犯罪買います

文字数 3,329文字

 なぜ私が、いつもこうして部屋の中を薄暗くしておくのかですって?
 ええ、私だって明るく照明された部屋が嫌いなわけではありません。
 でも、こうしておくことにはちょっとした理由があるのです。
 なんていいますか、トラブルを未然に防ぐために自然に身についた予防法というようなものですかね。
 ある夕方、アパートの部屋で私がのんびり一人でくつろいでいると、トントンとノックの音が聞こえました。
 来客の予定はなかったし、誰だろうとドアを開けたのですが、そこには見たこともない若い娘がいるではありませんか。
「佐藤太一郎さんですね」
 と彼女は言うのです。
「いいえ、違いますよ」
 と答えながら、私は彼女を観察したことでした。
 年齢は20歳そこそこというところでしょうか。
 上品な身なりをし、化粧も派手すぎず、決していやな感じではありません。
 でも私の返事を聞いて、彼女はひどく困った顔をしました。
「あら困ったわ。どうしましょう…」
「その佐藤さんとやらがどうかしたんですか?」
「私が聞かされた住所が古かったんだわ。もうどこかへ引っ越してしまった後なのですね」
「ええ、私の前にこの部屋に住んでいたのは確かそういう名前の人でしたよ。残念ながら転居先は聞いていないが」
「それは本当に困ってしまいました」
 彼女は表情を暗くしています。
「何をお困りなんです? 私でよければお手伝いしましょうか?」
 少しの間ためらっていましたが、私にうながされ、彼女は口を開きました。
 彼女の名は江口敏子というのですが、祖父がいて、それがなんとあの有名な銀行強盗犯の江口剛三であると聞き、私がどれほど驚いたかは想像がつくでしょう。
 彼女は話を続けました。
 彼女によれば剛三は実は無実であり、まったくのぬれ衣で逮捕され、裁判にかけられてしまったというのです。
 何しろ白昼堂々と銀行に押し入り、居合わせた8人を全員射殺して、大金を奪って逃走したという事件ですから、日本中で話題になりました。
 そしてご存知の通り警察に逮捕され、受けた判決が死刑だったのです。
 祖父の犯罪について孫娘が述べているのだからある程度割り引いて聞く人がいるのは承知で言いますが、敏子によれば剛三は正真正銘の無罪なのだそうでした。
 軍隊にいた時代に射撃の経験があり、事件のあった銀行のすぐ近くに住んでいて、しかも当日は家の中に一人でおり、アリバイを証明できなかったのが悲劇の元だったのです。
 しかも死刑判決はすでに確定しており、いつ執行されても不思議はありません。
 今この瞬間も、刑務所の中で最期の日を待っているのです。
 執行を防ぐために敏子に可能なことは、ただ一つしかありませんでした。
 その助けになりそうな人がこのアパートに住んでいたのですが、今日こうやってたずねてみると、すでにどこかへ引っ越していった後だったというのです。
 身の上を話しているうちに感情が激してきたのでしょう。
 目には涙がひかり、その様子は、純粋に祖父の命を心配する若い娘のものとしか見えませんでした。
 私の口から次のような言葉が出たのも、不思議なことではないと思います。
「そういう事情ならお嬢さん、この私でも少しはお助けできるだろうと思いますよ」
「本当ですか?」
 顔を輝かせる彼女の表情はとても愛らしく、思わず抱きしめたい気持ちになりましたが、もちろん体は動かさず、私は話し続けました。
「あなたがたずねてきた佐藤なる人物がどれほどのものをあなたに売ることができたのか、もちろん私にはわかりませんが、それによっておじいさまの死刑執行が延期され、寿命が延びるのはせいぜい半年ほどのことだったのではありませんか? ケチな詐欺やユスリか何かだったのでしょう?」
「ええ、半年でも難しかったでしょう。石を投げて交番のガラスを割ったというだけの軽犯罪ですから、せいぜい数週間だったと思います」
「それではただの器物破損ですからな。裁判には時間はかからない」
「私はそれでもよいのです。祖父の命をたったそれだけでも永らえることができるのであれば」
「しかし私がお手伝いすれば数年は固いでしょう」
 振り返り、物入れの引き出しを開け、私は小さな品物を取り出しました。
 それを手のひらの上に置いてやったとき、彼女がどれほど驚いて目を丸くしたことか。
 それも無理はないと思います。
 光を受けてきらきらと輝く、人差し指の先ほどの大きさのダイヤモンドだったのですから。
「このダイヤは何なのですか?」
 彼女は少し声を震わせていたかもしれません。
「6年前のことですが、ある宝石店の金庫が真夜中に破られ、保管されていたダイヤモンドが何個も、まるで煙のように消えてしまった事件をご記憶ですか?」
「ええ。ずいぶんと話題になりましたから。たしか銀座で起こった事件で、犯人はまだ捕まっていないのでしたね」
「捕まるどころか、警察は手がかりすらつかんでおりません」
 と、こう言ったときの私の声は誇りに満ちていたに違いありません。
「ではあなたが犯人なのですか?」
 私はうなずきました。
「ええ、そのダイヤはそのとき盗んだものです。一つぐらい差し上げてもかまわないでしょう。すぐに警察へ持ってお行きなさい。おじいさまの部屋のタンスの底に隠してあるのを見つけたと言うのです。おじいさまはもちろん再逮捕されるでしょう。事件のファイルが倉庫から引っ張り出され、再検討され、おじいさまは起訴され、裁判が始まるでしょう。法廷でおじいさまがどう証言するべきかは、私がいろいろとアドバイスしましょう。地方裁判所、高等裁判所、最高裁判所と3つの法廷が開かれるのです。すべて終わるには早くて5年、もしかしたら15年以上必要かもしれません。その間、おじいさまの死刑執行は停止されるのです」
 ダイヤを大切そうにポケットにしまい、何度も何度も礼を述べて、彼女が帰っていったのはいうまでもありません。
 彼女も私もこの『犯罪の売買』について値段を決めるのを忘れていたことに後になって気がつきましたが、私は気にもしませんでした。
 さて、この後がどうなったのか、あなたは気になりませんか?
 自分の目で見たわけではありませんが、私には大体の想像がつく気がします。
 おそらくこんな具合だったことでしょう。
 私のアパートを離れ、しっかりした足取りで、娘はさっさと歩いていったことでしょう。
 あの涙はとっくに乾き、鼻歌ぐらいは口ずさんでいたかもしれません。
 通りをいくつかへだてた場所に自動車を駐車し、彼女の同僚か上司の男が待っていたことでしょう。
 ドアを開けて彼女を迎え入れ、男が口を開きます。
「どうだった? うまくいったか?」
「はい部長」
 と彼女は答えます。ポケットから取り出して『ダイヤモンド』を見せたのはいうまでもありません。
 2人とも声を立てて笑い、エンジンをかけて男は自動車を動かし始めたことでしょう。
 行き先はもちろん警察署です。
 私服を着ていますが、2人ともれっきとした警察官なのです。
 そうです。あの宝石店の事件で、犯人ではないかと以前から警察は私を疑っていました。
 それは私も感じていました。
 でもいくら疑いが濃くても、証拠がなくては私を逮捕することはできません。
 だから警察は一芝居打つことにしたのです。
 祖父の死刑執行を一日でも引き伸ばすためにちゃちな犯罪を買い集めている孫娘というものをでっち上げ、私をペテンにかけようとしたのです。
 盗品のダイヤを私がおろかにも差し出すように仕向けたのです。
 でも私は何も心配していません。
 警察署に戻った彼らは、今ごろ歯がみをして、地団駄踏んでいることでしょう。
 私が彼女に渡したものはなんの証拠にもならないからです。
 私が部屋の中をつねに薄暗くしておく理由がここにあるのですよ。
 光が足りないせいであの娘も、私から手渡された物が、そっくりに作ってはあるけれど実はただのガラス製のまがい物に過ぎないとは気がつかなかったに違いありません。
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