第七話 抱えるもの 『鸚哥の樹』

文字数 13,197文字

 ふだん、わたしたちは食事中にテレビをつけない。
 それはダイニングで食事をし、そこにはテレビがないからだが、居間に遅い朝ご飯を運んだ撫子さんは、なにごともなかったかのような顔でポンとリモコンのスイッチを入れた。
 お昼前の地域ニュースがやっている。
 画面を見るでも気にするでもなく始まったわたしたちのブランチは、流れてくる話題のいくつかをそうやってやり過ごし、次のニュースで同時に顔をあげた。

 昨夜未明。みどり町公園の温室で火事がありました。

『火事は温室を含む公園施設などを焼き、深夜の現場は一時騒然として、煙を吸い込むなどした人が軽症を負いました』
 わたしはふたつめのクロワッサンに、ハニーバターを塗り込んでいた。
 撫子さんはカフェオレのボウルを両手で持ったまま、黙りこくっている。
『関係者によりますと、原因は老朽化した施設からの漏電とみられるとのことで、くわしい検証が進められています』
 漏電――――。
 その二文字に、ふたりとも余分な何かを心の奥にしまっていたことに気づき、さらに無口になる。
 水玉の可愛いパジャマはそれを覆い隠してくれるはずだったが、わたし達はおかしなところでいつも正直だった。
 食卓に重苦しい空気が流れた。

 ピンポーン。

 そこで、タイミング良く表の呼び鈴が鳴る。
 まだぼんやりとしているわたしを制し、撫子さんが立ち上がった。
「はい、はーい」
 玄関先から覚えのある声が聞こえる。
 黒胡椒のきいたカリカリのベーコンエッグが美味しい。
 撫子さんは話し込んでいる。
 半熟卵をフォークの先で突くと、とろりと金色の黄味が流れる。それをちょっとずつ、すくって食べるのがわたしは好きだ。
 卵を全部すくい終えると、わたしは頭を空っぽにしたまま、モニターを凝視した。
 保育園の園児達がお世話をする秋の野草に釘付けだ。
 ヨメナって可愛い。
 野菊にも色々あるんだ。
 イヌなんとかってイヌの何を指すんだろう。
 キャットなんとかって……。

「金魚さん……盛大にパン屑こぼしてるわよ」

 撫子さんの声で我に帰ったわたしは、慌てて布巾に手を延ばす。
 撫子さんは茶封筒を片手に、よっこらしょと腰を下ろした。
「町内会長さんだったわ」
「……はあ」
 わたしは曖昧な相槌を打つ。
 撫子さんは気に留めず話を続けた。
「昨日、あんたが図書館に捜し物に行ったって話してたの。気にしてくれたみたい」
 すいっと茶封筒を差し出され、わたしは驚いた。
 ようやく頭が切り替わる。
「わたしに……ですか?」
「うん。金魚さんにって」
 なんだろう。
 中を覗き、取り出した本に小さく息を飲む。
 コウダサキ 個展図録。
「なんでこんなものが?」
「説明はあとで。まずごはんを食べて。ゆっくり中をご覧よ」
 撫子さんに促され、わたしは残った皿の上のベーコンを平らげ、サラダの人参も残さず食し、カフェオレを飲み干す。そして、ようやく洗面台で丁寧に手を洗い、ついでにぼんやりした顔も洗って戻った。
「――――拝見します」
「はい、どうぞ」
 古い図録だが、保存状態は悪くない。
 表紙には『印刷見本』と判が押されている。それをめくり、中表紙をめくって、わたしは再び息を飲んだ。
 図書館のコピーとは比べものにならないほど鮮やかな写真が、画面いっぱいに広がる色彩を描き出している。
 水彩スケッチ。
 鉛筆デッサン。
 絵皿とキャンバス。
 そして中ほどに大作『鸚哥の樹』――――。
「会長さんのご実家がみどり町で画廊をなさってたらしいんだけど、昨夜の火事のニュースを聞いて、お父さまがこの図録を探してくださったそうよ」
 ああ、だから印刷見本と。
「そこで個展を」
 そう言いかけたわたしに、撫子さんは首を横に振った。
「ううん、それがね……なんというか――――コウダサキさんという方は、すごく気難しい、というか、こと作品に関しては超のつく完全主義者だったらしくて」
 二度もあった個展の予定が、なんと二度とも流れてしまったという。
 この図録は一度目のものらしいが、図書館の焼失で作品が焼けて中止となり、二度目は、わけあって作品のほとんどが無くなって流れた。ついには支援者も去ったが、画廊オーナーだった会長のお父上は、とても残念に思って世間に出すことなくお蔵に入ったこの図録を大切に保管されたのだそうだ。
 わけあって作品のほとんどが?
 一体、どんなわけが?
「じゃ、じゃあ! サキさんの絵はもうどこでも見られない?」
「売れたものなんかはあるでしょうけど、個人の所有物だし。寡作家だったそうだしねえ」
 ああ――――。
 のりづけの割れた背表紙から、はらはらと滑り落ちた図録の絵を、わたしは慌てて拾い集めた。
「そんな大事なものを、わたしなんかが持ってていいんでしょうか」
 そうねえ。撫子さんも唸る。
「おむかいの奥さんから聞いた話じゃ……昨夜の公園の火事で怪我をしたひとは、リョウセイカイ総合病院に運ばれたらしいわよ」
 なんと。
 町内会の情報網がすごい。
「コウダさんはこちらをお持ちでしょうか」
「会長さんは、見本だから世に出ていないと仰ってたけど」
 あ、でも。
「息子さんなら、見本もおうちにあったり?」
 さあ。撫子さんはとぼけた顔をした。
「本人に会って直接聞いてみるとか」


 

 わたしたちは、サキさんの個展図録見本を持って、コウダさんのお見舞いに行くことにした。
 病院にその旨を電話で尋ねたが、患者情報は秘匿されるのだとかで、おむかい情報の真偽を前もって確かめることは出来ず、ぶっつけだ。
 外科をしらみつぶしにするつもりで、リョウセイカイ総合病院のロビーに着く。
 ほんの少し前までお見舞いは全面禁止のお達しが出ていたが、今は検温や消毒、マスクなどのマナーを守れば許されるようになった。
 それでもひとけの少ない午後の外来受付を通り、うすくちのお出汁の匂いがする大きなエレベーターに乗って、本館の三階で降りる。
 ナースステーションを目指して廊下を歩いていると、談話室とプレートのかかっているあたりから、激しく言い合う声が聞こえてきた。
「どういうことだよ」
 と怒っているのは、若い男性のようだった。
「つっかかるなよ」
 なだめるほうの声に聞き覚えがある気がして、わたしは足を止めた。
 そうしている間に、ちょこまかと撫子さんがコウダリュウヘイの名札のかかった病室を探して回る。
「なんでお見舞いも駄目なんだ」
 と怒る男性は続けた。
「駄目とは言ってない」
 となだめるほう。
 わたしは完全に通り過ぎるタイミングを逸してしまった。
「おまえの親は俺の親だ。心配しちゃおかしいか」
「おかしくない。嬉しいよ。でも、そう言うことじゃなくて……うちは色々と難しいんだ」
 そこで二人の視線が、ほぼ同時に廊下のわたしに気付く。
 ふりかえった方に見覚えがあった。眉間に皺を寄せたキツイ目線で、わたしを見つめる。
 なんでおまえがここにいるのか。
 ごもっともな抗議の視線に、わたしは困った。
「――――金魚さん!」
 ナースステーションの前で撫子さんに呼ばれたわたしは、これ幸いとすっ飛んで逃げ出す。
 ロビーでもやった検温と手の消毒を改めてやり、お見舞い記帳に撫子さんが自分の名と『ほか一名』と書き込むのを見下ろしていると、談話室を出た男性は早足にエレベーターへ歩き去り、それを追うほうが一度だけわたしを振り返る。
 それをやり過ごしたわたしに、撫子さんが尋ねた。
「今の……コウダさんのご家族?」
 はい。
「息子さんです」
 ふうん。撫子さんは答える。
「三○五号室よ」
 あとは言われるままに着いていく。
 スニーカーのソールが軋むように音を立てる。長い廊下の突き当たりが、それだった。
 コウダ息子氏の話しぶりで、もし面会できない札がでていたらすぐに帰ろうと思ったが、ほかに患者のいない、がらんとした六人部屋の角に腰掛けているリュウヘイさんと目が合う。

 ――――おや、あなたは。

 コウダリュウヘイさんはわたしのことを覚えていた。
 その視線の手前で、ふかぶかと腰を折った一見年配に見える撫子さんには、リュウヘイさんも無言で頭を下げる。
「……おかげんは如何ですか」
「ありがとうございます。お陰様で」
 おでこや手足に白いパッドを貼っていたが、コウダさんは元気そうだった。
 昨夜のように、感情や言葉が迷走している様子もない。
 軽症という報道は、本当だ。
 薬で傷の痛みもなく、このまま経過観察の結果がよければ、すぐに退院できるだろうと彼は言った。
 そして、わたしに向き直る。
「あの、こちらは?」
「ハルネ撫子さんです。わたしが居候しているうちの大家さんで」
 そうなんですか。
「ご丁寧に」
 改めて挨拶するコウダさんに
「いえいえ、この子はわたしのこどものようなものですから。今日は一緒に」
 そう答えてくれた撫子さんの小さな背中が頼もしい。
 そこで、コウダさんは何かを思い出したか、少しバツの悪い顔になった。
「わたしのことはどちらで――――あ、いえ……さっき息子がインターネットでゆうべの動画が出まわっていると」
 わたしと撫子さんは顔を見合わせる。
 さきに撫子さんが切り出した。
「うちの町内の佐々木さんという方のお父さまが、昔、みどり町で画廊を開いていらっしゃいましてね」
 上手くはぐらかされ、一瞬ポカンとしたコウダさんだったが、すぐに小さく膝を打つ。
「ああ――――シロガネ画廊さん!」
 ええ。撫子さんは頷いた。
「先般の大欅のお別れ会が広報に載ったところに、昨夜の温室の火事が重なってコウダサキさんを思い出されたそうで」
 こちらを持って、うちにいらっしゃったんですよ。
 撫子さんはわたしを促した。
「たまたまこの子が、コウダさんとお会いした話をしたものですから」
 わたしは茶封筒をコウダさんに手渡す。
 中を覗いたコウダさんの顔色がさっと変わった。
「これは――――ああ。ああ……懐かしいなあ!」
 コウダサキ 個展図録。
 艶表紙に、バーガンディレッドの華奢な書体が上品な表紙を見ただけで、コウダさんの体温がすこし上がったような気がする。
「うわあ……」
 ネット包帯に包まれたコウダさんの手が震え、ベッドシーツの上にぱらぱらと散けた頁が滑り落ちるのを、わたしが受け止めた。
 コウダさんは、それすら嬉しそうに微笑んだ。
「中止になった個展の図録だ……こんなものが、まだ残っていたなんて。懐かしいなあ。母も見本としてもらったはずなんですが、遺品にもどこにもなくて」
 撫子さんはわたしに目配せした。
 よかった。
 道すがら、会長さんからのまた聞きとして説明してくれた話になるが。
 私設画廊が、個人展でこうした図録をつくることは珍しい。
 ――――のだそう。
 町内会長さんのお話では、当時みどり町にサキさんを強く支援するグループがあり、この個展を企画したのも市に『鸚哥の樹』が寄贈された経緯も、そうしたグループが奔走した結果だったという。
 その活動の一環として、この図録を刷って関係者に配る予定だったらしい。
 というのも、
「母は――――こと、絵に関しては根っから芸術家気質でして」
 息子のコウダさんまでもが、口を揃えてそう言う。
 頼まれて描いた小さな絵皿のほか、作品を売るのも渋るようなひとだったので、支援者にお返しができないと常々嘆いていた。それは支援者も同じだったそうだ。
 それで図録を作らないかと、誰かが発案したというわけだ。
 賛同者は多く、たちまち出資金が集まり、どうせなら個展も開こう、図録はその記念にと盛り上がる。
 図録は個人出版としては、カラー写真を多用した豪華なものになった。
 だが、肝心の個展は中止される――――二度も。
「……不幸が続きました」
 コウダさんが言う。
「図書館放火事件は未解決なんです」
 未解決。
 撫子さんが鸚鵡返しにした。
 つまり犯人が捕まっていないということだと、わたしは理解する。
「命を削って描き上げた大作が焼失したことを……母は口には出しませんでしたけど、やはり苦しんだんだと思います」
 放火事件があり一度目の個展が流れ、その後も作品を描き続けたサキさんは、生涯三度のニカ入選を果たす。
「いずれも自分を追い込んで、追い込んで描き上げたものです」
 しかし、過労が祟り、制作ペースは目に見えて落ちていった。
 二度目の個展企画が中止になったのは、その頃だという。わけあって作品のほとんどが無くなった《、、、、、、、、、、、、、、、、、、》からだと聞いたが。
「はい。結局、個展開催には至りませんでした。直前になって『鸚哥の樹』にもまさる大作の多くを、母はみずから破り捨て、焼いたんです」
 これには皆が驚いた。
 二度も個展をご破算にするなど、何様のつもりだ。
 あの放火も、誰かの恨みを買ったせいじゃないか。
 そんな根も葉もない中傷まで聞こえるようになったという。
「……どうして、そんな」
「わかりません。ただ自分が至らないせいだと、母は」
 完璧主義といえば聞こえはいい。
 ただ口さがない噂や根も葉もない中傷までも、サキさんは全て『自分の力不足』と受け止めるようなひとだった。
 リュウヘイさんは嘆息する。
「そのときに、いえ――――もっと早くわたしが気付くべきでした。うちは母ひとり子ひとりの家庭で、母が胸の内を打ち明けられるのはわたしだけだったんです」
 自分を追い詰め、心に蓋をし、踏ん張ってきたサキさんはついに、描けなくなった。
「そこから長患いで寝込むようになり、年齢的にも弱って、認知機能も衰えた有る日――――」
 リュウヘイさんが、わずかに手元に残った作品を隠したアトリエの鍵つき棚をあけたサキさんは、よりにもよってアトリエ塗装用の油性ペンキでそれらを塗りつぶした。
『だめよ。こんな駄作――――世の中に残せない』
 恥ずかしい。
 情けない。
「そう繰り返して、絵ごとアトリエにペンキをぶちまけたあと、自分が誰かも思い出せなくなって行ったんです」
 だからなんだろうか。
 コウダさんは、次第にサキさんの姿を見失うことが多くなったと言う。
「薄く……薄くなって行くんです。母の姿が」
 向こうの景色が透けるほど薄く、やがて輪郭だけになり、ついにはすっかり消えてしまった、と。
 昔話を朗読するような調子で、そこまで一気に話し終えたコウダさんは、少しのあいだ目を伏せ、手の中の図録を慈しむように見つめていた。


 消えてなんかねえ。


 そこに外から割って入った声がある。
 撫子さんが振り返る。
 わたしも驚いて、廊下側のカーテンの隙間を凝視した。
「俺は、ばーちゃんの最期を看取った」
 静謐を割る氷のような言葉を発した息子の顔を、コウダさんは異様な眼差しで見上げる。
 息子――――。
 激昂せず、顔も歪めず、真に落ち着いた顔つきの彼を、わたしは初めて見た。
 そして、コウダさんと、サキさんの数寄屋袋の中の古い写真と、彼自身の整った切れ長の目を心の中で並べ、あらためて遺伝子の為せるものに驚く。
「だから消えたんじゃねえ。消したんだ」
 彼は父と、父が後生大事に抱えているものを見比べ静かに怒っていた。


 おまえが自分の母親を消したんだ。
 自分の意識の中から。


「その贖罪に――――自分の絵を消してるんだろ。母親がやったみたいに」
 タクマ!
「そんなことをしても、ばーちゃんは喜ばない。何の意味もない」
 やめなさい!
 お客さんに失礼だぞ。
「俺がばーちゃんなら、自分が落ちた穴に息子は落とさない。ばーちゃんは自分に厳しいひとだったが、家族や他人には優しかった。でも、おまえはなんだ。作品を贖罪に使って何かひとつでも変わったか。それとも、おまえ自身を消すつもりか」
 静かにしなさい、タクマ。
 周りに迷惑じゃないか
「描けよ。おまえの人生は罰ゲームかよ。自分の絵を描けよ!」

 黙れ、タクマ!

 ついにコウダさんも怒鳴り返した。
「おまえにわたしの何がわかるんだ!」
 次第に声を荒らげていた息子は、とたんにぐっと言葉を飲みこみ、くるりと背を向けて足早に廊下へ去る。
「申し訳ありません」
 コウダさんがわたしたちに頭を下げた。「大変、お恥ずかしいところをお見せしました」
 そして、包帯に包まれた手で顔を覆う。
「……情けない」
 さらに繰り返した。
「恥ずかしい」


 帰りのエレベーターからは、もうお出汁の匂いはしなかった。
 撫子さんと目を合わす。
 図録は渡せたし、サキさんの反省の謎も解けた。
 だけど。
「やっぱり――――どこにも線がありませんでした」
 そう言って溜め息をついたわたしに、撫子さんは「そうだね」と頷き、手をぎゅっと握りしめてくれる。
 わたしたちは無言のまま病院を出た。 




 はああああ。
 ふうううう。


 備忘録の二枚目はなかなか進まず、わたしは、みどり町公園のイラストをもう三回も描き直していた。
 ふう。
 おまけに、金色のカラーペンのインクがもう残り少ない。
 先日回ってきた回覧板には、みどり町公園温室の再建クラウドファンディング案が掲載されていたというのに。
 わたしの備忘録の温室は、時間が止まったまま、燃えるばかりで描き上がる気配もないのだ。
 はあああ。
「どうしたの――――?」
 ふいに背中から覗き込まれ、わたしは驚いてちゃぶ台に突っ伏した。
 あら。
「さっきから手が動くより、溜め息のほうが多いみたいね」
 え。
 目を見開いて振り返ったわたしに、やだと撫子さんが笑い出す。
「あんた、気付いてなかったの?」
 え、ええ。
「早くも二枚目でスランプ?」
「そういうわけでは……」そう言いかけて、わたしはガックリ項垂れる。
「いえ。そうかも知れません」
 撫子さんと一緒にコウダさんのお見舞いに病院へ行ってから、二週間が経った。
 居座る残夏もようやく和らぎ、暦は九月が終わろうとしている。
 その間に、わたしたちはお団子を捏ねてお月見をしたり、二度の台風に備えてホームセンターにキャンプ用のランタンと携帯ガスボンベを買いに行き、うっかりテントと寝袋まで手に入れて庭でキャンプの練習をしたり、そこで食べるホットサンド作りに精を出したりと、なかなかに忙しい日々を送っていた。
 そんなわけで、備忘録の三枚目の台風キャンプはとっくに仕上がっているのだが。
 二枚目だけが――――。
「描けません……」
「――――スランプねえ」
 生意気。と撫子さんは笑う。
「えーひどい」
 そこまで大袈裟なものじゃないんですと、わたしは弁解した。
「ただ……なんかこう釈然としなくて」
「あんた、つくづく変なさかなよね」
 撫子さんは返す。わたしは気色ばむ。
「さかなじゃなくて金魚はうおですよ」
 あら。
「うおもさかなも一緒でしょ。音読みと訓読み」
 実際には違うんです。わたしは説明した。
「たべるものは『さかな』で、泳いでる魚類全般が『うお』ですよ」
 百科事典にはそうある。
 へえええ。
「……そうなの。知らなかった」
 撫子さんは感心したように言い、それから、ごく自然な流れでわたしに問うた。
「じゃあ、あんたの名前は『ハルネうお』でいい?」
 ハルネうお?
 え、え、ええええ。
「だって、『ほか一名』じゃ困るでしょ、何かと。いつまでもわたしの携帯電話を貸すわけにもいかないし、住民票もちゃんとしなきゃ」
 でも、『ハルネうお』はちょっと。
 新種の川魚みたいだし。
 渋るわたしに、「それじゃ不服か」と撫子さんは突如、居丈高になる。
「センスがちょっと……」
 全世界のうおさんには申し訳ないが、個人的には、うおさんより金魚さんのほうが可愛い気がする。
 それに。
 ここだけの話。わたしは撫子さんが『金魚さん』と、わたしを呼ぶ声が好きなのだ。
「でも、ハルネ金魚じゃ、駆け出しの芸者さんみたいよ」
 うーん。というか。
「ピン芸人っぽくないですか」
 ああ、あるある。
「金魚太夫よ、ハルネ金魚太夫」
「えーーやだそれ。なんか違う」
 先に撫子さんが噴き出した。
 釣られてわたしも笑い出す。
 ふたりで笑い転げていると、台所でオーブンのタイマーが鳴った。
 撫子さんがすっ飛んでいき、ペーパーナプキンを敷いた手かごに金色の焼き菓子を詰めて戻る。
「わあ……アイスボックスクッキー」
 覗き込んだわたしの鼻腔に、まだ熱いバターと小麦の香ばしい匂いが広がった。
「おいしそう」
 紅茶、煎れますね。
 立ち上がったわたしの袖を、撫子さんが引き留めた。
 これは、お土産よ。
 きょとんと目を瞠ったわたしに、撫子さんが言う。
「気になってるんでしょ。もういっぺんコウダさんのお見舞い、行ってらっしゃいな」
 わたしは撫子さんの笑顔に、言葉を失っていた。
「わたし……ひとりで、ですか」
「――――うん」
 行ってもいいのか。ひとりで。
 撫子さんのそばを離れてもいいのか。
「大丈夫よ」
 撫子さんはわたしの手をぎゅっと握りしめる。
「もし、お話し中にあんたの気持ちがつらくなったら、こうやって」
 わたしの手を並べ、撫子さんはすいっと水平に動かした。
「こう言うの。『祖母が待っていますので、今日はこれで失礼します』って」
 すいっ、失礼します?
 そう。撫子さんは頷いた。
「それきり、もう忘れなさい」
 すいっ、失礼します。
 そう。
 わたしは頷いた。撫子さんも頷いた。
 すいっ。
 それきり。
「――――それで、いいんでしょうか」
 うん。撫子さんは頷く。
「抱えてるよりはね。駄目だったら、また物事のほうからやってくるよ」
 そっか。
 撫子さんはにこりと笑った。
 時々、撫子さんはわたしに言いながら自分に言いきかせているように見えることがあるけれど、わたしはそんな撫子さんばかり見て、自分の心に居座った何かを見ないふりして居たのかも知れない。
 それを見抜かれた。
 わたしは団子を捏ねながら、キャンプごっこをしながら、撫子さんと笑い転げながら、ずっと――――温室の火事をコウダサキさんの焼けた絵を、息子さんと言い合うリュウヘイさんの悔し涙を忘れられずにいる。
 心のどこかに引っかかったまま、抱えている。
 抱えて見ないふりをしている。
 備忘録に描くため、もういちど、あの図録の鳥の絵を見たい。
 ちゃんと見たい。
 見せて貰いたい。
 病室で、コウダ息子が父親に怒っていたのは、そういうことなのかも知れない。
「……行ってきます」
「うん。行っといで」
 わたしは水玉のワンピースとデニムのパンツに着替え、髪をまとめて、焼きたてのクッキーの袋とともにバスに乗った。



 ところが、コウダさんは退院していた。
 二週間も経ったのだから当たり前かも知れないが、そこでちょっとわたしの気持ちは折れてしまう。
 撫子さんに電話すると、好きにすればいいと言われた。
「帰りたければ帰ってらっしゃいよ」
「そんなあ」
「じゃあご自宅を訪ねてみれば?」
「突然ご迷惑じゃないでしょうか」
 迷惑かもね。
 えええええ。
 そんな押し問答を病院前のバス停でやったあと、わたしは改めて手の中のクッキーの匂いを嗅ぐ。
 いい匂い。
 撫子さんのクッキー。
 美味しいだろうな。
「……でも」
 それだって、考えてみれば見知らぬ他人の手作りなんて、今の時代には迷惑なのかも知れない。
 別に押し付けるつもりはないけど。
 でも、食べて元気を出して欲しい。
 だけど、押し付けになるなら困る。
 困る。
 困る。
 困る。
『ご迷惑そうなら、きちんと謝って帰ってらっしゃいよ。それでいいじゃない』
 わたしは、両手を膝の上で合わせて、すいっと水平に引いた。
「……ふう」
 もう一度、すいっ。
『あなたもコウダさんも、自分のことはちゃんと自分で決められるんだから』
 すいっ。
『大丈夫。みんな好きにすればいいのよ』
 ふむ。
 なんとなく心が落ち着いて来た。
 わたしは秋晴れの空を見上げる。
「……良い天気」
 小さく呟いて、もうすっかり柔らかくなった雲の形と、風に乗ってやってくる色づいた秋の葉に目を落とす。
 そろそろ時間だ。
 みどり町巡回バスがやってくる。
「よし、行こう」
 好きにするぞ。
 そして、コウダさんにも好きにして貰うんだ。






 なんだ、おまえ。

 なのにバスを降りた瞬間、厭な視線と出会ってしまった。
 ちょうど傍らの自動販売機で買い物をしていたコウダ息子は、わたしの真新しいワンピースとよく似合うデニム、それに手にさげたクッキーの紙包みを見定め、小さく鼻を鳴らした。
「もしかして、またうちに来たのか」
 わたしは心の中で、すいっと手を引き一呼吸置いてから、睨み返す。
「わ、わ、悪い?」
「別に悪くねえよ」息子は何故か、ちょっとそっぽを向いて言う。
「ただ……オッサンなら、今うちには居ないけど」
「そうなの?」
 ちょっと気が抜けた。
「うん。買い物に行くって言ったから、そんなすぐには戻らないかも知れない」
「……そっかあ」
 困ったなあ。
 クッキーをコウダさんに渡して好きなようにして貰うつもりで来たけど、ここで息子に渡して帰るという選択肢はなかった。
 どうしよう。
 わたしは握った手を、わからないくらい小さくすいっと動かし、前々からずっと気になってたことをコウダ息子に尋ねる。
「ねえ」
「なんだよ」
「なんで、おとうさんのことオッサンとかおまえとか呼ぶの?」
 はあ?
「どストレートかよ。いきなりグイグイ来るなあ」
 青年は大きく口を歪めてわたしを見つめる。だが、その表情が以前ほど威圧的に感じないことに、わたしは気付いた。
「ごめん。あなたがいつも喧嘩腰だから、なんか気になって」
 喧嘩腰って。そこでまた青年は顔を歪めたが、さらに表情はゆるくなる。
「まあ――――その、それは悪かったけどさ」
 そう前置きして、ぶつぶつと言い訳する。
「別に……そういうつもりじゃなかった。俺も、こう見えていろいろと、生きづらさ抱えてんだよ」
 生きづらさ。
 わたしは改めてまじまじと見ると、意外にまだ幼い感じのする青年に驚いた。
「あなた、いくつ?」
「そういうとこだよ! おまえ」
 わたしは目を丸くした。
 確かに生きづらそうだ。
「おまえみたいなタイプにはわかんねーことも、世の中にはあるんだわ」
 わたしみたいなタイプ。
 どういう意味だろう?
 やたら難しい言葉をたくさん使うひとだなあ。
「じゃあ、あなたはどんなタイプ?」
「し、知らねえよ! 少なくとも水玉のワンピースは着ないよ」
 うーん。わからん。
「そう? 可愛いでしょう?」
「んんん、んんん。まあ可愛い――――可愛いけども、俺は着られないって話だ」
「そりゃそうよ。撫子さんが作ってくれた、わたしの服だもの。あなたは着なくていいと思う」
「そういう話かよ!」
 違うの?
 小首を傾げていると、道の向こうから、やってくる人影に気付いた。
 コウダさんだ。
 こちらが気付くと同時にむこうも気が付いて、軽く会釈しあう。
 コウダ息子は口を閉じ、くるりと背を向け行ってしまった。
「待って」
 みんなで一緒にクッキーを食べようと言いかけて、わたしは口を噤む。
 彼は振り返らなかった。
 去って行く息子氏の手には、温かい紅茶のペットボトルが2本握られていた。
 まあ……いいか。


 先日はどうもありがとうございました。


「おかげんはいかがですか」
 わたしがそう言うと、コウダさんは破顔して頭を掻く。
「ええ、もうすっかり」
 その手には『画仙堂』の包みがある。
 体つきは心なしか一回り小さくなったような気がするけれど、表情は明るくて安心した。
 なんとなく、それで気が済んだ。
 クッキーを渡して帰ろうとも思ったら、今度はコウダさんが、是非と言う。
「せっかくですし、お急ぎでなければお茶をいれますよ――――そうそう、あなたに是非見て頂きたいものもあるんです」


 是非見て頂きたいもの。
 いったいなんだろう?


「――――これなんです」
 ダージリン紅茶の香しい湯気と一緒に供された、かわいらしい絵皿にわたしは小さく感嘆の声を上げる。
「わあ……鳥の絵!」
 サキさんの絵ですね。
 そう尋ねたわたしに、コウダさんは穏やかな笑みを浮かべて、ええと二回頷く。
 図書館に絵を寄贈した際、市が記念品として作ったものだと言う。
 白い豆皿で、サキさん手ずから描画して一枚一枚を仕上げたのだ。
「ハルネさんがお見舞いに来てくださったあと……図録を探してくださったという佐々木さん親子が、持ってきてくださったんです」
 町内会長さん、グッジョブ!
 ほおお、と一緒に頷きながらわたしも微笑む。
「そうしたら、面白いものでね。わたしもわたしもと続けて、元みどり町商工会の会長さんとか、当時の役所にお務めだった方とか――――」
 桐の箱に入った絵皿を持ったひとが、立て続けにお見舞いに来たらしい。
「あっという間に、こんなに集まったんです」
 みんな街の広報記事を読み、お別れ会を惜しみ、焼けた大欅と温室を悲しむひとたちばかりだった。
 生前のサキさんを知るひとも、知らないひとも、彼女の大作『鸚哥の樹』と彼女の描く鮮やかな鳥たちに魅せられたと、口々に語ってくれたと言う。
 樹脂製顔料で描かれた、鮮やかな南国の鳥たちの絵皿は、数量限定品だというのに全部で十二枚もあった。
「懐かしくて……有り難くてね」
 コウダさんは目を細め、頬をゆるませる。
 わたしは一枚一枚色も姿も違う、絵皿の中の鳥たちを倦かず見つめる。
 そして、この鳥たちが戻る大欅の夕刻を見上げていたサキさんの横顔を、靴を鳴らし、幼い息子の待つ家に急ぐ後ろ姿を思い出していた。
「――――本当に綺麗」



 わたしは結局、すいっと線を引くことすら忘れ、すっかり元気になったコウダさんと美味しい紅茶とクッキーを楽しんで過ごす。
「あ、もうこんな時間――――」
 とふたりで我に帰ったのは、客間の柱時計が4時の鐘を打ったからだ。
 立ち上がったわたしは、ふと窓の向こうのアトリエに目を止める。そして、足元の『画仙堂』の袋に目を落としたコウダさんと、改めて向き合った。
「――――わたしも描いてますよ。ぼちぼちと、好きなように……もう気負わずに、ね」
 よかった。
 わたしは微笑む。
「いろいろとありがとう、金魚さん」
 いえいえ。そんなそんな。
 別れ際の玄関先で、コウダさんはわたしに小さな紙袋を手渡した。中に入った薄い桐の箱に、わたしはハッとする。
「貰ってください」
「いいんですか?」
 本当なら、図録をお返しするつもりだったのだがとコウダさんは言った。
「佐々木さんのご奔走で、母の画集を自主出版することになったんですよ」
 そのため、写真ネガやデータの残っていないものは、図録から版を起こすことになりそうだから。
「もうしばらく、お借りしたくて」
 そう説明するコウダさんに、わたしはそのまま持っていてくださいと言う。
「もともと、佐々木町内会長に貰ったものなので」
 ああ。コウダさんは笑った。
 ふふ。わたしも笑う。
 それ以上、もう話すことはなかった。
 失礼しますと腰を折って、コウダ家の玄関先の、はじめに来たとき鼻を叩かれそうになった大きな庭木戸の前で立ち止まる。
 甘い匂いをたてる金木犀の、大きな植え込みの向こう。
 白い丸い屋根と、大きな出窓。
 夕映えに輝く美しいアトリエだ。
 窓ぎわに小柄な女性が立ち、こちらを見ていた。
 見覚えのあるその姿に、わたしは息を飲む。
 女性もわたしの姿に気付いたかはっと目を瞠ったが、うしろから来た子どもに背中から抱きつかれ、笑顔で振り返った。

 ピチュ!

 頭上で小鳥の鳴き声がする。
 秋空に羽ばたく気配もする。
 ほんの一瞬、目を離した隙にアトリエの中の女性も子供の姿も消えた。
 わたしは軽く握った手を、すいっと横に引こうとしたが、そのまま下ろして歩き始めた。



 戴いた絵皿を元に、わたしは懸案だった二枚目の備忘録を無事に仕上げた。
 それは図面二枚に渡る大作で、あらたに買い足した金のカラーペンも大活躍だ。
 画面にはもちろん、ありし日の大欅と温室もある。
 描き上がった備忘録からは、完成と同時に赤と黄色の小鳥が飛び出して、わたしと撫子さんを驚かせた。
「あら――――びっくり」
「うわあ!」
金糸雀(カナリヤ)ですかね、鸚哥ですかね」
「あんたはどっちを描いたのよ?」
 ええとお。
「鸚哥です、たぶん」
「わたしには金糸雀に見えるけど」
「じゃあ……金糸雀でもいいです」
 じゃあってなによ。撫子さんは笑う。
 かわいいからいいかなって。わたしは答える。
「たしかに、かわいいね」
「――――はい」
「かわいいのは、いいわね」
「はい」
 小鳥は部屋を飛び出し、空に舞い、わたしたちの町内を一通り巡って、いつのまにかまた戻ってきた
 そして、そのまま庭の柿の木に巣を作り棲みついてしまう。
 それは毎年、雛を育て、わたしたちの目と耳を楽しませてくれることになるのだが。
 その話はいずれまた――――。





うらら・のら 『鸚哥の樹』全四話 了
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