第五話 描くひと 『鸚哥の樹』

文字数 6,070文字

 仲通りは思ったより近く、わたしはバス停留所のかたわらにあった交番で七丁目の場所をたずねた。
 紺色の制服を着込んだ警官は、日傘の下のわたしの顔を覗き込み、短く
「どちらをお訪ねですか」
 そう聞き直す。尋ねているのはこちらなのだがと首を傾げたあと、すぐに言葉違いに気付いたわたしは、ふと画材屋と公園で出会ったごま塩頭の絵描きさんの顔を思い浮かべる。
「恩師のおたくを探しているんです」
 ああ――――。
 たちまち表情のゆるんだ警察官は、小さく頷く。わたしが下げた画仙堂の、大きな紙袋にも目を落とした。
「画家のコウダ先生ですね」
 わたしは写真裏の住所氏名を思い出しながらにこりと微笑んだ。
 そこから教えて貰ったとおりの道を行き、なんなく野ばらのアーチのある『コウダ』と表札のかかった家に辿り着いた。
 インターホンのボタンに手を掛けたとき、タイミング良く、中から若い男性が出て来る。
 ああ?
 青年の目つきは、あきらかに当たりの良いものでない。
「――――あんた誰」
 ふだん撫子さんにもずっと『あんた呼ばわり』されているわたしだが、撫子さんがわたしに問うそれと、青年の口から出たそれとの間には雲泥の差があるように感じる。
「え、ええと……」
 咄嗟のことで、わたしは口ごもった。
 青年の目線とわたしの目線はむしろこっちが高いぐらいだが、わたしはこういう粗野な若い男性が大の苦手なのだ。
 青年もまた、わたしがさげている大きな紙袋に印字された文字を読んだ。
 そして、なあんだというような目で、今度は小馬鹿にした口調に変わる。
「オッサンなら、アトリエにいるけど」
 そう言うなり、傍らの小さな庭木戸を押し開いた。
「――――あそこ」
 わたしは伸び上がり、青年と植え込みのすきまに見える、大きな出窓の張出した丸屋根の白い部屋を覗き込む。
 棚の前で何かをしていた男性の視線が、ガラス窓越しにこちらに気付いた。
 わたしはペコリと頭を下げる。
 胡麻塩頭の男性は、はてと見つめ返したが、若い男性がわたしの鼻面で乱暴に木戸を手放したのを見て、慌てて窓から顔を出す。

 すみません。
 すみません。

 同じセリフがぶつかり合う。
「そちらに回りますので、お待ちください」
 わたしは木戸にかすった鼻を押さえていた。怪我はしていない。青年は、だから何なんだという調子で背を向ける。
「――――ふん」
 そして行ってしまう。
 なんなら、くそがきが!
 わたしは最近読んだコミックの主人公よろしく、広島弁で心の悪態をついた。
 しかし、口に出せないのは当たり前。ぞんざいな青年の姿も消え、代わりに、あの絵描きの男性が玄関の扉を開けた。
「息子が失礼しました」
 いえ。わたしは返す。
「突然、お邪魔します」
「確かあなたは――――さきほどの」
「あ、はい。そうです。画材屋と公園で、たまたまお会いしたものです。実はあのあと……ですね」
 わたしはサコッシュをさぐり、公園の石畳から子連れの女性が拾い上げた赤い数寄屋袋を取り出す。
「――――あ!」
 それを見るなり、男性はバタバタと自分のシャツの胸やズボンのポケットを手で探り、はにかんだような笑顔を浮かべた。
「いやあ……申し訳ない。あそこに落としてたんだ。わざわざ届けてくださったんですね!」




 ひとしきりの礼を述べられた後、お茶でもどうぞと中に通され、わたしは古い応接家具の並ぶ洋間に鎮座した。
 狭いが居心地のいい部屋だ。
 板の間のあちこちや、家具の足回りなどに、こすって擦り込んだようなシミがある。それらの元がどんな色で、なんの形を描いていたのか。
 ひとりになったわたしは、部屋のあちらこちらに目を凝らした。
 絵の具や溶き油は、床や柱だけでなく、なんと天井やガラスのシャンデリアにも飛んでいる。
 それに反し、玄関から部屋まで、家の掃除はよく行き届き、ちりひとつない。
 それがなんとも面白い。
 根っから絵描きさんの家って感じ。
 わたしは庭の向こうに見えたアトリエを振り返った。
 植え込みの生い茂る庭に面したその部屋からは、丸屋根のアトリエがよく見えた。
 明かり取りの大きな出窓に、カーテンはついていない。
 壁際に備え付けた棚には、本やインテリア代わりにびっしりと木枠に貼られた画布(キャンバス)やボードが立てかけられていて、真ん中には、大きな瓶や缶に立てられた絵筆や、灰色の筆洗や使いさしの溶き油や剥離剤などの大きな瓶、木炭のラベルの付いた缶などが並んでいる。
 すべて昼間に画材屋で見かけたものだったが、アトリエの中にあるのは使い込まれたものばかりだ。
 部屋の真ん中の二つならんだ大きな画架(イーゼル)は、ついさっき公園で拡げられていたものに似ていて、描きかけのキャンバスが傾き加減に二枚置かれている。
 きちんと整理整頓された部屋の印象の中、その斜め具合が気になった。
 ん。
 わたしは窓の向こうに目を凝らし、ソファから腰を浮かせて、それを見た。
 描きかけ?
 二枚とも。
 何かが画面に透けている
 どちらも、あの公園の温室と大きな欅の木が、それぞれ別のアングルから描いてあるようだが。
 描きかけというより。
 どちらかというと、一度描いたものを上から塗りつぶしたようにも見え無くない――――白の絵の具で。
 立ち上がり、ほかにも小さなキャンバスが数枚、塗り潰されて壁や棚のきわに並んでいるのに気付く。
 いずれも雑な仕事で、微妙に元の絵が透けて見えるのだ。
 白の下から――――。


「やあ、お待たせしました」


 紅茶のいい香りが、絵描きの男性と共に部屋にやってくる。
 男性、コウダさんは紅茶をわたしに奨めながら、なんどもありがとうと繰り返す。そのたび、わたしはいえいえと相槌を打ち愛らしい薔薇の絵付けのカップを傾ける。
 くん――――くん。
 ダージリンだ。
 ほんのり青さの残る葉の香りに、わたしの口元がほころんだのだろう。コウダさんも微笑みながら席に着き、カップを手に取った。
「よく、中を確かめてくださいました。あれは、わたしの母の形見なんです」
 形見。
 ああ、と納得しながら「よかった」とわたしは返す。
「母は絵描きで、茶道は職場で習ったようです――――絵のほうは昭和の戦後まだ間もない時代に学んだ世代ですから、ほぼ独学で」
 わたしはカップを持つコウダさんの指が、さっきよりさらに白く染まっているのに目を止めながら、小さく頷く。
「それで、コウダさんも」
「いや、わたしなんかは下手の横好きですから……独学でニカに入選した母にはかないません」
 ニカ?
 おそらく絵画や美術の選考会かなにかだろうと、わたしは当たりを付ける。
「ええ。『鸚哥(インコ)の樹』。あの公園の欅を描いた大作ですよ!」
 コウダさんは頬を紅潮させ、カップを持ったまま目線を丸屋根のアトリエに向ける。
「あのアトリエも、母が看護師の仕事の合間にこつこつブロックを積み、鉄筋を補強して基礎を作ったんです。夜勤あけでも、昼勤続きでも、一日一度は筆を握る――――なにごとも努力のひとでした」
 じゃあ、あの絵は。
 わたしの視線が窓の向こうに吸い寄せられるのに気付いたか、コウダさんの母自慢が途切れた。
 わたしは、そのまま窓を見やる。
 白で塗りつぶされているのは?
 コウダさん自身の絵?
 それとも自慢のお母さんの絵?


 ジャッ――――。

 ふいに立ち上がったコウダさんが、窓ぎわのブラインドを下ろした。
「……西日が、眩しくなってきましたな」






 紅茶はあたたかく添えられた焼き菓子も軽く甘く、とても美味しかった。
 だが、なんとなく心の座りがよくない気がするのは何故だろう。
 ――――白。
 軽く会釈を交わし、コウダ氏宅を出る。
 バス停まで戻る途中わたしは何度も振り返り、あの丸屋根のアトリエが住宅地の風景から微妙に浮いて見えるのを、確かめていた。
 ――――白。
 丸天井の積み上げたブロックも、大きな出窓の(さん)も白いペンキで塗られている。
 アトリエは生活のための場所ではなく、なにかを制作するための聖地だ。
 白という色が、その特別な場所を日常から切り離し、さらに際立たせているようだ。
 おかあさん手ずからあのアトリエを作った、とコウダさんは言っていたけれど。
 あの丸天井、どこかで見たような気がする。

 どこだったかな。

 その辺りでわたしはバス停に着き、ようやく所持金に乏しい懐に気付く。
「……しまった!」
 サコッシュから水色フェルトのがま口を出し、画材屋を出たあと、通りの珈琲ショップで帰りのバス代ぎりぎりを残して散財してしまったのを思い出す。
 そして、まんまとここまで二停留所分、バスに乗った。
「ということは」
 がま口の中には百円玉すらなく、小銭を数えて、わたしはがっくり肩を落とす。
 やっぱり足りない。
「あのときオールドファッションドーナツを二個じゃなく一個にしていたら!」
 それとも。
「三十六色のペンセットを買ったあと追加で金と銀、ラメラメを買わなければ!」
 でも金銀はどうしても欲しかったんだもの。地図をキラキラにしたかったんだもの。
 あああ……。
「ここから家まで歩いて帰るの?」
 十二(キロメートル)はあるかしら。
 昔で言えばだいたい三里、一里の道を大人が歩くのに一時間、十二粁ならだいたい四時間。
 今の時代でも四時間かしら。
 晩ご飯には間に合わないかも。
 半べそをかいていると、不意にサコッシュの中で何かがズーズー音を立てた。
 わたしははっとする。
 でがけに撫子さんが、わたしに持たせた携帯電話だ。
 林檎のマークもついていないスマートなフォンではない旧式の、ただ電話をしたりメッセージをやり取りしたりするだけのものだけど、さすがは文明の利器、なんと有り難く役に立つものか。
「……撫子さーん!」
 電話を受けるなり、いきなり泣き声ですがられた撫子さんは、そのわけを聞くなりケタケタと笑い出した。
「なあに、ずいぶん冒険したわねえ。あんまり遅いから、迷子にでもなったのかと思ったわ」
 車で迎えに行きますよ。
 その言葉にほっとする。
「わあ助かります。嬉しいです!」
「どこで待ち合わせようかしらね」
 今からだと。
 とりあえずお互いがわかる場所、車を止めやすく、ちょうど時間的に落ち合えそうなところを考える。
 撫子さんは、そういうことの得意なひとだ。あっさりとこう言った。

 じゃあ、みどり町公園でね。

 わたしは撫子さんより先に公園についた。
 県道が混んでいて、あと一〇分ぐらいは遅れそうだと撫子さんから連絡がはいる。
 すっかり日の落ちた散歩道の黒い植え込みに、街灯のあかりが青白く落ちる。
 まだ秋の初めとはいえ、長かった日はすこしずつ短くなっているのを感じた。
 西空に残った日暮れの金と紫が、大欅の黒い影を浮かび上がらせている。
 その下に丸く光るシルエットに、わたしはふと足を止めた。
 温室。
 屋根が、コウダさんちのアトリエの形によく似てる。
 これだあ。
 ようやく既視感の正体を見破ったように思ったとき、すぐ目の前のベンチで、派手にクシャミをしたひとがいた。
 うっぷ!
 うっぷ、うっぷ!
 こらえるタイプの珍しいクシャミだと思ってそちらを見ると、そのひとは手元の紙束をパタパタとさせながら、右手に何本も持ったペンのふたを一つずつ填めようとして、大きく空を仰いだ。
「ああ――――いつの間に」
 暗くなった空に、今気付いたという意味だろうか。
 そこで、わたしと目を合わせた女性は、にこやかに微笑み、時間を尋ねた。
「ええと――――」
 わたしは辺りをキョロキョロと見回して、そうそうとサコッシュの中の携帯電話を取り出す。
「6時10分ですね」
 わあ、と女性は目を丸くする。
「いけない、いけない。あの子が待ってる!」
 あたふたと傍らの荷物をまとめようと焦ったとき、手元にまとめて持っていた紙束がばさりと石畳に落ちた。
 ふわり。
 夕刻の風にそれらがめくれあがり、一枚、二枚と吹き上げる。
 おっと――――。
 そのうちの一枚がわたしの足元まで飛んできた。ワンピースの裾に絡むのを拾い上げ、ついでにまた飛んできたのを拾い上げて、手の中のそれを見る。
「すみませーん」
 ――――鳥の絵。
 女性が、慌ててまわりに散らかった同じ絵を何枚も拾い集め、最後にこちらにやってくる。
「――――ごめんなさい。ありがとう」
 そういうとわたしの手の中のものを受け取り、言い訳がわりに、すっかり日の落ちてしまった大欅を振り返る。
「あの樹ね……小鳥たちのマンションなんですよ」
 マンション?
 わたしは笑顔の女性に聞き返す。
「ええ。ねぐらって言うのかしら。日が暮れる頃にはね、街のあちこちからカラフルな色んな鳥たちが集まってきて」
 わたしは、はっとした。
「――――『鸚哥(インコ)の樹』?」
 すると女性の目がこどものように輝く。
「ええ。そう。あなた、うまいこと言うわね。そうなの、まるで『鸚哥の樹』みたい」
 そして、手元の紙をていねいにひとつずつ拡げて、またもとの束にしていく。
「鳥たちもね……たぶん、元はどこかで飼われてた鸚哥や金糸雀(カナリア)や文鳥たちなんでしょうけど、逃げ出しちゃったのか……自由になったのか。それでもね。夕刻にはみんな一斉に、ここに帰ってくるのよ」
 わたしは昼間、あの懐紙の束から飛び立ったカラフルな南国色の鳥たちが暮れなずむ空を切り、黒い欅の枝をめざして飛ぶ姿を思った。
「きっと……綺麗なんでしょうね」
「ええ、とても」
 女性は荷物をまとめ、胸を張った。
「仕事帰りに、手持ちの紙についついスケッチしちゃうぐらい」
 そう微笑むと、またはっと目を見開いて「わたしも帰らなきゃ」と慌て出す。
 くるくるとよく動く、その大きな瞳に見覚えがあったわたしは、女性に軽く一礼した。
 女性も軽くわたしに一礼して、コツコツとローヒールの踵を石畳みに打ちつけながら小走りに行ってしまう。
 ぽう……ぽうと、彼女のあとを追う小さな光のタマも見えた。
 彼女の家では、まだ小学生くらいの男の子がひとり、母の帰りを待っている。お母さんによく似た、絵の好きな、人当たりのいい男の子だ。
 そして、いつか一緒に丸屋根のアトリエで並んで写真を撮る。
 それは大事な写真だ。
 街灯の明かりの届かないあたりで光のタマは消え、女性の後ろ姿も消えた。
 ひとりになったわたしは、闇の落ちた公園のベンチの後ろで夜風の匂いを嗅ぐ。
 遠くに帰宅電車の音がした。
 女性の消えた石畳のむこうに、もう消えかかった白い一線がうすぼんやりと光っている。
 わたしは息を付く。
「おまたせ」
 と、後ろから撫子さんが、そんなわたしに声をかけた。
「あ、撫子さん」
「見てたわよ。あのひとに、ついて行かなかったんだね、えらいえらい」
「夏祭りの時も、わたしはついていきませんでしたよ。逃げ出しました」
 平気で一線をこえちゃうのは、むしろ撫子さんのほうだ。
「怖いかい。今のいいひとそうだったけど」
「怖いですよ。いいひとだと思いますけど」
 うん。撫子さんは笑った。
 そうよね。
「そのくらいでいいよ、あんたは」
 そうですかね。
 わたしは返した。



 

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