おんころ

文字数 7,933文字

『おんころ』という言葉をご存知だろうか。
 広辞苑によると、
「おこじょ。山の神の愛犬として狩人は害を加えない。やまの神のいぬころ」
 とある。
 どうやら山に住む神様は、ペットを飼っているようだ。



 田舎の家は大きく、内部は薄暗い。
 それが、都会育ちの筆者が子供の頃に受けた印象である。
 壁は白土で、柱は太い木材だがペンキも塗らず、囲炉裏の煙に触れた長い年月で黒く染まっている。
 家具は少なく、部屋が広いのでポカンとした感じがする。
 そういう田舎家には星子もなかなか慣れず、朝食のテーブルに座ってキョロキョロした。
 伯母はまたか、という顔をしたが、何も言わなかった。
 そのかわりに星子が口を開いた。
「ねえ伯母さん、昨日は話してくれなかったけれど、この家には犬がいるの?」
 椀によそった味噌汁を星子の前に置きながら、伯母は答えた。
「犬だって? なんておかしなことを言うのさ。そんなもの飼ってないよ」
「でも昨夜遅く、私の部屋へやってきたよ」
「あんたの部屋へかい? 真夜中に?」
「人なつっこい犬で、布団の中まで入ってきたわ。顔をなめるので目が覚めたの」
「あんたは寝ぼけたんじゃないのかい? この家には犬なんかいないよ」
「そうなの? 夢だったのかなあ」
「その犬とやらは、今朝もいたのかい?」
「ううん、目が覚めた時にはいなかった。形跡もなかったわ」
「ほらごらん。あんたは夢を見たんだよ」
「そうかなあ」
 だがあれは、夢とは思えないほどはっきりしていた。
 毛のやわらかさや、驚くほど大きな体格まで、星子ははっきり覚えていたのだ。
 毛の感触などは、まだ手のひらに残っていた。
 星子は都会生まれの都会育ちだが、夏休みを利用して、伯母の家に遊びに来ていた。
 星子には母がおらず、父と二人きりだったが、その父が夏の間、仕事の都合で海外へ出かけることもあり、静かで空気のよい田舎で過ごすことになったのだ。
 伯母の家は典型的な農家で、木造の屋根は藁でふいてあり、裏手には小川と山が迫る。
 南側には縁側があるが、何百メートルと続く青い田んぼに面し、戸を開け放つと、体のまわりを涼しい風が吹きぬけた。
 伯母はあんなことを言ったが、この日の夜にも犬は星子の部屋を訪れた。
 隣の家には智佐子という同じ年頃の少女がいて、星子はすぐに親しくなった。
 翌日、朝食を済ませるとすぐ、星子は智佐子の家の庭に駆け込んだ。
「ああ智佐子ちゃん、やっぱり昨夜も犬が出たよ」
 幽霊話でも聞かされたように、智佐子は目を丸くした。
「本当に? 怖くなかった?」
「怖くなんかないわ。私、ひそかに懐中電灯を用意して待ったのよ」
「どうして?」
「だって部屋の電気をつけたら、伯母さんや伯父さんに知られるもの」
「犬の幽霊が出たんでしょう?」
「幽霊なんかじゃないわ。部屋の中に気配を感じると同時に懐中電灯のスイッチを入れたの。その姿を見たときには、かなりびっくりしたけどね」
「どんな犬だったの?」
「手触りから想像したよりも、はるかに大きかった。ものすごく大きい」
「どのくらい?」
「よくわからないわ。町でも見かけないサイズね。だけど犬には違いないのよ」
「どんな格好をしてた?」
「ススのように真っ黒で、前足は熊の手のように太く丸々としているの。長く裂けた口の中はザクロの実のように赤くて、尖った牙がいくつも並ぶのよ。思わず悲鳴が出そうになったけど、結局出なかったわ」
「どうして?」
「悲鳴に先回りして、犬が私の顔をペロリとなめたからよ。そんなことされちゃ、悲鳴なんて出ないわ」
「それだけ?」
「うん、それだけ。すっかり安心して、私はまた眠った。もう一度目を開いたら朝で、カーテンの隙間から明るい光が差し込んでいたわ」
「へえ」
「だけど前の日と同じように、朝になったら犬の痕跡なんか、やっぱり部屋の中には何もないのよ。毛の一本ぐらい落ちててもよさそうなのに」
「不思議ねえ。伯母さんたちには話したの?」
「ううん、また笑われたら嫌だもん。それにね、伯母さんも伯父さんも何か隠してるという気がする。私が犬の話を出すと、二人の様子が変になるのよ」
「どんなふうに?」
「ごく些細な変化だけどね。どうやら伯父さんも伯母さんも、あの犬の話題は口にしたくないみたい」
「ねえ星子ちゃん、その犬の話から、私は変なことを思い出したよ」
「なあに?」
「この村の山奥に、山犬神社というのがあってね」
「山犬?」
「山中に住む恐ろしい犬よ。悪魔のように凶暴なんだって。真っ黒な体で、どこのどんな犬よりも大きいそうよ。山犬神社には、その絵が飾ってあるわ。それをいま思い出したの」
「へえ」
「連れて行ってあげたいけれど、ごめんね。今日は私、家の手伝いをしなくちゃならないのよ」
「ううん、いいのよ」
 智佐子から道を聞き、星子は一人で出かけた。
 石ころの多い田舎道を歩き、山へ向かって道はだんだんと狭く、上り坂になった。
 途中で少し迷いかけたが、日がすっかり高く、体中から汗がふき出す頃には神社の鳥居をくぐることができた。
 本当に山の中で、人気の感じられない場所だ。
 日陰に入ると、すっと汗が引く。
 こんな奥深い山中には誰もいないと思ったが、背後に足音を聞いて、星子は振り返った。
 今までどこにいたのか、年老いた女が姿を現したのだ。
 この老女が歩くと、足の下で砂利が音を立てる。
 その同じ音で、老女も星子に気がついた。
 だが老女は目が見えないのだ。杖を頼りにしている。
 老女が口を開いた。
「誰か? そこに誰かいるのかい?」
「うん私よ。おばあさん」
「私とは誰だね? 声に聞き覚えのない子じゃが」
 星子は自分のことを説明した。
 星子の舌足らずな話し方がかわいいのか、老女は一言ごとにうなずく。
「それで、都会から来た星子さんが、なぜこの神社に来なすった?」
「この神社には、大きな犬の絵があると友達から教えてもらったの。どんな絵だろうと思って、見に来たのよ」
「その絵ならお嬢ちゃん、ほれそこにあるはずじゃ。わしの目にはもう見えんが」
「どこ?」
「本殿の入口の上にあるよ。よく見上げてごらん。木の板に描いてあるじゃろう? 多少は色あせておるかもしれんが」
「ああ、あれ? うわあ、本当に大きな絵ね。木の板に描いてあるなんて、思わなかったわ」
「そりゃあ絵馬じゃもの」
「ねえ、あの犬の絵は誰が描いて、あそこに飾ったの? 何のため?」
「誰が描いたかは知らんよ。何世紀も前のことかもしれん。しかし、なぜ描いたかはわかるよ。あの御犬はこの神社の神様なのじゃから」
「山犬神社?」
「そうそう。この神社は山犬様をお祭りしておるんじゃ」
「その山犬様というのが、よくわからないの」
「この山中に大昔からいなさる神様じゃ。恐ろしい神様でな。人でも獣でも、出会ったものは、たちどころに食い殺してしまうそうな」
「怖いのね」
「そうでもないさ。山の奥の奥にいなさるから、出会うことはまずない」
「でも山で働く猟師やきこりは出会うんじゃない?」
「猟師もきこりも、山犬様のいる深山までは決して足を踏み入れない。大昔からそうしてきたし、今でもそのいましめは守られておるよ」
「へえ」
「あんた、山犬様の耳に気がついたかい?」
「あの絵のこと? ええ、片方の耳がないわ。どうして?」
「どうしてかは知らんよ。娘時分にわしも同じ質問をしたが、村の年寄りも理由を知らなんだ。とにかく山犬様には、右耳がない」
「ふうん」
 布団の中でなでたあの犬の耳はどうだったか、星子は思い出そうとしたが、よくわからなかった。
「おばあさんは、この神社に住んでいるの?」
「住み込みの管理人じゃからな」
「本殿に住んでいるの?」
「まさか、そんな罰当たりな。向こうに小さな家が見えているじゃろう? あそこさ」
「へえ」
「そうじゃ、おかしなときにおかしなことを思い出すものじゃな。お嬢ちゃん、あんたは怪談は好きかね?」
「ええ好きよ」
「じゃあ一つ話してやろう。こういう日の暑気払いにはよいかもしれん」
「幽霊のお話?」
「幽霊ではない。だがわしがぞっとしたのは事実じゃ」
「話して。聞きたいわ」
「ようし。では石段に腰かけよう。足が疲れた。あんたも隣に座るがいい」
「うん」
「あれは数えれば今から12年前、わしの目がまだ見えていた頃さ」
「ええ」
「日に一度、わしは本殿を見回り、掃除をした。目が見えなくなってからは、毎日はできなくなったがね。とにかく、その頃はそうしたのさ。そしてある朝、本殿の祭壇で見つけた」
「祭壇って?」
「神様を祭るための立派なテーブルさ。見せてやりたいが、鍵がかけてあり、今は本殿の中へ入ることができない。年に一度、祭りの日に開くだけだね」
「へえ」
「その朝、わしが祭壇で見つけたのは、切り取られたばかりの人間の耳だったよ」
「耳って?」
「耳は耳さ。あんたにも二つあろう? まるで捧げ物のように、耳は祭壇に置かれていた。誰かが切り取り、夜中のうちに置いたのさ」
「それはどんな耳だったの?」
「刃物など使わず、明らかに力任せに引きちぎったものだ。さらに驚いたのは、それがまだ小さな赤ん坊の耳だったことだよ」
「赤ちゃんの耳?」
「ピンクの肌はつやつやして、シジミ貝のように小さくかわいらしかったよ」
「残酷だわ。誰がそんなことをしたのかしら?」
「誰かは知らんが、なぜしたのかは、わかるような気がするね」
「どうして?」
「山犬様は恐ろしい神だが、その家来になり、強い神通力で守ってもらえる方法が一つだけあるのだよ」
「神様が人を守ってくれるの?」
「お祈りをして、守りと保護を求めるのさ。もちろんタダじゃない。貢ぎ物が必要になる」
「山犬様に何を捧げればいいの?」
「さっきの絵を思い出してごらん。山犬様は右耳がない。だから自分も右耳を切って捧げれば、山犬様の子となり、末永く守ってもらうことができるのさ」
「本当なの?」
「さあね。わしはそう聞かされただけで、本当に効果があるかどうか…。だけど12年前、それを信じて耳の捧げ物をした者がいたということさ。生まれて間もない赤ん坊の右耳をちぎりとってね…」
 老女との話を終え、星子は村へ帰ることにして、一人で山道を降りていった。
 老女は名残惜しそうにしたが、星子には気付く余裕もなかった。
 頭の中をある考えが占領していたのだ。
 普段は髪で隠れているが、星子の右耳は欠けていた。
 でこぼこした山道を歩きながら、手を伸ばして触れた。
 ごく幼い頃、赤ん坊だった頃の傷だ。
 星子の右耳は、力任せに切り取られたのだ。
 星子は、母親の顔を見たことがなかった。
 幼い頃に死に別れ、まったく記憶にない。
 母はただ死んだというだけで、詳しい事情は父親も話さず、星子も不満に思っていたが、父にしつこく質問する勇気はなかった。
 父は病弱で、神経質でもあり、今では唯一の家族でもある。星子もあまり負担はかけたくなかった。
 夏の太陽は、まだ真上にかかったばかりだ。
 今日は一日、伯父も伯母も遠くの畑へ出ると聞いていた。
 星子は昼食代を渡されていた。
 村の店でパンを買って済ませるつもりでいたのだ。
 田舎のパン屋とは要するに何でも屋で、菓子や飲料、雑貨品まで扱っている。
 季節には、盆の灯篭まで売るところもある。
 パン屋の向かいに家があり、男が縁側に腰掛けていた。
 興味を感じ、パンを口に運びながら、星子は近寄った。
 山の猟師らしく、男は銃の手入れをしていた。
 銃はすでに分解され、掃除のための道具がまわりに置かれている。
 星子の視線に気付き、男は口を開いた。
「お嬢ちゃんは、銃を見るのが珍しいのかい?」
「うん、町では見たことがないもの」
「そうか、町で銃を持つのは銀行強盗ぐらいか?」アハハと猟師は機嫌よく笑った。
「ねえおじさん、こんな田舎では、怖い事件なんか起こらないでしょう?」
「ああ、人の多い都会とは違うな」
「そうよね」
「いやいや、ちょっとお待ちよ。12年ほど前だが、この村でわしも恐ろしい事件にぶつかった」
「事件?」
「お嬢ちゃんの耳に入れる話ではないがね」
「いやよ、聞きたいわ」
「いいのかい? 気持ちのいい話ではないよ。今夜、眠れなくなっても知らないよ」
「ううん、大丈夫よ」
「そうかい? まあせっかく言いかけたのだからね。獣に襲われ、喉笛を噛み切られた女の死体がこの村で見つかったことがあってね…」



 この夜遅く、犬は三度目に星子の部屋を訪れた。
 もちろん星子は待ちかまえ、懐中電灯のスイッチを入れると、すぐに犬の耳を確かめた。
「ああやっぱり、あんたも右耳がないのね」
 犬は親しげに、星子の手をペロリとなめた。
「だけど変だわ。あんたの耳の傷は古いものではない。直ってから月日が立っていない感じね…。あっごめん。痛かった? もう触らないからね」
 両腕を伸ばし、星子は犬の体を包み込んだ。
「本当に大きな犬だわ。さぞかしいっぱい食べるんだろうな…。ねえあんた、あんたは深山の山犬様じゃないよね。大きいけれどただの犬よね。神様が私のひざに頭を乗せて、こんなに甘えるはずないもん…。えっ、どうしたの? どうして立ち上がるの? どこへ行くの?」
 首輪に手をかけていたので、つられて星子も立ちあがった。
「あれあれあんた、鼻でふすまを器用に開けるのね。どこで習ったの? 驚いたわ」
 気がつくと、犬と共に星子は廊下に出ていた。
 家の中は暗く、懐中電灯の光以外は何もないが、それでも静か過ぎるような気がした。
「伯父さんや伯母さんは、ぐっすり眠っているのかしら? だけど寝息も聞こえないなんて変だと思わない?」
 犬の背中をぽんぽんとたたき、星子は伯母たちの部屋を目指した。
 部屋の前に立ち、まずふすまに耳を押し当てたが、本当に何の気配もない。まるで空き部屋のように静かだ。
 音を立てないようにそっとふすまを押し開けたが、やはり部屋の中は空っぽだった。
 布団は二枚敷いてあるが、誰もいないのだ。
「おかしいわねえ。二人ともどこへ行ったんだろう?」
 犬がクウンと鳴き、星子を強く引いたのは、この時だった。
 手近なヒモを見つけ、首輪に結びつけて、星子は犬をつなぐことにした。
 犬は嫌がらず、されるままになった。
「ねえあんた、そんなに引っ張って、私をどこへ連れて行くの?」
 犬が言葉を話すはずはない。
 だが星子の手を引くのだ。
 廊下を歩くうちに勝手口まで来たので心を決め、星子は犬に従った。
 犬は土間に降りたので、星子も靴をはいた。
 夜の空気はひんやりとしていた。
 街灯のない田舎の夜は本当に暗いが、懐中電灯を頼りに星子は歩いた。
 自信のある様子で、犬は手を引いた。
 家の裏手は、そのまま山へ通じていた。
 足元はすぐに石のゴロゴロした山道に変わったが、星子の手を引き、犬は力強く登った。
 昼間なら、このあたりも星子にはよく知った場所だった。
 村へ来た最初の日に、智佐子に一通り案内されたのだ。
「ええっと、この先には何があるんだっけ? そうか、古い洞窟があるんだわ」
 いつの頃からか、山の岩壁に洞窟が口を開いていたのだ。
 人が入れる十分な高さがあり、奥行きも深く、古代には人が住んだのかもしれない。
 星子は犬の耳にささやいた。
「あんたはあの洞窟へ行こうとしているの?」
 だが返事はなく、犬は振り返って星子の手をペロリとなめただけだ。
 犬に連れられ、なんとなく足音を忍ばせながら、星子は洞窟の入口を入っていった。
 前方に光が見えた。
 耳を澄ませると、話し声も聞こえてくる。
 それが伯父と伯母の声だとわかるのに、時間はかからなかった。
 まず伯母が言った。
「今夜こそ、今夜こそ大王丸は仕事をするんだろうね」
 伯父の声がそれに答えた。大王丸とは、この犬の名のようだ。
「今日一日、ほとんど何も食わせてない。大王丸のやつ、猛烈に腹が減っているさ。目に付けば、人間の子供だろうがなんだろうが、見境なく襲いかかるさ」
「だけど昨日、一昨日と、どうして失敗したんだろうねえ」
「それが俺にもわからねえ。ほれ、おまえが盗んだ星子のハンカチな。あの匂いを俺はしっかり大王丸に嗅がせた。もともと猟犬だったんだ。匂いの元をたどり、襲いかかるのは得意のはずなんだがな」
「耳を切り取って、山犬神に見えるよう細工までしたのにね」
「この村の連中はみな迷信深いからな。星子を殺した後、大王丸の姿を2、3人に目撃させりゃ、みな深山の神とやらのせいになる。オカルト殺人事件の出来上がりさ」
「本当に、同じやり方で12年前には大成功したものね。あの時はうれしかったわあ」
「12年前のただ一つの誤算は、うまく殺せたのが母親だけで、赤ん坊だった星子を殺し損ねたことだ」
 伯母は大きくうなずいた。
「あの女は金持ちのお嬢様だったからね。持参金もすごかった。あたしの弟は病弱だから、ほっておいてもいずれくたばる。今だって、仕事で海外にいることになってるが、それは表向きで、実は病院にいるのだよ」
「入院しているのか?」
 と伯父は目を丸くした。
「大きな手術を受けるんだが、星子を心配させないために、海外へ行ったとウソをついたんだとさ」
「へえ、そうなのかい。まあいいさ。今夜こそ大王丸はちゃんと働くだろう。そろそろ戻ってくる頃だから、オリの用意をしておこうかい」
「そうだね。あたしは警察署へ走って、せいぜいうまく演技しよう。『朝になって気がついたら、姪が血まみれで死んでいた』とね。大金を手に入れるためだもの。それぐらいは頑張るよ…。ああ、あたしたちはなんて幸運なんだろう。金持ちだが身寄りのないあんな娘が親戚にいるなんてさ」
「ああ、そうとも」
「だけどあんた、もしもだよ。もしも万が一、深山の山犬神が本当にいてさ…」
「何を言い出すんだ? 迷信深い村の年寄りじゃあるまいし、そんなものが実在するはずない」
「だけど気になるじゃないか。考えてもごらんよ。12年前、あたしたちがけしかけた犬に追い詰められ、星子の母親は、こともあろうに山犬神社へ逃げ込んだんだよ」
「それがどうしたい?」
「犬のキバにやられ、母親は深手を負ったが、その後何をしたか思い出してごらんよ。母親は、我と我が手で星子の耳を引きちぎり、山犬神の祭壇に捧げたじゃないか」
「だからどうした?」
「その後、母親は事切れたが、赤ん坊だった星子はどうだい? 犬のやつめ、母親の喉笛を噛み切った血まみれの姿のまま、星子をあやして、顔をなめていた。まるで、かわいくて仕方のないわが子のようにしてさ。星子は星子で犬になつき…」
「あん? おまえは一体何が言いたいんだ?」
「大昔からの言い伝えは、もしかしたら本当かもしれないよ。ほら、年寄りたちがよく言うだろう? 右耳をちぎって祭壇にささげた者を、山犬神は神通力で終生守るとさ」
「アホらしい。冗談も休み休み言えよ」
「そうだよねえ。今の世の中に、神だの神通力だの、ありえないねえ。おや、洞窟の入口から何か聞こえなかったかい? 大王丸が帰ってきたのかね?」
 これらの会話を、星子はすべて聞いたのだ。
 呆然と立ちつくしたが、それも長い間のことではなかった。
 この犬がなぜ自分を襲わず、それどころか守り神のように寄り添うのか、理由がわかったのだ。
 深山の山犬神とは、この世に存在するすべての犬を自在に操る神なのだと、星子は確信した。
 かがんで、首輪に結びつけたヒモをほどきながら、星子は犬にささやいた。
「さあ大王丸、洞窟の奥へ行っておいで。行って、私のお母さんの仇を取っておいで」
 牙を輝かせ、もちろん犬はサッと駆け出し、その姿は岩と岩の間に見えなくなった。
 その直後、星子の耳に恐ろしい断末魔の悲鳴が届いたのだ。
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