第三話 変わるひと 『夏休みは嫌い』

文字数 9,559文字


 ここで、これまでの話や、わたしと撫子さんの出会いについても語りたいと思う。
 はじまりは二十年前の夏祭り。
 夏休みの宿題をためこんでいた小学四年生の『うららちゃん』は、『撫子さん』の提案に乗って宿題の肩代わりを頼むべく『夢を取り替える』ことにした。 
 撫子というのは、ハルネ家のおばあちゃん。
 (うらら)というのは、その撫子さんの孫。
 ほかに家族はおらず、ふたり暮らしだった。というのも、小学校に上がった頃から、親の事情でうららちゃんはおばあちゃんに育てられていたらしい。
 『夢の取り替え』については、他人の夢の中にもはいりこめるというおばあちゃんの特殊能力のようなものに頼っている。
 その力を使って、おばあちゃんは八卦見ならぬ夢見という、占いのようなこともしていたらしい。
「本業は書道の先生よ。県や国の展覧会で賞を貰うぐらいの達筆だったの。夢見は趣味か……ボランティアのようなものでお金はとってなかったと思うわ」
 夢見の仕事については、撫子さんの口を通しても不明な点が多い。
「おばあちゃんの記憶を辿っても、どんなふうにやってたのか、実際のところはわからないなあ」
 撫子さんは言う。
「ただ、ほかのひとの夢の中に入った話はよく聞いた。夢の中で誰かと会って話したり、代わりに宿題もできたってわけ」
「そこが不思議なんです」
 と、わたしは言った。
 なぜなら夢は覚める。
 そのひとの頭の中はいさ知らず、外の出来事、つまり現実が夢とシンクロすることなど、まずないと言っていい。
「目が覚めたら、せっかく夢の中でやったワークブックの文字も消えてしまうのでは?」
「そこがおばあちゃんの本領発揮よ」
 なんと、ワークブックは残っていたという。
 もちろん白紙ではない。
 うららちゃんの文字で、うららちゃんの机の上に、ちゃんと全てのページが仕上がっていた。
「今でも記念に残してあるわよ」
「じゃあ、作戦大成功ってことですか」


 だったらよかったんだけど――――。


 撫子さんは言葉を濁す。
 わたしと撫子さんが出会ったのも、そんなふたりが『夢の取り替え』をした夏祭りの宵のことだった。
 どこかのこどもがばしゃんと割った水風船の中から地面に落ちた、小さな和金がいた。
 金魚すくいの屋台から強面のお兄さんが、首を伸ばす。
「ああ……やっちゃったな」
 そして、意外に優しく泣く子を慰め、足元のたらいから尻尾の長い赤い出目金を一匹すくって見せた。
「ほうら、こっちをやるから」
「――――クロがいい」
「黒かよ、抜け目ねえお子様だな」
 笑いながら、一匹だけだぞと言い含めてその子に渡す。
「ずるーい」
 たちまち周りから非難の声が出た。
「ずるくないさ。お約束だ」
 お兄さんは、もれなく一匹お持ち帰りのPOPをさして笑ったそうだ。
「もれなく一匹、すくえば二匹、もっとすくえば三匹、四匹――――」
「わああ」
「みんな頑張ってよ」
 盛況にひとが集まってくる。
 そこで、まだ地面にピチピチ跳ねている和金が誰かに踏み潰される前にと、そっと拾ったのが、通りすがりの撫子さんだ。
「大将――――この子はどうすんの」
 和金は撫子さんの手の中で跳ねた。
 撫子さんの掌は熱かった。
 じりじりと、真夏の太陽に灼かれるような思いがした。
「欲しけりゃ、さしあげますよ」
「あら、いいの」
「弱っちまったかも知れんが、せめて大事にしてやってよ」
「うん――――わかった」
 屋台のお兄さんは水草を一本おまけした椀を撫子さんに差し出す。
 手渡されたお椀の中の水にポトリと落ちるまで、金魚は元気に跳ねていた。
 そう、その和金がわたし。
 気が付けばビニール袋に入れられて、ゆらゆら、ゆらゆら。
 撫子さんの漆の下駄が、からころ、からころ。
 水草と一緒にハルネ家の玄関先の水槽にいれられて、そのまま二十年が経ってしまったというわけだ。




 さて――――。
 三年ぶりのお祭りの夜も更ける。
 ふたりで境内の隅々まで探し回ったが、おばあちゃん――――もとい。
 戻ってきたはずの『うららちゃん』は、どこにも居なかった。
「いないなあ」
 わたしは本殿の裏道で立ち止まり、ふいに口をつぐんた撫子さんの汗ばんだおでこを見下ろしていた。
「撫子さん、実は……」
「うん――――ここね。あんたが『あの子』とあったのは」
 わたしは頷く。
「なるほど」
「なんでわかったんですか」
 撫子さんは地面を指した。
 わたしははっと息を飲む。
 わたしたちのすぐ目と鼻の先に、誰かが砂地にずりっと引いたような線が一本ある。
 本堂の裏の暗がりに、そこだけがぼんやり明るく浮かんで見える。
「たまに考えるんだけど」撫子さんは、その線をじっと見つめながらそう言った。
「ねえ、金魚や。魂と肉体――――あんたはどっちが強いと思う?」
 ええと。
 突然の質問に、わたしはしどろもどろになり、暗愚な憶測を巡らせたあげくにこう答える。
「やっぱ――――魂ですかね」
「どうして?」
「どうしてって言われても……そうですねえ」
 なんとなくカッコイイ気がするから。
 という個人の感想は脇に置いて、わたしは二十年間どんどん狭くなる水槽の中で藻を食べて過ごした自分が、こうしてここにいることを例に取り、説明した。
 そう。撫子さんは頷く。
「でもね。金魚さん、あんたも変わった子だけれど、だからって肉体から魂が抜け出したわけじゃない。二十年前の今日、おばあちゃんと『夢の取り替え』をしたわたしも、魂だけの存在になったわけでも、同じく肉体から抜け出したわけでもない。なのに変わってしまった」
 はあ。わたしは困った。
 撫子さんの話がさっぱりわからなかったのに、これから撫子さんが何をしようとしているかが、なんとなくわかってしまったからだ。
「二十年前のお祭りの日と同じね」
 撫子さんは目の前の線を見つめている。
 その視線が、さっきから止まったまま動かない。
 人の世のソトとウチ。
 じゃないと食われるよ
 うららちゃんの言葉が、わたしの頭の中で響き続ける。
「撫子さん、よしましょう」
 わたしの声は微妙に震えていた。
「どうして?」
「どうしてって言われても」
 撫子さんは毅然としている。
 だけど迷いのないその目が――――。
「撫子さん!」
 わたしは撫子さんの浴衣の袂を引いた。
 藍染めに波千鳥の粋な浴衣の後ろ姿が、わたしの遠慮がちな手をするりと抜ける。
 わたしたちのすぐ目と鼻の先に、誰かが砂地にずりっと引いた線が見える。
 この線は越えるな。
 そうさっきわたしに言ったのは、子供の姿の『うららちゃん』だ。
 その『うららちゃん』の中にいるのは、夢を取り替えたままの『撫子さん』だ。
 だがわたしの傍らにいる撫子さんは、うららちゃんは、その言葉を裏切るように、ぽんと軽やかに一線を越えた。
「撫子さん……!」
 わたしも釣られて越えていた。


 金魚さん――――金魚や。



 何度か撫子さんに名を呼ばれ、わたしはようやく目をあけた。
 自分がまた泥だけの捨てられた和金になって、みじめにピチピチ跳ねているんじゃないか。
 あるいはひとで無い何か、この世にあらざる何かに取り囲まれてしまっているのではないか。
 ウチとソト。
 ソトとウチ。
 一線はその境界ではなかったの?
 それとも――――。
 そんなことを、ほんの数秒の間に考えていたわたしは、目の前の撫子さんが撫子さんのまま、少し肩を落として前方に指さす何かを見て、はっと息を飲む。
 花火柄の浴衣をきた子供が、地面に倒れている。青い兵児帯が風にゆらゆらとはためいていた
「うららちゃん――――大変!」
 駆け寄ろうとしたわたしを、撫子さんが手で制す。
「お待ち」
 引き留められたわたしは、しどろもどろに撫子さんの手を振り切ろうともがく。
「そんな、言ってる場合じゃ」
「ここだったのよ」
 撫子さんが言った。
「おばあちゃんは、わたしの代わりに宿題をしたあと、わたしの浴衣を着てお祭りに来たのよ」
 そんなことは、今はどうでもいい――――そう言いかけたわたしを、さらに細い手が引き留める。
 その手が小刻みに震えていることに、ようやくわたしは気付いた。
「そして、ここで倒れてたの」
 わたしは息を飲む。
「なんでだと思う――――金魚さん」
 わかりません。
「わたしもわからない」
 撫子さんは声を詰まらせる。
「だけど、わたしたちは元に戻らなかった。わたしはおばあちゃんの姿のままで、おばあちゃんはわたしの姿で」
 そうして。
「居なくなった」
 そのとき、何かも一緒に消えてしまったのだ。
 撫子さんはそう言った。
「それから毎年、うららとして夏祭りには帰ってきたけれど」
 きちんと話せたことはないと言う。
「三年前までね」
 なのに。
「今年はあんたがいる。『うらら』は、あの日の浴衣で来た。今日は、きっとなにかあるとは思ってたのよ」
 それは。
「おばあちゃんが戻れるなら、なんでもするけど」
 撫子さんは目頭をこすりあげる。
「なんで……また、こんな姿を見せるのよ……」
 撫子さん。
 わたしは撫子さんの手を握りしめた。
 空気が変わり始めている。
 わたしたちの周りに、ぽう、ぽうと輝く光の毛玉が集まり始めていた。
 その一方で、すぐ目の前にあるはずのうららちゃんの姿は、うすぼんやりと霞んでいる。
「わたしは夏休みが嫌いだった――――今も嫌いよ」
 撫子さんは屈み込み、そのうすく霞んだうららちゃんの背中へ手を延ばす。
「あたしが……自分のこともちゃんとできない子供が、つまんないことに巻き込んだりしたから――――」


 ごめんね、おばあちゃん。


 ざわざわ、と何かが蠢く。
 うすぼんやりとした空気の向こう、暗がりとにじむ輪郭のすぐそばから、何かが一斉に、息を潜めて、延びた撫子さんの白い指先が、そこに届くのを待っている。
 待ち構えている。


 駄目です! 撫子さん!


 わたしは力まかせに、撫子さんの手を抱え込み、かすみと闇と滲んでいたうららちゃんの輪郭の前に立ち塞がる。
「さがって!」
 そして、撫子さんに買って貰った赤い鼻緒の下駄を鳴らし、力を込めて、地面からにじり寄る何かの気配を、えいっ、えいっと踏みしめた。
「あやまるな。なのです!」
 鈴が鳴る。
 わたしが地面を踏みつけるたび、下駄のぽっくりについた鈴が鳴り響く。
 にじられた砂が鳴る。
「わけのわからないものに、自分が悪いこともしていないのに、あやまるな、なのです!」
 空気が揺れる。
「負けないのです!」
 わたしが踏みつけた地面の気配が、じりっじりっと引き始める。
「――――金魚さん!」
 そこで撫子さんが悲鳴を上げた。
 波千鳥の袂につかまった金色の毛玉が、つぎつぎどす黒いものに変わっていた。
「撫子さん!」
 わたしは慌てて、それを手で払いのけた。
「毅然とするのです!」
 ひゃあ。
 払われるたび、黒い毛玉は子供のような声を上げる。
「スキを見せないのです!」
 ひゃあ、ひゃあ。
 ひゃあ。
 ひとつ消えるたび、毛玉は叫ぶ。
 ひゃあ。
 ひゃあ、ひゃあ。
 そして鼻につんとくる焦げたような臭いを残した。
「そうね。わかった!」
 撫子さんも立ち上がり、一緒に闇の玉を払った。撫子さんの帯からこぼれた波千鳥の根付けと、そこに結んだ小さな鈴も鳴り始める。
 りん。
 りん、りん、りん!
 浴衣の袂が舞った。
 地面の向こう側を覆っていた墨のような暗がりが、次第に遠のいていく。
 わたしは自分の足元に、いつの間にかくっきりとした、あの一線が引かれつつあることに驚いた。
 りん!
 その最後のひと踏みでそれが引き終わると、澱んでいた空気も、暗がりも遠くに去って行く。


 きゃははははははは――――。


 最後にそれは何かを嘲るような、甲高い、幼い声を残して消える。
 同時に、倒れていたうららちゃんの姿も消えて、あとにはわたしたち二人と、遠くから再び聞こえ始めたお祭りの、にぎやかな色彩と喧騒が残った。



 ドンドン。
 ひゃらり。
 ひゃらひゃら。
 ドン。




「あら、戻りそびれちゃったわ」
 呆気にとられたように撫子さんは笑った。
 いちおう言っとくけど、と念を押す。
「悪いとは……ちゃんと思ってるわよ」
 勝手に線を飛び越えたことだろうか。
「あれはうららちゃんの受け売りです」
 わたしも撫子さんを怒鳴りつけてしまった。そのついでに、
「なにか祓っちゃったわね」
「祓っちゃったみたいです」
 ま、いいかあと撫子さんは言う。
「よかったんでしょうか」
 いいわよ。撫子さんは頷く。
「夢はいずれ覚めるものだし、お祭りはまたあるでしょうし」
「こどもの声でした……」
「幼い何かだって居るよ」
「倒れていたうららちゃんも消えてしまって」
「そう。でも、あれは夢……わたしの記憶かも知れないよ」
 そう言えば、撫子さんは倒れているうららちゃんに「なんでまた、こんな姿を見せるのよ」と言っていた。
「――――同じものを見たのですか」
「ええ……でも、二十年も前の話よ」
 撫子さんは溜め息をつく。
「そのとき、わたしはうららから撫子になったの。孫のお葬式を出して、古民家でひとり暮らしを始めた」
「――――ひとりじゃ……ないです」
 つい相の手をいれたわたしに、撫子さんは微笑む。
「そうだったわ」
 それから、膝に手をつき背中を丸めたわたしの赤い巻き毛を、撫で撫でする。
「ありがとうね、金魚さん――――」
 わたしは顔をあげる。
 撫子さんの笑顔が目の前にある。
「……いえ、そんな」
「ううん。嬉しいよ」
 撫子さんは微笑み、またイイコイイコした。わたしも笑う。
「じゃ――――行こっか」
「はい」
 そして、並んで歩き出す。
 わたしたちは戻ったのだ。
「なんだかお腹がすいたわね」 
 撫子さんは、町内会の屋台につくまでに、通りすがりの焼きとうもろこしと串カツ、焼き鳥に焼きそばを買い込んで、わたしにはなぜか2本もよく冷えたラムネをおごってくれた。
 名前を気遣ったら、今さらややこしいから撫子で統一しなさいと言う。
「だって――――実を言うと慣れちゃって、名前なんて『うらら』でも『撫子』でも、もうどっちでもいいのよ」
「そ、そういうものですか」
「そういうものよ」
「でも、さっき戻りそびれたって」
「それとこれとは、話が別」
「別なんですね」
「別なのよ」
 鳥居の前でふたりで食べ物を分け合っていると、なぜか労うモードの町内会長が、焼きたてのたこ焼きまでどうぞどうぞと持たせてくれ、ふたりの両手は持ちきれないものでいっぱいになり、腹もたっぷり充たされる。
 撫子さんは、よく食べよく飲みよく笑う。
 すっかりいつもの撫子さんに戻っているようで、わたしは安心する。
「なあに?」
「……いえいえ」
「よく食べるわね、あんた」
「撫子さんもです」
「そお? 三人分のつもりだったのよ――――まだ戻って来ないね。『あの子』一体どこまで行ったのかしら。これ全部わたしが食べちゃってもいいかしら」
 ええっ!
 思わず素っ頓狂な声を上げたわたしに、撫子さんが笑う。
「今どき、素っ頓狂なんて」
「わたし声に出しましたか」
「いいえ」
「じゃ、なんでわかるんですか」
「どうしてかしら」
 言い合うわたしたちの背中で、わははと町内会長さんが笑い出し、釣られて三町内のみなさんがにこやかに笑い合う。
「いつもおふたり仲良しで、よろしいですな」
「うんうん」
「よろしい、よろしい」
 コロコロと撫子さんも一緒に笑う。
 ちょっとだけわたしも釣られたが、世間の皆さんはわたしと撫子さんの続柄を、なんだと思ってらっしゃるのか。
 そう考え始めると、なんだか笑顔も冷えて、わたしはラムネをがぶ飲みする。
 だんだん夜も更けてきた。境内と参道に溢れていた人波が、ゆっくり引き始める。
 誰かがその気配を読み、時計を見る。
 午後八時。
「さあ、そろそろお開きの花火があがりますよ」
「お店もしめますか」
「屋台の撤去と近辺清掃は、明日の朝七時集合です。早いですが、みなさんよろしくお願いしますね」
 わかりました。
 では――――
「堤防に移動しましょう」
「公園もいいですよ」
「花火はあそこが一番よく見える」
「じゃ行きましょう、行きましょう」
「わたしは売り上げ金をいったん家に入れてから戻りますので、みなさんお先に」
「ボクもここで失礼します」
 おつかれさまです。
 おつかれさまです。
 おつかれさま――――。



 花火を少し見物して、帰り道が混まないうちにわたしたちも帰宅した。
 ふたりがかりでも食べきれなかったとうもろこしや焼き鳥は、とりあえず冷蔵庫に入って貰うことにした。
 賑やかな祭の締めは夜遅くまで続いた。
 だが、ドンドンという花火の音が河原の向こうから聞こえなくなっても、とうとう『うららちゃん』は帰ってこなかった。
 玄関先には、最初に『うららちゃん』が履いていた色あせた赤い鼻緒の下駄が、ちょんとふたつ並んでいる。
 洗濯機のそばの脱衣かごのなかには、あの花火柄の浴衣が脱ぎ散らかされたまま突っ込んである。
「金魚さん」
 呼ばれて振り返る。
「そろそろ表の灯を消して、戸締まりをしてちょうだい」
 いつものように撫子さんが言い、縁側に出した風鈴を入れて、ガタガタいう雨戸を立てた。
「熱帯夜が続くうちは、クーラーの電気代も馬鹿にならないわねえ」
 そうですねえ。
 わたしは玄関の鍵を確かめて、もと自分の棲家であった靴箱のうえに掲げられたカレンダーに、ふと目を止める。
 八月。
 三十一日の次の日に、小さく示された数字がマジックで赤く塗りつぶされている。
 ん?
 月をめくると、九月。頭の朔日(ついたち)には大きなバッテンがついている。
 んん――――。
 そのまま台所に寄って、冷えた麦茶を汲みがてら冷蔵庫の扉のホワイトボードカレンダーのバッテンと目を合わす。
 んんん?
 首を傾げていると、わざわざキッチンの椅子に乗って、わたしの麦茶を横取りした撫子さんが頷く。
「ああ――――あの子の仕業よ」
「うららちゃん、ですか」
「たぶんね」そう言いながら撫子さんは、鼻先で笑いを堪えていた。
「だって、ほかにはいないでしょう。わたしはもう大人だし」
「でも、さっき夏休みは嫌いって」
「夏休みは、貰えるひとの特権だからね。それが嫌いなのは終わっちゃうから。でも、本当は好き。ずっと続いて欲しい。それでも終わっちゃう。腹立ち紛れに九月にバッテン――――毎年やってたのよ」
 はああ……なるほど。
 そういいながらホワイトボードと睨めっこするわたしに、撫子さんは「大丈夫よ」と言い残して、台所を去る。
 大丈夫って?
「また来年に来るから」
 来るって?
「夏休みが? お祭りが? それとも――――うららちゃんが」
 わたしはハッとした。
 ふぁぁぁぁ!
「まさか、うららちゃんまで澱みと一緒に、祓っちゃったなんてことは」
 ふたりで顔を見合わせた。
 撫子さんの顔から血の気が引く。
「で……でも大丈夫じゃない? わかんないけど」
「そ、そう……ですかね、ええええ。知らんけど」
「それより、あんなもんで祓えたか、そっちのが心配」
「適当でしたしねえ」
「全力で適当だった」
 あははははは。
「わたしが消えてないんだから、うららも大丈夫よ」
「そうですね。わたしも、何故かそんな気がします」
 撫子さんは、自分の皺だらけの小さな手を見つめた。
 よく働く手だ。
 毎日わたしにごはんを作ってくれたり、大きな浴衣を縫ってくれたり、長い縁側を雑巾でから拭きしたりする。
 もちろん、かき氷を作ったり、莓プールを企んだりもするけれど。
 それを見つめる目は、うららさんのものなのか撫子さんなのか。
 考えるほどにややこしくてわからないけれど、今わたしと話しているひとがここにいるということは、そのひとの姿をしたおばあちゃんもまた、どこかにいると、そういうものかも知れない。
 この三年、世の中は色々なことがあり、夏祭りや花火どころではなかった。
 わたしは、その三年前に水槽を出たモノだから、それ以前の話はすべて撫子さんの受け売りでしかない。
 それでも、夏祭りのことならば結構知っているし、玄関先で見聞きした世の中のことも、退屈しのぎに撫子さんがわたしに教えた読み書きとネットスキルのおかげで、日本国の総理大臣の名前とか円ドルの為替相場とか、マスクに着かない秋の新色コスメの情報もちゃんと押さえている。
 でも、その三年間のうち道に迷っていたうららちゃんのことや、胸に秘めた撫子さんの想いは、今日の今日まで何ひとつ知らなかった。
 いつか、ふたりはまた入れ替わるのだろうか。
 そうしたら、ここにいる撫子さんはどうなるのだろうか。
 うららちゃん?
 それとも撫子さん?
 うららちゃんのウチとソト、撫子さんのウチとソトが元に戻れば、夢と現実も入れ替わるのだろうか――――。
「来年も、うららちゃんに新しい浴衣を作るんですか、撫子さん?」
 わたしが尋ねると撫子さんが返す。
 そうねえ。
「……気が向いたらね」
「わたしは、あの金魚柄でじゅうぶんです。とっても可愛いですし、みんなにもたくさん褒められましたし。来年また着られたら嬉しいです」
 そりゃあよかった。
 そう言って笑った撫子さんは、蚊帳のとばりをめくりながら、ふとわたしを振り返る。
「そうだ。あんたさ」
 こんな風にわたしを呼ぶとき、撫子さんの目はこどものようにキラキラと輝く。
 ずっと言おうと思ってたんだけどね。そう続けたあと、にこりと笑う。
「備忘録をつけなさいよ」
「ビボーロク?」
「ああ。うん……そうね。夏休みの絵日記みたいなもの。いつだったか夢の絵を描いてたでしょ。その続きみたいな感じで。見たまま、聞いたまま。あんたが知ってること、感じたことを描くの。ご存じの通り、わたしはそういうの苦手だけど、あんた好きそうだもの」
 ビボーロク。
「……怖いのも描かなきゃだめですか?」
「あんたの描きたいモノを描けばいいじゃない」
「わたしの描きたいモノ……あ、そうだ。お願いがあります」
「なあに?」
「できれば形にして残したいです。うららちゃんのワークブックみたいに」
 目が覚めても消えないように。
「それがいいわ。デジタルがなんぼのもんじゃい」
「なんぼのもんじゃい」
 ビボーロク。
「必要なものを一緒に文具店に買いに行きましょう。色鉛筆とか日記帳とか」
 ビボーロク。
 わたしの目もキラキラと輝いていたかも知れない。
 何とも不思議なその響き。
 きらきらと輝き夜空に吸い込まれて行く花火のような。
「いいですね! やってみます」
 うん。
「楽しみが、増えるねえ」
「楽しみがまた増えます」
 クーラーのタイマーをセットした撫子さんが、灯りを消す。
「じゃ、おやすみ」
 わたしは枕に寝転がりながら、まだニヤニヤしていた。
「ねえ――――撫子さん」
 なによと言いながら、撫子さんが寝返りを打った。
「来年もまた夏祭り、ありますよね」
「そうねえ。そうあって欲しいけど」
 撫子さんはそう呟いて、また寝返りを打つ。
「そればっかりは、ねえ」
「……ですよね」
「でもきっと、またあるわよ」
「そうですね。きっと」
「だって夏は毎年来るんだもの」
「はい……」
 蚊取り線香の赤い頭が、ほんのり部屋の闇を染めている。
 わたしたちはすぐに寝つけず、そのまましばらくそれぞれの思いに耽っていた。
 夏祭り。
 花火。
 備忘録。
 夏祭り。
 花火。
 備忘録。
 やがて眠りについたが、捕まえた夢の端はいつのまにかするりと手の中を抜けて、カラコロと下駄の鳴る音と共に遠ざかる。
 夏が遠ざかる。
 思い出も遠ざかる。
 カラコロ。
 コロカラ。
 カラカラ、コロコロ。
 遠ざかって、またやってくる。
「また、来年ね……おばあちゃん」
 夢うつつ、撫子さんの寝言を聞いたような気がした。




――――うらら・のら 『夏休みは嫌い』全三話 了
うらら・のら 『鸚哥の樹』につづく――――
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