探ることなの」
とジャネットは答えたが、とたんにまたジョンが大きな声を出した。
「そんなのつまんないや。戦わない竜騎兵なんて弱虫じゃないか。まるでエリックみたいだ」
ジョンは、隣にいたエリックの背中をドンとたたいた。
思わず体が前のめりになったが、エリックは何も言わなかった。
ジャネットは口を開いた。
「あら、竜騎兵だって敵と戦うことができるのよ」
「どうやって?」
「竜騎兵専用の魚雷があるのよ。クジラが引っ張っていけるようになっていて、狙いをつけて敵の船に向けて発射するの。潜水艦も魚雷を撃つけれど、モーター音や潜望鏡で敵に気付かれてしまう欠点があるわ。でも竜騎兵にはそれがないの」
「ジャネットも魚雷を撃ったことある?」
十二人の視線を突然集めてしまい、ジャネットは少し居心地が悪くなった。
「ええ、もちろんあるわ。最近戦争はないから、訓練だけどね。二、三隻沈めたわよ」
「へえ」
子供らは感心してくれたが、ジャネットに与えられた攻撃目標がスクラップの漁船に過ぎなかったことは黙っておくことにした。
自分でもわかっていたが、彼女も大した見栄っ張りではないか。
エリックが口を開いた。
「そうだフンメルさん、さっきラジオで変なことを聞いたよ」
「まあエリック、あなた遊戯室へ行かず、一人でラジオを聴いていたの?」
「だから体が大きくならないんだよ」
とジョンが偉そうな顔をした。
確かにジョンは運動家かもしれない。
ただしその体の半分は脂肪なのだ。
いくら体力があっても、もしもあの体格で軍に入ったら、かなり苦労することだろう。
まわりの子供らから、エリックはまた肩や背中をつつかれていた。
少しかわいそうになって、ジャネットは口を開くことにした。
「エリック、ラジオで何を言っていたの?」
「うん…、この近くの海に密輸船が出て、警察の船というのかな? それと戦ったんだって」
「ああ沿岸警備隊のことね。密輸船と戦って、どうなったの?」
「ねえねえ、密輸船って何?」
と女の子が言った。
「密輸犯というのは、外国から品物をこっそり運んでくる悪い人のことよ」
「何を運んでくるの? 爆弾とか?」
「爆弾もあるけれど、武器とか麻薬とか、高価なお酒を密輸することもあるわ」
「どうして? お酒は悪い品なの?」
「そうではなくて、お酒を港へ正式に輸入すれば、ものすごく高い税金がかかるのよ。それを払いたくないから、密輸犯は真夜中にこっそり、人気のない海岸に陸揚げしたりするのよ」
「へえ」
「まあ、さすが海で働く竜騎兵はお詳しいのね」
とフンメルも感心しているが、ジャネットは妙な気分だった。
こんなことは常識的な知識ではないか。
ジャネットは続けた。
「それでエリック、密輸船と沿岸警備隊の戦いはどうなったの?」
「よくは知らないよ。密輸犯はみんな逮捕されたけど、一人だけ小さなボートで逃げ出しちゃったんだって」
とたんにジョンが大きな声を出した。
「下らないや、そんなニュース。それがどうしたというんだい?」
「ボートの密輸犯が逃げ出したのが、この島の近くなんだってさ。だからこのあたりの人は気をつけてくれって、アナウンサーが言っていたよ」
「ふうん」
エリックのせっかくの警告だったが、ジャネットたちに感銘を与えたとはいえなかった。
海は広いのだ。
ボートに乗った密輸犯だかなんだか知らないが、自分たちに関係のある話とはとても思えなかった。
それでも食事の後、フンメルは気になって、本土へ電話をかけてみたらしい。
宿舎の中で、ジャネットは部屋を一つ与えられることになった。
小さなベッドが一つあるだけの狭いところだが、ジャネットは慣れていた。
高速艇の兵員室に比べれば、こんな部屋でも高級ホテルに思える。
そのベッドに潜り込もうとジャネットは支度をしていたのだが、ノックの音がしてドアが開き、姿を見せたのがフンメルだったのだ。
「ジャネット、少しお話があるのよ」
「なんです?」
「さっきエリックが言っていたことよ」
「密輸犯ですか? それが何か?」
「気になって私、本土へ電話してみたの。もっと詳しい情報を得ようと思ってね」
「結果はどうでした? 最後の一人ももう捕まっていたでしょう? 沿岸警備隊の船を相手に、小さなボートでは逃げようがありませんから」
ところがフンメルは首を横に振った。
「それがそうではないのよ。嵐でケーブルが切れてしまったらしくて、電話はつながらなかったの」
「もう外はだいぶ風が強いですね」
「でもこの宿舎は大丈夫よ。頑丈に作ってあるから。だけど…」
「電話以外に、本土と連絡を取る方法はないんですか?」
「それがないのよ。電話がただ一つの連絡方法なの。ケーブルが切れて不通になるなんて、これまで一度もなかったわ…」
この真夜中、ジャネットは思いがけず起こされることになった。
部屋の中には、もちろんジャネット以外誰もいないはずだった。
鍵はかからないが、ドアは閉じられている。
ジャネットはチビ介の夢を見ていたのだが、そっと肩をゆすられ、目を開いた。耳のそばで、ささやく声が聞こえたのだ。
「ジャネット起きて。僕だよ。エリックだよ」
もしも軍人でなければ、ジャネットは悲鳴を上げたかもしれない。
そして犯人に聞きつけられ、何もかもぶち壊しになっただろう。
だが、どんなときでも冷静に行動する訓練など海軍にだって存在しないが、軍人とはそれが自然と身につくらしい。
そっと目を開き、ささやき声の主にジャネットは視線を向けた。
エリックは小さな懐中電灯を手にしていた。
キャンプ場といっても、ここは電気や水道も完備している。
それでも慎重な子だから、常にこんなものを身近に用意しているのだろうか、とジャネットは思った。
「どうしたの、エリック?」
「様子がおかしいんだ。宿舎の中で何かが起きてる」
「どうおかしいの?」
「ラジオが聞きたくて、僕は一人で図書室へ行ったんだ。こんな時間だけど、密輸船のニュースがどうしても気になったからね」
「ええ」
「でも大したニュースは聞けなかった。ラジオのスイッチを切って、自分の部屋へ戻ろうとした。そうしたら、食堂に明かりがついていたんだ」
「今夜、私たちが夕食をとった大きな部屋ね。君は廊下の側から見たのね。ドアは開いていたの?」
「ほんの少しね。そっと近寄って、僕は耳を澄ませた」
「偉いわ。ドアには手を触れなかったのね」
「食堂からは、ボソボソと小声で話し声が聞こえるんだよ。女の子たちはシクシク泣いているみたいだった。フンメルさんの声が聞き取れた。『私たちをどうするつもりなのです? ここにいるのは子供たちばかりなのですよ。わからないのですか』って」
「それから?」
「男の声が聞こえた。でもガラガラして小さく、年寄りみたいだったよ」
「知らない男の声なのね?」
「うん。その男はこう言った…」
☆
相手をまっすぐに見つめ返しながら、フンメルは言った。
「私たちをどうするつもりなのです? ここにいるのは子供たちばかりなのですよ。わからないのですか」
「おい女、名はフンメルとかいったな? おまえがこの島で一番偉いのか?」
「ええ、キャンプ場の責任者です。だけどあなたも失礼な人ね。人の名前を尋ねるのなら、まず自分から名乗るのがエチケットですよ」
「ガハハ、こりゃいいや。あんたは密輸犯に向かってエチケットを説くのかい? ふふふ、俺のことは船長と呼びな。それ以外の呼び方は許さねえ」
「船長? 何の船長なの?」
「うるせえ。黙って船長と呼べばいいんだ。でないとこうだぞ」
物を叩く鈍い音が聞こえ、子供の一人が悲鳴を上げた。
「痛いよお」
フンメルが叫んだ。
「船長、子供に何をするのです。やめなさい」
「かまやしねえよ。このガキはこんなに肉付きがいいんだ。肉がクッションになって、かすったほどにも感じねえよ」
ジョンが抗議した。
「かすったぐらいなもんか。痛いよ。痛いよ…」
「黙れクソガキ。もう一発食らわすぞ」
船長が腕を上げると、ジョンは静かになった。
まわりの少女たちのシクシクという泣き声が、一旦は消えていたが、また聞こえ始めた。
それが船長の神経を苛立たせたようだ。
「娘っ子ども、おまえらもうるせえぞ。静かにしやがれ。でないと、ジョンにまた青あざが増えるぞ」
この言葉は効果があったらしい。少女たちは口を押さえ、なんとか声を押し殺すことに成功した。
☆
エリックの話を聞きながら、ジャネットは唇をかまないではいられなかった。
昨夜の彼女は、なんと楽観的で愚かだったことか。
本土とつながる電話線は、人為的に破壊されたのに違いない。
「ねえエリック、船長は武器を持っているかしら? 銃を持っていると思う? 会話の中にそんな話は出なかった?」
「確信はないけど、銃はないと思うよ」
「どうして?」
「銃を持っていれば、脅してジョンを殴る必要はないもん。ただ銃口を突きつければいいんだもんね」
「なるほど…」
とジャネットは少し感心した。
子供のくせに本ばかり読んでいるというのも、大人たちが思うほど悪いことではないのかもしれない。
「ねえエリック、食堂で何が起こっているのか、もっと詳しく調べる方法はないかしら? とにかく情報が不足しているわ」
ここに来てまだ半日にしかならないジャネットよりも、もちろんエリックのほうが島や宿舎内の事情に明るかった。
ジャネット一人では、どこに何があるかさえわからない。
エリックの知識に頼るほかなかったのだ。
エリックは答えた。
「宿舎の主な部屋にはインターホンが取り付けてあるんだよ。食堂や図書室、遊戯室、それとキッチンにマイクとスピーカーがあって、互いに通話ができるんだ」
「へえ」
「だからもし遊戯室へ行くことができれば、スイッチをそっと押して、食堂の中で話されている内容を盗み聞きできると思う。耳を澄まさないと、聞こえるのはボソボソ小さい声だけかもしれないけどね」
「遊戯室へはどうやって行けばいいかしら? 廊下へ出ることはできないわ。船長に物音を聞きつけられてしまうもの」
「建物の外を通って行くしかないね。クジラに乗って本土へ知らせに行くことはできないの?」
「…うーん、それができればいいのだけどね」
「どうして?」
手探りでカバンを見つけ出し、その中からジャネットは道具を取り出した。
手の中にすっぽりとはいかないが、片手で簡単に持ち運べるものだ。
筒のような胴体に、幅の広い円盤を取り付けたような形をしている。
あだ名をつけ、竜騎兵たちはキノコと呼んでいたが、エリックが面白そうに息を吐き出すのが聞こえた。
「ジャネット、これは何をする機械なの?」
「低周波笛といって、水中へ音波を送り出す道具なのよ。十ヘルツ前後のごく低い音を出すの。人の耳には聞こえないけれど、海中を十キロも二十キロも伝わって、クジラの耳にはちゃんと届く。これを聞きつければ、チビ介はすぐに私の所へやってくるわ」
「チビ介って?」
「私のクジラよ。そういう名前なの」
「へえ、竜騎兵のクジラって大きいのだとばかり思ってた」
「チビ介は大きいわよ。ただ名前がそうだというだけ。だけど今はまだ低周波笛は役に立たないわ。強い波の音でかき消されて、チビ介の耳まで音波が届かないと思う」
「波が静まるまで待つしかないの?」
「ええ」
それ以上は話すこともなくなってしまい、ついに行動を起こす時が来たようだった。
窓を開け、風の音にまぎれて物音が食堂まで聞こえないことを祈りながら、ジャネットとエリックは建物の外へとはい出したのだ。
外には本当に強い風が吹いていた。
慣れるまで建物の外壁につかまり、バランスを取らなくてはならなかった。
それからやっと歩き始めたが、今にも体が浮き上がりそうで、まるで水中を歩いているような気分がした。
エリックは何度か転びかけたので、そのたびにジャネットは支えてやらなくてはならなかった。
「ありがと、ジャネット」
「どういたしまして。君を一回支えるたびにお金をもらっていたら、お金持ちになって、新品の自動車が買えるかもね」
「僕のお父さんは自動車を売る仕事をしてるんだよ。中古車だけどね」
「残念だけど、私は自動車の免許を持ってないのよ。クジラとの付き合いが忙しくてね」
ほんの少し休んで、二人ともため息をつき、風の中を歩きつづけた。
低気圧はまさに島の真上にいたのだろう。
気象局から与えられたデータを元に、風はいつごろ静まるのだろうと、ジャネットは予想してみた。
といっても、感心してもらえるような難しい計算ではない。
低気圧の移動速度はわかっている。
低気圧の半径もわかっている。
半径を速度で割れば、この島が低気圧の下から抜け出す時刻がわかる。
エリックの腕を捕まえ、風に負けないように、ジャネットは大きな声を張り上げた。
「エリック、この風が治まるのは夜明けごろだわ」
「建物をひとまわりして、ちゃんと遊戯室まで行ければいいけど。その前に僕の体が吹き飛ばされちゃうかもしれない」
エリックの言葉はオーバーではなかった。
ジャネットは両手に荷物を担ぎ、エリックの手には懐中電灯を持たせていたが、その手がブンブン揺れているのだ。
腕をまっすぐ保持するのも難しいのだろう。
だがエリックは弱音をはかなかった。
カタツムリのような速度だが、ジャネットの後ろについて進み続けたのだ。なんともけなげな子供ではないか。
いくら自分たちの思い通りのスポーツマンではないからといって、こんな子をむりやりキャンプに参加させてしまうエリックの両親のことを、なんて愚かなのだろうとジャネットは呪った。
親の希望と違っていても、その子なりの得意分野があるだろうに。
だが、そんなことを今言っても仕方がない。
そういえばジャネットも、似た子供時代を過ごしたのだった。
親の都合で海軍の道へと進ませられた。
ただジャネットが幸運だったのは、その道がたまたま自分によく合っていたことだ。
だがそれは結果論、全くの偶然でしかない。
懐中電灯を前へ向け、ジャネットたちは歩き続けた。
風は相変わらず吹き続けているが、建物のまわりを半周し、ついに普段から物品の搬入に使われている裏の戸口までやってくることができた。
エリックが声を上げた。
「ジャネット、見てよ」
「どうしたの?」
「ドアの鍵が壊されているよ。きっと船長はここから侵入したんだ」
搬入口から遊戯室はすぐそこだった。
遊戯室は学校の教室を少し広くした程度の部屋で、チェスやチェッカーのような遊び道具を乗せたテーブルやピンポン台、輪投げ台などが並んでいる。
すぐにエリックは、インターホンのところまでジャネットを案内した。
しばらくの間、顔を見合わせていたが、インターホンのスイッチに手を伸ばしたのはエリックだった。
いかにも力仕事などしたこともないやわらかな指が、青いボタンをゆっくりと押し下げたのだ。
まずかすかなプチンという音が聞こえ、スピーカーが生き返った。
だがそれ以外は何も聞こえない。
スイッチを間違えているのかとジャネットは確かめようとしたが、スピーカーからかすかな声が聞こえてきたのは、その時のことだった。
いかにも乱暴そうな感じのする男の声で、しわがれているので老人とわかるが、まだ力は失っていない。
その声はこう言った。
「おいフンメル、正直に答えるんだ。でないと、ジョンがまた悲鳴を上げることになるぞ。この島には全部で何人いるんだ?」
☆
ジョンのかすかなうめき声をのぞいて、食堂の中は静まり返り、船長の乱暴な声だけが響いている。
「おいフンメル、正直に答えるんだ。でないと、ジョンがまた悲鳴を上げることになるぞ。この島には全部で何人いるんだ?」
子供らはおびえきって体がこわばり、もしもチャンスがあったとしても、反撃するなど思いもよらないだろう。
足にケガをし、船長は歩くのに少し不自由しているようだ。
そのことは最初から見抜いていたが、年齢に見合わず船長の身は軽く、フンメルもためらいを感じないではいられなかった。
もしも力いっぱい押し倒して船長を床に転ばせ、一瞬は優位に立っても、十一人の子供を部屋から逃がすだけの余裕はたぶんないだろう。
船長があの長い腕を伸ばして一人でも捕まえてしまえば、後は想像するのも容易ではないか。
船長が右手に持つ長いナイフが、その子供ののどに押し当てられるに違いない。
再び全員が降伏し、食堂の床の上に、まるで寒い日の動物園のサルのように、またずらりと肩を並べることになるに違いない。
心の中で、フンメルはため息をついた。
今この部屋にいないのは、エリックとあの竜騎兵だけだわ。
そう、あの竜騎兵。
自信に満ちた表情の若い娘だったが、いま彼女はどこにいるのだろう?
エリックと二人して、どこかに身を隠していると思いたい。
フンメルは声を上げた。
「何度も言ったでしょう。この部屋の中にいる以外、島には一人もいません。なぜわからないのですか?」
用もないのに小突き回すふりをして、ジョンをからかって船長はひとしきり遊んでいたが、その言葉にじろりと振り返った。
「それは信用できねえな。俺を除いて、今ここには十二人しかいねえ。だのになぜ、テーブルの上には朝食用の食器が十四セットも用意してあるんだ? おかしいじゃねえか」
「それは…」
「あと二人、どこかに隠れているに違いねえ。おいジョン、おまえがしゃべれ。あとの二人は誰だ? どこにいるんだ?」
ドスドスと二度続けて、船長はジョンの胸を殴った。
ジョンは腕を上げてかばおうとしたが、船長はすかさず腹部に目標を移した。ケガをするほど強くではない。しかし苦痛であることに変わりはない。ジョンは涙を浮かべた。
「痛いよう。やめてよ」
「船長、やめなさい」
とフンメルは金切り声を上げるが、それも船長の耳には心地よい音楽のように聞こえているのかもしれない。
「痛い目にあうのが嫌なら言いな、ジョン。あとの二人は誰と誰だ? どこに隠れている?」
「言うよ、言うよ」
「ああ、早く言いやがれ」
「エリックとジャネットだよ」
「エリックとジャネット? 誰だ、そいつらは?」
「エリックは、僕たちと同い年の子供だよ」
「なんだガキの一人か。よっぽど体の小さなやつに違いないな。道理で見つからないわけだ。もう一人のジャネットとは誰だ? それもガキの一人か?」
涙にぬれた目で、ジョンは部屋の中を見回した。
重要な情報を白状してしまうことへの賛同を得ようとしたのだろうが、同意する者はいなかった。
それは視線で伝わってきたが、ジョンに選択の余地はなかった。
「ジャネットは竜騎兵だよ」
「竜騎兵だって? 海軍の竜騎兵か?」
「そうだよ」
「どうしてそんな者がここにいる? ウソじゃないだろうな。おい、はっきり答えろ」
「ウソじゃないよ。島にいる理由はよく知らないよ。フンメルさんにきいてよ」
「ああ、そうするともさ。ではフンメル、おまえが答えろ。なぜこのキャンプ場に竜騎兵なんぞがいるんだ?」
フンメルはため息をつき、しばらく言葉を選んでいたが、やがて言った。
「海軍のキャンペーンなのよ。竜騎兵部隊は人気がなくて、最近は新兵募集にも苦労するから、なんとか子供たちの間で宣伝したいんですって」
子供らと同じように、フンメルは不安そうに相手の顔色を探っていたが、船長の反応は意外なものだった。
「のんきなクジラ乗りどもにも、多少の苦労があると見える。へへへ、こりゃあいいや」
しばらくの間、機嫌よさそうに笑っている相手を見て、あの男はなぜあんなにうれしそうなのだろうとフンメルもいぶかしく感じないではいられなかった。
船長はまるで、新しい悪戯を思いついた子供のように目を輝かせているではないか。
フンメルは言った。
「船長、一体何がそんなにおかしいのです?」
「これが喜ばないでいられるかってんだ。おいジョン、おまえはもう座っていいぞ。用があればまた呼ぶからな」
ジョンを解放したあと、大きな音を立ててイスを動かし、船長はドサリと腰かけた。
「なあフンメル、俺も若い頃は海軍にいたことがある。実のところ、海や航海のことを学んだのはすべて軍艦の上だった。戦艦トネリコといってな、もうとっくにスクラップになった船だが、俺もよく覚えているよ。各船室にはインターホンがあり、ボタン一つであらゆる場所と直接話ができたもんさ」
口を閉じ、船長はフンメルと子供らをじろりと見回した。
気おされて、気の弱い女の子などは目をそむけてしまう。
フンメルは答えた。
「あなたにも、立派に国に奉仕した時期があったということね」
「トネリコに乗り組んで、仲間から最初に注意されたことがある。インターホンのボタンを押しても、もしも何も言わずに黙っていれば、相手先の部屋で話されている会話をこっそり盗み聞きできるということさ。上官たちが時々やるので、インターホンにはいつも気をつけていろと言われたもんだ。ちょうど今みたいに青いランプが点灯していることがあってだな」
そして船長は、食堂のインターホンを指さしたのだ。
フンメルは深い絶望を感じなくてはならなかった。
先ほどからあのランプが点灯していることは、もちろんフンメルも知っていた。
それを船長に気付かれてしまったのだ。
インターホンに近寄り、顔全体でにんまりと笑いながら、船長は青いボタンをぽんと押した。
「おい竜騎兵、返事をしろ」
十三人分の視線がインターホンに集まった。
木枠に囲まれた古めかしい形のスピーカーだ。
少し間が空いて、カチリという小さな音が聞こえ、ジャネットの声がそこから流れてきた。
「ええ船長、私はここにいるわ」
「おまえのいる部屋はどこだ? エリックとかいうガキも一緒か?」
「その質問に答えるわけにはいかないわ。わかるでしょう? 敵に手の内を明かすことはできないもの」
するともう一度、船長は大きくにんまり笑った。
「なるほど言うねえ。さすがは海軍さんだ。女だからと馬鹿にはできねえな」
それを耳にして、ジャネットは怒りで体が熱くなるのを感じた。
なぜ私が、犯罪者から気安く口を利かれなくてはならないのか。
だが、ここで怒りを表すのはやめておくことにした。
そんなことをしても、何の得にもならない。
ジャネットは言った。
「それで船長、私と話したいとはどういうことなの?」
「おう、それよ。竜騎兵ということは、おまえはこの島へクジラを連れてきているのだろう?」
ジャネットは言葉に詰まってしまったが、黙ったままではいられない。何か言わなくてはならない。
「…なぜそう思うの?」
「なぜっておめえ、人気のない竜騎兵部隊に一人でも新兵を入れようと、子供相手の宣伝に来ているのだろう? 竜騎兵唯一のセールスポイントといえばクジラじゃないか。そのクジラ抜きの宣伝なんてのはありえねえよ」
「クジラは私の言うことしかきかないわ」
「それはわかっているさ。物は相談だ。なあ俺は船長、おまえは竜騎兵。お互い海に生きる者として、仲良くしようじゃないか」
「なれなれしくしないでよ。仲間呼ばわりなんて願い下げだわ」
「ところがそうもいかんのよ。おまえは俺の言うことをきかなくてはならんのさ。おまえも知っていることと思うが、こちらにはジョンという肉付きのいいかわいい坊やがいてね。あまりのかわいさに、俺は腕が鳴って仕方がない」
再び何かされたのだろう。またジョンの鳴き声が聞こえた。
「痛いよう、痛いよう」
インターホンで聞かれないようにマイクから少し離れ、ジャネットはため息をついた。
エリックが心配そうに見つめるが、ジャネットは無理して笑顔を作った。
そして船長に向かって答えたのだ。
「私は何をすればいいの、船長? 小さい子をいじめるのはやめて、早く言いなさい」
☆
準備を整え、ジャネットは海岸へと出かけた。
風は治まってはいるが、波はまだ少し高い。
船舶はあとしばらくは動けないだろう。
だがここまで波が治まっていれば、きっと音波はチビ介の耳に届くだろう。
靴を濡らしながら水際へ寄り、ジャネットは低周波笛を水中に差し込んだ。
エリックにも見せたあのキノコだ。
レバーを引っ張り出して回すと、ずっしりした重い反動がある。
ジャネットの耳には聞こえないが、海へ向けて、周波数のごく低い音波を発しているのだ。
普通の音とは違い、これには水中を何十キロも届くという性質がある。
レバーを何度か繰り返して動かし、ジャネットは立ち上がった。
後は待っていればいい。やがてチビ介が姿を見せるだろう。
船長が現れたのは、その時のことだった。
ジャネットはその姿を初めて見たのだが、声から想像するとおりの老人だけれど、背筋はしゃんと伸びて、足取りや身のこなしも驚くほど軽い。
足には包帯を巻き、ケガをしているようだ。
あれでは走ることはできないかもしれないが、歩くには支障なく見える。
船長はジョンを連れていた。
もちろんジョンの足取りはひどく重い。
目のまわりに青いあざがあり、泣いているのが気の毒だが、船長の手にナイフが光っているのでは、ジャネットにもどうしようもない。
おまけに船長は、自分とジョンの手首をロープでつないでいるのだ。
船乗り独特のしっかりした結び方で、あれは簡単にはほどけないとジャネットも知っていた。
波の音に負けないように、船長は大きな声を出した。
「おい竜騎兵、おまえのクジラはどこにいるんだ?」
海を見回し、ジャネットは目をこらした。
もうそろそろ現れていいはずなのだが。
遠くの水面が一ヶ所、白く泡立っていることにジャネットは気がついた。
「あそこにいるわ。他の人たちはどうしたの?」
「物置に押し込めて、外から鍵をかけてきた。なあに、やわなドアだから、こじ開けるのに一時間もかかりゃしないぜ」
船長は笑っていたが、ジャネットも腹は立たなかった。
もうおそらくエリックがすでにドアを開けて、全員を助け出している頃だろう。
「おい竜騎兵、あれがおまえのクジラか?」
今回のキャンプ場行きのために、チビ介の背中にはある設備が追加されていた。幅の狭い細長いデッキで、まわりを手すりでぐるりと囲んである。
チビ介の胸ベルトに固定されているのだが、このデッキの上には数人なら立つことができるようになっている。
自分のクジラにこんなものが取り付けられるなど、ジャネットとしてはうれしい眺めではとてもなかった。
だが子供らを背中に乗せるなら絶対に必要な設備だと、司令部が言い張るのだから仕方がない。
泳ぐときに抵抗が増えるので、チビ介もやりにくそうにしている。
その白いデッキが水面に顔を出し、こちらへ向けてゆっくりと滑ってくるのが目に入ったのだ。
とたんに船長がニヤリと笑った。
「おや竜騎兵、クジラの背中にあんなものが用意してあるなんて、なかなか親切なことじゃないか」
「あんたのためじゃないわ。子供を乗せるためだったのよ」
「それはわかっているさ。だが今の俺にはとても都合がいい。さあ竜騎兵、クジラを桟橋に横付けするんだ。まず俺とこのガキが乗り移る」
チビ介に指示を与えるため、ジャネットは桟橋の先端へ向けて歩き始めようとしたが、二歩ばかり足を動かしたところで立ち止まってしまった。
物影から、小柄なエリックが不意に姿を見せたのだ。
いつから隠れていたのか突然現れ、ジャネットを見つめて、ごく真剣な表情なのだ。
もちろん船長はすぐに反応した。
「なんだガキ? おまえは誰だ? どこからやってきた? ははあ、おまえがエリックだな。しかしおまえ、ずっと隠れていればいいものを、なぜ今になって姿を見せた?」
エリックは答えた。
「あんたが船長だね。ラジオであんたのことを言っているのを聞いたよ。沿岸警備隊と戦ったんだってね」
「おやおや、知らないうちに俺も有名になったもんだ。俺に何の用だ? サインでも欲しいのか?」
「エリック…」
とジャネットは言いかけたが、船長は身振りでジャネットを黙らせた。
「さあエリック答えろ。なぜここへやってきた? 理由を言ってみろ」
「クジラの背中に乗ってみたくなってね」
「なんだって?}
「だって船長は、今からジャネットのクジラに乗って島を出るんでしょう? ジョンじゃなくて、僕を連れて行って欲しいんだ」
「これは遊びじゃないんだぞ」
「あんたの命がけの逃避行だということはわかっているさ。誰かが人質にならなきゃならないのなら、僕がなるよ」
「どうしておまえが、そんなものになりたがる?」
「ジョンはもう十分すぎるほどひどい目にあったからさ。あざだらけじゃないか。少しぐらいは僕が代わってもいいと思ってね」
この申し出を、船長が受け入れないはずがなかった。
エリックは体が小さく、体重も軽い。
手首をつないで引きずるように行動するにも、足手まといにはならない。
「よしいいだろう、エリック。おまえの勇気には感心するぜ」
「愚かな蛮勇というべきだわ」
とジャネットはつぶやいたが、誰の耳にも入らなかったに違いない。
そうやってジャネットたちは海へ出ることになった。
チビ介の背中のデッキに三人が立っている。
先頭はジャネットで、かがんで黒い肌に触れながら、チビ介に指示を出している。
船長は一番後ろに下がり、もうナイフはポケットにしまっているが、手首は縄でエリックとつながっている。
エリックは声も出さずおとなしくしているが、元気をなくしているようではない。
ジョンは縄をほどかれた瞬間に駆け出して、宿舎の方角へとっくに姿を消していた。
桟橋を離れ、チビ介が入江を出たとたんに波が高くなってジャネットたちは大きくゆすられ、船長が口を開いた。
「おい竜騎兵、竜騎兵とは潜水服を着ているもんだろ。そうじゃないのか? 俺も一度見たことがあるが、ドラム缶みたいにごついものだよな」
「私も潜水服を持ってきたわ。でも今は、さっきの桟橋のそばの海中に沈めてあるのよ」
「へえ、そうかい」
「これからどこへ行くつもりなの? そろそろ何か言ってよ。チビ介に指示を出さなくてはならないわ」
「このクジラの名はチビ介というのか? そりゃいいや」
「あんたは犬や猫を飼ったことはないの? 同じようにかわいいものよ」
「犬なら飼ったことがあらあ。もうずっと子供のころだが」
「私たちはどこへ行くの? チビ介が不安に感じ始めているわ」
「まず西へ行け。このまままっすぐだ」
船長は、ポケットから海図を取り出して眺めた。だが油断なく、エリックやジャネットからは目を離さない。
隙を見て、ジャネットはエリックに声をかけた。
「エリック、あんたは大丈夫?」
「うん大丈夫だよ、ジャネット」
「ならいいけど。この騒動が終わったら、あんたを正式に竜騎兵指揮所へ招待するわ。指揮所の中を全部見せてあげるし、アップル大尉に頼んで高速艇にも乗せてあげるわ。約束よ」
「うん、ありがと」
それ以後はもうあまり話すこともなく、ジャネットたちは海上を進み続けた。
雲はなく、日が差し、気温が上がり始めている。
波はすでに、船の航行に差し支えないレベルにまで治まっている。
ついに船長は海図を見せ、本土へ向けてまっすぐにチビ介を走らせるように命じたが、予想していたことなのでジャネットも驚かなかった。
「ははあ船長、どこかの海岸に上陸して、沿岸警備隊の目から逃れるつもりなのね」
「まあ、そんなところだな」
「そこでエリックは解放してくれるのでしょう?」
「エリックだけじゃねえ。おまえとクジラにもその先は用がないからな。それとも名残惜しいのかい?」
「いいえ、ぜんぜん。ねえ船長、私がいま何を考えているかわかる?」
「いいや」
「クジラのことよ。背中に乗っている余計な乗客を海に振り落として、一口でパクンと食べてしまう訓練を上官に提案したものかどうか悩んでいるのよ」
「ははは、こりゃいいや竜騎兵。おまえがだんだん気に入ってきたぞ」
「あら光栄ね」
チビ介もよく言うことを聞き、平穏な航海になるはずだった。
本土の海岸には、ジャネットは二時間後の到着を見込んでいた。
だが気になることもなかったわけではない。
島と本土の間にあるXX海峡は、海で生きる者や船乗りの間で多少知られていたのだ。
といっても、よい意味ではない。
XX海峡は、水の流れがずば抜けて速かった。
まるで川のようと形容されることもあったほどだ。
しかもその流れる向きが日によって変わる。
北と南からやってくる大きな海流が互いにぶつかる場所だからだ。
おかげでプランクトンの発育がよく、それを食べる魚たちが餌場として集まることになる。
漁師たちにとってよい漁場ということだが、それには別の意味もあった。
豊富にいる魚を目当てに、もっと大きな動物たちが集まってくるということだ。
サメか?
サメなら結構。
ジャネットも歓迎したことだろう。
確かに肉食だし、食欲も旺盛だが、いくらサメでも、チビ介のような大型のクジラに襲い掛かるほど暇ではない。
自分の体の十倍以上あり、たとえ捕まえることができても食べきれないとわかっている相手にいどんでも意味はない。
そんなことをするぐらいなら、カツオやイワシの群れでも追いかけるほうがよほど効率がいい。
ならば大イカや大ダコ、大海蛇か?
それらでも結構だ。
大ダコや大海蛇など伝説に過ぎないし、大イカだけは実在するが、チビ介の大好物だから。
もし遭遇すれば、追いかけていきたがるチビ介をなだめるのに、ジャネットは逆に苦労することになるだろう。
ジャネットが気にし、恐れていたのは他のクジラのことだった。
この海にももちろん野生のクジラがいる。
一番嫌な相手はシャチの群れと出会うことで、その中でも最悪なのが雄シャチの群れだ。
あいつらは海のギャングとしか形容のしようがなく、はっきりした群れのボスもおらず、メスのいない群れだからその機嫌を取る必要もなく、もうやりたい放題だ。
特にこの海峡にはスマッシャーと呼ばれる群れが住み着いていることが知られており、魚を食い荒らすので、漁師からも蛇蝎のごとく嫌われていた。
遠い竜騎兵指揮所にいるジャネットのところへさえ、その噂が聞こえてくるほどだったのだ。
いわく、漁師の網を外から食い破って、せっかく獲った魚の半分以上を持ち去ってしまう。
いわく、長いさおで一本釣りをして、やっとかかった体長二メートルを越すカジキマグロを泥棒猫のように盗んでいった。などなど…
船長が言った。
「どうした、竜騎兵? 何を考え込んでいるんだ?」
エリックを不安にしたくないので、ジャネットはためらった。
だが話しておくほうが賢いだろうと決めた。
海の上では何が起こっても不思議はない。
ならば、あらかじめ備えておいたほうがいい。
「船長にエリック、二人ともよく聞いてね」
「なんでえ、藪から棒に」
「今日も暑い一日になるわ。本土まではあと二時間。島は背後にあんなに小さくなった。私たちはそろそろ、海峡で最も海の深いあたりに差し掛かるのよ」
「そういえば、珍しくも船の影がないな」
「嵐が治まった直後だからよ。もう少ししたら、みんな港から出てくると思うわ」
「低気圧を避けて、船はみんな港に避難していたんだね」
とエリックが口を開いた。
「そうよエリック、でもこの海峡には、スマッシャーと呼ばれるシャチの群れがいてね…」
ジャネットが説明を終えても、二人はしばらく何も言わなかった。
先に口を開いたのは船長だった。
「そんな話をして、俺を怖がらせようという作戦かい?」
「ただの脅かしだといいのだけどね。XX島へ行くのだって、子供らを乗せても絶対に入江から出るなと私は厳命されていたのよ。入江の外にはスマッシャーが出る可能性があるからだわ」
「だが俺はそんなシャチの話、聞いたことがないぞ」
「それはあんたが漁業関係者じゃないからよ。いくらスマッシャーでも、鉄の船にまでケンカは仕掛けないわ。普通の船乗りには関係のないことなのよ」
「ねえジャネット、シャチって、そんなに怖いやつなの? 白い斑点があって、パンダみたいにかわいい顔をしているのに」
とエリックが言った。
「あれは見せかけよ。メスはともかく、オスのシャチは凶暴すぎて、訓練にも何にも向かないわ。わが国の竜騎兵部隊では一匹も飼っていないし、ハマダラカ国の竜騎兵部隊にはいるけど、全部メスばかりよ」
「じゃあ竜騎兵、このマッコウクジラはオスなのか? メスなのか?」
と船長は鼻息が荒い。
「オスよ。でもマッコウクジラはおとなしいわ。人懐っこい馬みたいな性格ね」
海峡の中央あたりに差し掛かると、さすがに波が高くなってきた。
ジャネットは慣れているが、船長とエリックが手すりにつかまりなおすのが目に入った。
チビ介は背中を水面に出したまま泳ぎ続けるが、波の山へむかって進むときには頭が上がり、頂上を乗り越えると、とたんにシーソーのように前のめりになる。
船長が口を開いた。
「竜騎兵、おまえまさか、このクジラをわざとゆっくり泳がせているのじゃあるまいな? いくらなんでも時間がかかりすぎるぞ」
「クジラの泳ぐ速さなんてこんなものよ。モーターボートとは違うわ。今日は波が高いし、こんなデッキがついているせいで水の抵抗も増えるから、スピードが出なくても仕方がないわ」
「ふん、どうだか」
ここで突然エリックが声を上げた。
「ジャネット、いま波の向こうに何か見えたよ」
だがジャネットよりも、船長のほうが反応が早かった。
「どこだガキ? どの方向だ?」
「方向はあっち、まっすぐ右のほうだよ。水の上に三角形にまっすぐ突き出しているから、最初はヨットの帆かと思ったけど」
「ヨットだと? こんな荒天に出てくるバカなヨット乗りがいるのか?」
「だから変なんだ。しかも、まるでゴムでできているみたいに真っ黒なんだよ。そんな色の帆があるのかなあ。よく確かめようと目をこらしたんだけど、うねる波の下に隠れてすぐに見えなくなった」
「竜騎兵、おまえのクジラは何も感じていないのか? クジラとは潜水艦のソナーのように、水中を伝わってくる音を聞きつけて、まわりの様子を探ることができると聞いたぞ」
「それがそうはいかないのよ。低周波ならいいけど、こうまわり中が白い泡だらけではね。泡は、はじけて消えるときに超音波を出すの。それがクジラたちの出す周波数に近いものだから、チビ介の耳も今はほとんど役に立たないわ。水中深く潜れば、そういう泡の妨害も受けないのだけどね」
「俺たちにおぼれ死ねと言うのかよ」
「私は事実を話しているだけだわ」
「クソ面白くもねえ」
エリックが叫んだ。
「あっ前を見てよ。また見えた。あそこだよ。ほら黒い三角の帆みたいなもの」
船長も声を上げた。
「おお、あれはでかいぞ。高さ二メートルはあるな。しかし色といい形といい、船の帆にしてはおかしいぞ」
相手の正体について、ジャネットはすでに答えを出してしまっていた。
自分の正しさにも自信があった。あの正体を一目で言い当てられない者など、本物の竜騎兵ではない。
ジャネットはため息をつかないではいられなかった。
同時に胸の中で心臓が、ドクドクと激しく鼓動を打ち始める。
「どうした竜騎兵、なぜそんな顔をする?」
船長と同じように、エリックも不思議そうにジャネットを見つめた。
だがすぐには答えず、ジャネットはかがんで、先にチビ介に指示を出しておくことにした。
クジラの肌は黒く分厚いが、表面は敏感で、モールス信号式の指示を取り間違えることはまずなかった。
船長は目ざとくそれに気がついた。
「竜騎兵、おめえ何をしようとしてるんだ? あの黒い帆みたいなものの正体は何だ?」
ジャネットはチビ介への指示を終えた。
立ち上がり、できるだけ伸びをし、念のためもう一度、ジャネットは敵の様子を確かめた。
「船長、あの黒いのは帆じゃないわ。シャチの背びれよ」
「あれが? あんなにでかいものが? ウソつくんじゃねえよ。高さ二メートルはあるぞ」
「オスの背びれはそのくらいのサイズがあるのよ。エリックは知っているでしょう?」
「うん、本で読んだことがある」
「二人とも本気かよ。俺は見たことがないぞ」
「いくら長く海で暮らしていても、あんたは密輸品にしか興味を持ってないからよ。あんたってきっと、クジラにはエラがなくて、魚とは別の動物だということも知らないでしょう?」
「バカこけ。そのくらい俺だって…」
「あんたの足元に道具箱があるわ。開けて中から縄を取り出すのよ。それで自分とエリックを手すりに縛り付けなさい」
「なぜそんなことをする必要があるんだ?」
「あのシャチが、もうすぐ私たちに襲い掛かってくるからよ。あれはスマッシャーの一匹だと思う。嵐のせいで仲間からはぐれたのね」
「なぜ襲ってくるとわかるの?」
とエリックは不安そうだ。
「さっきから私たちのまわりを何回もぐるぐる回っているわ。きっと腹をすかしているんだわ」
犯罪者とはいえ、さすがは歴戦の海の男なのかもしれない。
船長はすぐに状況を飲み込み、道具箱のフタを開け、中身をあさりながら、その手つきはてきぱきとしている。
ときどき目玉をギョロリと動かすから、頭の中では脳みそがちゃんと働いていて、パニックに陥っているのではないこともわかる。
二分もかからずに、ジャネットたちは体を手すりに結びつけることができた。
エリックの体を支える結び目を念のためジャネットは確認したが、老練な船長の手で、ゆるみなくしっかりと結ばれている。
船長が口をゆがめて笑った。
「おい竜騎兵、俺の作った結び目を偉そうに確かめるなんて、おまえはまだ二十年早いぞ」
「ねえジャネット、あのシャチは、なぜすぐに襲ってこないの? 仲間を呼んでいるのかなあ」
「ううん、ヒゲクジラなら遠くの仲間へ届く鳴き声を出すことができるけれど、シャチにその能力はないわ」
「あそこにいるのは一匹だけか、竜騎兵? 俺の目にはそう見えるが」
「私もそう思うけどね。ううん、はっきり確かめたほうがいいわ」
「それよりも、島へ戻るほうが賢くはねえか?」
ジャネットは背後を振り返った。
島はもうすっかり小さくなり、波の山が高くなるときなど、隠れて見えなくなってしまう。
こんなにも距離があるのでは、もう引き返すことは問題外だろう。
いま方向転換しても、島へ近づくまでにシャチが襲ってくるのは間違いない。
だが前方なら希望があるというわけでもないのだ。
ジャネットたちの眼前には、しわのよったシーツのような波が幾重にも折り重なるばかりで、本土の姿はまだ影もなかった。
シャチがついに仕掛けてきたのは、本当に突然だった。
その時までにジャネットたちは話し合って、このシャチに名前をつけていた。
これから命をかけて戦おうという相手がただの名無しでは、あまりにもそっけないということになったのだ。
エリックの提案で、シャチはランスロットと呼ぶことが決められた。
いかにも本好きで夢見がちな少年らしい命名だが、こんな時だからか船長も異議は唱えなかった。
だが、意外にもふさわしい名だったかもしれない。
ランスロットの口の中がチラリと見えたとき、そこに並ぶとがった何十もの牙が、中世の騎士が持つ長いヤリの先を思わせたのだ。
全くシャチというのはとんでもない連中だとジャネットも思う。
チビ介にも牙はあるが、もっとずんぐりして、タケノコの芽のように愛らしいものだ。
気がついたときには、ランスロットはジャネットたちに近づき、平行に泳いでいた。
ほんの五メートルほどの距離だ。
ジャネットたちを乗せているせいでチビ介には機敏な動きができないと知っているのだろう。
ランスロットが次に取った行動は、ジャネットたちをひどく驚かせた。
エリックが悲鳴を上げかけたほどだ。
ヒレを用い、ランスロットはジャネットたちに水しぶきを浴びせかけはじめたのだ。
おかげでジャネットたちは全身を洗われ、体中からしずくを滝のように流すことになったが、あのサイズのヒレが起こすしぶきなのだ。
まるで真正面から大波にぶつかられたかのようで、あらがって立ち続けるのも難しい。
もちろんジャネットたちの体は手すりに結び付けてある。
それでも手すりを乗り越え、反対側の海へ落ちてしまいそうになるのだ。
エリックなどは床に叩きつけられそうで、そのたびに船長が支えて、やっとバランスを保っている。
足を滑らせつつ、船長が叫んだ。
「ランスロットは何を考えてやがるんだ? まさか俺たちに水浴びをさせてやろうという親切心じゃあるまい?」
「水しぶきで、あわよくば私たちをデッキから振り落とそうというのよ。水中に落ちたところを襲うつもりだわ」
「ウソこけ。動物にそんな知恵があるもんか」
「野生のシャチは本当にそうするのよ。岸辺でぼんやりしているアザラシを狙ってね。水に落ちたら一巻の終わりよ。エリックをよく支えてやってね」
ランスロットの巻き起こすしぶきがもう一度襲い掛かり、今度は船長が転んだ。
船長の口からは、とても小説には書けない呪いの言葉が飛び出してきた。
エリックが言った。
「だけどジャネット、僕たちの体は手すりに結び付けてあるんだよ」
「ランスロットはそんなことを知らないのよ」
「じゃあ竜騎兵、おまえが教えてやれ。あっ、くそっ」
「どうしたの船長、どこかケガをしたの?」
「いま転んだときにナイフを海に落としちまった。クソ面白くもねえ。クジラの様子はどうだ?」
「チビ介はもちろん全力で泳いでいるわ。ランスロットを振り切ろうとジグザグに進んでいるのがわからない? でもスピードについては、マッコウクジラはシャチにかないっこないのよ」
「巡洋艦に追いまくられる航空母艦というところかい? 情けねえ。俺たちは今どこにいて、どっちの方角へ進んでるんだ?」
「それが私にもわからない。ジグザグ航行のせいで、方向がすっかりわからなくなったわ」
シャチとは本当に頭のいい動物だ。
動物学者たちも、野生のシャチが海草の切れ端を用いて、まるでラグビーゲームのように取り合いをして遊ぶ光景を何度も目撃している。
それだけの知性があるのなら、『水かけ作戦』では充分な効果が上がらないとすぐに悟ることだろう。
そのとおり、ランスロットは作戦を変えてきたのだ。
全身の筋肉を使って、シャチは水上高く飛び上がることができる。
トビウオのように水平に飛んだり、打ち上げ花火のように垂直だったりはするが、その全身を空中に見せ、その後盛大に水しぶきを上げて着水する。
そのように強いシャチのジャンプ力なのだが、ランスロットはそれを十二分に生かすつもりらしい。
一瞬はチビ介から離れ、ジャネットたちをほっとさせたが、すぐに猛然と向きを変え、チビ介に先回りをして、進路に交差するように前方へ飛び込んできたのだ。
まるで潜水艦から発射された魚雷のような眺めだった。
ランスロットはジャネットたち目指して全速で泳ぎ、衝突の直前、そのままの速度で空中へ飛び出した。
体が小さいということで、ランスロットはエリックを狙ったのかもしれない。
だが一瞬早く船長が気付き、エリックの手を強く引いたのだ。
おかげで二人とも床に倒れてしまったが、あの巨大な口でエリックをさらわれてしまうことはなんとか避けられた。
「ちきしょう竜騎兵、やつは何を考えてやがんだ? あれじゃあランスロットじゃなくて死神だぜ」
「エリックは大丈夫なの?」
青ざめてはいるが、エリックは顔を上げることができた。
でも口をきく力は残っていない。
船長が代弁した。
「床板にしこたま肩をぶつけたが、ケガはしていねえよ。俺もな…」
船長が言い終わらないうちに、ランスロットが二回目の攻撃を仕掛けてきた。
水中で体勢を立て直し、再び襲いかかったのだ。
エリックと船長は床に倒れていたので、今回の目標はジャネットだったらしい。
ジャネットもなんとか直前に床に身を投げ出し、かろうじて牙を逃れることができたが、黄色くとがった何十もの牙が、体のすぐそばをかすめていった。
ところがランスロットも少し目算が狂っていたらしい。
今回は思いがけず低く飛びすぎたようで、黒い体が手すりにまともにぶつかってしまった。
バリバリバリと大きな音がした。
大人のシャチは体重が五トンもあるのだ。
デッキのまわりを囲む手すりは、あっという間になぎ倒され、きれいさっぱりなくなってしまった。
こうなることを船長は予測していたのかもしれない。
自分とエリックを手すりにつないでいる結び目を、あらかじめつかんでいたのだ。そして手すりがもぎ取られる瞬間、船長は縄を引いて結び目をほどいていた。
だから二人とも、手すりと一緒に水中に引きずり込まれるのはさけられた。
実はジャネットも、船長と同じ行動を取っていた。
だからジャネットも、まだチビ介の背中の上にいることができた。
だが手すりがなくなると、もはやデッキはただの床でしかない。
船長がわめいた。
「なんて乱暴な野郎だ。だが今ので、やつも多少はケガをしていればいいのだがな」
「ううん、せいぜい歯の一本か二本が欠けただけだと思う」
とエリックが口を開いた。
「手負いになったら面倒だわ。かえって怒り狂うもの」
というのがジャネットの意見だった。
「おい竜騎兵…」
船長がジャネットをにらんでいた。
その顔は目玉がギラギラして、びしょぬれの髪が額に張り付いて、しかもしゃべるときには歯をむき出すので、まるで鬼のようだった。
だが今はジャネットも、同じような表情をしているに違いない。
「なによ船長」
「この次の攻撃をどうやってかわすつもりだ? もう体を結びつける手すりはないんだぞ」
「だから今、チビ介に指示を出しているのよ」
「どうする気だ? ランスロットは今は離れて、こっちの様子をうかがっているが、すぐにまた攻撃してくるに違いないぞ」
「そうだよジャネット」
とエリックの声も、いかにも心細そうだ。
ジャネットは決心を固めるしかなかった。
「船長、ちょっと相談があるのよ」
「なんでえ、早く言え」
ジャネットはエリックに話しかけた。
「エリック、あんたはランスロットをよく見張っていてね。動きを見せたらすぐに教えてね」
「うん、わかった」
「おい竜騎兵、おめえ何をどうしようってんだ? あれを見ろ。ランスロットめ、もう一度飛びかかる隙を狙ってやがる」
ジャネットの指示を理解し、チビ介が行動を始めたのは、このときのことだった。
まるで油圧装置か何かのように、ジャネットたちが乗っている床が突然、右へと傾き始めたのだ。
予告もなしだったから、船長とエリックはひどく驚いたに違いない。
「竜騎兵、何だこれは?」
「ジャネット、チビ介が沈んじゃうよ」
ジャネットはあわてて叫んだ。
「二人ともチビ介の胸ベルトにつかまるのよ。体を右に傾けるようにと、私はチビ介に命令したのよ」
「どうしてそんなことをしやがるんだ。俺たちが海に落ちちまうぜ」
「島を出るとき、私はウソをついたの。潜水服は島に残してなんかこなかったわ。ずっとチビ介の左胸にぶら下げてあったのよ」
「なんだと?」
「潜水服の中へエリックを入れるのよ。チビ介から空気をもらって、エリックは呼吸できる。まさかランスロットも、金属製の潜水服までは破壊できないわ」
「そんなことを言って、俺たちはどうするんだ?」
「大人はなんとかランスロットと戦うのよ。さあエリック、潜水服が水面に見えてきたわ。ランスロットはまだこちらをうかがっている。この隙に潜水服の中へ入るのよ」
呆然とした顔で、エリックはジャネットを見つめている。
ここまでに経験した恐怖で、小さな体の神経が擦り切れてしまっているのだろう。
「だめだよジャネット、僕そんなことできない」
「やるしかないのよ。いまランスロットが背中の呼吸口からポッと息を吐き出したことに気がついた? 大きな丸い泡が一つ上がったわね。あれって、『あれは何だろう?』と疑問を感じたときにクジラがする仕草なのよ。生まれて初めて目にした潜水服の正体がわからなくて、ランスロットは脅威を感じているんだわ」
だが船長には動物の知識だけじゃなく、想像力も欠如していたようだ。
「バカこけ竜騎兵。動物が意味のある仕草なんかするものか」
「それがするのよ、船長。生きて帰ることができたら、動物学の本を読みなさい。さあ早くエリック。ランスロットが決心を固めて次の攻撃をしてくる前に、早く」
竜騎兵の潜水服は中世のヨロイのように金属製で、ドラム缶のようにごつく、SF小説に出てくるロボットに似ていなくもない。
今は人形のようにダラリとぶら下がったまま、波に洗われている。
チビ介の胸ベルトに片手でつかまったまま、ジャネットは潜水服に手を伸ばした。
「このネジをゆるめれば、ヘルメットが外れるわ。船長、エリックをここへ連れてきて」
いつも手を触れていて、ジャネットには暗闇の中でも操作できるほどなじんだ道具だ。
潜水服はすぐにいうことを聞いた。
フタを取られた空っぽの箱のように、潜水服の上半身が口を開けたのだ。
しぶきを受けて、その中には水が入って行きつつあるが、どうということはない。
あとでチビ介に息を吹きこまさせれば、簡単に排水できる。
だがエリックはいつまでたってもやってこないのだ。
船長もエリックの手を取って、こちらへ向けて腕を伸ばせるように支えてはやらないのだ。
不審に思い、ジャネットは顔を上げた。
そして意外な光景が目に入ったのだ。
こちらへやって来るどころか、エリックはまだひざをついたまま、床の上にへばりついている。
船長はチビ介の胸ベルトにつかまっているが、エリックの手助けをするどころか、怒りに満ちた目でにらみつけ、銃のようなものを手にして、ジャネットに狙いをつけているのだ。
ジャネットはすぐに気がついた。
そして自分の大失敗を悟ったのだ。
船長が手にしているのは信号銃だ。
見まごうことなき竜騎兵の装備品で、道具箱から取り出し、いつの間にかポケットに隠していたのだろう。
さっきジャネットが、道具箱から縄を取り出すように言ったときに違いない。
「船長、こんなときに何を考えているの?」
「それは信号銃だよ。本物の銃じゃないんだよ」
とエリックも事態に気がついた。
「知ってるさ。だがこれでも近距離なら人が殺せることは、ずいぶん昔だが実験済みだ」
ジャネットに向けた船長の銃口はピクリとも動かなかった。
あの様子では、銃の扱いにはかなり慣れているに違いない。
密輸とは、日ごろからそれほど銃に親しむ機会の多い商売なのか、あるいは戦艦トネリコ時代の訓練がよかったのか。
ジャネットはその両方を呪いたい気分になった。
「さあ竜騎兵、そこをどけ。俺がその潜水服の中へ入るんだ」
「私の体に合わせた潜水服だから、あんたには窮屈よ」
「命が助かるなら、そのくらい我慢するさ」
「チビ介はあんたの言うことなんか聞かないわ」
「だけどクジラも、密輸犯なんて言葉は知らないさ。指示をくれる人間がいなくなったときには、クジラは竜騎兵指揮所に戻るように訓練してあると聞いたぞ。おまえとエリックがランスロットの胃の中に納まったあと、このクジラはひとりでに指揮所に戻るさ。海岸が近づいたら隙を見て、俺は潜水服から抜け出せばいい。そのあとは一泳ぎで自由の身ということさ」
「そううまくいくもんですか。だいたい一人でどうやって潜水服から出るのよ。あんたは方法を知らないでしょう?」
「何を言っている? そこの赤いレバーを引けばいいんじゃないか。『緊急脱出装置』とかいったな。戦艦トネリコにいた時代に訓練を受けたぜ。ピンチに陥った竜騎兵を救出する場合に備えてな。竜騎兵部隊創立者のジャック・カーターを知っているだろう? 俺はあいつの口からじかに講義を聞いたぜ」
ジャック・カーターといえば確かに竜騎兵部隊の基礎を築いた人物だが、余計なことをしてくれたものだった。
ジャネットは舌打ちをしたい気分になった。
船長はさらに銃口を近づけてきた。
「さあどきな竜騎兵。俺が潜水服を着る邪魔をするな」
ジャネットは道を空けるしかなかった。
だが、それではくやしくてたまらない。
ちょっとした作戦を思いついた。
「船長、私が今何を考えているかわかるかしら?」
「今さら何を言っても遅えよ。おまえら二人はランスロットのエサになるんだからな」
「ええ、そういう結果になるかもしれないわね。でもクジラのことでは、あんたも知らないことがあるのよ」
「なんだ? 言ってみろ」
「あんたが潜水服の中に納まった後、ほんの十秒もあれば、私はチビ介にある指示を与えることができるわ」
「へん、おおかた右へ曲がれだの左へ曲がれだの、そんな指示だろうが」
「チビ介の呼吸口からは頑丈な空気パイプが伸びていて、それが潜水服につながっていることは知ってるわね?」
「それがどうした?」
「クジラの肺活量を想像したことがある? この大きさの体なのよ。潜水服の中へ向けて、チビ介が思いっきり強く空気を吹き込んだら、どういうことになるかしら。気圧が突然十以上も上がって、あんたは一瞬で押しつぶされるのよ。想像できる? 踏み潰されたトマトみたいな、本当にひどい死に様になるわよ」
何か言い返そうと考えているのか、船長は黙ってしまった。
ランスロットがどういう性格のシャチだったのか、今となってはわからない。
しかし活発で、思い切りのよい個体だったのは間違いないようだ。
だらだらした駆け引きには、早々に飽き飽きしていたのだろう。
ジャネットと船長がチビ介の横腹の上で押し問答をしていることになどお構いなく、次の攻撃を仕掛けてきたのだ。
しかも今回は、かなり荒っぽいものだった。
チビ介のやわらかな腹部を狙って、ということかもしれない。
知らぬ間に深く潜り、突然砲弾のようにランスロットは体当たりしてきたのだ。
チビ介の体さえ、ぐらりと揺れた。
ジャネットたちは三人とも転んでしまった。
胸ベルトにつかまっていなかったエリックが海に落ちかけたので、ジャネットはあわてて手を伸ばし、なんとかつかまえることができた。
だがおかげで、船長に道を空ける形になってしまった。
体のバランスを失いながらも、船長がそれを見逃すはずはなかった。
気がついたときにはジャネットを押しのけ、船長は潜水服に手をかけていたのだ。
潜水服は肩の部分がすでに大きく開いており、まず船長はそこから両足を滑り込ませた。
そこへランスロットが二回目の体当たりをかけてきた。
だが今回は、少し狙いが狂っていたらしい。
チビ介がとっさによけようとしたということもあるだろうが、ランスロットはチビ介の腹部にぶつかることはなかった。
その中に体を落ち着けようと船長がもがいている潜水服にまともにぶつかったのだ。
「何をしやがる?」
もちろん船長は上機嫌ではなかった。
身の安全をやっと確保できるかと思っていたのに、そこへこれなのだから。
潜水服の内部が思っていたよりも狭く、そのことも船長のいらだちを高めていたかもしれない。
「てめえランスロット、俺様に何しやがる」
船長の手の中には信号銃があるのだ。
それをランスロットに向けるのは簡単なことだった。
潜水服を押しつぶしてやろうと考えたのかもしれない。
ランスロットはさらに強く体を押し付けてきた。
つまりランスロットのでかい頭が、船長のすぐそばにあったということだ。
信号銃を構え、船長はランスロットの頭部に狙いをつけた。
波と水しぶきが騒がしい中に、パンという火薬の音が響いた。
船長が引き金を引いたのだ。
もちろん信号銃は、攻撃のための武器ではない。
ただ光り輝く花火を打ち上げるだけの道具だ。
だがその直撃を受けて、無傷でいられる者はいない。
しかもこの近距離だ。
竜騎兵部隊に所属していても、クジラが上げる悲鳴を耳にする機会は多くない。
ジャネットにも数えるほどでしかない。
だがこの日、ジャネットはすぐ目の前で目撃し、耳にすることになった。
信号弾が、ランスロットの右目に命中したのだ。
流れ出す血が、泡立つ水面を赤く染めた。
そして悲鳴と共に、ランスロットは一瞬で姿を消したのだ。
あとには波と泡が残るだけだ。
「やった。やったぜバカヤロー。見たか竜騎兵」
無理もないが、船長は有頂天になっている。
勝利を確信したのだろう。だがジャネットは全く違うことを考えていた。
「船長、その信号銃は一発しか撃てないわ。今のうちに弾を込めなおすのよ」
びっしょり濡れたヒゲを揺らし、口を大きく開けて船長は笑った。
「そんなこと必要ねえよ、竜騎兵。片目がつぶれたんだ。ランスロットは逃げていった。もう戻ってきやしねえよ」
船長の言うとおりの、あまりにあっけない幕切れだったかもしれない。
エリックと一緒になってジャネットは見回したが、ランスロットの姿は本当になかったのだ。
水の上にわずかに血の跡が見えるから、あの赤い筋を引きながら逃げ去ったのだろう。
「ジャネット、ランスロットは本当に行ってしまったの?」
とエリックが言ったが、ジャネットの代わりに船長が答えた。
信号銃をぽいと海に投げ捨て、上機嫌で腕を振り回すのだ。
「そうに決まってらあな。みんな俺の手柄だぞ、見ろよ竜騎兵。本職のおまえですら手こずった相手を、俺は一発で追い払ってしまったぞ」
船長の放言は止まらなかった。
いい気なのにあきれて、ジャネットもエリックも口を開く気にはならなかった。
自分の手柄だって?
ただ偶然、信号弾が目に命中しただけではないか。
「さあ船長、わかったから私の潜水服から出てよ。もう用はないでしょう?」
「何をぬかす竜騎兵。この潜水服も元は税金で買ったものだろうが? 俺は納税者様だぞ」
エリックが口を開いた。
「密輸って、関税を逃れるためにするんじゃなかったの?」
「うるせえガキ、俺だって一度ぐらいは税金を払ったことがあらあ」
ジャネットは鼻を鳴らした。
「それってまさか、あんたの出生届の手数料のことじゃないでしょうね?」
だが何を言われても、船長の上機嫌はさめることがなかった。
チビ介も落ち着きを取り戻し、本土へ向けてまっすぐむかう進路に戻っていた。
胸ベルトを伝いながら簡単にだったが、ジャネットはチビ介の体を調べた。
どこにもケガはない様子だったので、少し安心した。
それ以後は、もう何も起きない航海になった。
予定よりも少し遅れたが、島を出て二時間後、ジャネットたちは小さな岬にたどり着くことができた。
松の木に覆われた森が近くにあるが、人気のない場所だ。
波はすでにすっかり治まっていた。
まわりには人家も見当たらず、三日月形の白い砂浜がおだやかに延びている。
その砂浜から森の中へと続く細い道に、船長は目ざとく気がついていた。
「もういいぞ、竜騎兵。クジラをあの砂浜につけてくれ。俺はあの道をたどっていく」
黙ったまま、ジャネットは言われた通りにした。
エリックが言った。
「ジャネット、僕たちはどうするの?」
すでにチビ介の背中から飛び降り、浅い水の中をジャブジャブと歩き始めていたが、船長が振り返った。
「おまえたちはXX島へ帰るんだろう? それとも俺と一緒に来るか? 道連れは歓迎するぜ」
エリックも見つめるので一瞬考えたが、ジャネットは答えた。
「もう一度シャチに襲われたのではたまらないから、私とエリックも陸を行くわ。チビ介は一人で帰らせることにする」
「じゃあ早く来いよ、竜騎兵。道はあそこに見えているぜ」
「いいえ、船長。あんたと同行はしないわ。あんたが森の中へ見えなくなってから、私たちは遅れて出発するわ」
「そうかい? なら好きにしな。俺は行くぜ」
船長は乾いた砂の上を歩き始めた。
ジャネットはチビ介から先に飛び降り、振り向いて、エリックが水に降りるのを助けてやった。
船長があの小道に近づく様子など、ジャネットは見送らなかった。
チビ介のまわりをぐるりと歩き回って、体に傷がないかもう一度調べたのだ。
小さな引っかき傷さえ見つからないことに驚いたが、さすがのランスロットも、チビ介を襲って食べる気まではそもそもなかったのだろう。
チビ介の左側に戻り、目の下を軽くかいてやってから、ジャネットは指示を出した。
『一人で竜騎兵指揮所へお帰り』
チビ介はすぐに理解して、体を動かし始めた。
家のドアほどもあるヒレをバタバタと動かすのだが、海底の砂に腹部をつけているので、ゆっくりとしかバックすることができない。
力をあわせて、ジャネットとエリックは押し戻してやった。
十分に深いところまでやってくると、チビ介はそれこそ『水を得た魚』のようだった。
体をひねってサッと向きを変え、尾びれの先を見せながら、大ワシのように水を大きくかき、波の下へと消えてしまった。
あとには波と泡だけが残った。
ジャネットと並んで、エリックも陸地へと歩き始めた。
「そうだジャネット、チビ介は本当にあんなことができるの?」
「あんなことって?」
「さっき船長に言ったことだよ」
「ああ、潜水服の中へ高圧空気を吹き込んで、中の人を殺すというやつ? できるもんですか。みんな出まかせよ。きっとチビ介は、船長の言うとおり竜騎兵指揮所まで安全に送り届けたに違いないわ」
「ふうん。船長はどこ?」
ジャネットは指さした。
「もうずっと向こうよ。あそこの水際ね。あそこで右に曲がれば、すぐに森の中だわ」
「つまり船長は、ついに沿岸警備隊から逃げおおせたというわけだね」
ジャネットはそれに答えようとした。
『ええ、運のいい男ね』とでも言おうとしたかもしれない。
だがその言葉が口を離れることはなかった。
異変に気づいたのはエリックと同時だったが、どちらも言葉を発する暇さえなかった。
その出来事はそれほど突然で、意外だったのだ。
ジャネットたちの前方何十メートルか、今しも森へ向けて進路を変えようと海に背を向けた船長の背後で、不意に水面が大きく盛り上がったのだ。
まるで東洋のやわらかな饅頭のように、水が丸く高くなったのだ。
だが山の頂上はすぐに左右に分かれ、中身が姿を現した。
ゴムのように黒光りのする物体だ。
波を切るために流線型をし、ヨットの帆のようなヒレが垂直に突き出している。
目の後ろには白い斑点が目立つ。
片目が失われているかどうかまではここからでは見えなかったが、ランスロットに違いない。
ランスロットはジャネットたちをつけていたのだ。
なんということだろう。
チビ介のいなくなった隙を突いて、さっそく攻撃してきた。
船長のいる砂浜へ向けて、ランスロットはロケットのように飛び出したのだ。
ランスロットは、浜に打ち寄せる波の力をうまく利用していた。
五トンの体をまるでサーフィンのようにして、乾いた砂の上へ勢いよく何メートルも乗り出していった。
ネズミを目の前にした猫のように、ランスロットの口は大きく開いていた。
とがった牙がぐるりと植えられている。
気配に気付いて、船長は直前に振り向いたが、もう何もかも手遅れだった。
ランスロットは船長を一噛みで捕まえた。
重力に引かれ、ランスロットはそのまま砂の上に落下したが、ドスンという音がジャネットたちのいるところまで聞こえてきた。
そばへ行って船長を助けるなど、もちろん問題外だった。
ジャネットたちが駆け出すよりも早く、ひねって体の向きを変え、次に押し寄せた波に乗って、ランスロットは海へ戻ってしまったのだ。
エリックとジャネットは、呆然と立ち尽くすほかなかった。
はっと気付いて見回した時には、水面を覆うかすかな泡のほかには、ランスロットの存在を思わせるものはもう何もなかった。
それほどの早業で、あの背びれすらもはや波の上に見えないのだ。
船長をくわえたまま深く潜ってしまったのだろう。
ジャネットはつぶやいた。
「ランスロットはそれほど空腹だったのかしら…。いいえ、目の仇を討ちにきたのね」
森の小道を進むのなら、ジャネットたちもあそこまで行かなくてはならない。
ジャネットとエリックはどちらからともなくその場所で立ち止まったが、船長がいたことを示すものは、もはやわずかな足跡だけだった。
それ以外には本当に何もなく、すべてが白昼の幻だったのだと思い込むことだってできそうだった。
船長の足跡は砂浜から森へ向けて進み、途中で少し乱れ、そしてその先は消えていた。
もう誰も船長の姿を見かけることはないだろう。
ため息をつき、エリックの手を引いて、ジャネットは森の道を歩き始めた。
幸い森のむこうには小さな村があり、駐在の警察官がいた。
犯罪などとは縁がなく、なんとも眠たげな村のことだから、身分を明かすと警察官は目を丸くしたが、事情を話して警察本部に知らせ、XX島へは大至急、船を送ってもらうことができた。
これでキャンプ場の人々はもう大丈夫だろう。
もちろん沿岸警備隊にも連絡を取った。
事情がややこしく、説明に手間取ったが、係員を派遣してもらえることになった。
海軍司令部への連絡は、結局一番最後になってしまった。
だが腹の立つことに、司令部の当直仕官は、キャンプ場の子供らの心配ばかりするのだ。
あの中に政府のお偉方の子弟がいて、ケガでもされたら大変なことになるというのだろうかとジャネットは想像した。
電話機のむこうで当直仕官は、やたら大きな声を出すのだ。
「スミス少尉、あの男の子は大丈夫か?」
「誰のことでしょうか?」
「決まっているだろう。ジョン・マスグレーブだ。マスグレーブ財務大臣の孫だ」
エリックの耳には届かないように、ジャネットは受話器を手で覆った。
「小柄な少年で、エリックというのがいます。この子はどこかの大物の孫ではありませんか?」
「エリック? ちょっと待ってくれ。ここにリストがある。ああ、エリックは自動車商の息子だ。特に有名でもないな。それよりスミス少尉、どうなんだ? マスグレーブ大臣のお孫さんは大丈夫なのか?」
ジャネットは少し考えた。
ジョンのあの青あざのある姿は、とても大丈夫とはいえないだろう。
だがジャネットも軍人、つまり税金で雇われている公務員なのだ。
処世術なるものが多少は身につき始めているのかもしれない。
「さあ? 私は三時間ばかり前に島を離れたので、よく様子がわからないんです。キャンプ場の管理人はフンメルという人ですから、連絡がつき次第質問してみてはどうですか?」
「ああそうか少尉、もっともな話だな。ご苦労だった」
電話を切り、ジャネットはエリックのところへ戻ってきた。
「ジャネット、連絡はついたの? 司令部から怒られなかった?」
警察官夫人が差し出してくれた茶を礼を言いながら受け取り、ジャネットは答えた。
「私は知らないわ。面倒くさい役はみんなフンメルさんに押し付けてきたの」
エリックは、子供らしからぬ長いため息をついた。
「ああジョンのことだね。ジョンのおじいさんは財務省の偉い人らしいから、海軍はかなり叩かれると思うよ。来年の予算も減らされるんじゃないかなあ」
「別にいいのよ、そんなこと。私の責任じゃないんだもの」
「ランスロットはすごいシャチだったね」
「だから私はシャチが大嫌いなのよ。あんなにとぼけた平和そうな顔をしているくせにね。私は確信があるのよ。シャチでもパンダでもコアラでも、とにかく見かけがかわいらしくて世間で人気のある動物は、いつもろくなもんじゃないわ」
「どうして?」
「表向きは草食ということになっているけど、パンダやコアラだって本当はわからないわよ。真夜中、誰も見ていないところでは集団で人を襲って、頭からバリバリ食べているかもしれないじゃないの。昼間、人の目があるところでは猫をかぶっているんだわ」
「ジャネットのクジラは猫をかぶっていないの?」
「かぶる必要がないのよ。マッコウクジラはシャチやパンダみたいに、いかにも愛らしい見かけじゃないもの。ぶくぶくした設計ミスの潜水艦みたいな形だわ」
「あははは」
大きな声を立ててエリックが笑ったので、ジャネットは心の底からほっとすることができた。
今日経験したことでエリックがひどいショックを受けているのではと、本当に心配していたのだ。
だがエリックの笑い声は屈託がなく、明るい。
ジャネットは急に空腹を感じ始めた。
考えてみれば、昨夜から何も食べていないではないか。
あの宿舎での夕食が、もう何日も前の出来事であるかのように感じられる。
警察官夫人がジャネットの前に料理の皿を置いてくれたのは、このときのことだった。
さっそくフォークを手にして、ジャネットはつつき始めた。
今回の事件で自分が何かの責任を問われることになるのか、ジャネットにはわからなかった。
自分のどこにどういう過失があったのかなかったのか、見当もつかなかったが、司令部の連中は重箱のすみをほじくりかえして、何か見つけ出すかもしれない。
だがそれは、また後で考えればよいことだ。
クジラたちと共に海を泳ぐことができるだけで、ジャネットは十分に幸せなのだ。
竜騎兵とはやりがいのある仕事ではないか。
それはそうと、ジャネットが今回、こういうことを経験する原因になったあのプロジェクトのことだ。
司令部の石頭ぶりにはあきれていても、あれが必要なキャンペーンであったことはジャネットも理解していた。
この文章を読んだあなたでも誰でも、とにかく一人でも、竜騎兵部隊への入隊希望者が増えてくれればいいのだが。