ep.24 夜戦

文字数 9,461文字

 夜襲に備えた作戦が両上士から指令され各自が準備に動く中、二人の毒術師は薄闇の中にいた。
「あれ、何してるんだ」
 行き交う中士や准士たちが、ふと足を止める。
「隊長の命で罠を張ってるらしい」
 彼らの視線の先では、若い毒術師が地面を這うように両手を地につけ動かず、その隣で外套に全身を隠した朱鷺面の毒術師が不気味に佇んで様子を見守っている。
「五か所目、できました。確認をお願いします」
 若い毒術師―青が地面から手を離して顔を上げると、入れ替わるように朱鷺が地面に片手をつく。しばらくの静寂の後、
「はい、良いでしょう…」
 頷いて手を離し数歩、移動する。
「次は…あの辺り」
 と藪を指さす。
「分かりました」
 同じように数歩移動して、青が再び地面に両手を沿える。
 それを繰り返すこと計十回。青の顔色に少しの疲労が見え始めた頃。
「うん…大丈夫…これで、誘導罠は…完成」
「良かった…ご確認ありがとうございました!」
 朱鷺の頷きを見て、青は安堵の息を深く吐き出した。指示に沿って正確な位置に毒罠を仕込む必要があり、一箇所ずつ朱鷺の確認を挟みながらの作業はさながら試験を受けているようで、緊張し通しだった。
「一師、次は何を」
「こっち…」
 黒いホオズキの後をついて行くと、老いた巨木にたどり着く。乾いてひび割れた木の皮が鱗のように幹を護っている。成人数人が腕を回しても届かないほどに太い幹の前に立ち、朱鷺は高枝を見上げる。天に向かって手を広げた腕のように、太枝が四方八方へ伸びていた。
「一…」
 呼びかけて、青は口を噤んだ。老木を見上げたままの朱鷺を、静かに見守る。聞こえない、見えない対話をしているかのように、微風が両者の間にそよいだ。
 風が止まる。外套の中から差し出された朱鷺の手には、透明の液体が入った硝子瓶。蓋を開け瓶を一振り。液体が宙に迸る。
「水神…玉」
 朱鷺が仮面の下で小さく唱えると、飛沫が意思を持ったように宙で寄り集まり、水の球を形作った。
「紅雨(こうう)」
 次の唱えと共に朱鷺の手が幹に触れると、水の球も老木へと吸い込まれて消える。
「?!」
 慌てて青も手を幹に添え、目を閉じる。樹に触れる掌に意識を集中させると、内部の水流が目に見えるように感じ取れた。朱鷺が流し込んだ液体が、幹を通り、枝へ抜け、樹冠全体から梢まで、隅々へ広がっていく。
「これで…よし」
「一師、今の液体は」
「鯱(しゃち)脅し…」
 凪の法軍では一般的な痺れ毒の名だ。
「一師、用意できましたよ」
 声がかかり振り返ると、盆を持つ蓮華の姿があった。盆の上には猪口や湯呑みが総員数分並んでおり、いくつかは伏せられている。
「どれでも良いので一杯、飲んで下さい。シユウ君もね」
「いただきます…」
 早々に朱鷺が盆に手を伸ばし、背を向けて杯を煽った。
「私が作った防毒薬だから信用して良いわよ」
「も、もちろんです、頂戴します」
 青もならって手早く飲み干した。無味無臭で喉の引っかかりもなく、飲みやすい。後でコツを聞いてみようと思いつつ、空杯を盆に戻した。
 薬術師や毒術師は任務において常に、解毒と防毒に関する薬を持参するものだ。法軍で汎用的に使われている薬もあるが、高位の毒術師や薬術師を任務に伴う事の利点には、汎用薬ではなく高品質もしくは任務内容に応じた高効果なものが提供される、というものがある。
「二人が罠に精通しているおかげで助かったって、隊長たちが話していましたよ」
 傍らの老木を、蓮華も見上げた。
「そう…それは良かった…」
 朱鷺の面が、ちらりと青を見やった。三人の間を生温い微風がそよいで、白い外套の裾を揺らす。
「おかげで、予定よりも早く帰還できそうです」
 紅を引いた蓮華の唇が微笑みを作る。
「ではまた後ほど」
 そして盆を手に軽やかに踵を返し、天幕の方へと戻っていった。

 夏を迎えようとする季節にも、森の夜の闇は濃い。霞がかった月明かりが木々の間を縫うように野営地を照らしている。
 いくつかの天幕が焚火を囲むように点在し、焚火の前には交代制の見張り番がついていた。中士二人と准士一名が、時おり小声で会話を交わしている。一見して平常を装った夜営の様子を見下ろせる杉の高枝に、朱鷺と青の二人はいた。
 隊長、副隊長両名の読み通り本当に夜襲はあるのだろうかと、初体験となる状況に青は落ち着きなく眼下へ視線を散らしている。
「シユウ君…は、神通術…得意、なの…?」
 夜の鳥の声に交じり、朱鷺の微かな声が青の耳に届いた。
「え、術?ですか」
 唐突な問いかけに驚いて、あやうく手を滑らせるところだった。
「いえ…僕は、神通術全般が不得手なんです」
 青は小さく苦笑を漏らした。質問の意図は分からないが、とりあえず正直に答えておく。誤魔化したところで見透かされる。
「そう…?毒罠では…うまく…使えてたけど…」
 長い嘴が振り向く。狭い枝影に二人で身を潜めているために、嘴が青の顔に当たりそうになるのだ。
「本当ですか、ありがとうございます」
 思わず声が弾んで、青は覆面の上から口元を手で覆った。今は作戦遂行中なのである。
「でも、神通術自体の術力、火力は弱いんです」
 青は肩を縮めて、声を潜めた。学校時代も級友たちに比べて術の修得が遅かった事、今は基本的な神通術は使えるようになったものの、戦いの場においては使い物にならない事など、嘘偽りなく話す。
「ふうん…なるほど…ね」
 朱鷺の面は、まっすぐに青を向いていた。
「……?」
「…あのね、」
 少しの沈黙を挟み朱鷺が発しかけた言葉を、
「うわっ!」
 野営地にいる隊員の声と激しい水音が、掻き消した。
「!」
 辺り一帯が闇に落とされる。
 野営地に灯していた焚き火が何者かによって消された。おそらくは森の闇に潜んでいた何者かによって、水術が使われたのだ。暗闇の中、野営地の内と外周から同時に多人数が移動する気配が蠢いた。
「ぎゃっ!!」
 藪の中で、野太い悲鳴が上がる。
「うがっ、ぁあ!」
「ぐあっああ!」
 立て続けに数か所から声が上がった。
「いい感じ…」
 青の隣から、朱鷺の低い呟きが漏れる。闇の中で悲鳴の連鎖は緩やかに蛇行しながら、近づいていた。青が朱鷺の指示で仕掛けた罠を踏み、避けようとした賊たちが気づかぬうちに誘導された場所、そこは―
「炎神、紅気!」
 楠野の号令。直後、暗闇に炎の帯が巨大な半円を描いた。照らし出されたのは、巨大な老木を中心に開けた剥げ地と二十数人ほどの黒装束の賊達の姿。
「!!」
「しまった…!」
 おびき寄せられた。
 気付いた幾人かが踵を返しかける。そこへ、
「地神、蠢動」
 地に両手を添える一色の唱えと共に、一帯が揺れた。地の蠢きは巨大な老木の根から太い幹を伝い、梢に至るまでを震わせ、葉脈にまで行き渡った毒を一斉に放出させた。
「ぐっ!」
「な、体が…!」
 時が歪んだかのようだった。老木が放出した痺れ薬を吸った賊達の足が、手が、体が動きを停止させる。倒れ込み動けなくなる者、赤子のように這いずる者、辛うじて動ける者、毒物の耐性ごとに反応は様々だ。
「殺れ!」
 一色、楠野両上士の号令で、身を隠していた准士、中士達が飛び出し、動きが鈍った賊達を仕留めていく。
「うわぁ…お見事です」
 高枝から眼下を眺め、青はただただ感嘆の息を漏らすしかなかった。
 雲類鷲中士ら三人の嗅覚は正しく、隊長らの判断は的確で、朱鷺と蓮華の薬の効果は覿面。
「すごいですね一師、いてっ!」
 頬を紅潮させて朱鷺を振り向くと、黒い嘴でこめかみを小突かれた。
「まだ…」
 面の奥から、警める目が鈍く光った。
「頭目が…まだ…」
 朱鷺の言葉は正しいと、直後に判明する。
「クソッ!」
 前衛の惨状を前に、賊の後衛が引き始めた。一人が背を向けると連鎖的に、我も我もと引き返そうとする。取り逃がすものかと中士や准士たちが追随した。
「!」
「ぐあ!」
 突如、稲穂色の風が横切った。霞が取り払われた月光の下、賊数人と中士や准士を巻き込んで木々と藪が横薙ぎに払われる。木っ端と粉塵の煙幕の向こうに姿を現したのは、金色の獣。
「あれは…!」
 その場にいた誰もが空を見上げ、動きを止めた。高枝の上の青は身を乗り出して、後ろから「危ない」と朱鷺に襟を掴まれる。
「頭!」
 賊たちがそう呼ぶのは、大狐。その大きさは、いつか青が森で遭遇した猪の妖獣を彷彿とさせた。稲穂色は月光を受けて金色に輝き、しなやかな四つ足に鋭利な爪、天を指す耳、そして何より目を引くのは巨体よりも更に大きな尾。
「でけぇ…!」
「狐の妖獣か?」
 准士の誰かが上げた声に、
「いいえ」
 小鞠中士が応えた。
「尾が単一です。あれは妖狐ではありません。それに…」
 小鞠が指摘した通り、雲のように巨大な尾は、一本。妖獣に分類される狐は、尾が二又以上に別れているものと定義されている。九又になると妖魔に類される。
『敵前逃亡は許さぬ!』
 咆哮の代わりに、狐が発したのは人の言葉だった。
 鼓膜を震わす声が衝撃波となって電波する。散り散りになりかけた賊どもがことごとく、体を強張らせてその場に固まった。
「ウ…ぐ…」
 黒い装束から見え隠れする目はどれも虚ろで、意思の光を宿していない。
「やはり…!獣血の…」
 目端を顰めた雲類鷲が駆け出す。地を蹴り大鷲に姿を変え、大狐の眼前に飛来した。気を逸らさせた隙に熊へ変化した檜前が、負傷者を踏みつけようとする大狐の片足に体当たりをして噛みつく。
『ギャァア!』
 甲高い女の悲鳴のような咆哮を上げ、大狐が地団太を踏んだ。大狐の足踏みを搔い潜るネズミが小鞠中士に姿を戻し、倒れた中士を担ぎあげる。同様に人間の姿に戻った雲類鷲も、気を失った准士を背負って大狐の足元から逃れるべく駆け出した。
「もういいぞ!」
 二人の合図を受けてヒグマも人の姿となり、風術で身をひるがえして大狐の爪から逃れる。
『グゥ…ッ!まさか他にも同胞がいたとは…』
 月光を反射して、狐の眼が金色に光った。
「俺達も、シシグニの出の者」
 檜前は負傷者を背負った二人を背に庇いながら、大狐に対峙する。
「同胞のよしみとは言わないが…投降する気は無いか」
『フン…ずいぶんとご立派な家畜になったこと』
 憎々しげに吐き捨てて、大狐は巨大な尾を振る。一振りするごとに大木が破裂し、岩が砕け飛んだ。
「凪之国法軍上士、楠野だ」
 砂利や木っ端交じりの風を避けながら、楠野が前に出た。負傷者を背負った雲類鷲と小鞠は後方へ。
「楠野教官」
 三人の元教え子へ「任せろ」と言い残し、楠野は大狐を見上げた。
「お前が頭か。外つ国より凪へ流れて、法軍に身を寄せていたのだろう」
 大狐の口吻が歪み、白い牙が歯ぎしりする。
「何故抜けた。それほどの力があれば、立身できたろうに」
『法軍の人間がそれをほざくか!』
 怒声と共に再び尾が地を叩き、根こそぎ抉られた木や岩が襲い来る。
「龍の巣」
 楠野が起こした風の幕が、ことごとくを粉砕した。
『アタシを女狐と誹り、蔑んだのはオマエ達だ!』
 悲鳴のような怒号が轟く。それを号令にするように、動きを止めていた賊達が一斉に武器を抜き突撃を開始した。その背後で跳躍した稲穂色の毛並みが空を覆い、月明かりを隠す。
「来るぞ!」
 凪隊側も迎え討つべく、隊長の号令で扇状の陣形をとった。
「蓮華二師の補助を…」
 戦いが動き出した直後、朱鷺が高枝より身を躍らせる。
「はい!」
 青も後を追い、老木の影に身を隠す蓮華の元へ駆けた。そこに負傷した凪隊員たちが運ばれている。
「手伝う…わ…」
「一師!あ~ありがたいです!」
 顔を上げた蓮華の声に、疲労感と安堵感が混在していた。側にはさきほど大狐に叩き飛ばされた二人の他にも二名が岩影に凭れてぐったりとしている。
「僕、薬術の甲を持っています!」
「本当!?助かるわシユウ君…その子をお願い」
 指示を受けて青は、岩に凭れて座り込んでいる中士の一人の側に膝をついた。肩から脇腹にかけて裂傷が走っている。攻撃を受けた衝撃で外れたか、肩当ては側に見当たらない。
「そこに置いてあるものは自由に使ってね」
 蓮華が背負っていた鞄の口が開いた状態で、木陰に置かれている。中は薬品や医療道具が詰まっていた。その中から化膿止めや止血効果のある傷薬を選ぶ。瓶には獅子の判と蓮華の署名。
 一方で朱鷺はその隣で横に寝かされている中士を診ていた。脇腹に開いた傷の止血治療を行っている。多くの毒術師は薬術の、逆に薬術師は毒術の甲までを取得している場合が多いのだ。
「うわっ…」
 頭上を拳大の石礫がいくつも通過して行く。青は思わず肩を縮めた。
「結界を張ってあるから大丈夫、治療に集中して!」
 蓮華の早口の叱責が飛ぶ。
「は、はい…!」
 すぐ近くで悲鳴が上がろうと、術が爆発する音が響こうと、大狐の咆吼が轟こうと、蓮華は手元の患部に目を向けたまま、手際よく処置を進めている。朱鷺も戦いの様子に目もくれず、黙々、淡々と治療を進めていた。
 青が一人目の応急処置を一通り終えようとしていた時、
「きゃあ!」
 戦場から悲鳴。顔を上げると、小毬中士の体が宙に弾き飛ばされる瞬間が青の瞳に映る。小柄な体が土に叩きつけられ、横たわったまま動かない。周りに彼女を救出に行けそうな人間は、いない。
「シユウ君!?」
 考える前に、青は飛び出していた。
「しっかりして下さい…!」
 地に転がる小毬の側に膝をつき、手早く脇に腕を差し込んで担ぎ上げようと抱き上げる。
「―っ!!」
 その頭上へ、大狐の前足が振り上げられた。血に塗れた鈎爪が青を目掛けて振り下ろされる。
「くっ!」
 青は小毬の体を担いで横に跳んだ。爪は青の装束の裾を掠め土を抉り、すぐさま再び振り上げられる。
「!」
 青は咄嗟に負傷者の体を爪から庇うように抱きしめた。
「伏せろ!」
 眼の前に大柄な人影が立ちはだかる。一瞬で壁の如き羆へ姿を変えた、直後、肉を抉る音と重たい水音がいくつも続く。
『グゥウウウ…!』
 獣の、苦悶するうめき声。
「檜前!!」
 誰かの叫び声が重なる。羆は大狐の鈎爪を腹に埋めたまま、両腕で前足を抱き込んだ。
『この…離…っ!』
 前足を固定された大狐の動きが瞬時、止まった。
「風神…」
 その隙を、百戦錬磨の上士は見逃さない。
「三日月鎌!」
 楠野の風術が発動、巨大な風鎌が大狐の前足を切断した。
『ギャァアアアアァア!』
 大狐の絶叫。黄金色の体が仰け反りのたうち、血雨が辺りに降り注ぐ。切り落とされた大狐の前足を抱いたまま、羆の体が青の足元で横倒しに落ちた。
「檜前中士!」
 青の眼前で、羆は人間の姿へと戻る。そこには、腹から血を流し倒れた檜前の姿。
「これで留め…」
 続けてもう一撃、楠野が腕を振り下ろすと共に風鎌が大狐の胴を抉った。前胸から腹にかけての白い毛がぱっと紅く染まる。
『グ…ウ…』
 血と呻きを吐きながら、稲穂色の体と尾が月夜に跳ねた。白光の中、大狐の姿は霞のように薄れ、現れたのは女の姿。稲穂色の長い髪。髪色と同じ稲穂色と白を基調に朱色を縁取った装束が、赤黒く血で濡れていた。
「く…」
 腹を押さえ、全身で呼吸をする女は、それでもなお鋭い眼光を上士たちに放つ。
 致命傷であろう事は、誰の目にも明らかだった。
 辺りには、賊たちの遺骸が転がっている。一色や准士らの手によって片付けられ、残っている者はいなかった。
 勝敗は決している。
「あ…アタシが…」
 血の混じった咳を零しながら、女はとつとつと、言葉を吐き捨てる。
「九尾に生まれて…いれば…妖狐のチカラがあれば…」
「……」
 上士二人は無言で女の言葉を聞いていた。
「シシグニにも…この国、にも…」
 ごぼり
 ひときわ大きな水音と共に、女の口から血溜まりが吐き出される。
 女の体がゆらぎ、力尽きたかと誰もが思った瞬間、地を蹴った女の姿は小柄な狐に変化した。
「なっ!」
 片腕の狐は身を翻し、森の藪へと飛び込んだ。
「逃げた!」
「雲類鷲!追跡を」
「承知」
 楠野の命を受けてオオワシが空を舞う。
「一色隊と技能師班はここに残って負傷者の手当を頼んだ」
「分かった」
「残りの動ける奴はついてこい」
 言うが早いか、楠野は狐の後を追って駆け出した。その後を、准士二名と中士数名が続く。
「負傷者を天幕へ。野営地の火を入れ直せ」
 楠野が去るや否や、一色が動いた。面々へ具体的な指示を投げかけていく。
「シユウ君、シユウ君!」
 肩を揺さぶられて青は、我にかえる。
「は…はい、あれ…僕…」
 眼の前に、蓮華の顔。青は血まみれの小毬の体を抱え、足元に倒れた檜前と、大狐が流した血を浴びて、呆然と座り込んでいた。
「動ける?怪我人を天幕へ運ばないと」
 一切の動揺を感じさせない蓮華の声に、奮い立たせられる。
「わか…分かりました…!」
 なんとか声を吐き出して、青は浮遊感の残る体を無理矢理に立ち上がらせた。

 それからの青は、ただただ必死だった。
 蓮華と朱鷺の指示にひたすらに応え、従い、動き続けた。
 小毬中士は数か所の打撲と骨折。同じ様態の負傷者二名。他、刀傷を負った負傷者数名。
 最も重傷であった檜前中士は腹に穴を開けられていたが、致命傷には至らなかった。羆に変化した事が生死の分かれ目であったというのが、蓮華の見立てだ。
「も…申し訳、ありませんでした。僕が余計なことをした為に…」
「ん?」
 疲労と罪悪感とで掠れ、震える声で檜前の容態を報告しに来た新米毒術師へ、一色隊長は柔らかい苦笑を向けた。
「君がああしなかったら、小毬中士は死んでいたと思いますよ。誰も間に合っていなかった」
「でも、檜前中士が」
「檜前中士だから、生き残った。あの時は、あれが最善だったんです」
 報告ご苦労、と優しく労われて居た堪れなくなり、青は頭を下げてその場を立ち去った。
 治療用の天幕に戻ると、隅で蓮華が膝を抱えて仮眠をとっているところ。代わりに朱鷺が負傷者達の様子を見廻っていた。
「おかえり…楠野隊は…戻ってきた?」
 朱鷺の面が、青を振り返る。仮面で顔全体が覆われているために、朱鷺の顔色を読み解く事はできないが、疲労した様子はない。虚弱体質かと思いきや、技能師三人の中で最も平常を保っているように見える。
「いえ、まだのようです」
 所在なく、青は朱鷺から一歩離れた、天幕出口側に立つ。横たわる負傷者たちへ視線を一巡させた。誰も呼吸が落ち着いてきている。蓮華の薬や手当の妙と、薬術や医療の心得のある毒術師二名が居合わせた事が、彼らの幸運であったと言えよう。
「そう」
 少しの沈黙を挟み、
「……あの」
「……あのね」
 二人が同時に口を開いた。朱鷺に「お先にどうぞ」と促され、また少し沈黙を挟んでから、青は小さな吐息と共に口を開いた。
「すみません、色々と考えたり思い出してしまって、まとまっていないんですが…」
 だけど吐き出さずにはいられない。誰かに聞いて欲しかった。
「思い出す?」
「あの狐の頭は、居場所が欲しかったのかなと、考えていて」
 ―九尾に生まれていれば 妖狐のチカラがあれば
 ―シシグニにも この国にも
 思い出されるのは、大狐の頭が最後に呟いた言葉。
 どのような経緯で祖国を出て凪へ流れ着いたかを、青に知る由もない。だが、一つだけ確かなのは、同じように凪へ流れ着いた青や、小毬、雲類鷲、檜前には良き出会いがあり、居場所があった、という事だ。
「何故あの人は、逃げ出さなければいけなかったんだろうと」
 ―アタシを女狐と誹り、蔑んだのはオマエ達
 それは、彼女の悲痛な心の叫び。
「僕は本当に、恵まれていたのだなと…あ」
 自らの素性に関わる事を口走ってしまった事に気づき、青は覆面の上から口元に手を当てる。
「…そう」
 朱鷺にとって、その一言で概ねの事情を察することは容易だった。
「私たちは…五大国以外を、知らなさ過ぎる、の」
 天幕内に置かれた行灯の火が揺れて、天幕に映る梟のような影も揺らいだ。
 世界には神通術を基礎とした五つの神通祖国と二つの里の他、神通術に依らない独自の力や秩序を持つ国、勢力、人種が数多く存在しているという。
「知らなすぎる…」
 青が記憶している限りでは、初等学校や中等過程において、凪の外界について学ぶ機会はほぼ無かった。
 そして気が付く。凪の外から流れ着いた自分の過去について、何の疑問も持たずにここまで来ている事に。
 全てを理解するには幼すぎた。生きる、学ぶ事に精一杯であった。そうした言い訳もできる。だが今こうして、同じように外つ国から流れてきた人々の生に触れた事で、青の興味は初めて己の過去に向いた。
 母は何故、幼い自分を連れ旅をしていたのか。そして凪へ向かったのか。
「楠野隊が戻ったぞ!」
 天幕の外から声がした。
「え」
 蓮華が膝に伏せていた顔を上げ、立ち上がる。
「行きましょう…」
 青、朱鷺、蓮華の三人が天幕を出ると、野営地の中央の焚き火前には、すでに帰還した楠野隊と、出迎える面々の後ろ姿があった。
「お前、それ…」
 楠野を出迎えた一色が最初に発した言葉が、それだった。他の面々も顔を見合わせるなどして、場がにわかにざわめいている。何事だろうと青たちも駆け寄る。
「拾った」
 と答える楠野の腕には、二匹の子狐が抱かれていた。
「あの狐は、こいつらの側で死んでいたよ」
「…夜襲を仕掛けてきたのは、この子たちの為か…」
「かもな」
 子狐たちは、大人しく楠野の腕の中に収まり、丸い木の実のような瞳で覗き込んでくる凪隊の面々を眺めている。まだ母親の死を理解できないのだろう。
 楠野隊の報告によれば。狐を追跡して賊の根城と思わしき砦にたどり着いてみると、賊の姿は一人も残っておらず、最も奥まった小さな部屋でこの二匹を護るようにして片足の母狐が死んでいたという。
「その子らは、獣血人という事になるのだろうか」
「おそらく」
 一色の問いに答えたのは、雲類鷲だった。
「成長してくれば、人の姿になるすべを覚えるはずです」
「そういう、ものなのか」
 なるほど、と頷く一色と同調し、見守る凪隊の面々にも合点の空気が流れる。
「その子らは、どうなさるので?」
 総員を代弁するように、准士が尋ねた。問われて楠野は腕に抱いた子狐の顔を覗き込む。
「そうだな…凪に連れ帰って、孤児院に入れるか、どこか里子に出すか…」
「あの」
 手を挙げたのは、最後尾から様子を見ていた青だった。その場の視線が一斉に振り返る。両隣の蓮華と朱鷺からも、何事かという視線を感じた。
「シユウ佳師?」
 一色が青に発言を促す。
「す、すみません…霽月院(せいげついん)…をご検討されてはどう、かと」
「霽月院?長直下の管轄にある孤児院か」
 青が育った、都にある孤児院だ。
 特別な事情を持つ子など、長の許可を得た子が入る事ができる場所。
「出過ぎた事を、すみません…」
 場の空気に気圧されて、手を引きかけるが、
「そうですね」
 一色の肯定が返った。
「獣血人は凪では希少な存在。私たちで長に掛け合ってみます」
「俺もか」
 さり気なく巻き込まれた楠野は肩をすくめるが、訓練所で獣血人三名の担当教官だった経歴は訴求力になる。それを自覚して、潔く頷いた。
「クア……」
 大人たちの会話をよそに子狐たちはそろって大あくびをして、楠野の腕の中でウトウトと眠り始める。「可愛い~」と女子隊員らの声。
「提案をありがとう、シユウ佳師」
「あ…ありがとうございます…!」
 隊長と副隊長の決断に、青は心底から安堵した。
 あの子たちはきっと、居場所を見つけられる、と。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み