第四話 描くもの 『鸚哥の樹』

文字数 7,442文字

 ぷくぷくと、自身の吐く泡の向こうで撫子さんの声がする。
「あら、また金魚はでかけちゃったみたいね……」


 つぎは――――みどり町。


 ぱちんと夢の続きが弾けて、わたしは目を覚ました。
 市内巡回バスの最後尾で、慌てて降車ボタンに手を延ばすと、わたしよりほんの少し先それに届いた、ご年配女性の指が明るく点る。
 ぽん。つぎ止まります。
 わたしはシートに背中を押し付けながら、小さく息を吐いた。
 そうそう。
 わたしは隣町のアーケード商店街にある画材屋に買い物に出かけたのだった。
 夏祭りの夜に、撫子さんに「備忘録をかいてみては」と言われたあと、少し時間が経ってしまったが、ゆうべふと思い出したように撫子さんが黄色いフェルトのがま口を出して、わたしに問うた。
「金魚さん、あんたどんな画材が好き?」
 画材?
 わたしは小首を傾げて考えた。
 そういえば撫子さんは、色鉛筆とか日記帳と言っていたような気がする。
 たぶん、その話をしていたときに『夏休み』というパワーワードが、心に引っかかってたからだろう。
「画材って、いったいどんなものがあるんです?」
 そうねぇ。
 わたしの問いに撫子さんも小首を傾げた。
 結局、ふたりの頭の中からいつまでも『夏休みの絵日記』のイメージが離れなかったのだが、もう九月も半ばを過ぎたことだし、気分も新たに仕切り直そう。 そんなわけで、わたしは市内巡回バスに乗ってわざわざ隣町までやってきた。
 画材屋に行くのだ。

 みどり町――――みどり町、です。

 はいはい、降りますよ。
 列の最後尾で、撫子さんに貰ったICカードを握りしめる。チャージしてあるので、降り口でピッと機械に翳すだけでいいらしい。
 ピッ、ピッ……。
 スムーズに流れる列のふたつ手前が、ふいにとまった。降車ボタンを押した女性が片手に小銭を握りしめて、戸惑っている。
 ちっ。
 前の若い男性が舌打ちした。
 降り口のトレーに『小銭はこちら』と印字されたテープが貼ってあるが、文字が小さいのでご年配の目には止まらないらしい。
 わたしは口を開いた。
「おかねはコッチですよ」
 だが、わたしより先に若い男性の傍らに立っていた制服姿の少女がトレーを指す。
「おばあちゃん、ここ」
「……まあ」
 年配の女性はあわてて手の中の小銭をそこに置き、後ろに一礼してバスを降りていく。イライラしていた男性は間髪入れずカードを翳して降りてゆき、少女がその背中を小突く。
 わたしもそれに続いた。
 ふう。
 秋の気配が雲にも広がっているというのに、日中はまだ暑い。
 彼岸をすぎれば少しはそれらしい気候になると、ゆうべ撫子さんが風鈴を片付けながら言ってたけれど、本当かしら。
 空は高いけどねえ。
 バス停留所むこうに続くアーケード商店街は、人通りもまばらであった。
 ちょうど昼時だったせいか、おなじロゴの入ったフードデリバリーの自転車が、続けて三台、目の前を横切っていく。
 わたしは、ヨガ教室に出かけた撫子さんと、遅めの朝食をたっぷりとっていたので、まだお腹はすいていない。
 なんなら帰りがけに、スイーツの美味しいアーケードの中の珈琲ショップでも、冷やかしますかな。
 うふふふ。
 日傘をさして歩き出す。
 画材店の名前は『画仙堂(がせんどう)』という。
 本店は京都にあって、古都らしい紫色の看板が目印。
 撫子さんとなんどか買い物に訪れた際に、前を通りかかったことがあるけれど、中に入るのは始めてだ。
 むらさきの看板、むらさきの看板。
 目でそれを追いながら、喜び勇んでひんやりとしたクーラーの風を全身に浴びつつ、広いアーケードの道をゆく。
 近所の商店街も、これくらい賑やかだといいのだけど。
 わたしの知っている三年より以前は、それなりに賑わっていたのだと撫子さんは言っていた。
 実は、今日ここへ来る前には、その角の文具屋さんでお買い物をしましょうと言い合っていたのだけど、文具屋さんは月末を待たずに閉店となり、店主のおじいさんは遠い町に住むご親戚を頼って、引っ越してしまわれた。
「これからは千代紙ひとつ買うのも、ソノゾンでポチらなきゃ」
 撫子さんは溜め息をつき、わたしにお小遣いを渡して、隣町の画材屋にいってらっしゃいと言ったのだ。
 水色フェルトのがま口は、今はわたしの肩から下がった白いサコッシュの中に入っている。
「軍資金は多めに渡したつもりだけど、画材はあなたが思うよりお高いから、よくよく品定めするように」
 腰に手を当てたまま、撫子さんはそう言った。
 雅やかな看板をくぐって、『画仙堂』にはいったわたしは、店内POPに目を止めて「なるほど」と唸った。
 十二色入りクレパス。
 十五色の水彩絵具。
 そこに辿り着くまで、樹脂染料とか大小さまざまな毛質の筆とか、何百色のグラデーションが楽しめそうなカラーペンとか、ネットで最近よく見かける可愛らしい猫のイラストシールなんかが棚に並んでいて、ついつい目移りしてしまう。
 まずはスケッチブック、か。
 あ、ここにも猫のイラストつきのがある。
 かわいいなあ。
 でも、紙質が薄目なのは、たぶん沢山描いて沢山練習するひと用なのかも知れない。
 備忘録は、あとあとそれを何度もめくって、色々と直したり、描き足したりする事もあると思うから、もう少し厚手の紙がいいかも。
 紙質はつやがあるほうが好きかな。
 にじみの出るのも素敵だけど、ちいさな文字が潰れるのは困る。
 売り場を行ったり来たり。
 その中で紙も色々な種類があり、それを綴じたスケッチブックにも様々な大きさや用途があるのをわたしは知った。もちろん、値段も。
 うーん……決められない。
 むしろ、さきに描くものを選んだ方がいいかな。
 そうしよう。それに合わせてスケッチブックを決めよう。
 描きやすそうなもの。
 鮮やかで楽しそうで。
 クレパスか水彩絵具。
 あるいは色鉛筆。
 二階の階段をのぼって、最初の棚を曲がったら、そこに高い天井まで続く見事な色鉛筆のタワーがあった。
 ひゃあああ……。
 思わず圧倒され、それを見上げる。
 ついている吹き出しPOPがその色数を二万色と教えてくれた。
 わああああ……。
 赤だけで、青だけで、一体何百、何千色あるんだろう。
 絵の世界って、鮮やかなんだな。
「すごいなあ……すごいなあ」
 思わず感動してそう繰り返していると、先達のお客さんが、微笑みながらわたしを振り返った。
「あ、は……どうも」
 なんとなくそう言うと、丁寧に帽子を取って挨拶が返る。
「はい。どうもこんにちは」
 ごま塩頭の背の高い男性だった。
 ハンチングのひさしにかけた右手の中指に、色鮮やかなターコイズブルーとマンダリンオレンジが付いている。
 絵描きさんなのかな。
 思わずじっと見てしまったので、相手も何か言わねばと察したのだろう。
「色鉛筆を探しているんですか」
 そう尋ねられ、わたしは正直に答えた。
「いえ……その備忘録を」
「備忘録? お若いかたが」
「ええと絵日記のようなものに、たくさんの色をつけたくて」
 ああ、ああ。男性は頷いた。
「それならば、単色のものを一つずつ買うよりセットがいいですよ」
 男性が通りかかった店員を呼び止める。
 そこからは、話を引き継いだ店員とわたしの会話になった。
 店員とやりとりするうち、わたしのなかにぼんやりとしていた『備忘録』のイメージが、しだいにはっきりしてくる。
 備忘録とは、忘れそうなことを思い出すための記録である。
 つまり、そもそも忘れるに決まっているようなことを、わざわざ書きつけておくのだ。たとえば夢のような。
 わたしは、そんなふわっとしたものを、絵日記よりもっと自由な連作イラストにして残そうと決めた。昔の絵巻物のように、右から左へ絵を読み進めていくのだ。
 時間や出来事は、多少前後しても構わない。あくまで忘れないための記録なのだから。
 まずは神社の周辺、夏祭りに見た風景。
 色とりどりの水風船やわたあめ。
 プラスチックのお面や、湯気を立てるたこ焼きにやきそば。
 そして、撫子さんがわたしのために縫ってくれた浴衣。
 赤い鼻緒の下駄。
 撫子さんと歩いた公園の中の小道や庭の植えこみの中で、ぽうっと光っていたもの。
 地に沈み込むように澱んでいたもの。
 誰かが砂地の上にずりっと引いた、一線――――。


「あら、また金魚はでかけちゃったみたいね……」




 結局、画材屋には二時間半も居座った。
 描くべきものが、はっきりしてきたことで選びたいものが増え、わたしは何度もサコッシュの中からフェルトのがま口を取りだして、撫子さんが用意してくれた軍資金を数え直し、ようやく欲しいものをすべて手に入れて、『画仙堂』をあとにする。
 結局、帰りのバス代を差し引くと、スイーツの美味しい珈琲ショップを冷やかすほどのおかねは残らなかった。
 でも、通りすがりのドーナツスタンドで、さくさくのオールドファッションドーナツとSサイズの冷たい珈琲を買うぐらいは。
 よしよし。
 それは諦めない。
 日傘を差し、手に画材の入った紙袋とドーナツスタンドの袋をさげ、わたしは意気揚々とバス停のむこうの公園を目指す。
 いい場所があるのよ。
 立ちっ放しで棒になった足を休めて。ちょっとほっこりするのに、ちょうどいい感じの。
 わたしは煉瓦色のベンチを探した。
 この公園は市が管理しているらしく、ベンチや水飲み場の鉢などのデザインはバラバラ、寄贈で成り立っているのかも知れない。
 そんな風景なのだけれど、散歩道には手入れの行き届いた並木があったり、植え込みの躑躅や藤棚の花も見事だったりする。
 なかでもわたしが気に入っているのは、古い温室であった。
 撫子さんの受け売りによると、近年はそのかたわらにある欅の大木に隠されて日も射さず、温室としての役割はほとんど為していないということらしいが、そんな悪口にもめげず、そこを一望するベンチシートはなかなかの人気で、昼時に通りかかって空いて居ることは滅多にない。
 わたしが目指す煉瓦色のシートは、その三つ並んだ真ん中にある。
 欅の枝振りから、少しのぞく温室のガラス窓がレトロで良い。
 散歩道を抜けたあたりの見通しで、わたしは三つのベンチ、そのどれもに先客がないことを確かめ、急ぎ足になった。
 誰もいないなら、ちょうどいい。
 ドーナツと珈琲で休憩しながら、買ったばかりの画材でも愛でようか。
 そう思って植え込みのはたを抜けると、突然、ぬっと木製の大きなイーゼル(画架)が緑の葉陰から突き出す。
 おや。
 先客はベンチではなく、その傍にいらっしゃる。
 石畳みに画材を広げ、スケッチブックとキャンバスを並べて拡げたその前に、絵筆を持った男性の後ろ姿がある。
 あ。
 その背中に見覚えがあったわたしは、小さく声を上げ足を止めた。
 んん?
 そういう顔をしてハンチングをかぶった顔が振り返る。
 ああ。目が合った口元が、無言でそう呟く。わたしは深々と礼を取った。
「お邪魔してしまいましたか……先ほどはどうも」
「いえいえ」
 画材屋で会った時より手短に返すと、男性はすぐに絵に視線を戻した。
 わたしも口を噤んで、お目当てのベンチに腰を掛け、冷たい珈琲とオールドファッションドーナツで腹を満たしつつ、西へ傾いた陽光のむこうに、張出した大きな欅の枝振りと、もはやチラリとしか見えない古い温室の景色を堪能する。
 そのあいだにも少し離れたイーゼルの前からは、しゅっ、しゅっという筆や布が絵を彩る音が聞こえていた。
 やっぱりいいなあ……。
 あのチラッと見える感じ。
 欅の張出した枝がちょっと雑に見えるけれど、温室は変わらずそこにあって。
 その奥には、ひときわ暗い緑が潜む。
 わたしは、紙コップを持ったまま小さく息を付く、すると傍らからもっと深く、長い嘆息が聞こえて、わたしはそちらを向いた。
 見ると、帰り支度を始めた男性の横顔が唇をへの字にして、小さく何かを呟くのがわかった。
 うまく描けなかったのかな。
 なぜ、わたしがそう思ったかと言えば、さっきちらりと見えたスケッチブックに描かれた色は淡く、その横に並べたキャンバスの下絵はほとんど進んでいないように見受けられたからだ。
 筆を拭い、布に包んで空の筆洗に立てた男性は、そのまま畳んだスケッチブックやキャンバスをクリップで留め、大きなバックにてきぱきと画材を片付けると、最後にイーゼルを畳んで、わたしに声をかけた。
「おのぞみの画材はみつかりましたか」
 え、ええ。
 わたしはカップを傍らに置いて、足元の紙袋に目を落とす。
「そりゃあ、よかった」
 男性は微笑み、イーゼルを支えた右手でまたハンチングのひさしを傾ける。
「じゃお先に失礼しますよ。備忘録がんばってね」
「ありがとうございます」
 わたしも頭を下げながら、男性の人差し指と中指に目を止める。
 さっき画材屋で見かけた時についていた鮮やかなターコイズブルーとマンダリンオレンジは拭き取られ、代わりに白の絵の具が爪先まで染めている。
 そういえば、拭き取られた絵筆の先に白い絵の具が乗っていたなあ。
 白か。
 男性が去って行くと、油とそれを解く溶材の匂いが風に乗ってほんのり香った。
 ふうむ。
 わたしは、ふたつ目のオールドファッションドーナツの最後のかけらを飲みこみながら、秋風にもう一声唸った。
 ……ふうむ。
 そして、ふと足元を見る。
 何かが、ぽつりと石畳のうえに忘れられているのに気付いた。
 近づき、手に取ってみる。
 赤い――――風呂敷?
 いや数寄屋袋だ。
 お茶席で、袱紗(ふくさ)やお扇子なんかを入れて持ち歩くもの。撫子さんがお茶を習っていて、粋なものを集めているので、わたしにも見覚えがある。
 こちらは飴細工のような、鞠と蝶々があしらわれた随分可愛らしい柄だった。
 さっき絵描きの男性が立ち去った方向に目をやる。
 あのひとの――――違うかな。
 そう思いながら、中を見ると和紙の束が出て来た。
 やっぱりお茶席で使う懐紙だろう。
 そう思ったとき
 ピチュッ!
 数寄屋袋の中の懐紙の束が羽ばたいた。
 驚いたわたしが袋を取り落とすと、それは膨らみ、開いた袋の口から一羽、続いて二羽……と、小鳥が顔を出す。
 パタパタと音を立て、開いては閉じ、閉じては開き、紙に描かれた色とりどりの姿が。

 マンダリンオレンジ。
 セルリアンブルー。
 カナリアイエロー。
 ターコイズ。
 エメラルドグリーン。
 バーミリオン。

 風にそよぐ束から、一羽、二羽、三羽、四羽と、次々に飛び出してくる。
 ――――わあ。
 わたしは、たちまち風に乗り、大空へと飛び立つ極彩色の翼に目を奪われた。
 赤い数寄屋袋が膨らんだり、閉じたり。
 懐紙の束がはためいて、しぼんで。
 羽ばたく色の鮮やかさは、みな南国の鳥に思えた。
 日本では、籠の中でしかお目にかかれないような美しさ。
 紙が羽ばたくたび、袋がふくらむたび、その色とりどりの鳥たちが顔を覗かせ、空を見上げ、一声鳴いて飛び立っていく。
 ピチュッ!

 ち!

 チイチイ、チイチイ。
 けけけけけけけ……。
 ピッピ! ピッピ!
 チチチ、チチチ。

 わたしは首が痛くなるほど、空を見上げながらそれを数えた。
 ひぃ、ふうみぃ。
 いつ、むうなな。
 あ、や。
 また最初から――――。
 ひぃ、ふう、みぃ。
 いつ、むう……。
 空に放たれた小鳥を目で追うのは大変だ。
 すぐにわたしは、数で識別するのを諦め、覚えたての色彩で数え直す。


 マンダリンオレンジ。
 セルリアンブルー。
 カナリアイエロー。
 ターコイズ。
 エメラルドグリーン。
 バーミリオン。
 コーラルピンク。
 コバルトブルー。
 サマーセットイエロー。
 シアン。
 ジャスパー。
 ヴァイオレットグレイ。
 カーマインとモーブ。
 そして――――ホワイト。


 パタパタと最後の一羽が、高く空に羽ばたいて行ってしまうまで、わたしはずっとそれら、とりどりの色を倦かず目で追っていた。



 あの――――これ。

 どれくらい、そうしていたのだろう。
 ふいに目の前に差し出された赤に、わたしは戸惑う。
 鞠と蝶々柄の数寄屋袋をわたしに差し出したのは、ベビーカーを押した若い女性だった。
 てっきり、わたしの落とし物と思われたに違いない。
 親切そうなその眼差しに、うっかり受け取ってから、あれれと気付く。
 慌てて振り返ったが、ベビーカーを押した女性はもう片方の手で引いた小さな男の子とにこやかに話しながら、遠ざかっていた。
 ええと。
 ――――うん。
 わたしは赤い数寄屋袋を持ったまま、もう一度空を仰いだ。

「あら、また金魚はでかけちゃったみたいね……」

 そういうことか。
 わたしは頭をかきながらベンチに戻る。
 紙コップにはいった珈琲は結露を吹き、すっかりぬるくなっていた。
 一度拾ったものを、また地面に落とすのもしのびない。
 ベンチに腰掛け、数寄屋袋とそれが落ちていた石畳みの、そこだけひとつ、色の変わっているパーツを見比べる。
 これからは備忘録にきちんと書き留めなくてはならないのも同時に思い出した。
「ああいう一線もあるのかなあ」
 そこにぽつりと落ちたマンダリンオレンジの色彩にはっとして、数寄屋袋を見直した。錦織の赤ににじむような、同じ色の絵の具のシミが縁にひとつある。
 中に入っているのは、ペンや絵の具でさまざまなものを描きとめた懐紙と――――。
 あ。
 写真だ。
 そこに写っている小柄な女性と少年の姿は、何十年も昔のもののように思えた。
 今のように、写真がデジタルデータ化される以前の。
 なにげなく裏返すと、なんと名前と住所が書いてある。
「みどり町仲通り……七丁目」
 コウダリュウヘイ。
 これも、個人情報を守秘とする今の風潮が社会に馴染むより、ずっと以前の覚え書き、備忘録なのだろう。油性ボールペンの黒インクが、ところどころ分離して紫と緑になっている。
 仲通りといえば、ここからバスでふたつほど先。
 停留所で見た路線図を思い浮かべつつ、わたしはひとつ息を付く。
『この写真を拾った方は、こちらにお返しください』
 この備忘録は、たぶんそういう意味なんだろうと勝手に解釈して、また眺める。
 これは、いつの時代なんだろう。
 乗用車の前でポーズをとった女性と、半ズボン姿の男の子。
 数寄屋袋は身につけるもの。
 肌身離さず持っているそこに、いれた古い写真は、きっと大事なものなんだろう。
 うん。
 よし。わたしは立ち上がる。
「今からお届けしましょうか」




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