No.3 ふたり、街外れ

文字数 4,168文字

 潮騒が木霊す我楽多の山、女に暢々と附いて行く内辿り着いたのが此処であった。此の街の海岸線の風は潮と鉄錆の匂いを一遍に運んでくる。鼻を劈き、頭蓋を開いて脳に灰汁が出来ないよう捏ね繰り回される様で、余り此処に長居することは避けたかった。特に酷いのが錆の香りで、如何やら放置され絶妙な均衡で以て積まれたコンテナが放っているらしく、辺り一面に散らばる此の情景は棄てられた港湾都市の有様其の物であった。一体僕が何を目印にして居るのかも判らない儘、一方で彼女は目的地に辿り着いた様で、或るコンテナの戸の前で唐突に立ち止まり其れを開いた。中では本棚が壁沿いに向かい合って並んでおり、多種多様の書物が赤の軍隊の如く整って居た。僕は此の汗牛充棟の様に若干の興奮を覚え、彼女の肩を過ぎ中に足を踏み入れる。本は専ら細胞学についてのものであったが、万緑叢中紅一点、入り口に対するコンテナのもう一端の本棚に何の変哲もないノートを見つけた。相当使い古されて居る様で、頁の一枚々々が噛み合うことのない皺を有しているから使われた紙の枚数と不釣り合いに結構な厚みが有る。幼児の様な好奇心を見せる僕を見てまるで呆れるような表情を見せる女に此れが何かを訊ねると、忽ち回帰から始まる奇譚が語られだした。

 暫くして僕は解放され、先刻の交差点迄戻ってきた。僕が放置したチキンは地面に張った薄氷と水雪に襲われ時化って暖かさの見る影もなかった。此の事態を想定していた訳ではないが、二千余円程釣りが残っている。僕は此れで再び店へ向かった。そして遂に僕は本来の目的を成し遂げ自宅の玄関の前に立った。不自然に血塗れで左袖の取れたコートとパジャマとを脱いで丸め、僕は家に入る。居間よりも先ず階段を駆け上がって自分の部屋の戸を開け其れらを投げ入れ、同じく血塗れの襯衣を取り換え滑るように一階へ戻り居間に入った。
「ただいま。」
「……御前、半袖で外に出たのか。コートは如何した。」
「道中で引掛けたみたいで左腕が解れててさ、縫い直す為に部屋に置いてある。――はい、頼まれたもの。御釣りは?」
「やるよ、お小遣いだ。」
「あんまり引き籠りに金渡すなよ父さん。」
「どの口が言う。」
「じゃ、レシートだけ。」
僕は二枚目のレシートのみをチキンと一緒にテーブルに置き台所へ向かう。棚から適当なカップを三杯取り出して大声で沙耶に何が飲みたいかと訊ねる。返答に従いコーラの一・五立ボトルを冷蔵庫から引き抜きコップと共に机に置いた。数刻待っても沙耶がコントローラを手放しそうにないので、腕づくに引き剥がし席につかせることで漸く夕飯と為った。
 晩餐と呼ぶには豪く貧相だが、食事を終えると風呂の支度をする。男が入った後の湯船には入りたくないらしく、其の意向に我々も従い妹が一番風呂を浴びるのが慣例になって居る。次いで僕の番となり遂に風呂場の戸を閉めた。僕は安堵の息を漏らしバスチェアに腰を下ろす。同時に左半身を見つめ自身の左肩から先が有ることを再確認する。傷一つ残らない儘、寧ろ以前より綺麗であったかと思う程に完璧な状態で腕が生え変わって居るのだ。此の異常な再生能力の道理の一応の説明は彼女――九条凛と名乗るあの銀髪の少女から為されては居るものの、抑々彼女との面識が無いことへの不信感や、論拠の突飛さが悪さして如何にも合点がいかない。彼女の言葉を何篇も反芻させながら頭を洗った。

 太陽光線で目を焼いたような影すらない純白の世界、気付けば僕は其処に居た。此の景色の先を見つめようとすればする程に瞳孔が萎み眩暈がしだす。只、振り返ると木組みの書架が二列に為って景色の果て迄並び、其の直ぐ前で紺色の長着を羽織った栗色の頭髪の青年が地面に座り込み、彼の身の丈程ある木机に拳よりも厚い本を広げ、其れを右手の人差し指で擦沿(なぞ)っていた。不思議なことに彼の指先が走った後には文字が浮かび上がっているのだ。僕は此れを見て彼は此処で本を書いているのではないかと勘繰ったが、然し此の異様な世界が浮世と繋がっているだろうか、心織筆耕というわけではなさそうである。だが此の異様に奇妙を重ね合わせた世界で何より僕を慄かせたのは、男の顔立ちが僕と瓜二つであるということであった。すると、僕は此の男を知っていることになる。――
 ――遂に僕は目を覚ました、知らない和室の麻の匂いが仄かにする布団の中で。さては此れは僕の能力が見せた夢じゃなかろうか。反証の為腕に力を入れるとすっくと上体が持ち上がったので、一先ずそうでないことは示された。すると此処は何処だろう。障子に畳、積まれた着物の束、埃の被った箪笥、其のどれもが現存することに先ず驚くべき代物の数々であった。暗い部屋に光を取り込む為に障子を開けると、一面に栄華秀英が広がっていた。自然では成し得ない配置と其の間を掻い潜るように生える緑草らの非自然の調和の様は、まるで未だ夢を見ているのではないかと思ってしまう程であった。絶景に見惚れていると背後で擦れる音がする。子猫の様に肩を揺らし即座に振り向くと、如何やら襖を開いた音らしく、其の向こうには背の丸い老婆が立って居た。
「起きたのかい。朝ごはんが出来てるから、食べなさい。」
総てを包み込んでくれるような、穏やかな声であった。
「貴方が助けてくれたんですか。」
「いいから食べんしゃい。」
老婆が手を拱くので、其れに従い部屋の外に出る。其処には六畳一間の空間があり、丸い小さな卓袱台を中心にアンティークじみた家具が所狭しと並んでいた。老婆は座布団を僕の前に敷き、己も其れに対面するように座った。其の間に在る卓袱台の上には、御飯の盛られた茶碗と味噌汁の入った汁椀が二つずつ、そして中心に梅干しと卵焼きとが盛られたプラターが在った。それらの内、僕に近い側の茶碗にはこれでもかという程の山が出来上がっており其の光景に唖然として居ると、老婆が此方をじっと見つめて居ることに気付き、慌てて座布団に座った。夢の記憶を頼りに手を合わせいただきますと呟くと、皺だらけの老婆の顔が微笑んだように見えたので、箸を手に取り米を頬張った。甘い、噛むほどに奥ゆかしい甘みが湧き上がってくる。続いて梅干しを一粒茶碗に持っていき米と共に口に運ぶ。体験したことのない酸味に筋繊維が震えあがるが、米の旨味と合う。更に卵焼きを一切れまた茶碗に載せ、少し齧って米を食む。昆布出汁だろうか、何と深みのある味わいだろう。此の一切れで箸の進むことこの上ない。最後に味噌汁を啜る。塩味の程よい赤味噌と豆腐が極上の調和を生み出して居る。其れでいてすっきりとした後味であるので、また米が進む。嗚呼、母の味とは、世に聞く御袋の味とは此の事だったのか。そう思うと込み上げるものがある。――間もなくして僕は対面(たいめ)した老婆が自分の器を空にするのと同時に食事を平らげた。老婆が手を合わせたので嗚呼そうかと此方も手を合わせご馳走様でしたと呟く。すると老婆は微笑みお粗末様でしたと返し食器を纏め始めた。此れ程迄に心温まる食事は初めてだ。恩を返したい気持ちが込み上げせめてもと食器を台所まで運び、皿を洗った。
 僕が最後にプラターに手を付け出した時、突然老婆は話し出した。
「驚いたよ。何時もみたく花の手入れをしようと花壇に行ったら、お前さんが倒れてたんだ。枝や葉っぱが付いていて山から転がってきたんだろうけれど、其れにしては肌が綺麗すぎるから、屹度厄介事だろうと思って救急車は呼ばなかったんだけれど、構わなかったかい。」
すると僕を布団迄運んでくれたのも彼女か、此れは申し訳の無いことをして了った。
「ええ……有難う御座います。」
「何があったんだい。」
ほんの詰まらない家庭の事情なんだ。只其の詳細が僕にも判らない。
「其れは……訊かないでください。」
「そうかい。」
洗い物を終え、僕は指に付いた水を切った。
「花を見ていきなさい、気分が晴れるよ。」
「花、ですか。」
「ついておいで。」
 老婆に附いて、家をぐるりと周ると先刻窓から眺めた景色に辿り着いた。只花壇と言うには余りにも広くまた道は石畳により舗装されていたので、最早花園と言うが相応しいくらいであった。さらに不思議なことに、一目見るだけでも満開の朝顔と桜が見て取れ、まるで季節を超越した空間が其処にはあったのだ。老婆はぶつぶつと通りすがった花を紹介しながら進んだ。――続いて老婆は凛と立つ小さな紫の花弁たちを有した花を指した。
「あれは立麝香草。」
「たち、じゃこうそう。」
「タイムとも言う。麝香のような良い香りがする。だから立麝香草。」
「麝香って。」
「麝香鹿のおなかの辺りから採れる香料じゃ。」
動物由来の香料か、余り良い印象は受けないが然し立麝香草からは馨しい香りがする。其の麝香とやらも似た香りがするとなると一度見てみたいものだ。
「あれは、わかるかい。」
老婆が指差したのは皿の様な大きな葉と共に浮かぶ先が桃色に染まった白い花弁の花だった。其れだけでは検討付かないが隣に聳える蜂の巣の様な花托を見て確信した。
「ハスですね。」
「そう、地下茎を伸ばして増えるから漢字では草冠に連なると書く。」
蓮、か……。僕は徐にマゼンタの小さい花穂が稲の様に纏わる植物を指差した。
「おばあさん、あれは何と言うんです。」
「ありゃ葛じゃ。」
「そうか、あれが。僕、名前が葛の葉っぱで葛葉(くずは)と言うんです。」
「そうかい、親御さんは良い名前をつけてくれたねえ。こいつは多才な子でね、見てもよし、食べてもよし、薬にもなるし布として織ることもできる。屹度葛みたく立派な子に成りなってことなんだろうねえ。」
果たして、そうなのだろうか。そして僕は其の様な人間に成れて居るだろうか。
 ――一通り花を見て僕は老婆に別れを告げた。ずっと此処に居たいという不躾な気持ちも芽生え始めて居たが、其れ以上に此の人が僕を追う人間に襲われることが恐ろしかった。去り際、老婆は二つの小さなタッパーを僕に寄越した。一つには黒蜜が入ったランチャームと黄粉の入った小袋とが仕舞われており、もう一方には葛餅が入っていた。粋なプレゼントではあるが長持ちはしないだろうと思い、其の日の夜に鬱蒼とした森の木陰に腰掛け、其れだけを夜食に目を閉じた。そして、夢の続きを見た。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み