ep.35 翡翠の扉(1)

文字数 2,714文字

 翡翠の長への謁見が終わった。
 凪一隊は、翡翠府から用意された宿を拠点に、翡翠国内の治安改善活動に勤しむ事となる。

「いいか。俺らの仕事ぶりと振る舞い次第で、転送陣を敷かせてもらえるかが掛かってんだ。これは外交だ。ぜってぇにシケたマネすんなよ」

 宿の大部屋に隊員たちを集め、猪牙隊長は熱弁する。あの往復路の過酷さをそう何度も経験したくはない、というのが本音ではあるが。

「峡谷。この国のお偉いさんは女が多い。頼んだぞ」
「え?」
「お前が愛想よくするだけで心象がすこぶる良いんだ」
「峡谷上士!」
「お願いします!」

 隊員達にも異論はなく、みながキョウに向ける瞳はいずれも懇願に近い色を湛えていた。誰もが、猪牙と心は同じだ。

「……鋭意努力いたします」

 炬の陽乃姫の時のような問題が起きない事を、キョウは内心で祈るばかりだ。

「よっしゃ。班分けはさっき話した通りだ。質問がなければ解散。気張っていくぞ!」
「承知!」

 隊長の発破に応え、隊員たちはそれぞれの責務を果たすべく、次々と部屋を後にした。
 三十人ほどの隊を数人ずつに班分けし、翡翠全域へ赴くのだ。

「峡谷上士、よろしくお願いします」
「こちらこそ、檜前准士」
 キョウと檜前と、
「シユウ二師の姿が見えませんが…」
「あれ?」
 シユウの三人が同班で組む事になったのだが。

「はじめから、いらっしゃらなかったようです」
「目を離すとどこに消えるか分からないな…」

 だが二人はすぐに、シユウの姿を発見する事になる。

 宿の出入り口に面した石造りの広場の一画、飲食店の軒先に並ぶ長椅子の一つに腰掛け、高齢者数人の話に耳を傾けている毒術師がいた。

 高齢者たちはいずれも見目は人間そのもので、獣血人であるかの見分けはつかない。広場全体を見渡してみると、往来の中にさきほどの兎の高官のような獣人は確認できなかった。凪で獣血人が稀であるように、西方地域の最東端に位置する翡翠においては、獣人が稀なのかもしれない。

「二師は、地元民と交流中、といったところでしょうか」
「もしくは、情報収集か」

 宿から姿を現したキョウと檜前の姿に気がついたシユウが会釈と共に長椅子から立ち上がると、老人たちから「がんばってな、覆面のにいちゃん!」と声がかかる。

「すみません、お待たせしました」とキョウたちの元に駆け寄ってくる間も、長椅子の老人たちはシユウへにこやかに手を振り続けていた。

「翡翠と周辺に伝わる、御伽噺(おとぎばなし)を聞かせてもらっていました」
「御伽噺を?」

 首を傾げる上士と准士の二人。

「御伽噺や逸話は神話や古い歴史が元になっている事が多いので、情報源として侮れないんですよ」
「なるほど。何か面白い話はありましたか」
「「しろたえのさと」と類似した伝承や古事が、他にも多くあるようです」

 好々爺たちが語るいくつかの伝承や昔噺には共通点があった。

 神獣ないし神獣人―描写が曖昧なため区別はつかない―が、無力な人間へ自らの一部を分け与え、その結果、与えられた方の人間は病気や怪我から回復したり、若返って不老となり、永い命を得て、神獣と共に生きていく。
 という弱者の救済を主題にしたものが多い。

「自らの一部……つまり血液など、か」

 白妙の村で出された飲食物が、思い浮かぶ。
「しろたえのさと」が実在していた事を考えると、その他の類似した伝承についても、一概に空想話とは言えない可能性があった。

 仮に白妙が神獣の血胤(けついん)で、小五郎が血を分け与えられたのだとしたら、彼はやはり檜前の幼馴染である惣太であり、十年前と姿が変わっていない現象に説明がつく。

「小五郎少年がやはり惣太だとして…俺の事を覚えていなかったのも、神獣人の血の影響なのでしょうか」
 檜前の問いに青は「記憶か…」と思案する。

「妖に襲われた時に頭を打ったとか、精神的なものであるとか?」
 とは、キョウの推測だ。

「その可能性も、もちろんあると思います。まず考えられるのはそこです、一方で――」
 一呼吸分の思案を挟んで、シユウが顔を上げる。
「伝承的な観点からなら」と前置きして、言葉を続けた。

「神通祖国の神話にもある「昇仙」の概念と近いかもしれません」

 五大国間で教養として知られている神話によれば、七人の賢人がそれぞれの神に生命力と気を捧げる事で力を得て神通術法を確立させた。
 その後、七人の賢人は「賢神」となり永きにわたり国と里を治めたとされている。

 その際に人々の中から優秀な者を選び昇仙を許して官とし、国の礎を共に築いたという。

「昇仙は人としての生を一度終える事となるので、人としての自分を失うと言い換えれば、記憶も該当するのかもしれません。強引な屁理屈ですが」

 青の説明に、檜前の面持ちに影が差した。

「やはり惣太は死んだのですね…」
「あ……失礼しました、無神経な事を。ただ、そうとも言えず」

 檜前の様子にシユウが慌てる、そんなやりとりを、キョウは静かに見守っている。

「何と表現するのが正しいのか…昇仙とは神の域に居場所を移すと言いますか…「神獣の血胤」と近い存在になる、と言った方が良いのかもしれません」
「……神獣人と近い存在に」

 生真面目さがうかがえる檜前の、皺の寄った眉間から、ふと力が抜けた。
 胸のつかえがおりて、腑に落ちた音が聞こえるようだ。

「ありがとうございます、二師」
「え??」

 唐突に礼を言われたシユウは、頭上に疑問符を踊らせる。

「惣…小五郎少年は、幸せだと言っていました。俺は、それで充分です」

 見捨ててしまった幼馴染。
 逃げ落ちた異国の地で必死に身を立ててきた十年もの間、ずっと胸のどこかで疼いていた傷が、消えた瞬間だ。

「……その…良かっ……? はい」

「シユウ二師」の人相を隠す覆面と額当の下から、照れと、困惑と、感傷とが、くるくると入れ替わっている様子が、傍から見ているキョウには伝わってくる。

「…ふ……」
 危うく口角が上がりかけるのを指先で隠した。

「御伽噺を馬鹿にできない事が、よく理解できました」
 場の流れを切り替える上士の言葉に、シユウと檜前は背を正して向き直る。

「帰還前に時間があれば、郷土史資料等を拝見できないか、俺から高官に掛け合ってみましょう。西方の事を、もっと知る必要がありそうだ」

 キョウの提案にシユウは「え!」と首を伸ばした。
「ありがとうございます、ぜひ」
 朱鷺もそうであったが、顔面のほとんどが隠れていても、不思議と感情が筒抜けて伝わってくる。

「確かに、相手を知る事も外交であるという事ですな」
 好奇心に花を咲かせるシユウと、その隣で生真面目に頷く檜前。

「そうだね」
 愛すべき部下二人の様子に、目を細めるキョウであった。
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