第十話 謎のひと 『勤労感謝』

文字数 7,836文字



 ふぁ――――。


 ちょっぴり寝不足。
 ことぶき山の麓にある有料駐車場に向かう道すがら、わたしは生あくびを噛み殺しつつ昨夜の撫子さんの話を思い出していた。
 撫子さんのおじいちゃん、忠彦さんのことだ。
「昔のハルネ家の戸籍は、例の図書館火災があったとき役所ごとなくなって、町の住民もずいぶん入れ替わってるから、色んな人に聞いて繋げた話になるんだけど」
 そう前置きして撫子さんは語り出した。
「おじいちゃんは――――おばあちゃんの再婚相手というか……籍は入ってなかったから事実婚ね。わたしがこの家に引き取られたときには、すでにいて」
 その辺りの話をするとき、撫子さんの言葉の歯切れは悪い。
 小さい頃のことで記憶が曖昧なのと、親から離れた理由について大きくなったら話すと言われたまま、おばあちゃんが亡くなってしまったからだ。
 だが、おじいちゃんの思い出は別らしい。いつになく饒舌である。
「一緒に暮らしたのは二~三年。短い間だったけど、すごく可愛がって貰ったよ。変わった……というか、面白いひとでさ」
 曰くボヘミアンだったと。
「ぼへみあん?」
「はい。以下、歌うの禁止ね」
「わたしピアノは()けません」
 ああ、そっち。撫子さんは愉快そうに笑うと、思い出語りを続けた。
「当時はおじいちゃんって呼んでたけど、今のわたしがそう呼ぶとややこしい?」
 ちょっと。わたしは笑う。
「じゃ、忠彦さん。ボヘミアンで面白い忠彦さんね」
 ボヘミアンとは、いわゆる自由人だと撫子さんは説明した。
 社会の規範に縛られない自由闊達な生き方をするひとを、昔は総じてそう呼んだのだそうだ。
 そして忠彦さんは、ただ自由なだけでなく百科事典が頭に入っているのかと思うほど博識であり、世界中の友達からさまざまな言語の絵はがきが届くような人脈も持っていた。
「たまに荷物も届いたなあ。隕石が衝突した時に大地が溶けて出来た緑色のガラス石とか、表が黄色で裏が真っ赤な鳥の羽根とか、トゲトゲつきの砂とか、金色の貝の化石とか」
「何かの研究をなさってたんですか」
 どうだろう。撫子さんは首を傾げた。
「まめに手帳を開いてたのは覚えてるけど、仕事という感じでは。うちで働いてたのは、おばあちゃんよ」
「お習字教室ですか」
「そうそう達筆でね」
 おばあちゃんこと先代の撫子さんは、入れ替わりの前には公民館で働く傍ら、そこでお習字教室を担当していた。
 人気の教室で、子供たちや、ボールペン習字を学ぶおとな達で賑わっていたそうだ。今の撫子さんは職を退いているが、達筆は先代譲りである。
 本人曰く、辻褄合わせに努力したとか。
 話を戻そう。
「それで、この琥珀なんですけど」
 おじいちゃんが意味深長な言葉と共に撫子さんに託したという旅のお伴、オーパーツ(仮)は、ことぶき山で採取されたという五色琥珀のひとつだ。
「忠彦さんが見つけたものなんですか?」
 どうかなあ。撫子さんは首を傾げた。
「うん――――そうかも。ほかにもたくさん持ってたし」
「たくさん、ですか?」
 目を丸くしたわたしに、まあまあと撫子さんは笑った。
「まさか全部オーパーツじゃないって。知らんけど」
 そりゃあ、そうだ。
「でも裏山で見つけたって言ってたな。地元の研究グループに協力もしてたよ。たまに大学の先生がうちに来てたもん。でも、本人的には趣味? 蒐集?」
 なるほど。
「ほかの人みたいに、それを仕事にしていたという感じじゃなかったなあ。凄く自由で」
 撫子さんは言った。
「琥珀に関してだけじゃなく、忠彦さんは、もう生活全般がそんな感じ」
 人様の頼まれごとは引き受け、野草を摘み、おかしな唄を歌い、野良猫に話しかけて天気を読み解き、晴れた日には庭に張ったテントで眠っていたのだと。
「そういうひとなんですか」
「そういうひとだったのよ」



「そういえば――――」
 車のハンドルを握っていた撫子さんは、ふと何かを思い出したようだ。
「あの飛んでった派手なテントも、忠彦さんから貰ったものだった。どこかの海岸で拾ったんだって」
「そうだったんですか!」
「話したら思い出したのよ。ホントあのひとには、いろんなことを教わったのよねえ」
 撫子さんの声が弾む。
「野草の食べ方、空き缶と茶がらを使った燻製、マッチやライターを使わない火の起こし方に――――天然酵母のパン。あれは傑作だったなあ。なかなかうまくいかなくて。カチカチの煎餅みたいなパンを齧ったもんよ」
 なんと。
「でも、失敗しても後悔しない。呑気は生きていく秘訣だからって」
「いいひとですねえ。お会いしたかったなあ……」
 わたしは感心したが、笑い飛ばされた。
「いやあ……どうかな。面白い、いいひとではあったけど。物凄ぉぉく怪しいひとでもあったんだ」
 物凄ぉぉく?
「説明が難しいなあ……」
 撫子さんの目が猫のように細くなる。
「そうね。例えば、突然なぞの言葉で歌いだすの。で、子供のわたしは何が始まったのかと、神妙に聞いてたのよ。実際に何ヶ国語も話せるひとだし、森の中のなんちゃら部族の儀式に参加したなんて話もあったし。そうしたら横からおばあちゃんがね、こそっと『これは出鱈目よ』って。本人は『新しい言語を生み出す約束なんだ』って大真面目なんだけど――――で、それを証明しようって、その言葉のままずっと話してたり、電話にでたり」
 物凄ぉぉく怪しかった!
「大丈夫なんですか、それ」
「大丈夫な訳ないじゃない」
 電話の相手をしたご近所さんは、相手がお年寄りだけに、何があったのかと慌てて駆け込んできたのだとか。
 でもね。撫子さんは微笑んだ。
「そのあと本当に手紙が来たのよ。忠彦さんの出鱈目語で」
「まさか!」
「アメリカの大学で言語学の研究をしてるひとから。ニューギニアで知り合ったそうよ。古代の言葉をコンピューターに学ばせるための利便的なパターンを、ふたりして作ってたんですって」
 うひゃあ。
「まいりました」
「なんだかねえ」
 わたしたちは声を合わせて笑った。
「なんか勇者――――いえ、神様みたいなひとですねぇ」
 わたしの言葉に撫子さんは目を丸くする。
「神様かあ、あんたの宗教観もだいぶ謎だわね。ネット小説の読み過ぎじゃない?」
 えへへへ。
「おばあちゃんはあのひとのこと、野人とか、野良とか呼んでたなあ」
 そうか。
 わたしは思い出す。
『野良金魚かあ……いいね』
 夏の縁側でかき氷の器を片手に遠くを見つめて、何かを思い出すように笑った横顔を。
 異形の世界との一線を示してくれた厳しさを。
 おばあちゃんと忠彦さんが揃っていたハルネ家とは、いったいどんな風だったのだろう。

 うーん。

 わたしはポケットから例の琥珀を取り出して、車の窓越し、日に翳してみた。
「そうやって見ると、やっぱり綺麗なものねえ」
 はい。
 とろりとした飴色の光。
 紙が溶け、インクの色だけが残った数字とねじれてばらけた円マーク。
 簡易的なテストはしてみたものの、専門家が見ればUVレジンで作ったただの贋物だと笑い飛ばされるかもしれない、この琥珀――――だが。
 撫子さんが横目に微笑む。
「なあに?」
「ちょっと考えてたんです」とわたしは言った。
「あのサイトにあった『錆猫は五色琥珀の目をしている』っていうのは、そのまんま、様々な色をした琥珀と猫の瞳をかけているんだと思いますが」
 そのあとにわざわざ、錆猫は五色琥珀が好きだという説明も入れているあたり。
「ただのこじつけじゃない何か。伝説の、隠された部分がまだあるような気がするんです」
 なるほど。撫子さんは頷く。
「なんだかわくわくするわ」
 はい。わたしも大きく頷く。
「もしかしたら、この62円琥珀も伝説との関わりがあるんじゃないかと」
 値段で呼ぶと安いわね。撫子さんはひとしきり笑ったあと、
「そう言えばね」と、切り出す。
「おじいちゃんは、わたしとおばあちゃんが入れ替わる前に、また旅に出て、それきり戻らなかったんだけど。出かける前にね――――言われたの」
 撫子さんはきりっと眉を持ち上げた。
「知りたいことがあるなら自分で探しなさいって。撫子もそうした。君にもその力があるはずだ……って」
 ――――ふうむ。
 だから、この琥珀も
『君が持ってなさい。きっといつか役に立つから』
 そういうことなのか。
「なんだか、胸がドキドキします」
「さあ、冒険の始まりよ」
 撫子さんは、軽快に愛車のハンドルを切った。




 平日のキャンプ場はのんびりとしていた。
 車を駐車場に入れ、管理事務所に挨拶に行く。
 無言でそのまま脇のハイキングルートに入っても別に構わないのだが、撫子さんは必ずここに立ち寄って、直近の山の様子やちょっとした情報を管理人さんに尋ねることにしていた。
 かの『萬丈酒』や五色琥珀を使ったキーホルダーや山菜などの地産品、山やキャンプ場で食す軽食、飲料水などもここで手に入る。
 ことぶき山を守るオオマキ神社の社務別所も併設されており、わたしたちは白絵馬を手に入れるつもりだ。
「こんにちは。いらっしゃいませ」
 カウンターにいたのは、いつものエクボさんではなく、初めて見る男性だった。
「ああ、おばちゃん? ギックリ腰でね――――ボクは甥のトウドウです」
 市役所のバッヂを襟元につけたそのひとは、黒縁眼鏡ごしに、そう微笑んでくれた。
「あら、お役所のかたなの?」
 撫子さんの言葉にもにこやかに返す。
「この事務所とキャンプ場、実は公設なんですよ。以前はオオマキ神社さんが管理されてたんですが、神社と一緒に」
 そういえば。
 そうだった。
「これから山に入られるんですか」
 わたしたちの白絵馬を袋に入れながら、そう尋ねたトウドウさんは、
「ちょっと待ってください」と振り返って、プリンターを動かす。
「直したばかりで申し訳ないんですが……また地滑りでして」
 印刷された地図をわたし達に示し、赤ペンでルートの二箇所に×印をつける。
「現地に貼り紙つきコーンも立ててありますが、ここと……ここも迂回してくださいね。一昨日までの雨で地盤が弛んでいるので」
 ほおお。撫子さんが老眼鏡を翳して唸る。
 わたしが、ネットの案内にはなかったと言うと、トウドウさんは慌てて手元のノートパソコンを開いた。
「忘れてた――――今すぐ更新しないと」
 ふむふむふむ。ルートを確認してた撫子さんが、迂回ルートに青い線を引き直して地図を畳む。
「じゃ、わたし達は行きましょうか」
「はい」
「ありがとうございます。いい一日を!」



 代理人さんの声に見送られ、わたし達は山へと入る。
 秋の山は肥沃な土の匂いに満ちていた。
 ルートを選んで間もなく、代理人さんが立てたという赤いコーンと手書きの看板があり、その手前でわたしたちは未舗装の砂利道へ入る。
 夏初めにキャンプをした河原が木々の隙間からよく見えた。
「あ、あそこ!」
 撫子さんが指を差す。
 設営中のテントを突風で持って行かれたのはあの辺りだ。
「あのときは、ホント……散々でしたよね」
「まあ、怪我がなかっただけマシだったわ」
 そう撫子さんが言ったとき、すいっと視界の端に動くものがある。
 あ!
 わたしは慌てて言葉を飲んだ。
 木立の向こう。きらりと光る二つの目が、がさがさと灌木をかき分け枝を駆け上る。
 毛色が樹木に同化しているが、赤く色づき始めた葉陰に、長い尾が覗く。
 錆び猫だ。
 ハイキンという色味だろうか。
 咄嗟にカメラを構えたわたしの肘を撫子さんが掴む。振り向くと、小さく首を横にされた。
 視線を戻すと、もう猫の姿はない。
 ほう――――わたしは息を付く。
 撫子さんがニカリと笑っている。
「大丈夫。目には焼き付けた」
 ええ。わたしも微笑む。
「早速、一匹目、ゲットだぜ」



 そこから先は、再びハイキングルートに戻った。
 管理事務所で貰った地図を広げ、スマホの地図と照らし合わせて、行く先を確かめる。
 今回の目的はあくまで錆猫探索であるが、最終的に絵馬を奉納する山の祠の位置確認も兼ねている。
 ネルコの祠と記された地図を指して、わたしは言った。
「ここですね。あのサイトを見るまで、この山にそんな祠があるなんて知りませんでした」
「わたしもよ。てっきりおとぎ話かと思ってた。なんで今まで気付かなかったんだろうね」
「祠はちょうど山の裏手側ですね」
「上から回って行くしかないわね」
 この先の分岐道は、通行止めだ。
 拡げた地図の赤い×印を指し、そこから迂回ルートを辿る。
「……そうなりますねえ」
 いったん山の頂上に登り、そこから降りて行くのが確実と。
 わたしは伸び上がり、色づき始めた雑木林の隙間から覗く、麓のオオマキ神社の屋根を見下ろし、その上方、目的地あたりまでの距離を目算した。
「昔はオオマキ神社から祠に行けたらしいんですが」
 時間を確認した撫子さんが言う。
「取り敢えず、このまま登って頂上の展望台でお昼にしましょ」




 登山道はそこから開けて、わたしたちは少し早めのお昼ごはんを頂上でとり、水分補給とトイレ休憩をすませて、反対側のルートを下り始めた。
 途中、なんどもカメラを構える。
 錆び猫らしき影とは遭遇しなかったが、すぐ目の前にぶら下がっているアケビの実や、篠竹をゆらして逃げて行く野兎の後ろ姿を撮ったり、頭上に飛び立つ野鳥に驚いて尻餅をついたり。
 あはははは――――。
 笑いながら手をさしのべる撫子さんに、わたしは照れ隠しして休憩を申し出る。
「ええーまたあ」
 笑いながら返す撫子さんの視線が、そこでふと固まった。
「……左後方四十五度、個体確認」
 わたしはそっと振り返り、植え込みの中で光る目を視界に捕らえる。
 ざざ……!
 錆び猫はすばやく去ったが、わたしはその特徴的な毛色を、はっきりと記憶にとどめた。
 撫子さんが言う。
「今の、シマサビで間違いないよね?」
「と思います。尻尾が縞々で全体に野性味のあるお茶碗みたいな色合いでしたし」
 ふう――――。
 撫子さんは額の汗を拭って、水筒に手を伸ばした。わたしもそれに倣う。
 そこへ続いて。
 クロチャ
 チャキン
 アカクロ
 すばやく道を横切り、それぞれ木々や下生えの向こうに跳んでいく。
「なんと勝率五割よ、金魚さん」
 わたし達は静かに沸き立った。
「なんと、探索初回にして……まさかの!」
「都市伝説の実現が目の当たりではないか」
「いや、さすがに半分で目の当たりは言い過ぎです」
「え、なんかするっと行く気がするんだけどダメ?」
 どうでしょうか。
「もし探索がうまくいったら、何をお願いする?」
「うーん――――探索のことしか考えてなかったです。撫子さんは? 何か願掛けしますか」
 わたしはカメラを首からさげ、しんがりを務める。
「そうねえ……やっぱりアレかな」
 撫子さんが先に歩いて、あたりを注意深く観察しながら歩いた。
「アレって、あのアレですか」
「それ以外思いつかないしね」
「で、あんたはどうなの?」
「うーん。どうしようかな」
 改めて問われると、何も思い浮かばない。
「わたしは、今の暮らしが気に入ってます」
「でも、すでに叶ってるものはダメなのよ」
 なるほど、言われてみれば。
「願掛けって難しいですね」
「え、そんなひといるんだ」
 撫子さんは驚く。
「そんなひとって。わたし恵まれてるんですかね」
「わたしは恵まれ、かつ欲望に満ちあふれてるよ」
 ふたりして笑う。
「眉唾体験談はさておき、皆さん、いったいどんな願いを叶えたんでしょうね」
 そういえば、と撫子さんは言った。
「佐々木さんのおかあさまが、昔、絵馬を奉納したって、聞いたことあったわ。こどもの病気を治してほしいって」
 え、町内会長のおかあさまが!
「じゃ、佐々木会長はそのおかげであんなにお元気に?」
 ちがうちがう。撫子さんは大笑いした。
「確かにやたらお元気だけど、弟さんのほうよ。小児がんって仰ってたかな。その甲斐あってか、すっかり快癒して、今はアメリカで牧場やってるって」
 さらにお元気で何よりだ。
「ほかにもいらっしゃいそうですよね、何しろ地元ですし」
 そうねえ。撫子さんは頷く。
「裏のタカミネさんちの、亡くなったおじいちゃんも……そうかな。詳しいことは知らないけど、白絵馬の上にあるシロクロの猫の絵は、御礼にって、そのかたがお描きになったんですって」
 へえ。わたしはリュックのポケットからさっき買った白絵馬を取り出して、改めて眺める。
 表にはおすましシロとクロ。
 裏には寝そべるチャとミケ。
「おお! これが」
 あとは――――撫子さんの口調が、ふいに重くなる。
「うちのおばあちゃん……も、そうかも」
 うららちゃんが。
「いや。わかんない。でも忠彦さんも言ってたでしょ『撫子もそうした』って。それ、わたしのことじゃなくて入れ替わり前のおばあちゃんのことだからさ」
 そうか。
 わたしは少し考えた。
「もしかして……夢見の?」
 わかんない、わかんないよ。と撫子さんは言い直す。
「だって本人に直接聞いたわけじゃないし。でもさ、よくよく考えてみるとそうかなって」
 手に持った杖をとんとんと地面に叩きながら、撫子さんは続ける。
「捜しものの相談に乗ってたり。寝たきりになったどこかのおばあちゃんの夢に入って、家族からのメッセージを伝えたとかで、御礼の品が届いたり……よくしてたから」
 そんな不思議な力が、そうそう天から授かれるものとは思えない。
「毎年戻ってくるたび思うんだよ、もっと話をしたいって。でも仏さんだけに聞けないんだ。肝心な話ほどさ」
 そう言った撫子さんの小さい背中を見つめながら、わたしは細くなっていく山道を踏みしめていた。


「ネルコの祠は、この先よ」
 坂の中ほどで、山の中腹を撫子さんが指さす。
 上りに比べ、下りはゆるやかな山肌に沿った回り道だ。
 緑は鬱蒼と深い。ほんのり色づいた広葉樹の隙間から、針葉樹の暗い森が覗く。
 微かに気配がする。
 鳥や姿の見えない野生のイキモノたち。
 歩み進めるわたしたちの視界のあちこちで下生えが揺れ、枝から影が射す。
 木の上を見上げると何かが動いた。
 いた。さっきのアカクロ。
 わたしはカメラを構えた。
「うしろにまたクロチャよ、金魚さん」
 撫子さんの声に、振り返る。
 だが、カメラが追えたのはそこまでだった。
「そもそも野良猫は家猫みたいに鳴かないし、気配も薄いのよ」
「……ですよねえ」
 そう溜め息をついて一歩踏み出したとき、すぐそばの植え込みからまた猫が飛び出してきた。
 三毛猫?
「――――ちがう、これは」
 ミケサビってやつか!
 凄い。希少種、本当にいるんだ。
 カメラを構えたわたしが、その姿を追うと、ミケサビは離れた場所で振り返りじっとこちらを見つめる。
「金魚さん!」
 ――――し。
 猫は動かない。よしよし。
 わたしはカメラをズームした。これで、フレームインだ。
 六匹目――――。
 シャッターを押す。
「金魚さん……あぶない!」
 撫子さんが叫んだ。
 なにごとか。わたしは慌ててカメラをはずし、振り返った。撫子さんがわたしに手を延ばす。
 するり。
 その拍子にわたしの腰に巻いていたジャケットが解け、撫子さんが足を取られた。

 あっ!

 わたしは、屈んで撫子さんを支えようとする。だが体勢が崩れた。
 わたしのリュックが肩から外れる。
 力が抜けた。
 全身がほんの一瞬、宙に浮かんだような気がした。
 撫子さんが叫ぶ。

「――――金魚さん!」

 わたしは足元の土くれと共に、沈む両足からゆっくりと崖の下へ転落していった。




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