ep.35 翡翠の扉(9)

文字数 4,130文字

 一刻か、二刻か。
 どれだけ時間が経過したのか。
 軽く空腹を覚えはじめて青が顔を上げると、

「うわ!」

 斜め前の椅子に腰かけ、こちらを眺めているキョウがそこにいた。
 仰け反った勢いで手元に重ねてあった本が机上に崩れる。

「い、いつからそちらに」
「半刻ほど前から」
「ご用件がおありでしたら、声をかけて下さればよかったのに…」

 何故こうも毎回、キョウには驚かされるのだろう。崩れた本を元に積み上げながら、青は懸命に呼吸を整えた。

「博識な人は、みな同じような本の読み方をするんですね。文字と格闘しているような」
 積みあがる本を眺めるキョウが、どこか楽しそうに呟く。

「俺に勉強を教えてくれる友人も、同じように本に齧り付いてるんですよ」
「そんなに必死に見えていましたか……それよりも、ご用件があったのでは。良いんですか、せっかくのお酒の席を抜け出したりして」

 青は少し強引に、話題を逸らした。

 凪隊の面々は今ごろ、任務成功を祝し宿で酒盛りでもしているはずだ。底抜けの水瓶と謡われる峡谷上士が不在では、酒豪な隊員たちが寂しがっているのではないか。

「二師に、お願いがあって参りました」
「お願いですか?」
 隊員たち用の二日酔い薬でも用立ててほしいのかと、青は軽い調子で応じた。

 が、

「シユウ二師」
「……峡……」

 改まる物言いのキョウの面持ちに、冗談の色は無い。
 思わず青は口を噤んで上背を引いた。

 幼い頃から変わらない、不可思議な吸引力のある眼光に呑み込まれかけて、抵抗するように青は額当ての下で目を細める。

「凪の西方進出に、貴方の力を貸していただけませんか」
 机上に置かれたキョウの拳が、強く握られた。

「え」
「長印直命を拝命しました。俺はこの先、西方進出に関連した多くの任務を主導していく事になります」
 キョウの低い声が、胸郭へ響く。

「それは――」
 青は息を飲み込んだ。

 長印直命――長自らが金印を押印した任務依頼を、長より直々に命じられる事を指す。
 特級任務の更に上に類する、国の威信に関わる重要度を持つ任務。

 かつて藍鬼に下された麒麟奪還の任務も、これに類する。

「なぜ今、凪が西方進出を目論んでいるのか、分かりますか」
「……っ」
 口を開き掛けて、青は思いとどまった。

 西へ旅立った藍鬼。
 西からやってきたチョウトクの東雲中士。
 そして西に消えたであろう麒麟、禍地(かじ)。
 青に思いつく事柄は全て、青個人の範疇でしかない。

「近年、炬之国、稲之国の内情不安が高まりつつあるのは聞いたことがあるでしょう」

 返答を躊躇う青の瞳を真正面から見つめながら、キョウは話を続けた。

「覚えてますか。炬之国の、州侯の陽乃姫を」
「狂言を企てた……」
「あれから父君侯が暴動を起こされて失脚し、一家離散だそうです」
「えぇ?!」

 声がひっくり返ってしまい、青は慌てて覆面の上から手で口許を覆う。

「炬はここのところ国内情勢が不安定で、俺も何度か炬へ赴きましたが年々、治安が悪化しているように見えました」
「……そう、ですか……」

 青は声を落とした。
 お騒がせの姫君に若干の同情を寄せつつも、驚きが勝る。

「稲之国では、凪の州侯と姻戚関係による稲側の一族の謀反騒ぎを発端に内紛が起きている。颶(ぐ)之国と維(い)之国は静かなものですが、噂ではそれぞれが、不可侵としていたはずの光と闇の里の併合を狙っているとも聞きます」

 颶之国は風、維之国は地の賢人が其々建立した神通祖国に含まれる二国だ。

「五大国の均衡が崩れれば、地理的に最も危うい状況にあるのは凪です」

 五大国は五弁の花のごとくおおよそ五角を描いて配され、凪はもっとも西側に位置している。
 北側に稲、南側に炬。
 対局にある東側に颶と維が南北に並び、更に光の里と闇の里が極東の南北それぞれに位置している。

 凪は西方と東方の強国らに挟まれているとも、表現できた。

「凪を八方塞がりに陥らせる事は、何としても避けなければなりません」

 そのためにも、西方を背水とする分けにはいかない。
 それが、凪の長が西方進出を決断した理由だ。

「それで…、ぼ、私は何をすれば」
 西方進出に力を貸してほしいというその意味を、青はキョウに尋ねる。

「……その」
 それまで真っ直ぐに正面から見つめてきたキョウの玉水のような色の瞳が、ふいに逃げるように斜めに逸らされた。

「また指名を受けて下さると、有難いです。えーっと…ご都合の良い、範囲で」
「……え??」

 思わず青は声を裏返した。
 人を呑むように見据えてきたかと思えば、急に要求が奥ゆかしくなる。
 その落差に肩透かしを喰らった。

「ふ……」
 何だか可笑しくて、青は覆面の下で小さく笑いを漏らす。

 青の反応に気づいたか、キョウの瞳が再び正面に戻った。
「おかしかったですよね…恥ずかしながら、以前、朱鷺一師に怒られた事がありまして」
 珍しく言葉に切れ味が無い。

「一師に?」
「技能師は表の顔での仕事が忙しい人もいるのだから、あまり気安く呼びつけるなと」
「ふはっ」

 今度は我慢できずに噴き出してしまい、慌てて青は両手で覆面の上から口を塞いだ。
 それでも胸から湧き上がる苦笑を抑えることができず、顔を伏せて背中を丸めた。自分も怒られた経験があるからこそ、より可笑しい。

「そんなに笑わないで下さいよ……」
 キョウには珍しい、情けない声が降ってくる。意外な一面の連続に情報処理が追いつかない。

「す、すみません、一師らしいなと思って。私もよく叱られ……」

 顔を上げようとして、できなかった。

 医院で見舞った時の朱鷺の姿を思い出し、額当てで隠した目許が熱くなる。

「二師?」
 頭上からキョウの心配する声が掛けられたが「何でもない」が声にならなかった。

「………」
 応接室の空気は、再び静寂に沈む。

 青が顔を上げるまで、キョウは隣で静かに待っていた。



 任務成功の土産を携え、それから再び一週間をかけて一隊は凪へと帰還した。
 季節は春の終わりから、初夏の雨期へと入ろうとしていた。

 七重塔の講堂に集められた一隊は、出迎えた長に労いと賛辞の言葉を賜る。

「これは凪にとって歴史的な一歩となるであろう」
 との長の言葉通り、五大国の中で西方の古國との転送陣設置協定を結んだ初めての国となったのだ。

 この一歩が、凪へ新たな出会いをもたらす事となるが、それは少し先の話である。 


「青センセイ、おはようございます」
 青が実に約一月(ひとつき)ぶりに三葉医院へ出勤すると、医院の従業員たちは「いつも通り」だった。

 まるで昨日もいたかのように、自然と「日常」の時間へと青を戻してくれる。
 ただ一人、三葉医師を除いて。

「大月君!! 待ってた~~~~!!」

 青の姿を見つけるなり劇的な再会とばかりに駆け寄り、袖を掴んで拉致。
 長期入院患者の中には、青の言う事ならよく聞くという子どもや高齢者もいて、出勤した青の最初の仕事は、そうした患者たちを巡回するところから始まった。

 検査の間ガマンできずに動き回る子ども、頑なに薬を飲みたがらない老人、偏食の激しい患者などなどが、不思議と青の指導の元では従順になるのだ。

「私すぐ怒っちゃうからダメなのよねぇ」
「三葉先生の愛の鞭が好きだという患者さんも、たくさん知ってますよ?」
「物好きしかいないって」

 木造の長い渡り廊下を二人で並んで歩きながら、午後の業務予定を確認しあう。

「あら?」
 渡り廊下の本館入口付近で、三葉医師は見知った顔を見つけて声を引っ繰り返した。

「サイロー君じゃないの」
「サイロー?」
 手元の資料から顔を上げた青にも、長身の影が視界に入る。

 キョウこと峡谷豺狼上士が、珍しい軽装姿でそこにいた。
 どうやら三葉医師による「キョウちゃん」呼びは卒業したらしい。

「どうしたのよ」
「健診に来いってしつこかったの、三葉センセイでしょ」

 任務中には見る事のない「峡谷上士」のくだけた雰囲気。通り過ぎる法軍人の患者たちが、珍し気に振り返っていく様子が、青の視界からはよく見えた。

「そうでした。予約は午前中だったわね。もう終わったの?」
「さっきね。お陰様で今回も健康優良児です。大月君も、久しぶり」
「はい、お元気そうで」

 会釈を向けられて、青は自然に笑顔で応えた。
 つい二日前まで共に任務に出ていたのだが、技能師五年目ともなれば人格の使い分けも慣れたものだ。

「三葉センセイ、大月君ちょっと借りてもいい?」
「良いけどすぐ返しなさいよ。んじゃね!」

 さっぱりとした軽口を残して、三葉医師は本館の診察室に向かい去っていった。医院の跡取り院長は多忙なのだ。

「中庭の方に移動します?」
 渡り廊下は人の往来が盛んだ。青が背後の中庭に続く遊歩道を示すと、キョウは青の体越しに中庭の方を見やるが、
「聞かれて困る話でもないから、ここで」
 すぐに視線を青へ戻した。

「前に西方への任務が続くかもしれないって話をしたと思うけど」
「そう、でしたね」

 蟲之区での勉強会で翡翠はじめ西方の国々について共に学んだ、その時だ。

「本格的に、凪を離れる事が多くなりそうなんだ」

 翡翠での任務成功が、凪に西への扉を開いた。
 長の直命を受けたキョウが、凪の西方進出の鍵となるのだ。

「戻れる時にはできるだけ戻りたいとは思うんだけど……勉強会や訓練の事が…」
「またいつでも、式を送って下さい」

 青は笑顔で応えた。
 キョウの面持ちからふっと力が抜けたように見えた。

「いつも都合を合わせてもらってごめん。大月君との勉強会は俺にとってはすごく貴重な機会で」

 単刀直入な物言いが多いキョウだが、何でだかいつもより言葉選びに慎重さを感じる。

「それを楽しみに、必ず還るから」
 泳いでいたキョウの瞳が、再び青へ向き直る。
 冬の薄氷のような色の瞳が、いつもの意志の強い光を宿していた。

「懲りずにまた付き合ってくれると、嬉しく思う」

 覚悟を決めた瞳へ、青は「はい」と深く頷く。
 そして、

「ご武運を」
 これまで避けていた祈りの言葉を、正面から口にする事ができた。

 もう、待つことしかできない恐怖を抱く必要はない。

 ――誰かを助けるためにも、力は必要

 医院を去るキョウの背中を見送る間、思い出すのは、朱鷺の言葉だった。
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