ep.25 蟲之勉強会

文字数 7,875文字

 夜が明け、負傷者を運びながら慎重に帰路を進むこと更に一日。
 一色上士が隊長を務める匪賊殲滅任務隊が都の大門へ帰還すると、例によって式鳥の通報を受けた医療班が待ち構えていた。
 それぞれへ負傷者を引き渡して見送り、最後に隊長から一同へ労いの言葉がかけられ、解散号令をもって、任務は幕を下ろす。
「朱鷺一師、シユウ君」
 解散号令後も大門前広場に残る隊員たちの間を抜けて、蓮華が青と朱鷺の元へ駆け寄った。
「蓮華二師」
「今回の任務、手を貸して下さって本当に助かりました」
 蓮華のお辞儀とともに、白い外套がふわりと風になびく。
「いいえ…二師は、さすがの手腕…でした」
 朱鷺面がこくりと首を斜めに頷いた。ふふ、と紅をひいた蓮華の唇が、嬉しそうに口角を上げる。
「シユウ君もありがとう。良い仕事したわね」
「え」
 虚をつかれて青は肩をびくつかせた。青本人は反省点ばかりが頭を駆け巡っており、褒められるとは思いもよらなかったのだ。
「私も一師のマネして、シユウ君みたいに若くて可愛い男の子を付けたくなっちゃった」
「え」
「……」
「また任務で一緒になれたら嬉しいわ。では一師、失礼します!またお会いしましょう」
 青と朱鷺、それぞれに笑みを手向けて、蓮華は軽い足取りで踵を返していった。白い外套の背に背負った鞄の膨らみが、往路と比べて薄くなっている。
「顔見えないから…可愛いかどうか、分からないのに…」
「そこですか」
 二人の毒術師は並んで、蓮華を見送った。大門前広場はまだ賑やかしい。女子隊員たちが子狐たちとの別れを惜しんでいて、楠野が「いいかげんにしろ」と迷惑そうな顔をし、その隣で一色が苦笑いしている。
「さて…私たちも…そろそろ解散、しましょ」
 おもむろに朱鷺の面が、青を向いた。
「あの、一師、」
「シユウ君」
 別れる前に礼を言いたいと口を開きかけた青の声を、朱鷺が遮った。いつもよりも少し、声が低い。
「は、はい」
 無意識に青の背筋が伸びた。
「君には…まだ、伝えたい事がある…だから」
 またね、と言い残して、朱鷺の外套が翻った。裏地の淡桃色が瞬間、視界を横切る。
「え、それって、一師!」
 呼び止めようとした時にはすでに、朱鷺の姿は消えていた。辺りを見渡しても姿を見付ける事はできない。
「「またね」って事は…?」
 青はその場に立ち尽くす。
 二度目を見た子はいなかったわね
 との蓮華の言葉が思い出された。
「認めてくれた、のかな」
 嬉しい。
 全身に巡っていたぬるい疲労感が、その瞬間に全て押し流された。
「次に会うまでに、訊きたいこと全部まとめとこ!」
 そうと決まれば、脱力している時間は、無い。「よし」と気合を入れて青は駆け出した。

 法軍寮に荷物を置いて簡単に風呂と着替えを済ませ、大月青の姿で向かった先は蟲之区。
 資料室の窓際に並ぶ机席の一つに腰を下ろし、手帳を開く。白紙の頁へ、思い浮かぶ事を片っ端から書き出した。
 調合で行き詰まっている点、製薬のコツ、新薬案の構想、毒を応用した罠や符や式の構想などなど。この数ヶ月間、任務や蟲之区での独学を通して蓄積された疑問や構想、現時点で毒術の最高峰にいる存在へぶつけたい事を、余すことなく書き連ねる。
 大月青として一度、シユウとして一度、計二度。朱鷺の手腕を目にする機会の中で、青が最も興味をそそられたのは、毒と神通術を組み合わせた応用力だ。たった二度、いずれにおいても異なる術で、朱鷺は毒を効果的に使っていた。
 青にできるのはまだ、根の瘤に毒を仕込む事だけだ。
「何か…そこに僕の糸口がある気がするんだよな…」
 神通術を不得手とする青へ藍鬼から授かったのは、術の「威力」ではなく「制御」によって効果を発揮すること。この意識付けによって術の発動速度を上げ、連続発動数を増やし、異属性術の連続発動の成功率も格段に上がった。
 だがそれだけでは、ただ器用なだけで戦いの場においては役に立たないのだ。
「…また後で考えよう」
 行き詰まった思考をいったん中断させ、青は席を立つ。
 蟲之区へ足を運んだ二つ目の目的である「シシグニ」について、そして凪の国外の国々について調べるため、書架を散策した。地理、歴史に関する資料や書物が並ぶ棚を見上げ、目ぼしい背表紙を見つけて上棚へ手を伸ばす。
「これ?」
 後ろから伸びた誰かの手が、青の手を軽々越えて分厚い本を引き出した。
「あ…はい、ありがとうございます、え」
 背後の気配を振り返ると最初に青の視界に入ったのは、晴天の澄んだ天色の髪と瞳。
「キョウ…峡谷上士」
 キョウさん、こと峡谷豺狼だった。
「や。ケガはもう平気?」
「おかげさまでもう大丈夫です」
 高いところにある端整な顔へ、青は笑みを向けた。
「良かった。本、他には?」
 天色の視線が棚の上部を示す。体躯の造りの差に同じ男として嫉妬を抱きつつ、
「では、その両隣の本と、右端の三冊と…あとこの上下巻もついでにお願いします」
 親切に甘える事にした。
「助かりました、ここに来るといつも脚立が必要だから」
「大月君、昔は体より本の方が大きかったよね」
 懐かしいなあと好青年の笑みを浮かべ、キョウは軽々と大判の図鑑を片手に重ねていく。
「ハハハ」
 青は乾いた笑いで応えた。
「身長の割に手と足が大きいって三葉先生にも言われたので五、六年後には追いつく予定です」
「っははは」
 青の児戯のような負け惜しみに、キョウは笑いを声にした。
「それって犬とか猫の話なんじゃないの」
「僕のささやかな希望を打ち砕かないで下さい」
「ゴメンね」
 資料室に二人分の失笑が重なる。お互いに、冗談なんて久しぶりに口にした。笑った事で頭や肩を締め付けていたような緊張感が解れた気がする。
「ここ良いかな。相談したい事があって」
 ここ、でキョウの指先が、本を積んだ青の席の向かいを指した。
「僕に…ですか?もちろんです」
 ふと辺りに目をやると、遠巻きに幾人かの士官がこちらの様子を気にしていた。十中八九、キョウを見ている。法軍内において、天才と名高い彼を知る者は、多い。だが外野の気配を気にもとめずキョウの視線は、机に積まれた本にあった。
「資料の顔ぶれを見ると、世界地理とか、外つ国について調べようとしてる?」
「はい」
 図星だった。
「凪の外について知りたくなって」
「俺も」
 キョウは青の向かいの席に腰を下ろし「ただ」と机に積まれた本の一冊を手に取った。
「俺あまり学校に行かなかったから、勉強のしかたが分かんなくて」
 適当に頁をめくって、文字の羅列を指で辿る。
「任務の資料とか、地図とか、覚えろと言われたら記憶術で叩き込めるけど。知りたいと思った事を、どう調べたり勉強して良いか迷ってたんだよね。大月君に会えたらいいなと思ってここに来たら、本当にいたからさ」
「僕に…」
 意外な申し出に青は目を丸くする。
 七歳からすでに下士として身を立てていたキョウにとって、学校教育を経験した年月は二年に満たなかったのだ。
「昔、大月君がおっきな図鑑を抱えて、食らいつくように文字を読んでた姿が印象に残ってる」
 頁の文字を辿っていたキョウの指が、止まる。
「この子は戦ってるんだなって思った」
 向かいの席から天色の瞳が、まっすぐに青を見据えていた。
「戦ってる…?」
 青は黒曜の目を瞬かせた。そんな事を言われたのは初めてであったが、妙に腑に落ちる表現でもある。知識の吸収に貪欲で、追い立てられるように毎日、本を読んでいた。
「さっきも、果し状でも書いてるのかなって勢いで書き物してたから、いつ声をかけようか待ってたんだよね」
 射抜くようなキョウの目が、ふっと笑みの形に細められた。張り詰めかけた空気が、緩む。
「い、いつでも声をかけて下されば良かったのに」
 無意識に止まっていた息を、再び吐き出す。青も席について本の一つを手にとった。
「俺が声をかけると、いつも驚かしちゃうでしょ」
「あ~…」
 初めて蟲之区で出逢った時、薬包作業中に至近距離からキョウに声をかけられた事を思い出す。あの瞬間にキョウを「きれいなお姉さん」だと思いこんだのだ。
「集中するといつも周りが見えなくなってしまって…それにしても、峡谷上士はどうして外つ国について学ぼうと?」
 苦い思い出を押しのけて、青は強引に本題を切り出す。
「凪の外での任務が増えてきたからってのが第一かな」
「国外任務…」
 法軍人が国外へ出向く任務には、いくつか種類がある。
 要人や商人の護衛。国抜けをした者の追跡、抹殺。軍事力を持たない国への戦闘能力の提供、例えば他国間の戦への部隊派遣。などなど。
 国内問題から外交的要件まで幅広く、共通して言える事は難易度が高く、長期任務である事が多い。
「……」
 青の胸をよぎるのは、藍鬼。
 長い任務に出る事になった。
 そう言い残し、彼は戻らなかった。
「大月君?」
「あ…すみません」
 キョウの声で我にかえる。誤魔化すように手元の本の表紙を開いた。本の題名は「世界地理概要」。巻頭に世界地図が折り込まれていた。
「勉強のやりかたといっても僕も、特にコツがあるわけではないのですが」
 青の勉強法は「とにかく頭に詰め込む」この一言に尽きた。取捨選択に悩む暇があれば、とにかく片っ端から本を読み、頭に入れる。その時は理解できなくてもいい。後々の経験が、頭に詰めたただの「情報」を「知識」へ熟成させてくれるのだ。
「初等学校の恩師が教えて下さったのは、一緒に話し合ったり、教え合ったりした事は、興味が広がるし、記憶に残りやすいんですよ」
 小松先生の指導方針だ。ひたすら詰め込む勉強以外に、学校ではトウジュとつゆりの三人で宿題や試験勉強をした思い出が色濃い。会話の中から新しい興味が生まれてよく脱線する事もあって、勉強法としての効率は落ちるかもしれないが、大好きな時間だった。
「へぇ、一緒に、ね」
 まだピンときていない様子のキョウとの間に、青は世界地図を広げた。
 世界地図といっても不完全で、一部の辺境や国交が皆無な国や地域は白紙状態だ。諜報部が作成した軍用地図であれば詳細の記載があるが、今の段階ではこの情報量で十分であろうと判断する。
「例えば…いま興味のある国名や地名って、この中から見あたりますか?」
「んー、そうだな…」
 会話のきっかけはこうだ。
 そこからお互いに地図を指しながら、話題に出た地域に関して本や資料を紐解いて深堀りし、会話の中で生じた疑問や不明点を書きとめ、さらにまた別の書籍や資料を引いてくる―それをひたすら繰り返した。
 その過程で青が「シシグニ」について知り得た事もあった。
 シシグニは字を「獅子國」と書くが「獣ノ國」との表記もある。その名の通り、獣血人や獣人、半獣人らが人口の過半数を占める。
 凪之国ら神通祖国らとは異なる「古國」と称され分類される国々があり、獅子國はその一国にあたった。古國とは、神通術と異なる古来固有の術法や力を有する国々の総称で、近年において五大国との国交を深めつつある国もあれば、独立独歩を維持する国もある。
 キョウいわく「国外任務が増えてきた」が意味するのは、キョウ自身の実績上昇に伴う任務の範囲拡大という側面の他に、五大国が神通祖国以外との一部国交を推進する外交的要因の側面もあった。
 諜報部による資料の一片によれば、獅子國は古國に分類される国々の中でも歴史が深い文字通りの旧国であり、国を司る血族達を頂点にした専制政治、完全なる階層社会構造となっているようだ。長い歴史の中でたびたび内紛が発生しては制圧、統一されてきている。
 青がこのくだりを目にしたときに、国を抜けて凪へ逃げ延びてきた三人の中士達や賊の頭目の、逼迫した実情の一端をほんの少し、理解できたような気がした。
「何年か前に任務で一緒になった下士が「シシグニ」出身だと言っていたけど、この事だったのか…」
 キョウも資料の文字列を天色の瞳で追いながら、思う所あるように何度か深い息を吐いていた。
「この資料によると獣血人は姿を変化させる事ができるみたいだけど、その任務の時は特にそういう事もなかったな。俺が見ていなかっただけかもしれないけど」
「あまり大っぴらにしたくなかったのかもしれませんね」
 おそらくは隊長が誰であるかの違いだろうと、青は思った。
 賊殲滅任務では元訓練所の教官である楠野がいたからこそ、獣血人の中士たちは、その力を存分に発揮する事ができたのだ。

 このようにして、互いに様々な話を交わしながらの「勉強会」は、あっという間に時間が過ぎていった。気づけば窓の外の空の色が変わっている。
「あ、いつの間に」
 先に我に返ったのは、キョウだった。
「申し訳ない。俺、明日は早朝から任務が入ってるから、そろそろ」
「本当だ…すみません、遅くまで引き止めちゃって」
 青も顔をあげて外を見る。外界の暗さと、そして机上の散らかり具合に驚いた。
「後片付けは僕がするので、先にお帰り下さい」
「いやいや。片付けるまでがお勉強、でしょ」
「あはは」
 昔、小松先生から言われた「帰宅するまでが任務です」を思い出し、青は吹き出した。今日はいつになく笑う回数が多かったように思う。
「今日はありがとう。勉強になったし、楽しかった」
 書籍を巻数通りに重ねながら、キョウは満足げに笑った。
「こちらこそ。貴重な任務のお話などしていただいて」
 青のこれはお世辞でもご機嫌取りのつもりでもなく、実際に楽しいものだった。法軍人として経験値の低い青にとって、任務経験豊富なキョウの口から語られる体験談はどれも新鮮で興味深かった。
 勉強のしかたが分からないとキョウは謙遜したが、頭の良さと回転の早さに遅れを取るまいと始終、青は必死だった。気がつけば、喉が酷く乾いている。
「僕はまだまだ経験不足だなって、感じます」
「…あのさ」
 重ねた本を持ち上げたキョウの瞳が、またまっすぐと青を見ていた。
「初めて会った時の事、覚えてる?工房で」
「そう、でしたね」
 知らず知らず、青の上半身が後ろへ逃げるように引く。
 キョウの眼光には独特の力があると、青は思う。
 きれいなお姉さんと思い込んでいた幼い頃も、同じ。見惚れるというより、蛇に呑み込まれそうなカエルの気分だった。もし敵として対峙したならばと、一瞬でも想像しただけで、背筋が凍る。
「友達のために、飲みやすい味の薬を作ってたよね。お菓子みたいな味の」
 苦い薬が苦手だと言っていたつゆりのために、甘い飲み薬を作っていた時の話だ。
「よく覚えてますね、きなこ味でした」

 痛かったり苦しい時に、もうそれ以上ちょっとでも嫌な思いなんてしたくないでしょ
 苦しい時に心がこもってるのが伝わると、それだけで嬉しいよ

 あの日、三葉泰医師―タイに反論したキョウの言葉が去来する。
 あの頃のキョウはすでに下士として任務をこなしていた年齢だった。任務中の怪我や病気に苦しんだ経験から、素直に口から出た想いなのだろう。
「大月君は、その頃と今も変わってない」
「え?」
「いつも一生懸命でさ。俺はそういう人を尊敬するし、好きだよ」
 最後に泰然とした微笑みを見せて、キョウは本の山を抱えて踵を返した。



 瞳を丸くする青の視線を背中で感じながら、キョウは書架へ向かう。
 キョウにとってもこれは、青へのお世辞でも慰めのつもりでもなかった。
 現に、三葉医院に運び込まれた経験のある任務仲間の間で、青は評判が良い。
 解呪が完璧で影響が全く残らない。
 とにかく何においても丁寧に対応や処置にあたる。
 傾聴の姿勢。
「三葉の姉御、美人だけど荒っぽくて怖ぇからさ~、こっちが弱ってる時にああいう丁寧に扱ってくれる医療士がいると泣けてくるんだよ。あれが女の子なら満点なんだが」
「俺は三葉の姉御に発破かけられると気合入るけどな」
「なんだその性癖」
「テメェこそ」
 キョウの任務先の野営地で聞こえてきた、酒を呑む野郎たちによる「どこの病院の誰が優しいだの美人だの」そんな下世話な会話から、それだけではない、尊敬する先輩上士からも「三葉医院にいる若い医療士に腕の良い奴がいる」という話を聞いていた。
 あちこちから思わぬところで「大月医療士」の名前を耳にして以来、蟲之区での懐かしい記憶が蘇った。
 国外任務が増えてきた機に世界地理や歴史について学ぼうと思い立ったのも、頭の片隅に青が浮かんでいたからであると言えた。戦いを挑むかのように本と向き合っていた姿が、それほどに印象的でもあった。
「もっと、自信を、持てば、いいのに」
 分厚い図鑑を一冊ずつ棚に戻しながら、独り言を一言ずつ吐き出す。
 任務経験の差は単に内勤と外勤の勤務形態の違いであって、自嘲するべき事ではない。
 戦いを専業とする法軍人の中には内勤者や後方支援を軽視する傾向にある者もいるが、それこそ恥ずべき事で、キョウが最も軽蔑する人種の一つだ。
「そういえば…」
 書架間を移動しながら、もう一つ思い出した。
 国抜け斡旋組織の殲滅任務にあたった滴の森にて。青と少女が都へ送り届けられた後に、朱鷺から、青が少女を護るために命を張って戦ったとも聞いた。賊二人を仕留めたのは、毒針だった。
 十年近く前の南の森にて、行方不明になった青の捜索任務で目撃した光景と重なる。三日間も飲まず喰わずで弱っていたはずの幼い青が、一人で妖獣を倒していた時も、使われていたのは毒針だった。
「今度そのあたりも聞いてみるか」
 本や資料を全て書架へ戻し席へ戻ると、ちょうど青も机上の筆記用具や紙類を片し終わったところだった。
「片付けさせてしまってすみません」
「良かったら、また声かけてもいいかな」
 キョウの申し出に青は「え」と心底驚いたように口を開ける。
「何だか学校みたいで楽しくてさ」
 任務と訓練と休息の繰り返しの日々の中において、活字と議論の蟲になる時間も良いものだと、キョウは心から思った。
「はい、ぜひ!」
 破顔した青の声が弾む。任務しか知らない自分との会話を楽しんでもらえたのなら良かったと、キョウは心の隅で安堵を覚えた。
「良かった」
 と頷いてからキョウは「あ」と思い出す。
「とか言ったけど、今度いつここに来れるか分からないから、式を飛ばすよ。明日から国外へ長い任務に出ることになったから―」
「え…」
 見るからに、青の面持ちが曇った。
 気を悪くしたかと焦ったが、そうではない、何か心の琴線に触れてしまったような反応に見える。
「…どうしたの?」
「……」
 反応が鈍い。
 今日はこれで二回目だ。
 一回目は国外任務が増えた話をした時。
 二回目の今は、国外へ長期任務に赴く話をした。
 こちらに向く青の瞳が、揺れている。
 心配しているというよりは、誰かを思い出しているのだ。
 自分を通して、過去の誰かを見ている。
「大月君?」
 上半身を傾けて、机越しに手を伸ばし青の肩を叩いた。
「あ、いえ、すみません、式、承知しました」
 ようやく青の瞳が「キョウ」を認識して、ぎこちなく微笑んだ。
「長期任務、ご武、お気をつけて」
 明らかに「ご武運を」と言いかけて、言葉を切る。法軍人の間で「ご武運を」は「お疲れ様」と共に日常的な労いの挨拶だ。
 誰か大切な人を、殉職で亡くしたのだろうか。
 国外への長期任務と言っても、要人警護で数度往復するために時間がかかるだけで危険度は低い―なんて事を言い出せる空気ではなくなってしまった。
「ありがとう。じゃ、また」
 青の異変に気づかないふりをして、キョウは手を振って青へ背を向けると、蟲之区を後にした。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み