第六話 抱えるひと 『鸚哥の樹』

文字数 7,866文字


 備忘録の一枚目は、その三日後に仕上がった。
 はじめに構想したとおり、わたしが見て、聞いて、感じたものの記録である。
 そのため一枚目は自然と、ご近所さんのお散歩マップになった。
 まずはうちから、お祭り提灯などをしまった町内会の集会所を通って、オオマキ神社までの一(キロメートル)弱の道をゆく。
 その間には、もう十二軒中七軒が閉店してしまった商店街がある。その角には先月まで撫子さんが便箋やキラキラ千代紙を買っていた文房具店さん。真ん中あたりにはカレーコロッケの美味しいお惣菜屋さんと、そこの娘さんご夫婦が出しているお弁当スタンドがある。
 そこから眺めるのは、雑木林と移転した病院あと。最近ついに更地になって、宅地造成が始まった。
 そのさきには、パンダのシーソーがあるみどり公園。ここは、うららちゃんが困り眉のひとに拾われた場所だ。
 わたしがバスに乗った停留所はこのすぐそばにある。
 そこから坂を登って、夏祭りのあったオオマキ神社。張り切る町内会長さん。
 にぎやかな夜店。
 みなの浴衣の柄まできちんと再現した。わたしと撫子さんは、神社の鳥居の前で山盛りのたこ焼きをわけあって食べている。
「良く描けてるじゃなーい」
 満面の笑みで撫子さんがそれを褒めた。
「やっぱり絵の才能があるんじゃないの、金魚さん」
 えへへへへ。
「いやあ……それほどでも」
 しかし、撫子さんの指先は意外なところをさしている。
 うちの庭先とオオマキ神社の本殿裏。
「あの光るポワポワのさ、数までちゃんとかぞえてたのは感心するわあ」
 ぽう。
 ぽう?
「――――そこですか」
「あら、違うの?」
 植え込みや、夜の闇にぽうっと浮かんだ淡い光と沈むような黒い――――『マリモ』と撫子さんは天然記念物の名でそれを呼ぶが、いろいろと問題がありそうなので、わたしはいちおう『タマ』と呼んでいる――――と、あとから思い返せば一本ではなく何本も並んでいた『ずりっと線』を指した撫子さんは、もう一度感心した。
「ほんと良く描けてるよー」
「別のところも、ちゃんと見てくださいね」
 レースの半襟を重ねたわたしの可愛い金魚柄の浴衣とか、藍の地に波千鳥の浴衣の袖をからげて、大盛たこ焼きに食らいつく撫子さんの姿とか。
「見所はまだまだいっぱいありますよ」
 見所ねえ。
 悪戯っぽく笑った撫子さんは、そこで何かを思い出したらしく、台所にすっ飛んでいった。
「そういやさ」
 これこれ――――。
「今朝ポストに入ってた、市の広報よ。びっくりしたんだけど、ここ見て」
 二つ折りにしたB四判の記事をひろげた撫子さんに、わたしはあっと声を上げた。
 まっさきに目に飛び込んできたのは、モノクロの写真とその傍らの見出し文字だ。

『みどり町公園 大ケヤキとお別れ』

 お別れ?
「お別れってなんです、撫子さん!」
 だから。
「記事をお読みってば」
 わたしは広報をもぎとって、急いでその短い記事に目を走らせた。
 内容は見出しの通りだ。
 あの公園の大欅、『鸚哥の樹』が()られた。
 そこに至る経緯は、落雷により焼けた木の内側の空洞化が進み、このままでは自重に耐えられず危険。と、専門家が判断したため、ということらしい。
 記事には、この大欅を描いたコウダサキ氏の絵画『鸚哥の樹』についても軽く触れられていた。
 こちらも市に寄贈されて、旧図書館ホールで長く市民に愛されていたが、火災により焼失し――――。
「火災? 消失って……なんですか」
「あんた、意外と読むの速いね」
「じゃなくて」
「ちゃんと最後まで読むのよ」
 お別れ会はさる今月1日に、市長、清掃ボランティアグループなど有志のみなさん、コウダリュウヘイ氏立ち会いのもと行われた。
「伐採はいつです?」
「そこまで記事には書いてなかったっけ、ええと」
 撫子さんは広報を裏返し、最後の面の隅っこに小さく記されたカレンダーを見せた。
「……明後日ね」
「知らなかった」
 かなりショック。
 わたしは肩の力を落とし、ちゃぶ台に顔を伏せた。
「あんた、あの欅のこと気に入ってたたもんね」
「ええ――――欅というか、温室というか、よく見えるベンチというか」
 その他もろもろ。
「温室は残るわよ。あれ、確か市の合併記念に建てられて、欅が倒れたら危ないっていうのは、温室の中の熱帯植物園目線の話だと思うし」
 熱帯植物園。
「熱帯……知らなかった」
「今度行ってみる? わたしも出来た当初に一度しか中にはいってないし」
 うんうん。
 頷きながら、わたしの思考は暴走する。
「あと図書館の火事っていつですか?」
 コウダサキさんが寄贈したという大作『鸚哥の樹』が飾られていたというホールの写真は、お別れ会の記事の下に、小さく載っていた。
 モノクロなのと画像が粗いので、絵そのものは額縁とそこにある何かの印象しかない。
「いつだっけ――――わたしがおばあちゃんと入れ替わってからだから……もう十何年は経ってると思うけど」
「絵を見てみたかったです」
 ああ、そっちね。
「撫子さんは見たんですか」
「あの当時は、必要に迫られて図書館にしょっちゅう通ってたから、ホールの絵なら見てたと思うわよ」
「じっくり見たわけじゃないんですね」
「だって、わたし家庭科は5だけど図画工作は3だもの――――」
 撫子さんはそう言ったあと、少しなにかを考えていたようだった。
 わたしがちゃぶ台から顔を上げると、新しい図書館に市の記録があるんじゃないかという。
「そうか! そうですね」
「探してみるといいんじゃない」
「そうします」
 閉館まで、まだ時間がある。
 わたしは3時のお茶を諦め、すぐ図書館へ出かけることにした。





 撫子さんの言うとおり、寄贈された『鸚哥の樹』の写真は、市の記録や地方新聞の記事の中で見ることが出来た。
 サキさんは公園で出会った姿よりずっと年を重ね、それでも少女のように、明るくはにかんだ笑顔を作品の傍らで見せていた。
 それにしても、いい絵である。
 大きな画布は、小柄なサキさんの身長を超え、幅は、並んだ当時の市長とサキさんに、なんとか協会のひとたち四人分にも及ぶ。
 文字通りの大作だ。
 息子のリュウヘイさんが自慢するだけのことはあるんじゃないか。
 大欅の力強さに負けない鮮やかな色彩の鳥たちが、遠くは空を舞い、近くでは囀って、明るい南国の音楽を奏でるようだ。
 わたしは、一目でその絵が気に入った。
 もうこの世にないことが悔やまれる。
 せめてもの思い出に――――。
 図書館のサービスを利用して、記事をコピーさせてもらうことにして、大判のカラーコピー機を人生初に動かす。
 いつも撫子さんの中古パソコンの世話をしているおかげで機械にはわりと強いほうなので、なるべく大きくて、色の鮮やかな画像を三枚ほど選んで印刷する。
 備忘録と一緒に、これも保存しよう。

 ピチュッ!
 チイチイ、チイチイ。
 けけけけけけけ……。
 ピッピ! ピッピ!
 チチチ、チチチ。
 チチチチ。
 
 帰りの道々、わたしは考えを巡らせる。
 新しい備忘録のイラストはどうしよう。
 やっぱり『鸚哥の樹』リスペクトは外せない。
 でも公園のアングルは、ベンチからがいいな。
 大欅のシルエットも目に焼き付いてるし。
 そうそう。
 わたしが見た懐紙の中の鳥たちを描くのは、サキさんに失礼にはあたらないかしら。
 ハルネの家に着いたとき、玄関の植え込みにまた小さな光のタマがいたが、わたしは大して気にも止めなかった。
「ただいま帰りましたあ」
「おかえり」
 首尾はどうだった。
 撫子さんの声が台所から飛んでくる。
 ていねいな折り目をつけて持ち帰ったそれを、わたしは夕飯のしたくをする撫子さんに、意気揚々と見せた。

 なんか違う――――。

 ええええ、えええええ!
 撫子さんの言葉に、わたしは打ちひしがれた。
 少なくとも、差し出されたサツマイモの天ぷらの味がわからないくらいには。
「熱っ、熱……なにが? コピーですよ。いったい何が違うんです?」
 うーーーーん。
 撫子さんは少し考えたあと、茄子とカボチャも油から引き上げていく。
「なんだろう? 色合いかなあ? 線かなあ?」
 図工3のわたしに聞かないで。
 撫子さんに言われ、わたしはすねた。
「せっかく図書館まで行ったのに……コピー3枚も取ったのに」
「いい写真を選んだんでしょ」
「でも、違うって撫子さんが言う……」
「やだ、わたしの所為?」
 食卓に揚げたての天ぷらを並べながら撫子さんは言ったが、わたしの手の中のコピーにはやっぱり納得できない風だった。
「うーん……そもそも写真には限界があるのよね。光の当たり具合とか、レンズの精度とか。素人には、よくわかんないけど」
 確かにそうだ。
「ですよねえ……やっぱり本物には勝てませんよね」
「そうなのよね……そこは、しょうがないよ」
 はい。
 そう思うと、ますます絵の焼失は心から残念だ。
 わたしなんかがそうなんだから、作者であるサキさんや、リュウヘイさんはもっと――――だろう。
 あの数寄屋袋は母の形見と、リュウヘイさんは言ってたけれど。サキさんは火事をご存じだったのか。
 ご存知ないまま亡くなったのか。
 さすがにそこまで来ると、他人にはわからない。
 ふう。
 わたしは取り敢えずコピーを元通りに畳んで、手を洗い、食卓につく。
 撫子さんが炊きたての御飯をよそってくれる。
「金魚さん。天ぷらは、つゆと塩と醤油、どれにする?」
「塩とつゆで」
「じゃ、わたしもそうしよ」
 はい。
「やっぱり天ぷらはつゆと塩です」
「ソースが好きな人もいるんだよ」
「そうなんですか」
 冷めた天ぷらはソースに限る派の存在を、わたしはこのとき初めて知った。
「旨い物はなにつけても旨いってことじゃないの?」
 ああ。
「確かに。旨い物はなにつけても旨いですね」
 ほくほくの湯気がまだ立つ食卓は、わたしの気持ちをゆっくりほぐしてくれる。
 真っ白な御飯。
 金色に輝くサクサク衣。
 衣から覗く、あざやかな緑や紫やオレンジ。
「んふふ、おいしそー」
「さっきのお芋、ちゃんと揚がってたよね」
「揚がって……ました?」
「やだ、どっちよ」
「揚がってました」
 じゃ、いただきますか。
 青菜と蒟蒻の白和えと、たっぷりの天ぷらがおわします食卓に、充たされない心などない。

 いただきます。
 いただきます。






 ところがその夜、わたしは外の騒がしさに目を覚ました。

 撫子さん。
「……撫子さん、起きてください。撫子さん!」
 手元の読書灯をつけて、傍らでぐっすり寝込んでいる撫子さんの背中を揺する。
「撫子さん!」
 そこで、聞き間違いではない数台目の鐘の音と、行き過ぎるサイレンに耳を澄ませた。
 火事です。
 撫子さんが起きる気配はない。
 それに。
 わたしは膝行っていき窓をあけてサイレンの通り過ぎていった、市道の向こうを見やった。
 みどり町のほうだ。
 気持ちがざわつく。
 なんだか厭な予感がした。おそらく心の中に、聞いたばかりの旧図書館の火災のことがあったからだ。
『あの火事は放火だったらしいよ』
 食事のあと、梨を剥きながら明日の天気の話でもする調子で撫子さんが言ったとき、わたしは驚き尋ねた。
『犯人は? 犯人は誰です? 捕まったんですか』
 あんた、ドラマの見すぎ。
 そう言って撫子さんは笑ったが、すぐにまた真顔に戻って、「新聞では近くに住む無職のなんとかって人が逮捕されて取り調べを受けた話まで出てたはず」と言った。
『そのあとのことは?』
 さあねえ。撫子さんは首を傾げた。
 それで、食後にわたしは図書館放火事件の顛末を、ネットで深掘りしたのだが――――。
 窓を閉めて、衣紋掛にかけた薄手のカーディガンを羽織り玄関の扉を開く。
 嫌な予感は当たった。
 北の空が赤い。
 それもみどり町の、大きなアーケード商店街のすぐそばのみどり町公園のあたりの、きっと、散歩道から見える大欅の中庭あたり。
 空が、まるで夕焼けを取り戻したように、いっせいにネオンをつけまくったように、爛れたように赤く見える。
 わたしは自分の背中に、ぽう、ぽうと丸い光のタマが集まり始めていること、家の中から撫子さんが呼んでいることに気付かなかった。
 あそこには何がある?
 大欅。それと温室……木が倒れたら。
 温室が危ない。
 そう思った瞬間、わたしの身体はふわりと宙に浮き、わたしを押し上げた無数の光のタマとともに、みどり町公園を目指し飛んでいった。

 ケホ、ケホ。
 ゴホゴホ、ゴホ。

 きな臭い。
 風に乗って、焦げた木々や石の煙が道を挟んだ通りの向こうまで流れてくる。
 野次馬が既に集まり始めていた。
 わたしはそれを掻い潜り、散歩道を目指す。
 いつものベンチの向こうは、白や灰色の煙に覆われ、その手前に赤い消防車が何台も止まって消火作業を続けている。
 火はその奥の、激しい煙のむこうから闇を割る炎の舌を覗かせる。
 散水の音。
 散歩道まで流れてくる真っ黒な水。
 ひとの群れ。
 そこに、深夜というのに増える野次馬を整理するための警察やら、夜勤の公園管理事務所の警備員が大声で叫びながら、人だかりをできるだけ現場から遠ざけようと頑張っている。
 それにしても。
 なんで、ここまで皆が前のめりになって居るのか。
 その理由はすぐにわかった。
 大丈夫――――あのひと?
 火の中に飛び込んでいったよ。
 いやあ……助からないだろう。
 見たの?
 見た見た。
 野次馬達は口々に話しながら、スマートフォンを現場に翳している。
 そこへ
「道をあけて! 負傷者、通ります」
 わっと人々が動いた。
 まず消防士のヘルメットが見える。その後ろから誰かが必死に叫ぶ声が聞こえてくる。
 早く!
 早く。
「早く消してください! 温室が、木が駄目になる!」
 煙にまかれたガラガラの声で、そこまで言うと激しく咳き込むそのひとを、消防隊員が宥める。
「わかった。わかったから、火に近づかないで、危ないんだよ」
 スマートフォンの発する青白い光が、いっせいにその場面を逃すまいと注視する。
 わたしは、その後ろから隊員に抱えられるそのひとの姿を、ただ見ていた。
 ――――コウダさん。
 前髪が焦げて、着ているパジャマの襟やズボンの裾が煤で黒く染まっている。
 すぐに救急隊員がかけつけて来た。
 そのとき火の中から、ドンとひときわ大きな爆発音が聞こえる。
 煙を割って上がった火柱の中に、黒々としたいくつもの小さな影が映る。
 ぎゃあぎゃあ。
 ぎーぎー。
 それを見た人だかりから、悲鳴があがった。
 消防士も振り返り、コウダさんの肩や腕を支えていた手を、ふと緩める。
 その瞬間だった。
 コウダさんはくるりと背を向け、脱兎の如く再び火の方へと走り出した。
 早く早く!
 早く早く!
 早く早く!
 慌てた消防士や救急隊員があとを追う。
 だが、逸早くその背中を押しのけ、走る後ろ姿に飛びかかった者がある。

 なにやってんだ! くそオヤジ!

 がっしりと羽交い締めにされ叱咤されたコウダさんの顔が、驚いたように背中の息子を振り返った。

 まわりに迷惑かけてんじゃねー!
 落ち着け。
 いつも、あんたが俺にそう言ってんだろうがよ!

 コウダさんの、赤く濁った目が大きく見開く。
 抑え込まれた勢いで、前のめりに倒れ込もうとする身体を、息子の両腕が抱き留めた。
 コウダさんが咳き込み、涙を流す。
 息子はその背中を抱きしめる。
 ふたりとも、もう何も言わなかった。
 担架を抱えた白衣も追いついた。
 ほっとしたように消防士は現場へ戻っていく。
 紺の制服を来た集団が、無数にのびる青白いカメラを翳した腕を整理するのを確かめたあと、わたしの身体は薄く、淡くなって行く。
 光のタマがやってきた。
 来たときと同じように、わたしの身体を押し上げる。
 軽くなったわたしは、ふわりとまた宙に浮き、やがて、また自宅の玄関先へと戻っていった。

 金魚さん!
 金魚!
 金魚……。

 ああ。
「……火事です……撫子さん」
 わたしは、撫子さんに身体を揺すられ目を覚ました。
「コウダさんが火の中に飛び込んで……鳥が……鳥たちが火に巻き込まれて」
 小さな腕でわたしの大きな身体を抱き起こした撫子さんは、困った顔をしている。
 あんたね。と撫子さんは言った。
「こんな所で寝るんじゃないの。感冒ひくよ」
 はあ。
 わたしは、はっとして地面に膝を突く。
 慌てて立ち上がり、まだきな臭い匂いの混じる北風に鼻を鳴らす。
 撫子さんが言った。
「うちに入りなさい。ココアいれてあげるから」
 ――――はい。
 わたしは夜風に身震いし、汚れたパジャマの裾を手ではたく。
 火の粉を浴びたような、小さな焼け焦げがひとつ、ふたつ、パジャマに残っているのを悲しい気持ちで見ていると、
「なにしてんの、早く」
 撫子さんが家の中から、わたしに言う。
「そんなの、またすぐ作ってあげるわよ。いいから――――入って」
 そうですか。
「……おなじ水玉柄にしてくださいね」
 はいはい。
「できれば今度は、ピンク地に白の水玉がいいです」
 ピンクに白ね。
「水色に白もいいなあ……」
 はいはい、どっちもね。
「あの――――撫子さん」
 そう言った私に、ココアの金色の缶を持った撫子さんが振り返る。
「さっきの火事……どこにも線が引いてませんでした」
 はあ――――。
 撫子さんは、今まで聞いたことがないほど大きく深い溜め息をついた。
 そして言う。
「その話は、また今度。今はふたりでココアを飲んでさっさと寝るの」
 そう言いながら、台所の壁掛け時計を指す。
 2時すぎ。
 わたしもその針を見て、大きく頷く。
「そうですね。それがいいです」



 翌朝。わたしは寝坊した。
 昼前にようやく重い頭を起し、目を覚ます。
 だが、枕元に真新しいピンクのパジャマが畳んであるのに気が付くと、たちまち飛び起きた。
 水玉だ。
 ピンクに白の水玉――――。
「撫子さん! 撫子さん!」
 生あくびを噛み殺した撫子さんが、珈琲ドリップを片手にこちらを見る。
「おはよう金魚さん。クロワッサンとバケットどっちがいい?」
 クロワッサンで!
「可愛い、可愛い。見て下さい。これ似合ってますか?」
 そうね。撫子さんは微笑む。
「あんたは鮮やかな赤毛だから、そういう淡い色合いもなかなかいいと思うわよ」
 そうですか!
「水色のほうは生地の持ち合わせがなかったから、もう少し待って――――ほら、廊下で踊らないの。狭いんだから」
 似合ってますね!
 玄関先の姿見でパジャマを合わせて満悦するわたしに、撫子さんが笑いを噛み殺している。
「パジャマに、似合う似合わないを言うひと初めて見たわ」
「そうですか。似合ってるほうがよくないですか」
「わたしは、自分の好きなものを好きなように愛でる主義だから」
 かっこいい!
 わたしは、感嘆の声をあげる。
 撫子さんが珍しく照れた。
「――――いいから、もう。着替えるか、上に何か羽織ってらっしゃい。あ、そこのパン駕籠(かご)ついでに出しといて」
「はあい」
 夜にはココア。
 朝には真新しいパジャマ。
 わたしはひらひらと踊りながら、せっせと台所を切り盛りする小さな撫子さんの背中を見つめる。
 わたしは――――。
 わたしは、しでかしたらしい。
 おそらく、撫子さんにとって、とても不安で耐えきれないほどの何か。
 自身はやすやすと一線を越えるひとであっても、相手にも同じように鷹揚だとは限らない。
 もう二度と。
 金色のタマたちと一緒に、飛んではいけない。
 美味しいクロワッサンを焼いてくれる撫子さんのそばを離れてはいけない。
 もう二度と――――。
 





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