第十一話 働くもの1 『勤労感謝』

文字数 9,977文字


 ……こぉ……


 遠くで誰かの呼ぶ声がした。
 撫子さん?
 撫子さんの声に似ている。
 でも、本当に撫子さん?
 あんなに悲しそうな声、聞いたことがない。

 ……ど……こ……

 ここです!

 わたしはここです、撫子さん!
 そう叫ぼうとして、自分の体が動かないことにわたしは気づいた。
 声も出ない。
 倒れているのだ。
 周りにたくさんの気配がある。
 横たわるわたしの足元や、肩先、そして腕や脚に群がって、好きなことを言い合っている。
 
 イイニオイ。
 おいしそう。
 
 おととさんだね。
 ちがうヒトだよ。
 
 おさかなの匂いがする。
 ヒトの匂いもするよね。
 
 わかった、人魚だ!
 ううん足があるよ。

 えー!
 えー!
 えー!


 ずいぶんと残念そうな声に囲まれたまま、わたしは撫子さんの気配を探した。
 自分がどこかから足を滑らせたのは覚えている。
 でも、どうしてそうなったのか。何をしていたのか。記憶がうすぼんやりと遠くなっていく気がして。
 山――――そう、ことぶき山……だ。
 わたしは息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
 ここはどこだろう。誰が話しているのだろう。子供?

 子供たち――――どこの子たち?

 わたしは目をあける。
 ぼんやりと霞む、滲んだ色で構成された視界。いくつもの輝きがわたしを見つめている。
「あ……目を覚ました!」
 その中から声がした。わたしは手を差し伸べる。
 ひゃあ!
 その瞬間、後ろっ飛びに散らばって逃げていく。色。色の玉。ふわふわした毛玉――――何?
 これは、何?
「――――いて、ててて……」
 動くと、まだ頭の芯が疼く。
「あ、だめだめ。急に起きちゃ」
 今度はすぐ傍らから、聞き覚えのある声がした。
 ここは。
 病院?
 薬のような強いニオイがする。
「足は動く? 手は?」
 わたしの背中を支える温かい手、傷の様子を見てくれている。
「凭れてみて……うん。今度は目ね。こっち見て、はい。これは何本?」
 わたしはしかめっ面のまま、何度も目を瞬かせて焦点を取り戻した。
「……え?」
 そして、戸惑う。
 目の前に翳された手の向こうで、よく見知った顔がわたしに微笑みかけている、それも。

 ヤヨイ――――さん? しかも。

 猫耳巫女さんのコスプレ?

 なんでヤヨイさんが猫耳巫女コスプレしてるの?

 わたしは混乱する。
 微笑むバイトリーダーと、辺りに立ちこめるきつい香りに咽せ、激しく咳き込む。
「……な……」
 ヤヨイさんの手が背中をさする。
「しっかり金魚くん。息をするか、話すか」
 じゃなくて……。
「なんで、ヤヨイさんが――――」
「それはコッチの台詞だよ、金魚くん」
 目を大きく瞠ったわたしに、小さくヤヨイさんは息を付く。
「ったく……なんで来ちゃうかな。ていうか、どうやってすり抜けちゃったのかな、君は。結界が仕事してないはず、ないんだけど」
 いったい何の話だ。
「……結界?」
 だが聞き違いではなかったらしい。
 ヤヨイさんは頷いた。
「そう――――山神(やまがみ)の結界。君はそれをすり抜けて落ちてきた。ここは、わたし達の里、猫又のテリトリーなんだよ」

 猫又?

「……わあ!」
「わあ? 君に驚かれるのは心外だよ」
「え――――ええっとぉ……」
 確かに。
 話しながら、横になったり外を向いたりするヤヨイさんのピンクの猫耳、いつもよりキラキラと輝いている大きな瞳を確かめる。
 さらに辺りを見渡した。
 ヤヨイさんの半身越し、灌木の植え込みや土塀や柱や岩の影に、小さなモフモフの気配があって、じっとわたしのことを窺っている。
 宝石のように輝く対の光。
 パタパタ動くしっぽの先。
 ピンと立ちあがる三角耳――――そのどれも。
 いや、待って。
「ヤヨイさん今なんて……心外……」
 まだふらつくわたしの背中を、ヤヨイさんが受け止める。
「あいたっ!」
「おっと、ゆっくりね。君、落ちた拍子に全身をぶつけてるんだから」
 全身を……ダメだ。
 考えることが多すぎて、体も頭もついていかない。
 覚えてるのは――――そう。
 細い下り坂、撫子さんと一緒に錆猫伝説の探索に、カメラを構え――――それで、わたしは。
 結界をすり抜け落ちてきた。
 猫又の里に。
「……ここは、ことぶき山では?」
 ヤヨイさんは頷いた。
「ひとの地図の上じゃそうだけど」
 そして大きな目を見開いて、わたしの顔を覗き込む。
「ひとの地図?」
「そう。ひとの世界に、わたし達の世界も重なり合ってる。だから、ことぶき山とわたしたちの里の間に、山神が結界を引いたわけ」
 山神の引いた結界――――。
 それは、うららちゃんが、撫子さんが、わたしに教えた一線と同じものだろうか。
 マズイ。
 思考がまとまってくる
 それと同時に自分の立場の危うさに気づいたわたしは、にわかに焦った。
「ヤヨイさんわたしは決して」
「今度は、こっちが訊く番よ」
 相手の語気が荒くなる。
「金魚くん、いったい君はナニモノなの。なんで結界を破ったの?」
「わざとじゃありません!」
 わざとじゃない?
 ヤヨイさんのきらきらと輝く大きな瞳の中で虹彩が細く、長くなった。
「ほんとのほんとにわざとじゃないっての?」
「ほんとのほんとにわざとじゃないんです!」
「じゃあ君――――」顔を寄せたヤヨイさんの口元に鋭い牙が覗いた。
「うっかり山神の結界を破るほどの力を持った、侵入者ということに……なるんだけど?」
 は?

 どうしよう……!
 どうしよう……!
 どうしよう……!
 どうしよう……?


 ――――パクッ。 


「いっ――――痛!」
 混乱したままわたしは飛び上がった。
 同時にヤヨイさんも声を上げる。
「あ!――――こら」
 激痛の走った左足に子猫が三匹、いつの間にか食らいついている。
 おさかな。
 おととと。
 うまうま。
「こらあーーーー!」
 ヤヨイさんが慌てて、その子達を引き剥がした。
 わたしは驚き、目を瞠る。
 子猫たちが食らいついた足。
 落ちて傷めた足首から先、ぬげた靴から柔らかな金色のヒレが覗いていたのだ。
「そんな……」
 伸ばした手まで。
 なんと、第二関節から先が半透明に変わり始めている。さらに、なんとなく話しにくいと思ったら、喉のあたりには消えたはずの(えら)が浮かびあがっているようだ。
 ぴしり。驚いたわたしは地面の上で、思わず跳ねた。
 それを、猫が見逃すはずがない。
 おとととと!
 うまままま!
 ままままま!
 さらに数匹、いや数人の猫又の子供たちが、繁みから飛び出してくる。
 ひぃぃぃぃ! 
 狙いはわたしだ。
 みんな目をキラキラさせながら一斉に飛びかかってきた。
 かぷっ!
 かじっ!
 ぺろっ!
 いくら小さな子でも集団になれば話は別だ。
「だめえええええ!」
「いやあああああ!」
 ヤヨイさんは焦り、わたしは払うに払いきれず、情けない声をあげるばかり。小さな暴力に翻弄される。
 うまあ!
 ままま!
 そのとき、凛と涼やかな光がわたしたちの頭上に降ってきた。


「ずいぶん騒がしいなあ……ナニゴトですか」


 光の中から声がする。
 わたしの上で騒いでいた子どもたちも一斉に空を仰ぎ、まばゆいその光に目を輝かせた。
 やまがみにゃ!
 かみさまにゃ!
 にゃにゃにゃ!
 わたしも思わず口をぽかんと開けて、それを見つめる。
 光はしだいに輪郭を定めて、わたしのすぐ目と鼻の先へふわりと着地した。
 青い輝き。
 豊かな水源のすぐそばにいるような、瑞々しい気の匂い。
 涼やかな風をまとう光から降り立ったのは、まだ小柄な少年だった。
 明るく子猫たちに声を掛ける。
「みんな、おいたはいけませんよ」
 はあーい!
 わたしの上でカプカプぺろぺろしていた子猫たちが、みんな一斉にしっぽをあげる。
「困った子はいませんか」
 はあーい!
 子猫たちの可愛い嘘に、少年はふふふと笑った。
「じゃ、みんなにご褒美をあげないとね」
 はあーい!
 彼にも、猫耳としっぽがある。
 秋晴れの深く鮮やかな空の色。
 銀糸の縫い取りのある白い着物に青の袴がよく似合う。
 そして、膨らませた袂から色とりどりの玉を出すと、高く四方へ放った。

 ――――そぉれ!

 きゃああ!
 子供たちもそれぞれ小さな毛玉になって、一斉にそれを追う。
 にゃああ!
 シャボン玉のように虹を弾く玉と一緒に、ころころ転がる。
 少年は、さらに袂に手を入れた。

 ――――もっと出すよ! そーれ!

 みゃああああああああ!

 わたしの視界いっぱいに、子猫たちの笑顔と虹色の玉が跳ねる。
 あははは。
 楽しそうな後ろ姿にも、鮮やかな青い毛並みの尻尾が揺れる。
 ――――猫又の里の山神様?
「はい」
 声に出さない問いに振り返った彼は、わたしと、わたしの鰭化した手足、その傍らで同じように笑っていたヤヨイさんを見比べる。
 だがそこで、彼の顔から笑みが消えた。語調もきつくなる。
「おねえちゃん!」
 おねえちゃん?
 驚くわたしの傍らで、迫られたヤヨイさんが身構える。
「な……なによ?」
 山神は銀色の瞳でわたしを見つめる。そして尋ねた。
「この鰭はいつも、こう?」
 わたしは視線を横にふる。
「いえ怪我をしたら……何故かこうなって」
「では、元はヒトの指でヒトの足だったと」
 は、はい。
 わたしが頷くと、少年の顔色が変わった。
「おねえちゃん、このひとにどの薬を使ったの?」
「里の秘伝の……だって、このひともあやかしで」
「いや違う……気がするんだけどな」
 山神は、わたしの手を取り、くんくんと匂いを嗅ぐと、眉間に深い皺を刻んだ。さらに嗅ぐ。足も。頭も。そして目を上げた。
 厳しい声で言い放つ。
「間違いない――――すぐに、このひとを社殿に運んで!」 
 それから、
「御神酒を三升、大きなたらいを二つ、あと新しいサラシを一反。このひとは、あやかしじゃない。すぐに手当しなきゃ元に戻らなくなる!」
「……そんな」
 ヤヨイさんが立ち上がった。
「金魚くん、ごめん! あたしてっきり……思い込んでて、ごめん」
 わたしは何が起こったのかわからず、頭を下げるヤヨイさんの手を握り返し、あたふたする周囲を見回す。
 様子は一変、近くの民家からも、跳ねる子猫たちを見守っていたおとな達も集まってくる。
「大きな人だな」
「担架に乗らんぞ」
「担ぎ手をもっと……」
「……急いで!」
 山神が、遠くに見える立派な瓦葺きの(やしろ)を指した。

「早く――――」

 わたしは担架代わりの戸板に乗せられ、社へと運ばれていった。





 申し訳ありません。
 少年は深々と頭を下げる。
「こちらで手当をやり直しますね」
 社殿の奥で、わたしは山神とふたり、向き合っていた。
 中は静謐な空間だった。ひんやりとした柔らかな光が、建物の細部を隠しながらも包み込んでいる。
 ここには決められたものしか入れないらしい。
 彼と向き合い、最初に手、そして足を言われるがまま差し出す。
 痛みは殆どなくなっていたが、鰭化は運ばれる間にも進んでいた。左手の手首から先、両足の臑から先も、すでにひとの形跡がない。
「あの薬はわたしには、合わなかったのですね」
「はい」
「でも……わたしは、元々は――――」
 うまい言葉が見当たらず、わたしは声を飲んだ。
「最初がどうであれ、今のあなたはヒトですよ。でなければ、あやかしの薬に反応して、こんなことにはならない」
 そうなのか。本当にそうなのだろうか。
「あの……わたしはその……ヒトに戻りますか」
 わたしが恐る恐る尋ねると、彼は大きく頷いた。
「必ず、僕が戻します」 
 手慣れた様子で彼は患部を酒で洗い流し、さらに残りの酒全てを惜しげも無くたらいに満たして、浸したサラシで鰭化のまだ進んでいない当たりまで、丁寧に包みこんでいく。
 酒精を含んだサラシからは、ゆらゆらと光の粒が立つ。
 それと同時に古酒独特の甘い芳香も空気に漂い始めると、やがて布目にそって、じわじわと黄色い液体が滲み始めた。
「うん……よし」
 それを確かめ、少年は頷く。
「あとはこのまま、薬が抜けるまでじっとしていてください」
 そして、優しく頷いた。
「心配しないで。もう大丈夫ですから」
 わたしはほっと小さな息をついた。
 山神と呼ばれた少年も微笑む。
「でも――――時間をちょっと短縮しましょう」
 え。ええ?
「痛くないです。安心して」
 彼は青い光を全身にまとった。
 酒から立ち上る芳香と光の粒を掌に集め、さらにそれを大きく増幅させ、手から患部にさしかける。
「目を閉じてください。ここからは、少しまぶしいです」
 答える間はなかった。
 瞼を閉じていても、わたしと彼との間で光の渦が柱のように立ち上り、また滝のように落ちてくるのがわかる。
 良い匂いがする。
 最初に彼から感じた、水の気配とそれを弾く森の木々が発するような、深くて、爽やかで、とても豊かな。
 不思議な気持ちで、それを受け止め、香りと光を鼻腔に吸い込む。
「あと少し……」少年が呟く。
 そこから十を数えるほどの時間が揺らぐまで。
「……もう良いですよ。目を開けて」
 わたしは目を瞬かせ、不思議な気持ちで彼と向き合う。
「気分はどうですか」
「大……丈夫、です」
 神――――だった。
 見た目は愛らしい少年だが、気配は動物やヒトという感じではない。
 まるで空気や石や植物と対峙しているような、静かで、穏やかで、大きな感覚。
「痛みはないですか」
「――――はい」
 目が合うと、にこりと微笑む。
 その笑みもまた、まるで年月を経てまろみを帯びた酒の精のようだ。彼と向き合うわたしの体はポカポカと温かく、生気が満ちてくる。
 薬剤色に染まったサラシを解くと、わたしの手足は色以外、すっかり元の形に戻っていた。指の関節もちゃんと動く。
「もうちょっとですね。あとは待ちましょう」
 色を戻す間、少年とわたしはしばし話し込む。
「どうか皆の非礼をお許しくださいね。お客人は珍しいもので」
 彼はわたしをちゃんとニンゲン扱いしてくれている。
 気を遣ってくれている。
 嘘の履歴書や経歴を使って働く自分が恥ずかしい。
「いえ……わたしが元金魚だったのも事実ですので……」
 わたしが目を反らせて呟くと、反対に
「あなたは正直ですね」
 と、山神は頷いた。
「正直なのはよいこと……と、知り合いのニンゲンが、昔、そう言ってました。わたし達あやかしは、必ずしもそれを美徳としないのですが、あなたを見ているとわかる気がします」
 昔という言葉に、わたしはひっかかった。
「あなたは一体……おいくつなのですか」
「猫又とニンゲンの時間は違います……」
 笑みを浮かべた少年だったが、すぐに言い直した。
「いえ、この流れで誤魔化すのはよしましょう――――わたしはソラ。ひとの時間で、およそ百と十歳(とおとせ)を生きています。ここで神職を務める里長(さとおさ)の息子でもあります」
 彼も正直だ。
「山の結界を引いたのもあなた、なんですね」
「まいったなあ……おねえちゃん、あなたには何でも話しちゃうから」
 なんでも?
「なら、ここが結界に守られた猫又の里というのは、その通りの意味なんですね」
「はい、そうなります。ニンゲン達は、錆猫の里とも呼んでいるようですが」
「あ、昔話の……」
「今は都市伝説というんでしょう」
 少し考え、わたしは「そうですね」と返す。
「神といっても、わたしたちの神はニンゲンの定義するものとは異なります。それでも信仰心はあるので、そこに根ざしたものを心の支えとし、生活に必要な祭事を取り計らいます。わたしの役目はそれを滞りなく行うこと。わたしは山神という名の神官なのです」
 人の姿をしているのは、この社殿を守り、神職に就くためらしい。
「それが世界との約束なんです。分ちながら寄り添うことを、遠い昔にわたし達は選びました。ニンゲンは山に祠を建て、わたし達は、迷うものがないよう山のなかにいくつもの結界を張ってそれを守っています」
「じゃ、ここはネルコの祠――――」
「ご明察。ネルコの祠の裏の姿とでも言いましょうか」
「裏の姿」
「はい。ニンゲンとあやかしは表裏一体とわれわれは考え、その裏側から見た世界を生きるものと自分達のことを定義しています」
 裏側から見た世界――――とは、どんなものなのだろう。
 わたしが考えていると、ソラ少年はにっと微笑んだ。
「わたしも、あなたが見ていた水の世界を見てみたいです。泳ぐのが得意ではないので」
 わたし達は声を合わせて笑った。
「それにしても、同僚のヤヨイさんが猫又で、あなたはさぞかし驚いたでしょうね」
「そこまでご存知なんですか」
「あなたがここにいらっしゃったのも、ニンゲン風に言うなら、ご縁でしょう。あと、わたしがあなたに気づいたのは、何日か前に姉のお弁当箱から、初めて嗅ぐ匂いがしたので」
「肉巻きアスパラ」
 それです。ソラ少年が返す。
「普段の生活では、食器洗いはわたしの分担家事なんですよ。匂いにあなたの気配が残っていました」
 そういうことか。
 山神を弟に持つヤヨイさんは、祠である社殿と里を守る巫女であるという。
 本当の名前はモモ。
 彼女のほかにも、人慣れしたものが人里に出て、労働に従事し対価を得ているらしい。
「ひとのお金が必要なのですか」
「はい、萬丈酒はあちらにしかありませんから」
「萬丈酒? 道の駅やドラッグストアで売ってる、あの?」
 撫子さんが老眼対策の寝酒にしている、あの?
 はい。ソラ少年は頷いた。
「あの薬用酒は奇跡です。ヒトにもわれわれにも効果覿面なんですから!」
 普通では有り得ないことだと言われ、わたしは改めて、自分の手足を眺め見た。
 なるほど。
「数百年も昔、わたし達がここを棲家と決めたのも、あの薬用酒がこの町で作られているからなのです」
 そういうことだったのか。
「……じゃあ、こんど祠にお供えしますね」
「ありがとう。嬉しいなあ」
 わたしの手足が完全に色を取り戻したのを確かめつつ、彼はわたしの手を握る。
「これで大丈夫」
「あ、あの……」
 最後にひとつ――――と、わたしは言い淀む。
 今一度、山神に確かめたいことがある。
 そう切り出すと、少年は、なんなりとと頷いてくれた。
「わたしは……本当にヒトで間違いないのでしょうか。あなたの言葉を疑うわけではないのですが……」
 そうですね。
 山神と呼ばれる少年は、しばし黙考していた。
「あなたはヒトで間違いない。これは信じてくださって大丈夫です。でも、ご自身の成り立ちを迷っていらっしゃるのですね。お察しいたします。世の摂理を以ても、その辺りの説明はとても難しいものです」
 難しい――――?
「変わりつつ成るというのは、ある意味、特殊なのです。それを世に認められているということですから」
 変成――――か?
 わたしは、暫し黙考した。
「この世にもあの世にも摂理があります。しかし、摂理だけで世界は動きません。それを補うために、規格外の特異点を設ける。あるいは動かす。ゆえに必要とされ、わけあって認められているものと呼べるでしょう」
 例えばボヘミアン、とか。
「……なにか?」
「いえ、なんでも」
「あなたはもう、そのわけを探す旅を始めていらっしゃるようにお見受けします。日々の心の旅です」
 わたしは小さく頷く自分に、微笑んだ。
 日々の心の旅。
 それならば、すでに書き留めようと心がけているような気がする。
「――――そのまま、続けてくださいね」
「毅然としろと教えてくれるひとが、そばにいるので」
「……それはよかった」
 萬丈酒を小さな盃にいれ、わたしに勧めながら、あとで元の世界まで送りましょうと山神は言った。
 それは願ってもないことだった。
 しかし良いのだろうか。
 わたしは意図せず、結界を破ってしまった。山に戻れば、また同じ過ちを犯してしまわないだろうか。
 そう尋ねたわたしに、彼が答える。
「そのことなら」
 原因はわかっていると、わたしのシャツのポケットを指す。
 わたしは、はっとして中を確かめる。
「五色琥珀……」
 はい。彼は微笑んだ。
「五色琥珀はわれわれの道標です。遠きものが作り、あわいの道を行きて帰るため、あらゆる世界に撒きました。そのうちのひとつが、すでにここに戻っているので、あなたの琥珀と呼応したのでしょう。結界は破られたのでなく、琥珀に道を開いたのです」
 山神は祠の奥の鏡を指さす。
「あとで一緒に見ましょう。それをここに戻したのも、あなたのように外から来た御仁だった」
「外の世界――――ひとが?」
 ええ。
「願いを叶えて貰った御礼にと、納めていかれたのです」
 そして、ちょっと懐かしそうな顔をした。
「その方も、あなた以上の規格外でしたね。何せ、ひとの身でありながら、あわいの道の真ん中を素っ裸で通るんですから」
 なんと。わたしは身を仰け反らせる。
「それでいて、あやかしにもヒトにも、それ以外のモノにもとても優しい。愉快な御仁ですよ」
 似たような話を、昨夜聞いた気がする。
「正直がよいと言ったひとですね」
「――――そう。その方です」
 さすがボヘミアン。こっそり、わたしはそう思った。
「わたしも琥珀をお返しすべきですか」
「いいえ――――問題ありません」
 山神は首を横にする。
「その琥珀はあなたと、あなたの家を守っています。それを無下にすることを世界は望まないでしょう。わたしたちには、この琥珀とわたしがいるので」
 そうですね。
「それに姉も助けてくれます」
 はい。
 わたし達は琥珀を手に、萬丈酒で乾杯する。
 カラカラと笑う山神の表情が、思い出話をする撫子さんによく似ていると、わたしは気づいた。




 祠の扉を開けると、すっかり小さくなったヤヨイさんこと、モモさんが外で待っていた。
「ごめんね……金魚くん……」
「いえ。こちらこそ」
 わたしも深々と頭をさげる。
 わたしは、なにかと知らない事が多すぎる。
 それがトラブルの元になりやすいのは、今回のことで決定的になった。
 ちゃんと知らなくては。
 もっと考えなくては。自分が何者で、この先どう生きていくのか。
 特異点としてただ受け入れて貰うだけでなく、世界を、身の回りの人々をわたしがどう受け止めていくのか。
「なんか――――顔つきが変わったね?」
 そうですか。
「うん。すっかりいつもの金魚くんだけど……なんというかちょっとだけ違う」
 そうかも知れません。
 わたしは笑う。確かに、わたしはちょっとだけ変わったかもしれない。
 琥珀のお守りをいただいている分。
 ちょっとだけ。


 ふたつ目の五色琥珀について、もう少し話をしよう。
 山神ソラくんは、わたしの身体が完全に整ったのを見届けてから、本殿の裏側を特別に見せてくれた。
 もちろん、本来は絶対に見せてはいけないものである。
 この里でも、ここを知っているのは山神である彼と里長だけ。
 そんな場所に客であるわたしが通して貰えたのは、ポケットの中の62円琥珀のおかげだ。
 ご神体である鏡の裏には、『その琥珀』によく似た石がひとつ填め込まれていた。
 色はすこし青みがかった半透明で、内包物は花の種だという。
 わたしがポケットから『62』を出すと、二つの石は共鳴して小さく震えた。
 ソラくんが(いにしえ)の『かみことば』を唱え、鏡に触れると青い琥珀は、ぽろりと彼の手に落ちてきた。
 それを彼が翳す前に、わたしの口をついて、ある数字が言葉になる。
「――――59」
 山神は頷く。
「そして円」
「どうして円なのでしょう」
 わかりませんと彼は笑った。
「作ったものの悪戯かとも思いますが――――ただ」
 ただ?
「円とは(えにし)であり、物事のまどかなる様を意味します。わたしには偶然や悪戯とは……とても」
 共鳴し合う琥珀は、まるで引き合っているようだ。
 わたしも頷いた。
「共にあれと、言われている気がします」
 ソラくんは微笑み、わたし達は琥珀を合わせる。
 琥珀が鳴いた。
 輝きながら、鳥のように細くて高い声を発する。
 光に包まれながら、わたしは琥珀の声を聞き、共にあることの意味を考えていた。


「ちょっとだけ……わたしなりに、考えていることがあるのです」
「ふうん。そうなんだ」
 モモさんがくんくんと鼻を鳴らし、わたしは胸ポケットに手を当てた。
「それかな」
「……はい」
 まだほんのりと熱を帯びた琥珀は暖かく、わたしは目の見えない何かに包まれ、守られている感覚を思い出す。
 その様子に気づいたソラ少年が、杯を片手に、わたしに奨めた。
「――――もういっぱい、いかがですか萬丈酒。体の回復にいいんですよ」
 あは。わたしは笑って、手を立てた。
「いえ。もう十分……」
 これ以上飲むと、酔っ払ってしまいそうだ。
「君たち、もうすっかり仲良くなっちゃったんだね」
 モモさんが笑う。ソラくんが微笑み返してくれたのが、わたしも嬉しかった。
「念のために、ほころびがないか結界を見ておいてね」
「わかってるよ、おねえちゃん」
 そのあいだに、里の中を見ていくかとヤヨイさんに尋ねられ、わたしは大きく頷いた。
 行きます!






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