第十二話 働くもの2 『勤労感謝』

文字数 11,104文字


「ここが猫又の里というのは……」
 そう切り出したヤヨイさんこと、モモさんが笑い出す。「もう見ればわかるか」
 わたしも釣られて笑った。
「そうですね」
 そして、あらためて里のあちこちを案内して貰った。
「猫又にもたくさんの種族があってね。あやかしとしての歴史はとても古いの。われわれは東に始祖を持つ一族。そして千年ほど前に、この土地に越してきたんだ」
「それ以前は、どこで暮らしていらっしゃったのですか」
「ん。それは――――秘密。でも」
 人類の祖が、ひととして定住を始めた頃には、すでに彼らも存在していたのだとモモさんは説明する。
「わたしたちは表裏一体だから」
 山神ことソラ少年の説明と同じだった。
「昔は今よりもっと、混ざり合って暮らしてたんだよ」
 だが、ある時からその繋がりが、たがいの摂理に合わなくなって行ったのだとモモさんは言った。
「だから結界が必要なの、今はね」

 世界を分つのは、ひとだけでなくあやかしの意思でもあるらしい。
 ソラ少年も言っていた。
「ひとは、魂魄と自らのマインドを指して説明します。
 あるいは、荒ぶる魂と和む魂と神を以て象徴させることもある。
 われわれの思う表裏一体とは、ひとの思うそれらと呼応します」と。
 哲学を語るようで難解な言葉だが、わたしにもわかることはある。
 近しい者同士の混雑は、時にすれちがい、争いを生む。ということだ。
 それはひとのみならず、あやかしにとっても好ましい世ではないだろう。

「結界の向こうはことぶき山ですか」
 ううん。モモさんは言った。
「結界の向こうはあわいの道、その先が人里。ことぶき山とか三登里市とか、オオマキと呼ばれる場所になる」
 なるほど。わたしは頷いた。
 結界には『あわい』という余白がある。
 夏祭りの夜、うららちゃんの一線の手前で、わたしが覗き込んだのはそこだ。撫子さんと鈴を鳴らしたのも、きっとそこに違いない。
 表裏一体。
 だが、その境界は曖昧でもある。
 結界がただの緩衝地帯ではなく、ひとつの『狭間』だとすれば。
 曖昧な世界。
 曖昧な存在。
 曖昧なわたし。
 それも道の上に乗っているのだろうか。
 そんなことを考えながら、わたしは歩く。
「この里山は、小さな盆地よ――――ニンゲンの地図の上だと山の中腹に突然現れる窪地って感じかな。でも、誰もこんな猫又の里だとは気づかないってわけ」
 へえええ。わたしは感心した。



 里の暮らしは、古き良き長閑(のど)さに溢れている。
 葉物野菜の畝がつづく畑、林檎や柿の木などの果樹に、赤い曼珠沙華の花も稲刈り途中の(あぜ)に揺れる。
 家や建物は石組みを土台にした、木造家屋だ。
 水くみの井戸端ではブチやシマのおとな達がお喋りし、子供たちが駆け回っている。
 のんびり昼寝をする姿も多い。
 家の軒に出した床几(しょうぎ)で船を漕ぐハチワレや、屋根や木の上で揺れるカギ尻尾、日向でのんびり休むミケのおねえさん達。
 もちろん働き手もいる。
 畑仕事をするトラや、建物を修繕しているシマ。
 焼き物だろうか。大きな煙突のついた階段式の登り窯のそばでは、一心に粘土を捏ね、ろくろを回すサビの職人もいた。
「ここの名産よ。人里の道の駅や街のお店でも、お茶碗やお皿を置いて貰ってるの。見たことない?」
 ああ、そういえば。
 渋い錆猫の毛並みのような焼き物を、この町ではよく見かける。
「じゃあ、ことぶき焼というのは……」
「ここの焼き物よ。もちろん、外にはニンゲンの陶工もいるから、ざっくり、この山の土で焼かれた物がそう呼ばれてるみたい」
 わたしと撫子さんのお茶碗も、ことぶき焼きだ。
「手に吸い付くような焼き肌と、釉薬(ゆうやく)の面白さがいいですね」
 通りすがりの女性達が挨拶する。その毛並みが素朴で美しい器の地色そっくりであることに、わたしはふとモモさんを見つめた。
「あの――――変なことをお尋ねするのですが……」

 ことぶき山の錆猫伝説って、ご存じですか。

 しばし沈黙がある。
 そのあと、モモさんは吹き出した。
「なあんだ、もう……急に怖い顔するから、変に構えちゃったよ」
 え。急に?
「……怖い顔? しましたか、わたし」
「したした」モモさんは笑い続けた。
「もう金魚くん、口調が丁寧だから却って怖いんだって」
 そうでしょうか。そうですか。
「くだけた言葉遣いはなかなか、なかなかに難しくて……ですね」
 わたしは言い訳する。
 わかった、わかった。
 モモさんは、それをいさめた。
「錆猫伝説かあ……うん。都市伝説好きなんて、いかにも君らしいね」
 それで、今日は山に登ってきたのかと尋ねられ、わたしは素直に頷いた。
 じゃあ。モモさんは背伸びをする。
「ちょうどいいか。心配なんだか、興味津々くっついて来るのもいるようだし」
 くるりと振り返り、後ろに向かって声を投げる。

「そこのチビたち! そろそろ出てきていいよ」


 にゃあ!
 みゃあ!
 ぬうー!
 ひゃあ!
 くうう!


 呼ばれて方々から声がした。
 続いて植え込みや建物の影から飛び出したのは、短毛に長毛、カギ尻尾にナガ尻尾と、ぶちやトラ、シロにクロ、アカにハイ、三毛――――そしてサビの猫耳を持つ、愛らしい猫又の子供たちだ。
 ふかふかの肉球をひろげ、口々に駆け寄ってくる。

 おねえちゃーん。
 オトトさんだあ。
 ふたりいっしょ。
 あんよなおった。
 おててなおった。

 もうどこもいたくない?

 うはあ。
 可愛い。うっかり顔がにやける。
 ペロペロカジカジされたことも忘れ、ついつい微笑む。
 最初にわたしを取り囲んでいたのも、この子たちだろうか。

「うん。ありがとう」

 わたしが腰を折って顔を寄せると、全員の耳がぴくりと動き、口を閉じる。
 あれあれ?
「ん。みんななんて言うのかな?」
 モモさんの促しに、もじもじしていた子、はにかみ笑う子、みんな宝石のような目をきらきらさせる。

 こ、こんにちわ!
 いらっしゃいませ。
 おげんきですか!

「ちがう、ちがう。そこは、ごめんなさい、お大事にでしょ」
 あははは。わたしは堪えきれず、声を立てて笑った。
 もういいですよ。治ったんだし。
「こんにちは。はじめまして、金魚です」

 おととさん!

 おねえちゃんより大きいね。
 おねえちゃんもおっきいよ。
 
 わたしたちは囲まれた。
 四方八方から、もふもふの小さな手が、ぴゅんぴゅん動く尻尾が絡んでくる。揉まれる。登られる。
 この既視感――――。
「うはあ……ツ、ツメは立てないで」
「あらららら……噛んじゃだめぇ!」

 ふたりともおっきい!
 おっきい! おっきい。
 モモねえちゃん、あれやって!
 あれやって!
 あれやって!

 あれやって!


「あは。呼んだのは藪蛇だったか」
 モモさんが笑った。
 わたしは問う。
「あれってなんです?」
「ええー君まで?」
 しょうがないな、とモモさんは肩を鳴らす。
 そして、高く両手を掲げた。
「よし。じゃいくよ――――!」


 ぶわああああああ!


 モモさんの姿が一瞬にして変化した。
 視界が鮮やかな春の色に染まる。
 天に上りゆく、くれないの妙。
 陽光を弾いて輝く長い毛足に、わたしは息を飲む。
 まるで花のような。
 燃えさかる暖かな火のような。
 なだらかな体躯は果樹の木を越え、すっくと大地を踏みしめる。光り増す瞳は金色に輝き、花の毛並みに散った斑と呼応する。
 モモキン、錆猫。
 いやこれこそ、彼女、本来の姿か。
 あやかし――――いや、神のお使い。
 山の巫女。
 山神の神殿に使える巫女なんだ。
 わたしが目を奪われている間に、子供たちは蜘蛛の子を散らしたように逃げていく。

 きゃあ!
 あははは。
 みゃははは。

 やっぱりおねえちゃんの方が大きい!

 おねえちゃんが大きい。
 おねえちゃんが一番!

「……ったく、もう」
 いつの間にか元に戻ったモモさんは、わたしと顔を見合わせると、改めて笑った。
「――――びっくりした?」
 びっくりしました。
 あなたがあまりに美しくて。
「ま……まだドキドキしてます」
 わたしは胸元を押さえる。
「はは」
 モモさんは笑いながら、ほんの少し頬を染めた。
「あとで、ソラにも見せて貰うといいよ。あの子はもっと凄いから」
 ええと――――あ!
「アオギン?」
「ご明察」
 と、いうことは。わたしは指を折って唱えた。

 クロチャ
 チャキン
 ハイキン
 アカクロ
 シマサビ
 ミケサビ
 サビシロミミ
 サビシロアシ
 モモキン
 アオギン

 確かに、案内された里の中ですべての毛並みは見た気がするし、モモさんとソラくんを加えれば――――
 ん?
「シロミミさんとシロアシさんがまだな気がします」
 おっと。
「そっか……じゃあ」
 モモさんがわたしの腕を引く。
「ここまで来たんだし、ついでに里長の家も、紹介しちゃうよ。こっちこっち」
「里長? じゃ……」
「わたしの実家よ」
 ふあっ。
「え、そんな突然……いいんでしょうか……」
「だいじょぶ、だいじょぶ。むしろ顔出ししないと、あとでわたしが怒られるって」
 え。ええええ!
 ぐいぐいと手を引かれると、すぐに緑の鮮やかな生け垣と立派な門構えが見えてきた。
 お堀の向こうは海鼠壁(なまこかべ)のお屋敷。
「ここだよ」
 緊張の面持ちで、わたしは頷く。





 
 里長のお屋敷は見た目通りの立派なもので、お庭だけでも、前庭、中庭、後庭と三つあるような広さだ。
 わたしとモモさんは、まずご挨拶するために静かな奥の間へ向かい、そこでご静養中の里長とお話した。
 シロミミをお持ちだったのは、こちらの長と、彼そっくりのご長女であった。
 モモさんは長の三番目のお子さんらしい。ソラくんは四番目。
 長男のお兄様は若くして亡くなられたそうだ。
「錆猫のオスは三毛同様にとても珍しいの――――だから」
 子供をもうけるものは、代々の長の家系のみであるとモモさんは言う。
「その代わり……というか生まれつき弱い体質でね」
 そんな父と弟のソラ君が、こうして生き延びているのは、かの萬丈酒とこの土地の清浄な空気のおかげだとモモさんは言った。
「それでヤヨイさん――――いえ、モモさんは」
 うん。
 照れくさそうに耳の後ろを掻きながら、モモさんは頷く。
「そうだ、金魚くん。明日また、お店であったら……だけど」
 これからも、今まで通りに接して貰えるかと尋ねられ、わたしは胸を叩いた。
「もちろんですよ。こちらこそお願いしたいぐらいです、リーダー」
 そう答えたわたしに、モモさんはくすっと笑い、そしてちょっとだけ目を潤ませる。
「いやあ……嬉しいなあ。ほんと――――君が後輩でよかったよ」
 ありがとうね。
 ふたりして中庭で話し込んでいると、ふいに回廊をやってくる気配があった。
「まあ、どこに行ったのかと思えば、こんなところで立ち話なんかして」
 モモさんによく似た年配の女性は、最初にご挨拶させていただいたお母さまだ。
「モモさん。金魚さんをお座敷にお通しして。ソラが戻りましたよ。皆でお茶にいたしましょう」
 はあいと返事をしたモモさんが、わたしに目配せする。
 通りすがるお母さまの後ろ姿を振り返ったわたしは、ほうと頷いた。
 菓子折を抱えた手、白足袋を履いた和装の足元から、ちらりと覗いた毛並みがまさに――――
 シロアシの赤サビ!
「あとはソラのアオギンだけだね」
 モモさんが笑う。
「お陰様です」
「伝説を達成した暁に、君は、どんな願掛けをするの? 実に興味深いなあ」
 どうしたものでしょうか。わたしは小首を傾げた。
「撫子さんに、すでに叶っているものは願いにならないと言われて悩んでいるのです」
 だったら「絵馬だけ奉納して、願いはあとから付け加えるといい」とモモさんが言った。
「そういうのアリなんですか」
 うん。モモさんは答えた。
「伝説じゃ違うけど、実際に願掛けの契約を結んだ最初のヒトは、そうして願いを叶えたと聞くよ」
 ほうほう。わたしは頷く。
「そうして貰えると助かりますね」
 自分としては、むしろ錆猫の不思議をこの目で見るのが目的。
 そういう意味で、フルコンプを達成したのは奇跡と言える。
「意外なことで、このお里に来てみなさんの個性豊かなお姿を知ることも出来ましたし」
 モモさんは嬉しそうに微笑んだ。
「面白いでしょ。猫又の擬人化は、みなそれぞれだから。わたしやソラみたいに殆どヒトみたいな者もいれば、お母さまやお父さまのように猫要素とヒト要素が混ざってるとか、さっきの子供たちみたいに話す子猫って感じのもいて」
 はい。わたしは頷いた。
「なんだか素敵ですね」
 みんなそれぞれ。みな好きなかたちで成り立っている。
 その面白さはヒトの世界にはないものだ。
 よかった。モモさんは言った。
「そう言ってもらえて。話も聞かず、君をあやかしだと決めつけたこと、薬で酷い目に合わせたこと、わたし後悔してるんだ」
 改めて頭を下げられ、わたしは戸惑う。
「もう――――十分ですよ」
「ありがとう……金魚くん」



 お茶の時間は楽しく過ぎた。
 夕食をどうか、なんなら泊まっていかないかとも誘われたが、わたしは山に一人残してきた撫子さんのことが気に懸かっていた。
 できれば日暮れ前に戻り、揃って山を下りたくもある。
 そう言うとみな承知して、わたしは帰途についた。ソラくんが結界の出口まで見送ってくれるという。
「お世話になりました」
「またあした職場でね」
「お気をつけて」
 里の辻の真ん中で、すいっとソラくんが引いた一線から、わたし達は靄の立ちこめる『あわいの道』にはいる。
 わたしは、昼でも夜でもない薄ぼんやりとした空間を見渡し、小さく息を付く。
 どうしました、とソラくんが尋ねた。
 いえ、とわたしは返す。
「やっぱり、結界にも領域があるんだと思って」
 ソラくんは目を丸くし、次にまいったなと耳を掻く。
「毎日、ここを通って人里に働きに出る姉はそんな風に言ったことなんてないのに――――あなたは、一度でそれを見破ってしまうんですね」
 そんな大袈裟なことだと思わなかったわたしが、意味を聞き直すと、ソラくんは空間の右から左、前から後と指して言う。
「あわいの道は、通るものの感覚に沿うものです」
 扉だと思うものの目には、扉に。
 一本の道と思うものの目には、その通りの一本道に。
 分岐のある、交差する、双方向、などと思うものの目にはその形に。
「ですが、あなたはここを領域だとおっしゃる」
 パンと彼は手を打った。
 音に合わせ、ふいに四方に開けた視界にわたしは驚き、声を飲んだ。
「なので、道は今すべての姿を見せました。正しい姿です」
 あわいの道とは、世と世のあわいを繋ぐ領域だとソラくんは言う。
「琥珀を出してください。あなたのための道案内をしてくれます」
 琥珀は、道標。
 最初にあわいの世、あわいの道を通ったひとが、行きて帰る為、迷わないために要所要所に置いたもの。
「じゃ――――一度行った場所には……また」
 わたしが口を開いたとき、それまでただうすぼんやりとしていた道の向こうに、人影が見えた。


 ……こぉ……


 聞き覚えのある声がする。
 歩いてくる誰かが、呼んでいる声。


 な――――でし……こぉ……


 わたしは、はっと息を飲んだ。
 猫又の里に落ちる前に、まったく同じこの人物と、この空間ですれ違い、声を聞いていた気がする。


 きゃははははははは――――。


 うららちゃん?
 遠くからゆっくりと近づいてきたのに、何故か通り過ぎるときには風のような速度で行ってしまった背中を、わたしは振り返る。
「――――うらら……」
「だめです。引き留めては」
 その背中をソラくんに掴まれた。
「でも、今の――――」
「あれは影です。次元に残った残留思念のようなもので、まったく人格も意志もない。ひとでもない、あやかしでもない。実体もない。掴まえても取り憑いたり、悪さを働いたり、面倒なことしかありません」
 わたしは言葉を飲みこみ、琥珀を固く握りしめる。
「もしや……お知り合いのどなたかに似て?」
 頷いたわたしに、ソラくんが呟く。
「それはお気の毒に……」
「ご存じなんですか」
 逆に尋ね返したわたしに、ソラくんが頷く。
「はい。願いが叶ったお礼にと、祠に琥珀を奉納されたヒトの影ですから」
 え。
 わたしは驚いた。
 話しの流れから、てっきり猫又の里を訪れ、琥珀を置いていったのはボヘミアンの忠彦さんだと思っていたからだ。
 だとすれば――――撫子さんの記憶にない、入れ替わり前の『うららおばあちゃん』?
 夢見の力を得た御礼に猫又の里に立ち寄ったのか。
 あわいの道に影を残したのも、その力と関係があるのか。
 それとも何か別の願いを叶えたか。なんのために?

 あわいの道。

 この世とあの世の曖昧な空間。

 道標としておかれた琥珀の声。

 しゅっと一線をひいて――――。

 ……金魚さん……。

「金魚さん!」
 ソラくんに呼び止められ、わたしは足を止める。
 その耳元でぞろりと何かが生温かい息を吹きかけてきた。
 ――――もうし。
 しまった。
 わたし達は走り出す。
「コッチです!」
 ソラくんの指す方に、明るい光が浮かんで見える。
「あの向こうが、結界の出口になります」
 一本道ならすぐなんですが。ソラくんの言葉に、わたしは申し訳ないと頭をさげた。
「いえ、責めるつもりは。一本道ではほかの道を使えません。あなたにとって――――」

 わたしにとって?

 彼の言葉に、わたしは戸惑う。
 しかし、長く考えている暇はなかった。
 何かが来る。
 もうし――――。
 近くに見えた光は思いのほか遠く、その合間にも交差するさまざまな道の上から下から、左から右から――――。
 ニオイガスル。
 ヒトノニオイガスル。
 よく見えない気配、生温かい息、冷たい影が、わたしたちに食指を動かし声を掛けてくる。
 もうし――――。
 もうし――――。
 もうし――――。
 もうし――――。
 もうし――――。
 すべて振り切って走り抜ける。
 あと少し。ソラくんが言った。
 その言葉の通り、光り輝く出口に、もうあと少しで手が届こうかというときだった。

 とおさん!

「――――切羽っ」
 わたしの上に乗りかかろうとした大きな黒い影を払いのけ、ソラくんが吠えた。
 風が渦巻く。
 転がるわたしは、必死に何かを掴み、それがソラくんの青く輝く銀の足であることに目を瞠った。

 とおさん!

 ずんと地面が沈み込む。
 頭上に乗りかかる影。それは巨大な岩の壁のような何かだった。
 ぬりかべというユーモラスな妖怪を漫画でみたことがあるが、あれをもっと巨大に、もっと重々しく悪意をこめたようなものと言えばいいだろうか。
 名前も知らぬ、ゆかりも知らぬそのあやかしは、ただ立ち塞がり、出口の光を覆い尽くし吠える。

 とおさん!

 なにゆえか。
 ソラくんの全身の毛が逆立つ。
 それまであやかしに構うなとわたしに行ってきた彼が、真っ向からその岩石の壁に立ち向かう。
「なんじ、ことぶき山の大名主が行く手を阻むものぞ、如何!」
 大声で対峙する。
 アオギンの豊かな毛並みが逆巻く風にたなびき、擦れ合う大気の粒が対の波となる。
「……グギギ……」
 ソラくんの威嚇に、それでもあやかしは動こうとしない。
 ソラくんが声を張った。

 なんじに命ずる!

 そして、今すぐ立ち退けという意味の『かみことば』が続く。

 ことぶく山の道あいに()りて、よろずことなすこと、わが言の葉の(めい)()り従うべし。
 かのやまの大名主(おおなぬし)が立ち下りて、なんじに申す。
 三つ待たぬうち()ぬるべし。
 しからずば神の名のもと、なんじが影と形をば八つに裂き折り切り砕きて、一息に飲み干さん。
 往ぬるべし。()く往ぬるべし。

 いざ!

 コツ、コツ……と、ソラくんの指があやかしの岩肌を弾く。
「……ぐぅ」
 言葉が断じた通り、三つを待たずしてピシリとそこに亀裂が入り、大きな音を立ててあやかしの体が崩れた。
 光が差し込む。
 ようやく立ち上がったわたしに、ソラくんが手を差し伸べる。
 青い風が吹いた。
 わたしの髪とソラ君のたてがみが巻き上がる。

 今のうちに!

 わたしはその手を掴んだ。
「ソラくん、ありがとう。またきっといつか――――」
 掴んだ手がわたしの背を、光の向こうへ押し出す。
「またいつか!」
 アオギンの手が揺れた。
 わたしも、振り返した。
「……萬丈酒、祠にお供えします」
 あはははは。ソラくんが嬉しそうに笑う声が、光の向こうから聞こえた。


 待ってますよ……!



 闇と光から抜けたわたしの手を、ぎゅっと握っていたのは撫子さんだった。
 崩れた山道から落ちたわたしは、偶然にもその真下の木の枝に掛かっていた、古いテントの帆に受け止められたらしい。
 そう。古い、黄色いテント。
 夏のキャンプで突風に攫われた、わたし達の、忠彦さんから撫子さんが貰ったというテントだ。
 わたしを受け止めたあと、そのテントは沈み、古い継ぎのところで真っ二つに裂けたらしいが、落下の衝撃から守られたわたしの体は、そのテントと一緒に、ふかふかした腐葉土に着地した。
 おかげで、足と手を少し捻挫するだけで、大きな怪我もなくすんだのだ。
 病院のベッドでそれだけのことを、涙乍らに語った撫子さんの背中に、わたしはぎゅっとしがみつき、そして小さな息をつく。
 ――――戻ってきたんだ。
 そう思った。
 送って貰って、ちょっとだけ何かを知って。
 わたしにとっては、大冒険だった。
 だけど、待っていてくれた撫子さんには、きっと、とても長い時間だったに違いない。
「……心配かけて、ごめんなさい」
 くうっと、小さく撫子さんの喉が鳴る。
「ほんとだよ! まったくだよ!」
 そう言いながら、すでに真っ赤になった目を拭う。
 わたしは、何度もすみませんを繰り返した。
 そして、改めて自分が眠っていた病院のベッドや、病室やらを見渡しながら、現実に立ち返る。
 そして、こそっと撫子さんに耳打ちした。
「……ええと撫子さん……わたしにかかる医療費などは、その……」
 うるさいよ!
 ぽこんと頭を叩かれ、いてっとわたしは首を引っ込める。
「怪我人が気を回すんじゃないの。あんたが寝てる間に、病院とソーシャルワーカーさんに相談済みよ」
 えええ――――怪我人を殴ってるひとに、言われても。
 でも、わたしは安心した。
 そのあたりのことは、撫子さんにまかせよう。そう思った。
 そして、これまで逃げていた住民票とか戸籍とか、身分証明も。
 ちゃんと生きよう、だって。
 わたしは、ひとなのだから。
 そのあと、ナースコールで呼ばれた看護師さんと担当医さんにお世話を受け、わたしは改めて、自分の丈夫な体と幸運に感謝した。
 枕元の花瓶に入った、可愛いお花と萬丈酒にも――――え?
「撫子さん……これは」
「ああ、これはあんたの職場の」と撫子さんは微笑む。
「ヤヨイさんって方が、お見舞いに持ってきてくださって」
 くうううう。
「わたしがお供えするはずだったのにぃぃ」
 お供え? 撫子さんが首を傾げる。
「縁起でもないこと言うんじゃないの、この子は!」
 スパーンと背中を叩かれ、わたしは身を縮めた。
 ひゃあああん。
 そうじゃない。
「撫子さーん……いちおうわたし怪我人ですう……」

 あ、ごめん。つい。






 数日間の検査入院のあと、わたしは帰宅した。
 そして、ソーシャルワーカーさんの計らいといくつもの医療情報を添え、このあと家庭裁判所やお役所に行政的な手続きの申請をすることになる。
 二十年間、ひととしての記憶を一切持たず、該当する失踪人届けなども出ていないわたしの記録は、まさに真っ白だが、決して前例のないことではないとソーシャルワーカーさんは言った。
 ハルネ水波(みずは)
 これがわたしの、ひととしての名となる予定だ。
 名付け親はもちろん撫子さんで、今の金魚のままではお役所の印象がよろしくないだろうという、おとなの配慮である。
 でも、どちらの名で呼ばれても、わたしは今まで通りに返答するつもりだ。
 アルバイトは続ける。
 秋の行楽シーズンを迎え賑わう店で、ヤヨイさんもわたしも忙しい。
 意識を失っていた間にわたしのした冒険は、備忘録に描いて撫子さんにも披露した。
 かなり迷ったが、あわいの道で見た撫子さんの姿をした『残留思念』や、祠の中にあった『59』の琥珀のことも包み隠さず話した。
 撫子さんはニヤリとして、
「――――うららの戻る来年の夏が楽しみだわ」と笑う。
「もう遠慮はしないわよ、金魚さん。叶えた願いやら、忠彦さんのことやら、おばあちゃんに色々と確かめてやるんだから。真実はいつもひとつ!」
 ははははは。
 撫子さんが撫子さんらしくて、なにより。
 五枚にもおよぶ大作となった備忘録の『錆猫伝説とことぶき山編』には、そんな撫子さんの高笑いをシメに描いておいた。
 できあがった備忘録を広げ、ひとり悦に入る。

 うむ。
 われながら――――良い出来だ。





 日々がゆったり過ぎていく。
 そして、ふたりで市役所に行った、とあるお休み。
 撫子さんは、わたしを受け止めてくれた忠彦さんのテントを浄め、感謝の言葉と共にオオマキ神社に奉納した。
 それから、冬が来る前にと十種の錆猫の姿を描いたわたしの絵馬を三升の萬丈酒と一緒に、改めてネルコの祠におさめに出かけることにした。
 最後の紅葉が鮮やかな山肌。
 巨大な岩と岩の間に鎮座する、神秘的な石造りの祠にあらためて感動する。
 ソラくんに聞いた、ひととあやかしの交わした約束について――――わたしも、同じ気持ちでこの世界に寄り添えるといいなと思った。
 二人で並んで祠に手を合わせたあと、何をお願いしたのかと、嬉しそうに撫子さんが問う。
 わたしは、少し考えたあと、正直に答えた。
「今は何も思いつかないので、お願い事は待ってくださいと……」
 ええ、なにそれ! 撫子さんは目を丸くする。
「なんか、そういうのでも良いらしいので」
 聞いてない、聞いてない。
 撫子さんが暴れる。
「そんなのつまんないよー」
「だって、すでに叶ってるものは無効だって、撫子さんも言ったじゃないですか」
「言ったけどさあ。せっかくなのに勿体ないじゃない。なんかないの? 叶えたいことのひとつぐらい、あるでしょ」
「そんな無理矢理搾り出して叶えなくても。それに願い事はお一人様一つ限りだって、言いますし」
 え? そうだっけ?
「冗談でしょ。そんなスーパーの特売品じゃないんだから」
「いえ本当です。都市伝説サイトのQ&Aにもあるでしょ」
 えええええ。撫子さんが叫んだ。
「じゃもしかして、わたしは先代がお願い叶えて御礼までしてるから、もうダメってこと?」
 ええと。
「そう……ですかね。いやどうなんだろうな。撫子さんは撫子さんだし、だけど、うららちゃんも撫子さんだし、というか、お願い事を叶えたうららちゃんが撫子さんだったし……だけど、撫子さんもうららちゃんだから……つまり」
 神様に事の顛末をお話して、ちゃんと伝わればいいのだが。
 それだと今の撫子さんは亡くなっていることになり、こんなにピンシャンしているひとが故人認定を受けてしまうのも、それはそれでややこしい気がする。
 わたしは迷った。
「ええ……と……」
「どっちなのよ!」
「たぶん――――アウト?」
 いやあ。撫子さんが泣き叫ぶ。
 そんなあああ!
「ざ、残念ですが」
 故人認定と撫子さんの欲望を秤にかけて、わたしは返す。
 それを知ってか知らずか、撫子さんは子供のようにへそを曲げた。
「ひどーい。これから、わたしも再チャレンジしようと思ってたのに。そんなの――――」
 撫子さんは天を仰ぎ、深く、深く慟哭する。

 聞いてなあああーーーーい!






うらら・のら  『勤労感謝』全五話  了
うらら・のら 第一部完結

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