悪筆家

文字数 1,912文字


 小学校に入学した瞬間から、柳井竹郎をある困難が待ち構えていた。
 この困難は竹郎に一生ついてまわり、苦しめ続けると思われた。
 何とかしようと本人も努力したが、報われなかった。
 ついに竹郎は、一生をこれと一緒に生きていく覚悟を決めた。
 竹郎の書く文字はそれほど汚く、読みにくく、独創的だったのだ。
 小学校に入学してイロハを習い始めた瞬間から、それは花開いた。
 教師はもちろん、同級生の誰一人として、竹郎の書いた文字を読むことができなかったのだ。
 イロハですらそうなのだから、学年が進んで漢字を習うようになると、事態はさらに絶望的になった。
 試験を受けても、竹郎の書いた答案は誰一人解読できなかった。
 家族だけは何とか読むことができたが、それでも紙をにらみながら、1行に1分以上かけてのことだった。
 もちろん竹郎本人はすらすらと読むことができた。
 彼には、こんなにもわかりやすい文字を読みにくいなどと評する他人の言葉がまったく信じられなかった。
 それでも竹郎は小学校を卒業した。
 頭のよい子供だから、図書室にある本は卒業までにあらかた読み終えていた。
 計算も早く、大人たちが手を焼く割り算でも、暗算で簡単に答えを出すことができた。
 そんなわけだから特別に筆記試験を免除されて、竹郎は中学に入学を許された。
 3年後、竹郎は一番の成績で中学を卒業した。
 ところがこの先が問題だった。
 いくら頭が良くても、誰にも解読できぬ文字を書く者がつける職業など存在するのだろうか。
 このころXX市当局は、ある問題に悩まされていた。
 運転免許証の偽造が市民の間に横行していたのである。
 ちょうど自動車が一般に普及し始めた時代で、免許を取得する者も増えていた。
 だが、わざわざ試験場まで出向いて受験するのも面倒だ。
 手っ取り早く偽造品の免許証に手を伸ばす者も多かったのだ。
 問題を大きくしたのは、この偽造免許証が非常に精巧で、本物とまったく見分けがつかなかったことだ。
 紙の質、手触り、印刷の仕上げなど、二つ並べてもまったく区別できない。
 これに警察は手を焼いたのだ。
 市内を実際に走行している自動車の数から推計して、運転者たちが所持している免許証の3割が偽造品であると考えられるにいたっては、何らかの手を打つ必要があった。
 そんなおり市内で交通事故が起こり、子供がはねられてケガをしたのだが、はねたのが偽造免許証の持ち主で、はねられたのがある外国領事の息子であり、外交ルートを通じてその国から正式に抗議が寄せられたとなれば、もう一刻も猶予はなかった。
 竹郎が中学を卒業したのが、ちょうどそういう時期だったのだ。
 竹郎の悪筆は市内では有名で、これを聞きつけた市当局が彼を雇い入れる気になったのも自然なことかもしれない。
 翌週から、市職員の制服を着た竹郎が電車に乗って市役所に通勤する姿が見られた。
 配属先はもちろん運転免許課だ。
 竹郎の仕事は、かなり多忙なものだった。新しく発行される免許証、年数が来て更新される免許証のすべてに竹郎が直筆でサインをするのだから。
 それが、偽造防止のために新しく採用されたシステムだったのである。
 やり方は簡単だが、効果は高かった。
 偽造品は日に日に減っていき、数年立つとまったく見られなくなった。
 仕組みはこうだ。
 例えばあなたの名前がタナカ・カズオだとする。
 するとあなたの免許証の余白に薄い赤インクを用いて、竹郎の手書きでタナカ・カズオと書き込まれるのだ。
 例のごとくまったく判読できぬ文字なので、どれがタなのかナなのか、1時間眺めていてもわからない。
 この時代にはまだカラーフィルムが存在せず、薄い赤色で書かれた文字を写真に撮り、それをもとに印刷用の版下を作るのは不可能だった。
 仮に何かの工夫をこらして版下を作成しても、免許証の所有者は一人一人名が違うわけだから、一人ずつにそれぞれ違う版下を用意しなくてはならない。
 それでは金がかかりすぎ、とてもじゃないが偽造の儲けは出ない。
 偽造業者たちは次々に廃業していき、結局、試験に合格して正規の免許証を手に入れるしか方法がないというところに落ち着いたのである。
 あれから数十年たち、もちろん今では免許証に竹郎のサインなど書かれてはいない。
 竹郎は定年を迎え、先年退職したところだ。
 技術が進み、免許証の偽造を恐れる必要がなくなったこともある。
 今でもXX市の市民たちが感謝とおかしみを込めて、運転免許証のことを『竹郎名札』と呼んでいるのは、こういうわけなのだ。
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